§4に戻る §5 それから2週間が過ぎた。そのあいだに私の口頭試問は終わり、成績はともかくとして、あとは卒業式を待つばかりだ。 日が経つにつれて、私は次第に緊張感を失っていった。だいたい終わりのない緊張などというものはいつまでも続くものではない。春になって私が大学院に入っても、彼は神戸まで送迎してくれるつもりだろうか。それはそれで助かるけど。 ディーターもそのへんは感じているらしく、少しずつ私がひとりで外出するのを許してくれるようになった。彼もだんだんと、警戒を解き始めているのかもしれない。それにもまして、何ヶ月もの緊張で疲れているのだろう。今日も教会から帰っても、ずっとベッドに横になっていた。 私は彼をそっとしておいてあげたくて、聖といっしょに、晩御飯の材料を買いにスーパーに出かけた。もちろん、人通りの多い場所や時間帯を選んで歩いているつもりだ。 寒いけれど日差しは暖かな、平和な日曜の午後だった。歩きながら頭は自然と、いつもの結論のでない問いに戻っていく。 ディーターはいったい誰に追われているのだろう。 それまで私が想像していたのは、昔の仲間たち、特にIRAが手を結んでいたイスラム系組織から狙われているのではないかということばかりだった。だがディーターは、外国人の中でも特にイギリス人に気をつけろと言っている。 もっとも、北アイルランドは英国領なのだから、そこに住む人たちはみな英国籍なのだ。ディーター自身も、ドイツ国籍を取る前はイギリス人だったことになる。共和主義者と呼ばれる反体制派はその英国からの独立を目指しているのだ。このあたりがややこしいところ。 イギリスの警察が、いまだに昔のIRAのメンバーを捜査しているというのはありそうなことだ。でも、相手が警察なら、悪いことをしていなければ恐れる必要はない。ましてや、私や聖の安全までを脅かすはずはないのに。 ケルンの病院へ、ディーターの行く先について問い合わせの電話があったのが去年の9月。その後に知り合った人にはすべて注意するように言われている。そう言われて思い当たるのは、ノルト夫妻の家の大晦日のパーティで初めて会った、ピートのガールフレンドのローリーだけだ。イギリス人でもある。 でも、あんなチャーミングな彼女がこっそり何かを探っているなんて考えられない。 『ディーターは、ものすごーくあなたを愛しているってことよ』と開けっぴろげな笑顔で言ってくれたのが、とても嬉しかったのに。 そんなことを考えながら、マンションの前に戻ったとき、道の向こうから大きな声を出しながら手を振る人影がある。 「マドカ、サアン」 「あ、あなたは」 やっぱり、あの大晦日のパーティに来ていた人だ。 あれ、あれっ、何て名前だったっけ。確か、ヒュバート・ウィリアムズさん。 「オッヒサシブリ、デス」とたどたどしい日本語。目尻に皺のある愛嬌いっぱいの顔で、にこにこ笑いかけてくる。 『実はディーターに渡したいものがあって、携帯にかけたら、今なら家にいるというので寄ってみたんですよ』 『あ、そ、そうなんですか』 いきなり不意打ちで英語をまくしたてられて、ちょっとパニックに陥る。こっちは英語モードに移るために、たっぷり心の準備ってものが必要なのだ。 ヒュバートは、ジーンズに革のジャケットというラフなスタイルだった。持っていたベージュの書類カバンから紙袋を取り出すと、 『これなんです。大晦日のパーティで証券投資の話が出て、興味を持ってもらえたみたいで』 そういえば、確かこの人は外資系の証券マン。パーティの席でそんな話も出てたっけ。でも百歩譲ったって、ディーターは興味を持ってたみたいには見えなかったけど。 困るなあ、私は内心当惑してしまった。ディーターは本当に来てもいいと言ったのだろうか。でも、家まで上がりこまれるのは正直困る。 日曜の夕方は、葺石流の師範代をしている彼にとって、稽古がなく、ゆっくりできる唯一の貴重な時なのだ。邪魔してもらいたくはない。 私の顔色を読んだのか、ヒュバートはあわてて付け加えた。 『このカタログを持ってきただけなんです。でも奥さんにここで会えて、ちょうどよかった。ご主人に渡しておいてくださいませんか』 『あ、はい、わかりました』 私は、ほっとして答えた。 