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EWEN

Episode 4
アニヴァーサリー


「ああーん。私たち、もうだめかもしれへん」
 居間に入った私は、藤江伯母さんの顔を見るなりそう言って駆け寄り、そのふくよかな両腕をつかんだ。
「私たち、って誰よ」
「決まってるやん。私と、ディーター」
「ええっ。何でやの! ついこないだ、結婚1周年の記念日を祝ったばっかりやないの」
 伯母さんは、泣きそうな私を少し見つめると、わけ知り顔でウンウンうなずいた。
「やっぱり浮気されたんやね。そやから気いつけえ言うといたやろ。どんな大恋愛で結ばれたかて、男っちゅうもんは、よその女に向くようにできてるんや。
 うちの宿六なんか、なんて言うたと思う? ステーキばっかり食べてると、たまにはお茶漬けが食いたくなるんや、やで。どの面さげてそんなことが言えるんや、ほんまに」
「ちょ、ちょい待って、伯母さん」
 聡伯父さんとの過去の騒動についてしゃべりだすと止まらなくなる伯母さんを、あわてて私は押しとどめた。
「ディーターは、浮気なんかしてへんてば」
「ほんまに? うちの亭主でさえ寄ってくる虫がおるのに、ディーターやったら夕方の庭園灯みたいに女の方が群がってくるでしょうが」
「いくら誘惑されても、彼は私を裏切るような、そんな人とちがう」
 私は胸をそらして、そう宣言した。
 そんな言い方をすると、聡伯父さんは立つ瀬がないのだが、伯母さんも私もそこまで気が回っていない。
「それやったら、何やのん。仲たがいの原因は」
「……彼が冷たい」
「冷たい?」
「私に対して何となく、冷たい」
 伯母さんは、小首をかしげた。
「そうかなあ。毎日あんたらのこと見てるけど、別にそうは見えんけどなあ」
「だから、何となくや。どこがどう、とは言われへん」
「けんかでもしたんか。何か、あんたが余計なこと言うたんちゃうの」
「そうかも、しれへん」
「ディーターがグサッとくるような、ひどいことを言うてしもたん、ちゃう?」
「……かも、しれん」
 ん? よく考えれば、どうして一方的に私を責めるの?
「そりゃ、言わんでええことペラペラ言うんは、あんたの方しかあらへん。ディーターは、そんなこと言う子と違うからな」
 なんか、腹が立つ。だいたい祖父も藤江伯母さんも、ことある事に彼の肩ばっかり持つのだ。
 葺石家の本当の子どもは、私の方だよ。
「それで、いったいどんな心当たりがあるのん?」
「ん……」
 私は口ごもりながら、1週間前の顛末について話した。


「ディーター。今、少し時間ある? 30分くらいなんやけど」
「うん……。少しなら……だいじょうぶ、……だよ」
 彼はモニターをにらみながら、生返事をした。
 プログラムに集中しているときの彼を、現実に引き戻すのは大変だ。
 時には、全く返事をしてくれないときもある。
 私はそんなときの彼を、ひそかに「ケヴィンくん」と呼んでいる。
「ごめんね。今日中に見て欲しいものがあるの」
 椅子をくるりと回転させて振り向いたディーターに、私は英文がぎっしり並んだ一冊の小冊子を渡した。
「私の取ってるゼミの教授がね、新しいパーソナリティ検査をコンピューターに乗っける研究をしてるんよ」
「ふうん」
「アメリカで使われてるものだから、日本語に翻訳するだけやなくて、日本人に合うように設問の内容も変えてかなくちゃならないの。で、文化によって、どれくらいの差が出てくるものなのか、できるだけいろんな国の人の検査結果がほしいんやて。留学生の人とかにも頼んでるんやけど、教授が私に、『ご主人が外国人だと聞いたので、頼んでみてくれないか』、って」
「うん。かまわないけど」
 今から考えたら、ディーターはあんまり乗り気じゃなかった。心理検査の冊子の設問に目を走らせながら、少し眉をひそめていた。
「ごめんね。悪いけど、明日までによろしく」
「うん」
「おもしろい結果が出ると、いいなあ」
 何気なく呟いた私のことばに、彼は低いこわばった声を出した。
「おもしろい?」
 私ははっと凍りついた。
 私がそのとき言おうとしたのはただ、文化や国民性によって回答の傾向が違うことがわかれば、おもしろい研究になるだろうなということだった。
 決して、ディーターの精神障害ゆえの変わった結果を期待した、という意味ではない。
 でも、そう響いてしまったことは自分でもわかった。
 そして、彼もそう取ってしまったことは、彼の怒りに燃えた目から明らかだった。
「きみも、俺を研究の材料にするんだね」
「ごめん、私、そんなつもりや……」
「たくさんの医者が、俺たちを研究の材料にする。結果が普通と違っていればいるほど、喜んでいる」
「ディーター! 私……」
 彼は、手にしていた冊子を床に叩きつけた。
 私は両手を口に当てながら、目に涙があふれるのを感じた。
 彼がもっとも傷つきやすい部分、デリケートな部分に、鋭い刃先を突き当ててしまった。
 私は嗚咽のなかで、何度ごめんなさいと言ったことだろう。
 藤江伯母さんは、項垂れている私を見てためいきをついた。
「ほんまに、あんたって考えなし、やなあ」
「うん…」
「それ以来、彼はあんたに対して、つんけんしてるわけやな」
 私は顔を上げて、首を振った。
「別につんけんなんかしてへんよ。そのときもすぐに私を抱きしめて、怒ってごめん、て言ってくれたし」
 それに次の朝起きたら、いつのまにか冊子が私の机の上に置かれていた。すべての項目に回答が記入してあった。
「そやかて、それからなんとのう、きつく当たるんやろ」
「ううん、優しいのは、普段と変わらへん」
「なんか、あんたの話聞いてると、のろけ聞かされてるような気してくるな。ほんまに悩んでるのん?」
「ほんまや。昨日のはほんとに冷たかった。もうちょっと何とか言うてほしかった」
「何やの。それ。わかるように説明してくれる?」
「実はね」


