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Episode 5
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俺には、一生のあいだ円香に話すことのできない秘密がある。 それは日本で暮らし始めてから、最初にドイツに帰ったときだった。 9月になって、仕事でベルリンに行く用事ができたのと、税金やその他の煩雑な事務を済ませなければならないことが重なった。1年3ヶ月ぶりの帰国だった。 途中、ケルンに立ち寄り、聖ヘリベルト大学付属精神病院の懐かしい人々に会うことができた。 ドクトル・フキとも、久しぶりに飲んだ。 何が何でもこの夏に日本に帰るんだと去年から言い張っていたのに、このときは、今年中に帰れればと少し弱気になっていた。いくぶん白髪が増えているように思えた。 彼を頼っている患者は多い。主治医がいなくなれば、心を病む人にとってどれだけの痛手か、わかっているだけに辛いのだろう。 俺にとっても、今でも彼はドクトルだ。ファーターと呼ばないのかと回りにからかわれたが、長年の習慣はなかなか抜けない。 ケルンにいる間に、もうひとりの父、グリュンヴァルト博士の墓を訪れることもできた。 そして、ずっと来たいと思っていたリヒャルトの墓にも。 俺と同じ病を負い、半年前に自らの手で命を絶った友。 こうして、この国の俺の知己はひとりずつ減っていくのかもしれない。 何年もすれば、祖国は死者に会いにくるだけの国になるのだろう。 ベルリンへ着いたのは、その次の日の昼だった。 一昨年移転した、統一ドイツの首都。 訪れるのは、初めてだ。 会うべき人に会い、するべき仕事をすませ、遅い夕食を取ったその夜。 ホテルに帰る前に喉の渇きを覚えた俺は、壁の崩れる前は東側に属していた旧市街のニコライ地区に向かった。 一人きりだったので賑やかなブロイを避け、わざと観光地の中の、外国人が好みそうな一軒のバーを選んだ。 静かなジャズが流れる暗い店内のカウンターの隅に腰掛けると、30歳くらいの痩せたバルミクサーがすぐに近づいてきた。 “ Good Evening. Can I help you? “ なまりの強い英語で話しかける。俺のことを外国人だと思ったのだろう。 無理もないが。 “ Bitte, eine kleine Molle mit Korn. ” “ Sehr Gern. “ 彼は、すぐに誤りを悟った。 俺の注文したものは、多分ドイツ人でなければ思いつきもしない麦焼酎割りのビールだ。 出てきた陶器製のジョッキを傾けながら、一体自分の祖国とはどこなのだろうと考えた。 母国語は、多分ドイツだ。国籍も今のまま変えるつもりはない。 でも、人種的に言えば、俺はアイルランド人だ。 ビザ申請で必ず書かされる出生地も、北アイルランド・ベルファスト。 円香が行きたがっているが、おそらくはずっと訪れることのできない地。 そして、永住しようと決めている国は、円香の母国、日本。 普段は何も感じていなかったのに、こうして皮肉にも、誰一人知る者もいない自分の国の新しい首都で、こんな奇妙な孤独感に襲われることになるとは夢にも思わなかった。 少し姿勢を変えると、バーカウンターの向こうに一人の女性が座っているのが見えた。 トルコ人やクルド人をはじめ、多くの外国人が流入してきたドイツでも珍しい、東南アジア系の女性だ。 俺は息を呑んだ。 それは、ジャニスだった。 胸が早鐘のように鳴り始めた。 彼女は死んだはずだ。銃弾を浴びて、ユーウェンの、俺の腕の中に崩おれて。 もう一度そっと彼女の方を窺がうと、似てはいるが別人だということがわかった。 何をやってるんだ、俺は。どうかしている。 だが、ジョッキを握っている指の震えがとまらない。 ジャニス。 フィリピンの南部で生まれ、迫害されてきたイスラム教徒の女性。 俺と同じで、民族のために戦うというよりは自分の居場所を求めて、イスラム原理主義組織アブ・サヤフに身を置き、やがて、IRAも含めた世界中の他の過激テロ組織との連絡役として活動するようになった。 彼女と俺が初めて会ったのは、パリ。まだ17歳の俺は、自分に別の人格があることも、そして、その人格が何十人もの人間を殺してきたテロリストであることも知らなかった。 ジャニスは、それからも世界各地で俺に近づいてきた。イスタンブールで、香港で、バンコクで。日本で。 そして、その黒い濡れた瞳で、「ユーウェン」と呼びかけた。 その少しせつなげな声を聞くたび、俺はユーウェンになった。 彼女は心からユーウェンを愛していたのに、ユーウェンは彼女を愛さなかった。 一度あいつは、わざとベッドの上で俺と交替して、俺たち二人を弄んだ。 狼狽した俺は、腕の中にいたジャニスを突き飛ばした。 彼女は、悲しさと恥ずかしさのあまり、涙を流していた。 可哀想な、ジャニス。 (あの女を抱きたいのだろう。ディーター) すぐ耳そばで、囁く声がした。 (我慢することは、ない。ほら、あっちもおまえの視線を感じて、おまえを見ている。声をかけないのか) 『……黙れ。ユーウェン』 バルミクサーが微笑みながら近づいてきた。 “ Womit kann ich dienen ? (なにか御用ですか?)“ さっきの俺の呟きを、彼を呼んでいると勘違いしたのだろう。 とっさに、ビールのおかわりを頼んだ。 彼が、カウンターの向こうに去ったあと、また囁きが始まった。 幻聴。 物理的に聞こえてくるはずのない声が、俺には確かに耳元で聞こえる。 低く、感情の起伏のない、それでいて嘲るような響きのユーウェンの声。 