§5に戻る §6 部屋の中の人も物も、すべてがシルエットに見えるようになった薄闇の中、ようやく聖が寝入ってくれた。 毛布にくるんで床にそっと寝かせたあと、今やこの家の支配者であるヒュバートは、私に灯りをつけてほしいと命じた。 私は立ち上がり、灯りのスイッチを押す。 『ついでに、紅茶を淹れてきてくれないか? あんたも喉が渇いたろう』 『わかったわ』 私はキッチンに向かった。やっとまともに息ができる。 ヒュバートはこれまでの2時間、ディーターに向かってあれこれ尋問することもなく、まして暴力をふるうこともしない。ただ、じっと見つめているだけ。もちろんディーターも、口を利かない。 部屋の中は耐え難いほどの圧迫感に満ちた沈黙が続いている。こんなことが何時間も続くと、頭もどうかなってしまいそうだ。 熱いお茶を少しずつ喉に流し込んで、緊張がほっと緩むのを感じる。 書斎の中は暖房が効いてかなり乾燥している。ディーターも喉が渇いているはずだ。しかし彼には何も与えるなと命令されている。 私はふたたび書斎に戻って、ヒュバートに紅茶を渡した。 『ありがとう』 彼のお礼のことばにうなずいて、元の場所に座った。 やはり、灯りのせいで先ほどの圧迫感がやや消えている。灯りは人間の気持ちをプラスにする効果があるのだ。 私の中に、何かしたいという気持ちが生まれてきた。ヒュバートも最初に比べれば、態度がずいぶん柔らかくなったように見える。彼と少しでも話したい。話して、彼の抱いている誤解を解きたい。 それがヒュバートの策略だったと気づいたのは、ずっと後だ。 数時間の沈黙は、私を操るための周到な下準備だった。もし拘束されてすぐに矢継ぎ早に詰問されていたら、さすがの暢気な私だって、ひとこともしゃべらなかっただろう。 人質に得体の知れない恐怖を与え、絶対的な支配の下に置き、緊張がピークに達したところに少し譲歩したように見せ、自分のペースに巻き込んでいく。敵は一枚も二枚も上手の心理学者だったのだ。 『ヒュバート。少し、あなたと話してもいい?』 『どうぞ』 『あなたが、こんなふうに私たちを拘束しているのは、違法だと思う。あなたがイギリスの警察の人なら、よくは知らないけど、日本の警察を通して捜査するものじゃないの? 正式の令状を取って逮捕なり捜査なりすればいい』 『それは、一般の犯罪者の場合ですよ。奥さん』 ヒュバートは、小ばかにしたような慇懃なほほえみを見せた。『テロリストの奴らにそんなまどろっこしい捜査をしていては、間に合わない』 『ディーターはテロリストじゃない。……昔はそうだったけど、今は違う』 『かわいそうに、マドカさん』 彼はおおげさに薄い金色の眉をしかめてみせた。 『あんたは、完全に騙されているんだよ。この男はあんたとの結婚を隠れ蓑に日本に潜伏して、IRAの仲間どもと連絡を取りながら、大きなテロ計画を実行に移そうとしている。ディーター・グリュンヴァルトは今でも、れっきとしたテロリストだ』 『その証拠を探そうと言うの? そんなものいくら探したってないわよ』 『証拠なら、もうとっくにあるんだよ』 『なんですって?』 彼は証券のカタログを出したあのベージュの書類カバンから、数枚の紙を床に落とした。 『見たかったら見るといい。これはベルファスト在住のコンロイ・コナーズというIRAのテロリストと、あんたのご主人とがメールを交わしていたことを示すプロバイダー側の記録だ。こっちは銀行の送金記録。十数回にわたって、数百から数千ユーロがドイツ・ケルンの口座を経由してコンロイ名義の口座に送られている。これは彼が今もIRAの活動に関与しているという証拠の、ほんの一部だ』 確かにそこには、ぎっしりと日付や時間、金額などの数字が並んでいる。そんな話は聞いたことがなかった。北アイルランドにはもう、連絡を取るような親しい人などいるはずがなかった。ましてやIRAの昔の仲間だなんて。 思わずディーターを見た。相変わらず彫像のように感情のない目をして座っている。 なぜ、私のほうを見ないの? なぜ、ひとこと「違う」と叫んでくれないの? 『あんたには同情するよ。奥さん』 ヒュバートは、畳み掛けるように言葉をつなぐ。穏やかに優しく。まるで催眠術師だ。 『今の今まで、この男に愛されていると信じ込まされてきたんだからな。だが、真実はひとつだ。こいつは今でも昔と変わらない、血も涙もない人殺しなんだよ。 あんたさえ協力してくれれば、こいつを英国警察に告発することができる。わたしたちはそのために、ずっと日本で内偵を進めてきたんだ』 私はそのとき、ぶるっと身震いして立ち上がった。その見幕に、ヒュバートも、そして今まで身じろぎもしなかったディーターも、驚いたように私を見る。 外国のことばで自分の考えを伝えるのは、むずかしいことだ。 だから私は、あのいまいましい木戸警部と車の中で話したことを感謝した。ディーターと言い争いをして、さんざん彼を疑って悩んだ時間もムダではなかった。私はこのときのために、神さまに準備をしてもらっていたのだ。 『冗談じゃないわ』 腹の底から湧き出てくる憤怒をこめて、そう言い放った。 『ディーターは血も涙もない人殺しなんかじゃない。確かに過去に過ちを犯して、たくさんの人を殺した。そのことを、どれほど彼が悔やんで苦しんできたか、妻である私が一番よく知ってる。日曜のミサで聖体拝領を受けるたびに、いつも口の中でつぶやいてるんだよ。