 大学の2回生ともなると、専攻である心理学関連の講義や演習が増える。
 4月から新しく始まった教育心理学演習の教室に、去年は一緒の授業を取ったことのない男子学生がいた。
 苗字は、佐伯。名前は、知らぬ。
 1年のとき、新歓コンパで会ったことがあるらしいが、私は覚えていなかった。
 そのコンパの自己紹介で、私は『実はこないだ結婚しました』と言って、みんなを唖然とさせた。
 それ以来やたらとみんなの記憶に残っているらしく、誰に会っても名前を覚えられている(ちなみに私は学内では、旧姓の葺石円香で通している)。
 でも、そんなわけだから、男にナンパされるという煩わしいことは、卒業までないと思っていた。
 ところが、この佐伯君が同じ授業を取ったのを皮切りに、猛然と私にアタックし始めてきたのだ。
 彼は、関東出身。流行にとても気をつかっているらしい洒落者だった。
 顔の造りもなかなかで、自分でも容姿に自信を持っているという雰囲気にあふれている。
 女の子にも、けっこう人気があるらしい。
 ひとことで言うと、要するに鼻持ちのならない男なのだが、こんな奴がどうして化粧っ気のない所帯やつれした人妻なんぞに興味を持ったのやら。
「葺石さん。おーい。待ってよ」
 今日も彼は講義の終わったあと、廊下に出ようとする私を追いかけてきた。
「お茶、飲みに行こう」
「残念やわ。私、すぐ帰らんと。主人が家で待ってますから」
 私はこれ見よがしに、薬指に指輪がはまった左手をひらひらさせた。
「もったいないよ。君みたいな美人が、キャンパスライフも楽しまないで、家との往復だけなんて」
 美人だって。まあ、ここのとこだけはまんざら悪い気はしないので、拝聴しておこう。
「もう結婚して1年経ったんでしょ。まだドイツ人のご主人と続いてるの」
「あたりまえや。一生続けるつもりやから」
 佐伯(もう、呼び捨てだ)は、横に並んで話しかけながら異常接近してくる。
「あのさ、国際結婚って長続きしないらしいよ。言葉も通じないわけだし」
「うちの主人は、日本語ぺらぺらなのよ。御生憎さま」
「でも細かいニュアンスは伝わらないと思わないかい? 日本の女の子の微妙な気持ちとか」
「ぜんっぜん、問題ありません」
「少しずつ、少しずつ、気持ちがずれてくる。いつのまにか、心がずっと離れている」
 私は立ち止まって、彼にくるりと振り向いた。
「あんた、なに? 私に不倫を勧めてる、悪の伝道師かなんか?」
「悪なんて、ひどいな。もっと気軽に考えようよ。結婚してたって他の男とお茶したり食事したりするの、別に構わないじゃないか。きっと、旦那さんの方もこっそり別の女と会ったりしてるよ。お互いさまじゃないのかな」
「ふん。あんたと一緒にせんといてよ」
 私の渋面に、彼はかえって喜んだようだった。自分の攻撃が効いているのがわかったからだろう。
「とりあえず今日は諦めるけど、今週土曜日の夜、イタリアンレストラン二人分予約しとくよ。苦楽園のすごく感じのいい店だよ。いい返事待ってるからね」
「一生、待っとき」
 彼を振り切って歩き出した私は内心、心穏やかでなかった。
 細かいニュアンスが伝わらない。
 少しずつ、気持ちがずれてくる。
 このあいだ、結婚1周年を迎えたばかり。
 そんなことはないと思っていたが、そうなのかもしれない。
 ディーターは優しい。
 でも、それだけでは何か足りないような気がする。
 愛されている証拠がほしい。もっと激しく、もっと強く。
 私はその夜、ディーターに話した。
 佐伯っていう、同じ教育心理学の授業を取ってる男が、すごくしつこく私にアタックしてくる。
 この週末に、食事に行こうと誘われている。
 だが、彼の答えは、私には予想もしないものだった。
「行けばいいよ。行きたいなら」
「ええっ」
「おごってくれるんだろ。食費も助かるし。円香が嫌じゃなければ、行けばいい」
 思わず彼の顔をのぞきこんだ。
 彼の表情は、腹を立てているのでも憮然としているのでもなく、いたって穏やかだった。
「……いいの? 私が、よその男と食事に行っても」
「俺は何も言えない。円香の気持ち次第だ」
 私は、へなへなとその場に座りこんだ。