『で、ポイントだけ説明しますと、これはユーロ建てのポートフォリオで、ファンドの投資先は主にヨーロッパの優良企業なんですよ。で、これの利点は東欧の新興市場への投資も組み込むことができて……』 『え、ち、ちょっと』 ヒュバートは、一瞬ぽかんとして、それから苦笑した。 『あ、ごめんなさい。マドカさんは証券にはあまり興味がないのですね』 『もう全っ然、ひとこともわかりませんでしたよ』 『しかたありません。ディーターにはあとで要点だけメールを入れておきます』 『お願いします。ヒュバートさんてお仕事熱心なんですね』 『おほん。「もーれつビジネスマン」は、日本人だけじゃありませんよ。アメリカ人も休日返上で働くヤツは、とても多いんです』 茶目っ気たっぷりにウインクして、ヒュバートは片手を上げた。 『それじゃ、またノルトさんのところでお会いしましょう』 『はい、ありがとうございました』 私はお辞儀をして、それからエントランスのスロープをベビーカーを押して上がった。 ホールでエレベータを待っていると、ヒュバートが走って戻ってきた。 『マドカさん』 携帯を握りしめ、心なしか顔が引きつっている。 『ディーターは今、確かに家にいるんですよね』 『え、どうして?』 『今、彼の携帯にかけたんですよ。奥さんにカタログを渡したことだけ伝えたくて。そしたら、電話に出たところで、ぷつんと切れてしまったんです。まるでトンネルの中に入るみたいな、籠もった変な音がして。かけなおしても通じないんです』 私たちは、数秒顔を見合わせた。 私の顔は、一瞬のうちに蒼白になっていたにちがいない。 『ディーターはひとりで家にいるはずなんですよね』 『ええ、でも……、ありがと、私、行ってみます。……もし、何か……あったら……』 『マドカさん、落ち着いて』 ヒュバートは、おろおろしている私の二の腕をつかんで、心配げな薄茶色の目でのぞきこんだ。 『わたしも、部屋の前までいっしょに行きます。いいですね』 『は、はい』 彼に付き添われて、私たちはエレベータで5階まで上がった。 頭の中では、ディーターが何者かに襲われてしまう幻が、映画のフラッシュのように執拗に映し出されるだけ。 ほとんどうわの空で、私たちの部屋の前に来た。 鍵を出すために、コートのポケットをさぐる右手の感覚が冷たくて、遠い。そのくせ、目のまわりはカッと熱くなって、煮えたぎるほどだ。 『マドカさん』 口に人差し指を当てる仕草をしながら、ヒュバートは小声でささやいた。 『鍵をあけたら、一歩下がって、赤ちゃんを抱いていて。僕がドアを開けて、まず様子を見ます』 『はい』 私は言われたとおりに鍵をゆっくり回すと、聖をベビーカーから毛布ごと抱き上げて、ぎゅっとその小さな身体に顔をうずめた。 聖、聖。神さま。誰でもいいから、ディーターを助けて。 次の瞬間、自分に起きたことがわからない。 私は気がつくと、体を引っ張られて玄関の中に入っていた。 斜めになって回る視界の隅で、廊下に立っているディーターが写る。 ディーター、無事だった。 その安堵と、自分が拘束されていることを知ったのは、ほぼ同時だった。完全に思考が停止する。 顔を上げると、まず、私を狙う銃口が見えて、そして勝ち誇ったように微笑む男。 『ヒュバート……』 それが、ディーターの上げた声か、それとも自分の上げた声か、まったく区別がつかない。 『騒ぐなよ』 そう冷たく言い放った声は、さっきまでの陽気でひょうきんなアメリカ人とはまったく別人だった。 バカだ、バカだ、バカだ。 悔しくて、いまいましくて、自分が情けない。 ヒュバートは、もともと携帯でディーターに連絡を入れてなどいなかった。私を待ち伏せて適当に会話をして、様子が変だと騒ぎ始める。すべて私をあざむいて家に入り込むための芝居だったのだ。 こんな明らかなことをすべて理解するのに、数分を要した。私はそれほど彼の演技に完璧に騙されてしまっていた。 私は、一番恐れていた敵を自分の手で家に案内してしまったのだ。 ディーターは驚くほど、あっさりと彼の要求をのんだ。何の抵抗もなく。 私はヒュバートに命令されるまま、書斎のソファの上で彼を後ろ手にして、渡された手錠をかけ、足首を何重にも紐できつく縛りつける。 私が涙ぐみながらその作業をしているあいだ、ディーターは表情ひとつ変えずに押し黙っていた。