『赦してください、こんな罪人を赦してください』って。そんな……そんな彼がふたたびテロに関わるわけがないじゃない!』 『そう信じ込みたい気持ちはわかるが』 『信じ込みたいんじゃなくて、信じているの。私はディーターを信じている。その証拠とかいう紙のことは、彼から直接聞けばいい。必要ならば、ちゃんと説明するはず。ねえ、そうでしょ、ディーター? ……でも、たとえあなたが何も言わなかったとしても、私はあなたを信じる』 ディーターは私を穴の開くほど見つめた。その翡翠色の瞳は、次第に氷が解けて、いつもの春の湖のような温かさと優しさを取り戻していた。やっぱり彼は、いつものディーターだ。 『コンロイは――、俺と同じ地区の出身で3歳年上だった』 彼ははじめはゆっくりと、きつく結んでいた紐をほどくように話し始めた。 『同じ頃にIRAに入り、俺といっしょの時期に少年刑務所に入った。彼も出所してからは、IRAとの一切の関わりを断っていたはずだ。そいつと再び連絡を取り合うようになったのは――5年前。ケルンだった』 『私と結婚する前?』 『そうなるな。聖ヘリベルト大学病院で病気の治療を受けながら、日本へ行く準備をしているときだった』 『……なんのために?』 『叔父とのパイプ役になってもらったからだ』 『叔父って……まさか、パトリック叔父さん?』 ディーターをご両親の死後引き取って、5年近く残酷な虐待を与えていたパトリック叔父。死んだとは聞いていなかったから、どこかで生きているのだとは思っていたが、まさか彼の側から連絡を取っていたなんて。 『コンロイは、IRAの中では、小さい頃の俺や叔父のことを知っているただひとりの人間なんだ。ドクトル・フキも何度かその男に、俺のことについて話を聞きに行ってる』 その人のことなら、父から聞いていた。ディーター本人でさえも記憶があいまいだった少年時代のことについて、特にIRAに入隊してからユーウェンの人格を持つまでの経緯について、詳しく語ってくれた人物がIRAの元兵士の中にいると。父は著書でその人の名前をCと名づけていた。 それが、コンロイという人だったのか。 『そいつに叔父のことを調べてもらって、福祉病院の精神病棟で劣悪な環境の中にいると聞かされた。それ以来、病院への送金の仲介をしてもらっている』 『叔父さんにお金を送ってたの?』 『たいした額じゃない。それでも、ずっとましな病院に移れたと言っていた』 『だって、……どうして』 あの人のせいで、ディーターは極限の苦痛を与えられたんじゃないの。それなのに、なんで優しくできるの? 叔父さんのことが愛せるの? 『愛するなんて、そんなきれいな気持ちじゃない』 ディーターは逆に悪事を暴かれたような顔をして、うつむいた。 『これは俺なりの意地だった』 『意地?』 『俺がどんなに幸せになったかを見せつけてやろうと。あいつに自分の人生をめちゃくちゃにされたと絶対に認めないためにも、育ててもらった恩を返す。意地というより、子どもじみた自己満足かもしれない。どうせ相手はアルコールで脳をやられて、俺のことなど何も覚えていないんだからな』 『ディーター……』 涙があふれてくる。もしこんなときでなければ、私はディーターに抱きつきたかった。 彼が多くの人格に解離する原因を作った、憎んでも憎みきれない相手。私だったら、「いい気味だ」と笑ってやる。そんな叔父に、彼は何年もお金を送り続けていたのだ。 たとえ純粋な動機でなくても、自己満足だったとしても、私は心の底からディーターを尊敬する。 突然、パチパチと拍手の音が聞こえた。 ヒュバートが椅子から立ち上がって、あざけるような笑いを顔に貼り付けて、手を叩いている。 『感動したぜ。なんてうるわしい美談なんだ。……へへ』 『これで、ディーターはちゃんと真相を話したでしょ』 私は首筋にぞわっとするものを感じながら、叫んだ。 『嘘かどうかは、ベルファストの病院に問い合わせればいい。それさえ確かめられれば、彼の容疑は晴れるはずだわ。すぐに連絡をとって。その間……せめて、この手錠だけでもはずしてあげて』 「円香。やめろ」 ディーターは低い声で制した。 「こいつに何を言ってもムダだ。もともと俺の罪を証明する気なんか、はじめからない」 『英語でしゃべれって言ったろう!』 ヒュバートは、目を吊り上げてわめいたかと思うと、止める間もなく、ディーターの腹に片足を蹴りこんだ。 「ぐ……」 「きゃああっ」 痛みに身体を折り曲げるディーターをかばうように、両手を上げて叫んだ。 『いきなり、何するのよっ』 『アイリッシュは、やっぱり豚のように蹴飛ばして飼うのがお似合いだな』 慄然とした。ヒュバートの目は、それまで見たこともない狂気の色を帯びていたのだ。 『幸せに暮らすだと? 妻子と3人、平和で幸せなおままごとかよ。反吐が出るぜ!』 最初は、陽気なアメリカ人を完璧に演じていた。そして沈着冷静な捜査官。しかし、今はまるで違う。まるで狂信者だ。この男の正体はいったい何なのだろう。 『貴様のように無慈悲に他人の生命を奪った者に、生命を育む資格などない。……他人の幸福を奪った者に、幸福に暮らす権利などないんだよ!』 私はこのとき、ようやく悟った。 ヒュバート・ウィリアムズが来たのは、テロリストの容疑を立証するためではなかった。 初めから彼は、ディーターを殺すつもりだったのだ。 §7につづく |