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Episode 3
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ひたひたと乳白色の霧が街を流れる。 夜の闇が薄まる頃、巡回中の警官は、古いビルの壁に体を預けてうずくまったひとりの少女の姿を見つけた。 こんな寒い夜に袖のない白いワンピースが、路地の石畳の上にぼうっと浮き上がる。 「お嬢さん、どうしました?」 「すみません、少し具合が……」 頼りなげに、彼女は華奢な顎を持ち上げた。 彼は息を呑んだ。 懐中電灯の光に照らし出されたのは、この世のものとは思えぬほどの美貌。乱れた長い金髪のあいだから覗く、翡翠のように光る双眸は 告知天使を思わせる。 「だ、だいじょうぶですか」 思わずどもりながら、警棒と灯を脇に、両手を差し出す。 少女は手を取ると、彼の胸に飛び込むようにしなだれかかってきた。 大きく喘ごうとした警官は、しかし息を吸い込めないのに気づいた。もう彼の気管は機能していない。 体がぐらりと傾く。 視界が捉えたのは、少女の手にいつのまにか握られているナイフ。 そして、その顔に浮かんだ悪魔のような微笑。 最後に彼の鼓膜を震わせたのは、低く嘲る男の声。 「地獄へ落ちろ」 くるりと振り向き、路地を歩き出す「少女」の背後で、警官は喉から噴水のように血を噴き出しながら地面に横たわり、絶命した。 「いったい何が起きてるんだ!」 バークレー警部はやり場のない怒りを机に叩きつけた。 ロンドン警視庁の最上階の一室。 「もう3人目だぞ。厳戒態勢を敷いているはずじゃなかったのか」 「至近距離、それも真正面から切られております。今のこの時期、巡邏中の警官がテロリストにそれだけ無防備に近づく とは考えられないことなのですが」 「その考えられないことがこの大ロンドンのど真ん中で起きてる。しかもこのスコットランドヤードの目と鼻の先で! どこまで挑発したら気がすむんだ。アイリッシュの豚野郎どもが!」 デスクの前の部下は、答えの代わりにただ汗をぬぐうばかりだった。 「今回もIRAは犯行声明を出しているのか」 「はい、死体の発見された2時間後に」 「やつらは何を考えとる……。今までの爆弾闘争も、対抗組織との内戦もまだこれに比べれば理解できる。この切り口の鋭さ、深さを見ろ! これだけの残忍な犯行を行える悪魔を、いつまでもこのまま野放しにしておくというのか!」 「……それが不思議なことを耳にしました」 「なに?」 「二人目の被害者、ホプキンス巡査部長ですが、同僚が駆けつけたときはまだ息があったそうです。その同僚は、巡査部長が 最後に「翡翠の天使」と言い残したのを確かに聞いたというのです」 「……いまわのきわに、お迎えが来たということじゃないのか」 「それなら良いのですが、…まさか天使が犯人だったということはないでしょうから」 ピカデリー広場の近くの小さな安宿。 窓の薄いカーテンを透かして、正面のネオンが室内を赤く青く染め上げる。 ユーウェンはベッドから抜け出し、テーブルのウィスキーの瓶に口をつけてあおった。 人を殺した日は気持ちが高ぶる。女をめちゃくちゃに抱いて酒をあびるように飲まないと、そのほてりは静まらない。 ホテルの割れた鏡に、ネオンに彩られた彼の裸身が写る。 黒い髪。濃い紺の瞳。19歳の均整のとれたたくましい身体。 だが実際に鏡に映るのは、金髪で薄い翡翠色の瞳をした痩せた14歳の少年だ。 彼はこの身体の人格のひとつでしかない。 ユーウェンは、ゆっくりと自分の胸を上から下へと、爪で掻き裂いた。 赤い血がうっすらと滲む。 この狭い肉体の檻から出たいと、どれだけ願ったことか。 ダニエル・デュガルのこの身体には、彼を含めたいくつもの人格がせめぎあっている。 テーブルに空の瓶を置くと、ロザリオが目に留まった。 ダニエルの両親の形見の銀のロザリオ。もうどす黒く変色している。 自分が幸せだったことの、愛されていたことの唯一の証。 長い過酷な年月を経ても、ダニエルは決して手放そうとはしなかった。 「くそったれ」 思わず呪いのことばを吐いた。 あれほどむごい虐待を受けたのに、こいつはまだ神に祈るのか。 この手が多くの命を奪っていることを、うすうす感づいているくせに、まだ神に救いを求めるのか。 神などいるものか。 いるとしたら俺が、ダニエルの神だ。 俺がいなければ、あの地獄のような日々を1日だって生きてはいなかった。 ダニエルを守ること、それが俺の存在理由だ。 だが俺が人を殺すたびに、こいつはもっと心の奥に閉じこもってゆく。 眩暈を覚えた。 頭が割れるように痛む。そろそろ限界が来たらしい。 彼はユーウェンでいるときはほとんど眠らない。眠くならないために食事も最低限しかとらない。 この戦場で生き残るために。 俺が死ねば、ダニエルも死ぬ。 俺は生きるため、人を殺し続ける。 たとえ世界中の人間を殺したとしても、最後に俺とダニエルだけがこの世界に立っていればいい。 ユーウェンは長い指にチェーンをからませ、ひきつった笑みを浮かべると、血の滲む胸にロザリオをかけた。 バークレー警部は朝、警視庁に向かう途中、歩道でひとりの少年を見かけ足を止めた。 「翡翠の天使」 そのことばがぴったりなほど、金色の長い髪をした華奢な少年は、美しい翡翠色の瞳をしていた。 「あ、ちょっときみ」 思わずシャツの袖をつかんだ警部に、彼はびっくりして振り向いた。 「なにか?」 「いや……。きょろきょろしていたようだったから、何か探しものかと思ってね」 「ああ。駅に行きたいんです。このへんは初めて歩くので」 「駅なら、ここをまっすぐ行ったところだよ。どこへ行くのかね」 「スコットランドへ行くことになってるみたいです」 「みたい?」 彼は恥ずかしそうにうつむいた。 「テーブルの上に、スコットランド行きの切符と、汽車の時間を書いたメモがあったから」 年齢の割りに幼さの残るしゃべり方。 かわいそうに。頭が少しイカれているらしい。 ましてやこんな子どもが、あの残忍で力任せの殺人を犯した犯人のはずがない。 警部は、「いや、呼び止めてすまなかった。よい旅を」 と、彼の腕を離した。 「ありがとう」 そう言って、少し悲しげに微笑んで歩き始めた少年の胸元で、古ぼけたロザリオがかちりと音を立てた。 |
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