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EWEN

Episode 6
グリュンヴァルト博士の日記


 父は毎年必ず、お正月には日本に帰ってくる。
 クリスマスの翌日から松の内の終わるまで、家族と過ごす。
 年越しそばを食べて、酒を飲んで、白味噌仕立てのお雑煮を食べて、酒を飲んで、七草がゆを食べて、小豆がゆを食べて、また酒を飲む。
 まるで医者であることを忘れたかのように、もうドイツなんかには帰らないぞと言わんばかりに、のんびり、ぐうたらと過ごす。
 でも15日になると顔つきが変わり、16日の朝には背広を着込んで、さっさと飛行機に乗ってしまう。
 小さい時から、いつもそうだった。
 ディーターと私が結婚して初めて迎えた今年のお正月にも、父はいそいそと帰ってきた。
 このときはまだ父は、今年の夏で聖ヘリベルト大学を辞め、秋から自宅開業する固い決意を変えていなかった(結果から言うとこの計画は頓挫した)。
 三箇日が明けると毎日、父はディーターに手伝わせて、診察室の書物や資料類の整理をしていた。
 ほとんどが英語とドイツ語であるだけに、教育心理学科1回生の私より数倍、彼の方が役に立つのだ。
 そして、明日はケルンへ戻るという日。
 このときディーターは父に、飲みつづけていた薬をやめる決意を打ち明けた。
 父はそれを聞いて、何も言わず黙ってうなずいた。
 まだ背が低くやせっぽちだった少年の頃から7年間、見守り続けてきた彼を少しまぶしげに見上げて。
 そして最後に、決心したようにひとつの包みをカバンから取り出すと、机の上で広げた。
「グリュンヴァルト博士が、生前に俺に預けられたものだ。いつか君に俺から渡してほしいと」
 ディーターは、一冊の銀行通帳を父から受け取った。
 それは、彼名義の相当額の預金通帳だった。
 彼の治療のためにかかった費用は全てここから払うようにと、死の1年前博士は、主治医である父に託したそうだ。
 左手の縫合手術、左脚の義足制作、そして、聖ヘリベルト大付属精神病院での1年の入院生活を経て、残高はだいぶ少なくなっていたが、遺産を放棄して無一文だった彼にとって、そのお金は命をあがなうものであったことは確かだ。
 そして、次に渡されたものは、金色の懐中時計だった。
 蓋の表に、グリュンヴァルト家の名前と紋章が刻まれている。
 代々、父が成人した息子に譲るならわしの、金時計。
 放浪の旅には邪魔になると、18歳のディーターは受け取らなかったという。
 博士との親子の絆を、決して金銭的なもので汚されたくないと、あのときの彼はこだわり続けていたのだ。
 最後に父は、一冊の金箔押の日記帳を取り出した。
「博士が大学で教鞭をとられた1957年以来、書きつづけてこられた診療日誌が数十冊、ボーデン湖の別荘に遺されていた。精神医学の研究に関わる貴重な資料だから、後世のために研究所の書庫で保存しておくことになった。だがこの1冊だけは、きみが持っているのが一番よいと思う」
 父は少し悲しげな瞳で、じっとディーターを見た。
「1995年から死の直前まで、きみのことだけを記した日記だ」


 ディーターは、父がドイツに帰ったあと何日も、日記帳を机の上に置いたまま開こうとはしなかった。
 辛かったのだろう。亡くなったお義父さんのことを思い出すのが。
 お義父さんが、彼について綴った文字を見るのが。
 ある日たまりかねて、こう申し出た。
 私が預かっておこうか。ディーターが見たいと思えるようになるときまで。
 彼は、黙って首を横に振った。
 その日の真夜中ベッドの上で目を覚ますと、リビングから声を殺してすすり泣く気配がしてきた。
 私は、横たわったまま祈った。
 どうか神さま、ディーターを慰めてあげて。彼がお義父さんの死の悲しみを乗り越えられるように。
 次の朝彼は、思ったよりずっとすっきりした顔をしていた。
 例の日記帳を私に手渡すと、こう言った。
 これ、もう俺は要らない。読んだから。
 私は表紙を撫でながら、おずおずと、
「あ、あの、もしよかったら、ちょっとだけ中を読んでもいいかな?」
「円香が?」
 クスッと笑ったディーターは、少し意地悪な声を出した。
「円香のドイツ語じゃ、100年かかると思う」
 なにをっ! よくも言ったな。
 確かに、その時の私の第2外国語の成績はとんでもなく悪かった。
 ドイツ語の定冠詞、デル、ディー、ダスのあたりで、私はやる気をなくしてしまったのだ。
 負けず嫌いの私を発奮させるためのディーターの策略にすっかりはまった私は、そのときから専攻の勉強そっちのけで、その日記と格闘した。


