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EWEN

Special Episode
沈黙の回廊



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§7


 私たちの怒声に眠りを中断されてしまい、聖が大泣きを始める。
 あわてて抱きかかえようとした私を、ヒュバートは引きずるようにして壁際に押しつけ、もうひとつの手錠で片手をクロゼットの扉の取っ手に固定した。これじゃ、おむつを替えることだってできないじゃないの。
『奥さんが、あまりにも物分りが悪い方なのでね。協力的になると約束するなら、いつでも外すつもりだよ』
 ヒュバートは部屋を行ったり来たりしながら、拳銃を手の中でもてあそんだり、あちこちに狙いをつけるような格好をした。先ほどの一時的な興奮は収まっているようだったが、それでも目に見えて高圧的になった態度には、その残り火がくすぶっている。
 聖は泣きながら、私の手を引っ張って立たせようとしたり、ディーターのところに行っては抱っこをせがんだり、誰にも相手をしてもらえないので、とうとう床にぺたんと座りこんでひくひくと涙を流していた。このときの聖の様子があまりに悲しそうで、思い浮かべるたびに私は泣けてしまう。
『かわいそうに、この子は一生、犯罪者の息子として後ろ指をさされる』
 ヒュバートは聖を見つめながら、おおげさに肩をすくめる。
『マドカさん、あんたは何も知らないんだ。この男がどんなに凄惨な殺人をやってのけたか。ベルファストに駐留していた英国軍兵士のひとりは、こいつに眉間を打ち抜かれた。舗道の敷石に血と脳漿が飛び散ってね。それはひどい有様だった。ロンドンの警察官の喉をナイフで掻き切ったこともある。敵の真っ赤な返り血をいっぱい浴びて、こいつはさぞや狂喜したことだろうな』
 そう言いながら、揶揄するようにディーターを見る。ディーターは青白い怒りに彩られた瞳で睨み返しながら、静かに答えた。
『ロンドンの警官は、IRAのメンバー三人を虐殺されたことへの報復命令だった。イギリス軍兵士のときは、あっちから仕掛けてきた。殺したくて殺したわけじゃない』
『1984年のディスコ爆破はどうだ。英軍兵士16人が死亡した。83年のロンドンのデパート爆破事件は? 罪もない96人以上もの人々が死傷した』
『俺の知っている限り、一般市民を巻き込まないように爆破予告はしていたはずだ』
『じゃあ、98年のオマーでの商店街爆破は? 爆破予告した裁判所ではなく、市民の避難誘導先で爆弾が炸裂し、28人が死んだ。
おまえは直接手を下していないから、関係ないか? IRAに属していたという事実がある限り、同罪だよ。IRAというのは、罪のない人間を虐殺する狂った集団だ』
 ディーターは奥歯をぎりっと噛み締めた。
『俺たちのやり方は間違っていたと思う。……だが、元はと言えば、英国政府がアイルランド人を不当な専制で搾取したんだ。劣悪な住宅に押し込められ、教育も職業も、ありとあらゆる機会を力ずくで奪われた。正当な公民権さえも剥奪され、俺たちには武力で抵抗することしか許されなかったんだ!』
 初めて聞く、彼の口から出てくるテロリストの論理に私は呆然とした。彼の内部では、まだこんな憎しみがくすぶっていたのか。
 IRAの兵士であったユーウェン。それを否定しようとするディーター。ひとつの人格になった今でも、ふたりはまだ心の中で闘っているのかもしれない。苦しげな表情がそのことを語っている。
『聞いたかね、奥さん。こいつはまだ現役のテロリストだよ。放っておけば、また昔を思い出して何をするかわからない殺人鬼だ』
 勝ち誇ったように、ヒュバートが宣告する。
『そのときこいつは、あんたもあんたの息子も傷つけることになる。いや、そうならなくとも、息子は彼の過去の悪行を知ったら苦しみ、父親を恥じるだろう。息子自身によって裁きが下される日がいつか来る。それくらいなら、こんな父親はいないほうがマシだと思わないかね?』
『思わないわよ』
 私は、挑発されてまた余計な口出しをしてしまった。
『ディーターは私たちにとって、大切な父親であり愛する夫なんだもの。誰がそんなこと思うもんですか。あなたこそ何の権利があって、彼を裁こうとするの? 犯した罪については正式な裁判を受けて、ベルファストの少年刑務所で服役してるのに』
『裁判、服役。そんなものに、何の価値がある。こいつはハンガーストライキのふりをして、たった半年で仮出所した。ドイツの精神病院も、2年で退院したそうだな。そうやって、ズル賢く罪の償いから逃げ回っている。IRAの奴らは、みんなそうだ! こいつらには法の裁き以上の裁きが必要なんだよ』
 彼の憎悪に満ちた目を見ているうちに、内臓を虫が這い回るような恐怖が駆け上ってきた。 『法の裁き以上の裁きっていったい……。あなたは誰なの?』