私とも、そしてもちろんヒュバートとも一度も視線を合わせようとしない。バカなことをした私を怒っているだろうか。 ついで、男は私を連れて家中を探索した。書斎のはさみ、台所の包丁、ナイフ類に至るまでひとところに集めて処分される。携帯も取られた。片手に油断なく銃を構えながら、クロゼットや引き出し類を調べていく鮮やかな手つきは、まさにその道のプロと感じさせる。 『あなたは誰? イギリスの警察なの?』 『まあ、似たようなものだ』 『探しても何にもないわよ、ディーターは何もしてないんだから』 『フフ。それはいずれわかる』 『証券会社に勤めてるなんて嘘だったのね』 『嘘ではない。証券会社に勤務してるのは本当さ。ただし、警備・テロ対策部門の担当だがね」 だから、証券についての知識はまったくないねと、うっすら笑う。 『でも、アメリカ人というのは嘘だったんでしょ』 『アメリカ国籍だと言った覚えはないな。バーモント州に住んでいる従兄の話はしたがね。シュテファン夫婦が勝手に勘違いしただけだよ。パスポートの提示も求められなかったしね』 家の捜索を終えると、私たちはまた書斎に戻った。 ヒュバートはパソコンデスクの椅子を引き寄せて、ディーターの正面に座り、銃をもてあそびながら、だんまりを始めた。 誰も何も言わない。 ただ、私の腕の中の聖だけが、しきりに父親のところに歩いていこうとしては私に押さえつけられ、甲高い泣き声を上げる。 『奥さん』 ヒュバートがようやく、口を開いた。 『わたしは、あなたや息子さんに危害を加えるつもりはない。それほど硬くなる必要はないと思うね。外出および誰かと連絡を取ることは禁止するが、それ以外の日常生活は自由に行なってくれていい。食事も、シャワーも、眠るのも自由だ。 ただし条件がある』 英語以外の言葉を使わないこと。許可なく、夫婦で会話を交わさないこと。用事がないときは、この部屋にいること。 『わかりました』 惨めさに、止めようとしても声が震える。 『この子はお腹をすかせてると思うの。キッチンで、ごはんを食べさせてきていい?』 『ああ、いいだろう』 『それから、サンドイッチとお茶を作ってあげたいんだけど。……あなたと、ディーターとに』 『その必要はない。こいつには一切の食事を取らせない。――水一滴もだ』 そのことばを聞いて、絶望に打ちひしがれながらキッチンに向かった。食べ物はおろか水さえ飲めないなんて、まるで拷問だ。 とりあえず、テーブルのベビーチェアに聖を座らせて、簡単な食事を作った。包丁がないので、作れるものはハムとスクランブルドエッグ、レタスぐらいだ。聖はまだむずかっていたが、さっきよりは落ち着いてきた。 私も、とにかくあの男から少し距離を置いて(背後から見張られてはいるだろうが)、やっとどうにか頭が働くようになった。 ヒュバートはいったい、何を探しているのだろう。何をしようとしているのだろう。奴に気づかれないように外部に連絡を取って、拘束されていることを誰かに伝えるには、どうすればよいのだろう。 食事をさせているあいだ、そんなことばかり考えていた。聖は口を動かしながら、うとうとと首を傾げ始めた。泣きすぎて、よほど眠くなったのだろう。 私も食欲は全然ないものの、どうにか食べ物を口の中に詰め込み、食事を終える。 キッチンに立ったとき、ふと電子レンジの上に、ちびた鉛筆があるのが見えた。調味料の分量を書き留めるときに使っているもの。 何かの役に立つかもしれない。私は食器を片付けるふりをして、それをスラックスのポケットにそっと押し込んだ。 おむつを替えてから、書斎に戻る。まだぐずぐず言っている聖を抱きかかえながら、入り口のそばの床に座り込んだ。 ディーターはあのままソファに座ったきり、目を閉じている。体力を温存するつもりのようだ。 そして、ヒュバートもくつろいだ姿勢で、やはりひとこともしゃべらない。 沈黙の部屋に夕暮れが忍び寄る。私は恐ろしい考えに思い当たった。 今日は日曜。私たち三人が家族だけで過ごす唯一の日なのだ。葺石家の誰かが最初に私たちの異変を感じるのは、稽古のある月曜の夕方。丸一日経ってからだろう。 ヒュバートはそこまで調べ上げて計算して、今日という日を選んだのだろうか。 長期戦を覚悟せねばならなかった。 §6につづく |