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EWEN

Special Episode
沈黙の回廊



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§8


 パパ。どうしたの。どうして、黙ってるの。
 外に出よう。ここは暗くて寒いよ。
 目を覚ましてよ。ぼく、パパを運べない……。


 夜が明け、新しい一日が始まった。
 ヒュバートは私の手錠を外し、食べ物を作らせ、聖の世話をすることを許した。ただしディーターには相変わらず、わずかな水さえ与えさせてくれなかった。
 時間が経つにつれ、ディーターの息が荒くなってくるのがわかる。しきりに咳をするのは、喉が乾燥して飲み込む唾ももう出ないからだ。顔が赤く、熱があるように見える。
 人間は体全体の1%の水分が失われると、耐え難い喉の乾きに襲われるという。私たちがふだんそんなに水を飲まなくてもすむのは、食物から水分を得ているためだ。ディーターのように食べることも禁じられている状態では、一日で2.5%の水分が失われてしまう。湿度40%の冬の乾燥した室内ではなおさらだ。このまま水分を補給しないとやがて発熱し、めまい、悪寒を経て、意識混濁の末、死に至る。銃弾を一発も使うことなく、殺すことができるのだ。


 なぜヒュバートが軟禁という手段を取ったのか、そのときはとても不思議だった。ディーターを殺したいなら、いきなり不意に撃ってくるのが一番簡単だったのではないか。
 真相は今でもわからないが、ただひとつ確かなのは、北アイルランドやイギリスのように彼らの権力が物を言う地ではともかく、日本では、たとえテロの容疑者でもいきなり射殺したりはしないことだ。人ひとり殺せば、綿密にその状況は調べられるだろう。その点、日本の警察は優秀なのだ。
 だから、ヒュバートはディーターを軟禁して徐々にさいなむ方法を選んだ。それと同時に、妻の私にディーターがテロリストであると信じ込ませるよう仕向ける。家族に見捨てられる絶望に彼を追い落としたうえで、自殺をうながす。あるいはどこかで事故死に見せかける。それがコンロイを殺したときにも使った、通常の彼らの手口だったはずだ。
 ディーターは彼の策略を知り、挑発に乗らないように沈黙を保っていたのだろう。私も、ヤツの口車に乗って混乱したりはしなかった。ことの成り行きは、ヒュバートの思惑とは少しずつ異なってしまった。
 だが計画が失敗したにもかかわらず、ヒュバートは頑としてそのやり方を変えなかった。
 彼は殺す過程を楽しんでいたのだ。はじめから、私たちを何日も長く苦しめて、それをゆっくり眺めながら殺すつもりだったのだ。そうでなければ、これだけの手間をかける必要はなかったはず。
 ヒュバートが時折見せる異常さに気づくにつれ、徐々に強くからみついてくる鎖のような恐怖に、私は心や身体を侵食され始めていた。
 それは、もし彼に抵抗し続ける限り、ディーターを救えないだけではなく、私も聖も確実に殺されるという恐怖だった。


 そのとき突然、玄関のチャイムが鳴った。
『誰だ。誰か来る予定はあるのか?』
『わからない、予定はないけど』
『出るな。……いや、待て。インターフォンで応答しろ』
 私に銃をつきつけ、彼はリビングへと促した。
 書斎への扉は閉じられ、後追いをしようとした聖は泣き声を上げる。
 画面には、このマンションの管理組合長・安西さんのふくよかな顔が映っていた。インターフォンの受話器を取った。
「はい……」
「あ、フラウ・グリュンヴァルト。ちょっとすみません。ご主人にまた翻訳をお願いしたいんですよ」
「あ、はい、ちょっと待ってください」
 受話器をいったん架けると、私はヒュバートの顔を見上げた。
『誰だ。なんと言ってる?』
『このマンションの人。至急、渡したい書類があるって』
『後で取りに行くと言え』
『でも、せっかちな人なの。こっちから行かなければ、また来るわよ』
『しかたがない』
 彼は、拳銃をぐいっと私の鼻先につきつけた。
『玄関の外で応対しろ。客が来ているから今手が離せないと言え。余計なことは言わず、渡されるものだけ受け取って来るんだ。ここの画面から見ている。ちょとでもおかしな素振りをすれば、子どもの命は即座にないものと思え』
『わかったわ』
 私は玄関を少し開けて、身体を外にすべり出させた。戸外は凍えるような寒さだったが、私は数時間ぶりに酸素を吸った気分だった。
「安西さん、ごめんなさい。今、主人に来客中で、中に入っていただけないんですよ」
 こうしている間も、ヒュバートがカメラで逐一見張っている。彼はどこまで日本語を理解できているんだろう。今まで見たところでは、そう理解はしていないはずだ。
 でも、もしわからないふりをしているだけだとしたら。「助けて」とか「警察」というキーワードは聞き取られてしまうかもしれない。
 うかつなことはしゃべれない。
「そうだったのですか。それはお忙しいところに来てしまいました」
 安西さんは「それでは」と言って、一枚のプリントを渡した。それは自治会主催の定例の小旅行のお知らせだった。「紀州・熊野世界遺産の旅」とある。涙が出るほど平和な文面。
「わかりました。それで、あの……、〆切はいつまででしょうか」
「そうですね、他のマンションでも貼り出したいというところがあるので、できれば3日くらいでお願いできますかな」
 受け答えしながら、私はそっとスラックスの右のポケットをまさぐった。ポケットの中には、昨日の夕方買い物に行ったときのレシートと、キッチンに置いてあった鉛筆が入れてある。私はヒュバートの目を盗んで、そのレシートに大きく「たすけて」と書いていた。
 これを、安西さんにそっと渡すつもりだった。ヒュバートが見ているインターフォンの画面では、手元は見えないはずだ。
 でも、いざとなると怖気づく。もしほんのわずかでも、安西さんが不思議そうな仕草をしたら。「え?」などという声を漏らしたら。
 たちまちバレて、報復がされてしまう。
「赤ちゃんがよく泣いていますな」
 安西さんののんびりした声で、我に返った。聖の泣き声がここまで聞こえる。あの子を危険にさらすことなんて、できない。
「ごめんなさい。失礼します」
「お手数かけました。それじゃよろしく」
 私は扉を閉めると、ふらふらとキッチンのテーブルまで来て、両手をついた。膝ががくがくと震えている。目からどっと涙があふれる。
 たった一度かもしれなかった外へ助けを求めるチャンスを、私はつぶしてしまった。精神的・肉体的暴力への恐怖は、どれほど人間を恭順に、臆病にさせるものだろうか。
「水を飲ませて……」
 書斎へ戻ろうとしているヒュバートの承諾を得ると、私はキッチンの蛇口で、コップの水をあおった。飲んでも乾きは収まらない。
「できれば3日くらいでお願いできますかな」
 3日後、私たちは生きていないかもしれない。人間は水を飲まないと3日で死ぬと言っていた。ディーターは今、どんなにか苦しいだろう。この水を一杯だけでも飲ませてあげたい。
『奴らの暴力に屈して、自分たちのあり方を変えられていく……。そのことのほうがもっと痛くて、もっと辛い』
 ディーターのつぶやいた言葉が、本当の意味でわかる。自由を束縛され、権利を奪われる者の苦痛と恐怖。北アイルランドに住んでいるカトリック系住民の抱いていた憎しみが、ほんの少しだけ理解できる。
 22年間平和な日本に住んでいた私は、こうなってみて初めて、束縛され蹂躙される者たちの気持ちを知った。
 戦いたい。戦わずに屈服するのは、いやだ。