「最初は、先週のし返しに意地悪言ってるんやと思った。絶対、反対してくれると思てたから、そんなのやめろって怒ってくれると、思てたから」
「はあ」
「行きたかったら行っていいなんて、裏返したら、自分もよその女と自由にデートするっていうのと同じ事やん。私ショックで、ゆうべ眠れんかった」
「はあ」
 藤江伯母さんは、ぼそぼそと耳の穴を小指でほじっていた。
「伯母さん、何とか言うてよ」
「なんか、アホらしなってしもたわ。あんたの話、聞くの」
「なんで?」
「そんなの、あんたが100%悪い。気のない相手のこと、これみよがしに話して、ディーターにやきもち焼かせようとしてるのが見え見えやんか」
「み、見え見え……かな」
「そんなお芝居、ディーターでなくったって誰が本気で怒ったりできますか」
 伯母さんは、ああ、あほらし。本気で心配して損した損した、とぶつくさ言いながら、台所に立ってしまった。


 自分でも、わがままなのはわかっていた。
 でも、どうしようもなく不安だった。
 ディーターは過去にユーウェンという別の人格を持ち、その人格で多くの女性と交わった。変えようのないその事実が、結婚1年の今になって私を苦しめている。
 そのひとりがジャニス。彼女は美しく、大人の女性だった。自分の信念を持ち、愛する男性を支えていける人だった。
 彼女を思い出すたびに、私が何の魅力もない女であることを思い知らされる。
 私は彼に頼ってばかり。
 ディーターの母国語も理解できない、病に苦しむ彼を支えることすらできない、東洋の島国の女の子。
 彼は私と結婚したことを、きっとひそかに後悔しているにちがいないと思ってしまう。
 きっとことあるごとに、ジャニスやほかの女性と比べられているんだろうなと思ってしまう。
 私には、彼の奥さんだと胸をはって言える自信がない。
 だからこそ、愛されている証拠を求める。
 彼の愛してるということばを心の底から信じられない。
 なんて人間の心は罪深く、貪欲なのだろう。人間の欲望には限りがないのだろう。
 私は、なんて彼にふさわしくない女なのだろう。