 ふたたび静寂が訪れた。聖はあれからしばらくすると、私の膝に顔をすりつけるようにして、また寝入ってしまった。
 ヒュバートは、私の質問には一切答えないまま灯りを消すと、元通り椅子に腰掛けて目を閉じている。
 寝ているのかもしれないが、確かめる術はない。もしそうだったとしても、手錠でつながれている私たちには何も行動を起こすことができなかった。
 暗闇の中で、これから起こることへの不安に怯えている私に、ディーターはかすれた声でささやいた。
「円香……だいじょうぶか」
「うん……」
「こんなことになって、すまない。俺の考えが甘すぎた」
「ディーターが謝ることじゃないよ」
 久しぶりに彼とふたりだけで日本語で話せることがうれしくて、私はすすり泣いてしまう。
『でも、……やっぱり英語で話そう。もし聞きとがめられたら、またあなたが罰を受ける』
『俺は、蹴られるのなんか全然痛くない』
 悔しげに、彼はつぶやいた。『奴らの暴力に屈して、自分たちのあり方を変えられていく……。そのことのほうがもっと痛くて、もっと辛い』
『ヒュバートはいったい誰なの? 知ってるんでしょう』
『奴は……SASの元隊員だ』
『SAS……』
 SAS。イギリス特殊空挺部隊。北アイルランド紛争にも投入された英国陸軍の少数精鋭部隊で、対テロ集団のプロ中のプロ。現在も世界各国に派遣されて、対テロ組織作戦の指揮や指導を行っているらしい。OBたちは企業のボディガードなども任されていると聞いた。
 これでも北アイルランド紛争に関することは、私なりにいろいろ調べてきたのだ。
『……コンロイが去年、突然連絡を断ったんだ』
 ディーターは乾いた咳を何回もしながら、説明を続けた。
『その少し前に、SASに狙われているらしいとメールで訴えていた。SASの退役軍人集団があちこちで、元IRAのメンバーを射殺しているという噂はずっとあった。
そして去年の夏ごろ、彼はいきなりリストを送りつけてきた。SASのOBの名簿をどこからか手に入れたと言って。もちろん、そのリストはそのときの俺には何の意味もないように思えた。とりあえずプリントして、いつものようにメールは削除した。それきり、そんなものがあったことさえ忘れてしまい、そのうちの一枚がなくなったことさえ気づかなかったんだ』
 それがあのときのリストだったのか。夏の開け放した窓からの風で飛んで、大晦日の大掃除のときまで、あのタンスの後ろに挟まっていたのだろう。その中にあったいくつかの名前を思い出そうとした。確かではないが、ヒュバート・ウィリアムズの名前はなかったような気がする。
『今思えば、あれは偽物だった』
 ディーターは悔恨に唇をゆがめた。
『あれが送られてきた時点で、コンロイはもう殺されていたんだ。北アイルランドのダウン州の海岸で9月に溺死体となって上がり、事故として処理されていたらしい。そのことを知ったのは、11月になってからだった』
『誰に……殺されたの』
 聞くまでもなく、答えはわかっていた。
 コンロイが自分は狙われていると訴えたのには、根拠があった。彼の電話やメールはもうずっと以前から盗聴されていたのだ。そして彼が殺されたあと、彼のパソコンに入っていた抹消したはずのアドレスを使って、各地の元IRAのメンバーたちにニセのリストを送りつけた。そういうことが自在にできる技術を持つ者たち。ひとりの人間を抹殺しても、追及されないだけの「政治的権力」を持つ者たち。
 テロを憎むという彼ら自身が、テロという手段を使って、人間を裁いているのだ。
 私は、思わずヒュバートを見た。
『そのとおりだよ』
 ヒュバートは暗闇の中、薄茶色の目を光らせて、悪魔のようにニヤリと笑いかけた。
『もっとも、コンロイに手を下したのはわたしではない。仲間のひとりだ。もうその頃わたしは、証券会社の警備担当として就職し、日本にいたからな。日本に潜伏している貴様を追うよう指令を受けていたんだ。貴様は日本の社会に埋没して、なかなか尻尾を出さなかった。だから、コンロイからと思わせて、元SASのニセの名簿を送りつけたり、ケルンの病院に照会の問い合わせをしたりしたのさ。そうすれば恐怖を覚えて、情報を収集しようと動き始めるだろう。それを逆にたどっていけばいい。
……結果的には、偶然接触に成功したドイツ人ノルト夫妻の線から、貴様にたどり着くことができたわけだがね』
『く……そっ』
 ディーターは苦しげにうなり、また咳き込む。
 ディーターがずっと沈黙を保って、私に決して何も打ち明けなかった理由が、やっと今になってわかったような気がした。
 SASの暗殺者組織に狙われている。もしそんなことを知ったら私は平静を保てなかっただろう。毎日わずかな物音や人の気配にさえ怯えて、パニックになってしまったかもしれない。
 今の私のように。
 私は小刻みに震えながら、膝の上の暖かい聖の身体を触って、正気を保とうとした。


 冷気に曇る窓の外では、冬の朝がしらじらと明け始めた。



§8につづく
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