 私は、書斎に入ると、まっすぐにディーターのところに向かった。
 ソファの彼のかたわらににじりより、驚いている彼の頭を抱き寄せて、キスした。
 口の中いっぱいに含んでいた生暖かい水が、合わせた唇から唇へと少しずつ送られていく。
 彼の喉が、気持ちよさそうにこくんと鳴った。
 顔を離したとき、私たちは見つめあった。ディーターは哀しげな目で私を見る。
「円香……」
「ディーター、愛してるよ」
 いきなり、ヒュバートが私の髪を後ろからつかんだ。ことばもなく、頬にきつい平手打ち。私はその勢いで、床に投げ出される。
『ヒュバート!』
 ディーターが大声を上げて立ち上がり、体ごと体当たりしようとした。しかし後ろ手に手錠をはめられ、両足を縛られている体は、なんなく突き飛ばされてしまう。聖は火がついたように泣き続けていた。
 ヒュバートは、私の上に馬乗りになって憎憎しげに見下ろした。
『なによ、日常生活は自由にしていいって言ったでしょ。キスは日常生活の一部よ』
『水は飲ませるなといったはずだ!』
 憤怒のあまり、目の焦点が合っていない。目を吊り上げ口を歪めるありさまは、まるで般若の像のようだ。
『純情な顔して、とんだあばずれだ。白人の男だったら、誰でも突っ込ませるんだろう、日本の女は! ちょうどこの格好だ。俺が犯してやるよ、亭主の目の前でな!』
 聞くに堪えないような卑猥なことばでののしり続ける。恐怖や怒りを通り越して、彼が憐れだと思った。
『やりたいなら、やればいい。そんなこと平気。心が卑屈になることに比べたら、何でもない』
『殺されても、平気だというんだな』
『彼と結婚したときから、死ぬ覚悟はできてる。……でも、死ぬつもりなんか、ないけどね!』
 そのとき、私は目の前で見たものが信じられなかった。烈火のごとき怒りの表情はすっとその炎を消し、薄気味の悪い微笑に取って替わったのだ。
『ふ、そうか』
 彼は私から離れまっすぐに、床に座り込んでいる聖のもとに行った。
 そして、銃を持っていた腕を伸ばし、ぴたりと小さな頭に狙いをつけたのだ。
『自分の誇りのためなら、何を犠牲にしてもいいと言うんだな』
『やめてよ!』
 私は絶叫した。
『聖と私には危害を加えないって約束したじゃない。聖は何もしてない! 罪のない者を殺すの? IRAが赦せないって言ってたはずよ。それなのに、自分も同じことをするの?
……後生だから、やめて!』
『フフ』
 ヒュバートは、居丈高な含み笑いをしながら、腕を下ろした。
『確かにそうだ。よくわかってるじゃないか、奥さん。こういう卑怯なやり口は、その後ろにいるあんたの亭主の専売特許だよ』
 そう言いながら彼は聖から離れ、元通り椅子に座って膝を組んだ。
 私は全身が虚脱して、その場に崩おれ、涙をぽたぽた落とした。
 やっぱり、ダメだ。抵抗なんてできない。聖を失うことに、私は耐えられない。
『罪のない者を殺したのは、そっちだ』
 押し殺した低い声が、背後から聞こえてきた。
『俺の回りの何人が無実の罪で引っ立てられ、不公平な取調べを受けて牢獄に入れられたか。私刑でぼろぼろにされ、職を失い、自殺に追いやられたか。SASの奴らは笑いながら何人を射殺したか。おまえが一番よく知ってるはずだ。ヒュバート!
そのうえ、平和に暮らしていたコンロイまで、おまえは……。
決して赦さない。この手が自由になったら、……真っ先におまえを殺してやる』
 はらわたを掴まれたような恐怖に襲われ、後ろを振り向いた。
 ヒュバートを睨み上げるディーターの目は、――昔のユーウェンが持っていた、あの氷の目だった。



§9につづく
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