 次の日、私はキャンパスに着くとすぐ、ディーターに携帯をかけた。
「悪い。私の机、見てくれる? 「教育心理学総論」っていう本と、その下にレポート」
「あるよ。どっちも」
「ああ。あほやなあ。机の上に出して準備しといて、忘れるなんて」
「今日、要るもの?」
「ううん、ただせっかく書いたレポートなくしたかと思てあせっただけ。本当は3コマ目に要るんやけど、でもいい。テキストは友だちに見せてもらうし、レポートは来週提出やから」
「そう」
「ごめんね。仕事の邪魔して」
 私はそそくさと携帯を切ると、ため息をついた。
 もしかして、届けてあげようかと彼が言ってくれるのを、心のどこかで期待していたのかもしれない。
 嘘でもいいから。
 そしたら喜んで、ううん、だいじょうぶだよって言えたのに。
 2コマ目のあとの休憩時間。
 文学部の一番奥の階段教室に入って、前から5番目のいつもの席にいったん座ると、私は真後ろにいた友人に声をかけた。
「木津ちゃん。悪いけど、テキスト忘れちった。隣に座って見せてもろていいかなあ」
「いいよ」
 それを小耳にはさんだらしい例の佐伯が、5秒後には私の隣に陣取っていた。
「僕が、見せてやるよ」
「……あんたには、頼んでへん」
「かまわないよ。何なら、毎日忘れてくれた方がいいな」
 歯の浮くようなせりふをしゃあしゃあと言いながら、彼は教科書を広げざま、ぐいぐいと私のほうに押し寄せてきた。
「ちょっと、やめてよ」
「あさっての食事の件、返事まだもらってないよ。もう予約は入れてあるんだけどなあ」
「行く気なんかない、て言うてあるやろ」
 私は彼の腕を、ぎゅっと押し戻した。
 佐伯は、その私の手を逆につかんで、引き寄せようとした。
 カッと、まぶたの裏が熱くなる。
 この男を引き寄せていたのは、私のほうだ。
 満たされない思いが、つけいる隙を生み出した。
 ディーターを心の底から信じていれば、こんなことにはならなかった。
 私はなおも、彼の手をふりほどこうと抗った。
 そのとき、教室の空気が、ざわと鳴った。
 教授が入ってきたのかと入り口を見た私は、思わず立ち上がった。
「ディーター!」
 私を見つけたディーターは、階段を2つ飛ばしであっという間に私の席に近づいた。
 教室にいた30人余りの同級生たちは、彼の侵入に男も女も大いに度肝を抜かれたようだった。
 私の結婚相手がドイツ人だということは知っていた彼らも、ゆるやかなウェーブの金色の長髪を後ろでまとめ、耳にピアスをした若い彼が、私の夫であることを理解するにはしばらくかかったものと思われる。
「円香。これ」
 彼は、手に持っていたテキストとレポートを机に置いた。
「わざわざ持ってきてくれたの? だって……、教室どこかも言わなかったのに」
「受付であちこち調べてもらった。だから今までかかったんだ。遅くなってごめん」
「ありがとう。助かった」
 ディーターは視線を、私の隣でポカンとしている男に移した。
「あ、ディーター。この子が、佐伯クン」
「はじめまして」
 彼はにっこり笑うと、佐伯にすっと右手を差し出した。
「円香の夫です。妻が、お世話になっています」
 その握手を受けながら彼の目を見た佐伯が、顔色を変えたのがわかった。
 ディーターは、とろけそうな笑顔で微笑んだままだ。
 でもその目には、殺意ともとれる冷たい光が宿っていた。
「円香。せっかくだから、昼いっしょに食事しようか」
 ディーターは手を離すと、もとどおり澄んだ翡翠色の瞳で私を真っ直ぐ見下ろした。
「え。でも、この授業、あと1時間半かかるよ」
「いいよ。外の庭で待ってるから」
 そう言って屈みこみ、私の首筋にキスをすると、入ってきた教授と入れ違うように教室を出ていった。
 男子学生の誰かが、吐息をついた。
「おい、佐伯。こりゃ、おまえに勝ち目ねえわ」
 クラスが終わっても、佐伯は怯えきったように、私の方を見もしなかった。
 本当に殺される、と感じたのだろう。
 ましてや、食事のお誘いのことなど、おくびにも出さなかった。
 クラスの友だちに別れを告げると、私はスキップしたいほどの軽い足取りで前庭へ向かった。
 ディーターは、緑のきれいな芝生の上に座って本を読んでいた。
 走っていって、彼に飛びついた。
「校門を出てすぐの学生会館に、すごく美味しいレストランがあるの。そこでお昼しよう」
 私たちは腕組みをして、歩き出した。
「どうして、来てくれたの? いいって言ったのに」
「教育心理学だったら、円香を誘ってるあの男に会えると思って」
「ちょっと怒ってた? 佐伯くんを見る目がすごかったもん」
「……本当は、一発ぶん殴ってやろうかと思ったよ」
 あくまでも穏やかな笑顔で、ディーターは答えた。
 私は、きゅんと胸が詰まるような幸福感に襲われて、彼の腕に力いっぱいしがみついた。
「大好き、ディーター」



   
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