幻覚は見たことはないが、もし見えたとしたら、俺の隣の席には黒ずくめの男が座っているのが見えただろう。 俺より5歳年上、長身のがっちりした身体。濃いブルーの瞳の長い黒髪の男。 俺はユーウェンになったとき、鏡の中の自分の姿をいつもそう捉えていた。 (あれは、いい女だったぜ。おまえも覚えているだろう。もう一度抱きたくなったろう) (……俺は、円香と結婚したんだ) (おまえは、あの日本人の小娘だけで一生満足するつもりか。満足できるのか) (……うるさい) (男とも女とも寝た。おまえの身体は、地獄の悪魔より性質が悪い) (それは、俺じゃない!) (おまえだ。わかっているんだろう。あれは、全部おまえなんだ) 身体が熱く燃えるようだった。カウンターの目の前に置かれたばかりのアルコールを、一気に飲み干した。 ユーウェンの声は、容赦なく続いた。 (今の生活に本当に満足しているのか。金を稼ぐために毎日あくせく働いて、武道などという戦いのまねごとでわずかに闘争心を満たす、そんな生活に) (……満足している。あたりまえだ) (俺たちは、戦うことでしか自分の価値を見出せない、そういう人間だ。人を殺すことで自分の強さを確かめてきた。俺たちは平和な毎日の中では、死んでいるのと同じだ) (やめろ。俺は、おまえとは違う) (同じだよ。ディーター。おまえは俺だ) ユーウェンが、俺の顎をするりと撫でたような気がした。 (俺たちはひとところには住めない。人を傷つけずには生きていけない。家族ごっこの幻想はもう十分だろう。おまえの本性を現わせ。本能の命じるままに生きてみろ) (……) (ほら、見てみろ。あの女が、おまえのことをさっきからずっと気にしている。おまえがもう一度熱っぽい目で見れば、女は落ちる。俺たちがずっとしてきたやり方だ。仕損じたことは一度もなかった) 俺は、大きく喘いだ。 手を少し上げて、バルミクサーを呼ぶ。 もしブランディーを2杯注文したら、それはあの女性と今晩ともに過ごすための一歩を踏み出すことだ。 円香。 突然、俺の脳裏に少し前の記憶が蘇った。 神戸のK大学病院。 俺の左手の縫合をした五十嵐博士が、ずっと以前から経過観察をしたいと言っていた。 ようやく暇を見つけて、彼の診察を受けに行くことができたのだ。 ドクトル・フキの旧友でもある彼は、円香と俺との結婚をとても喜んでくれた。 「切断された腕を持って走るなんて、すごい子だなあと思ったよ。あれだけ肝のすわった子はそうはいない」 さすが惣一郎の娘やな、と、苦笑しながら博士は付け加えた。 「彼女は君のために、燃えている木箱に必死で体当たりした。きみが一番知ってるだろうけど、あのときの背中の火傷は一生あのままだ」 「はい……」 「もう2度と、水着も背中の開いた服も着られないだろう。皮膚の移植手術を勧めてはいるけど、必要ないって言われたよ。彼女の心にあるのは、自分を助けるために左足を犠牲にし左手を切り落とした君のことだけ。それ以外はどうでもいいって感じなんだ」 「……」 「君は、きみにとって最高の女性と結婚した。そのことは誇りに思っていいよ。」 “ Mein Herr …… (お客さん)“ 返事がないため、いぶかしげに呼びかけたバルミクサーに俺はようやく答えた。 “ Bitte zahlen. (勘定を)“ 支払いを済ませると、俺は振りかえらずまっすぐドアに向かった。 外へ出て、深呼吸した。 ユーウェンの声はもうしない。 いや、偽りたくない。あれは俺自身の隠れた心だった。 ホテルの部屋に戻ると、日本が朝になるのを待って、国際電話をかけた。 円香は俺がドイツに来ているあいだは、葺石の家に戻っている。 「あ、ディーター」 長い廊下を走ってきた息づかいで、円香が電話に出る。 「ベルリンは、どう? ブランデンブルグ門は、見た? ベルリンの壁は?」 「見たよ。両方とも」 「こっちは、変わりないよ。おじいちゃんと鹿島さんが今、朝稽古してる。今日は雨が降ってて少し涼しい」 彼女の元気な声を聞きながら、懐かしさに気が遠くなりそうになった。 円香を裏切って、いったいどうやって生きていくつもりだったのだろう。 俺は、取り返しのつかない過ちを犯してしまうところだった。 もう少しであの家に、円香のもとに、永久に帰れなくなるところだった。 そう考えたとき、今まですっかり記憶から失われていた、もうひとつのことを思い出していた。 それは、15歳のとき。 ケルンのクリニークの、ドクトル・フキの診察室で、初めて机の上の写真立てを見たとき。 その写真の中では、多分まだ小学生の円香が笑っていた。 栄養失調で満足に歩くこともできなかったその当時の俺は、その少女の溌剌とした笑顔に涙がでるほどあこがれた。 彼女へのあこがれは、いつしか日本へのあこがれに変わった。 俺はそのときから、円香に恋していたのかもしれない。 「……ディーター、今なんて言ったの?」 「ずっと円香を愛していた。ずっとずっと昔から」 「昔から?」 きょとんとした彼女の顔が見えるような気がする。 小学生の彼女を、それも写真だけで恋したなんて、確かに信じられない話にちがいない。 だから俺はこのことを、自分の胸だけにしまっておくことにした。 一生、秘密にしておく。 天国で彼女と再び会ったとき、初めて話すつもりだ。 円香は俺に勝とうと、負けん気を出したのか、透き通った少し威張った声で言った。 「私はねえ、ディーター。あなたのことを、生まれる前からずっとずーっと好きだったんだよ」 |
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