 グリュンヴァルト博士の日記。
 読んでみて、驚いた。
 細かい印刷のようにきれいな文字で、あるときはびっしりと、あるときは散文詩のように、ディーターに関することだけが綴られていた。
 それも、死の前日の日付まで。
 私はときには目が曇って見えなくなるくらい涙しながら、6ヶ月かけて読み終えた。
 

 以下の文は、その抜粋である。他の人のプライバシーに関わること、同じような趣旨の文章、主に医療関係のドイツ語がむずかしくて、私には理解しかねる部分は思いきり省いてある。


1995年1月○日
なんということだろう。
解離性同一性障害を患うアイルランドの少年が、人格を新しく生み出し、ディーターだと名乗るとは。
ディーターという名前を、外国人がドイツの人名として思いつく可能性は否定できない。
だが何故、私の亡き弟の名前を。私はここ数年、弟のことを他人に話したことはない。
これは、単なる偶然なのか。
明日、彼と面会するむね、ドクトル・フキに了解を得る。

1995年1月○日
神よ。
人間の魂の転生を信ずることは、カトリックの教義にかなっているのか。
私は、ユーウェンと呼ばれていたアイルランドの少年のなかに、全く別個の新しい存在を見た。
あの悪霊に取りつかれたかのような邪悪な魂は消え去り、神の祝福を受けた微笑を見た。
私の弟、ディーター・マテウス・グリュンヴァルトと同じ微笑を。
彼のドイツ語には、全く外国人のなまりがない。
加えて、語ることばのすべてに論理的整合性を持っている。
これを解離した人格のひとつとするならば、私はこのような症例は見たことがない。
いや。私は混乱している。期待のあまり、判断力が鈍っている。
明日、もう一度面接しよう。

1995年2月○日
数回の面接の結果、彼の4つに解離した今までの人格は全く消滅し、現時点ではひとつの人格だけが存在しているという確信が強まった。
ただ、彼は過去のすべての記憶を失っている。これを人格の統合と見てよいのか。
ドクトル・フキも最終的な結論を出すのを迷っているらしい。
むしろ、彼は一度死に、あらたに生まれ変わったという判断のほうが、ふさわしくさえ思える。
ディーターに会うたび、私は彼が、私の亡き弟であるという信仰に似た思いに囚われる。
少女のような優しい笑顔。人々が口論するのを見るときの悲しそうな瞳。
傷ついた人の心を慰めることが、なにより彼の関心事だった。
私は、そんな弟を戦火の中に巻き込んで、見殺しにしてしまった。
この負い目が、私に幻を見せているのかもしれない。

1995年3月○日
ディーターは順調に体力を回復している。
今日は自分で歩いて病院の外に出ることができた。前庭だけだが、やがてはケルンの街を並んで散策することができるだろう。

1995年4月○日
ソウイチロウと話し合った結果、ディーターには、彼の病気のことも過去のことも隠すことにした。
ただ、大きな災害に会って家族をなくし、記憶喪失の状態で北アイルランドで発見されたと話す。
新しい人生のスタートを切るには、真実は無用だ。
彼が内戦の中で多くの人命を損なったという残酷な事実は、彼にとって決して益になるものではないからだ。

1995年5月○日
今日、私はディーターに弟のことを初めて話した。

1942年5月、英国空軍の激しい大空襲のため、わがケルンの中心部は灰燼に帰した。
当時16歳の私は、ヒトラーユーゲントの活動のため、市内でナチス党ケルン管区の伝書任務に就いていた。
この時期になると、ドイツの青少年は、全てヒトラーユーゲントへの服務が義務付けられ、ギムナジウムの生徒は、防空壕の設置や駅業務、避難民の世話などに明け暮れていた。
一歳年下の病弱な弟は、その中でも比較的楽な、配給切符の配布の仕事を割り当てられた。
その頃の私は、他の多くの青年たちと同様、ドイツの勝利を信じて疑わなかった。
重要な任務をまかされているという自負。子どもじみた狭い社会から抜け出し、大人と肩を並べて働いているという誇り。
特に上流階級として生まれた私は、階級対立のない国家の建設というナチスのスローガンに心躍らせた。
だが弟は、周辺諸国の侵略への道を突き進むわが国の本質を見抜いていた。
私は、戦争に反対を唱える弟を嘲りののしった。理想に燃え、真実が見えなかった。
ケルン大空襲の日。
市街区で任務中だった私を心配して、弟は危険を犯して迎えに来た。
私の目の前で、彼は焼夷弾の破片に当たり、絶命した。
その日以来、私は心から人を愛することができなくなった。
愛する者を失う恐怖に、勝つことができなくなった。

ディーターは、私の話が終わると、私の膝に突っ伏し激しく泣いた。
神よ。私はもう一度人を愛せるだろうか。
弟の身代わりにこの少年を愛するようにと、神が仰せになっておられると信じてよいのだろうか。

1995年5月○日
ディーターは乾いたスポンジのようだ。毎日驚くべき早さで、さまざまなことを吸収してゆく。

1995年8月○日
1週間の外泊許可を主治医から得て、ディーターをボーデン湖畔の別荘に招待した。
これほど楽しかった一日はない。釣りなど何年ぶりだったろう。

1995年10月○日
今日ピアノの前に座らせてみて驚いた。
彼には絶対音感がある。
記録によると、彼の父親は医師、母親は小学校教師だった。
彼の両親が、5歳までの間に英才教育をほどこしたということか。
それだけではない。音楽以外にも彼には、語学、数学、芸術分野でのさまざまな素養がある。
平和な人生を送っていたら、いったい彼にはどれほどの天分が開花していたことだろう。

1995年12月○日
私の家でディナーをとったあと、ディーターに青いセーターをプレゼントした。
彼の目の色にとてもよく似合う。
ただ、その後彼はずっと悲しそうな顔をしていた。
私に贈るものが何もないと言って。
クリスマスの夜に天使が我が家を訪れること以上に、大きな贈り物があるだろうか。

1996年1月○日
彼とテニスをした。1年前の歩くことすら困難だった頃からすると、体力の回復ぶりは奇跡ですらある。
だが、相変わらず痩せているのを、本人は気にしているようだ。
女性のように綺麗だと言われると、唇をかみしめている。コンプレックスを持っているのだ。

1996年3月○日
彼にファイルの整理を手伝わせたいと了解を得るとき、ドクトル・フキは肩をすくめて笑った。
主治医としての彼の立場を軽視するつもりはないが、私の彼への執着はあまりに常軌を逸しているのだろう。

1996年4月○日
ケルン市内にあるテコンドーの道場に、ディーターは通い始めた。
強くなりたいという。ソウイチロウの勧めもあったらしい。
内心気が気ではない。
もし彼の中で、戦いの本能が目覚めたら。
ユーウェンであった頃のことを思い出してしまったら。

1996年10月○日
ベルファストの教会の洗礼記録によると、今日はダニエル・デュガルの17歳の誕生日だ。
レストランで、長い間言い出せなかった養子の話を切り出した。
私は独身だし、このことについては相談せねばならぬ親戚もいない。
彼はためらって俯き、返事をしなかった。
自分が全く氏素性の知れない人間であることを、気にしているとわかった。
何とか説得しようと試みたが、失敗した。
自分でも口下手なのが嫌になる。

1996年10月○日
彼が、養子になることをOKした。
なんと、喜ばしい日だ。
経験がないゆえわからないが、プロポーズの返事をもらった若者のような心境だった。
いつのまにか病院の廊下をスキップしていたらしい。皆に笑われた。

1996年10月○日
ドクトル・フキから退院の許可が下りた。
明日にでも、私の家に移ることにする。

1996年11月○日
養子縁組の手続きの煩雑さに、毎日悩まされている。
彼がドイツに帰化する手続きも合わせてのことだから、なお厄介なのだろう。
サインしてもサインしても減らない書類の山に、二人で笑ってしまう。

1997年1月○日
ようやく、正式にディーターは私の息子となった。
神よ。感謝します。
もう家族はいないものと決めていた私の人生の最後に、神は素晴らしい家族を与えてくださった。

1997年2月○日
ボーデン湖畔に来てからというもの、毎日スキー三昧だ。さすがに70を過ぎると、腰に来る。
ディーターの滑り方は、弟にそっくりだ。
スキーだけではない。歩き方もちょっとした仕草も、彼は日に日にディーター・マテウスに似てくる。

1997年4月○日
ようやく春めいて、山腹にも黒い岩肌が見えてきた。
このごろ、ディーターは書庫にこもっては本に読みふけっている。
歴史やロシア文学を好んで読んでいるらしい。
聡明な子だ。
ときどきぼんやりと宙を見つめていることがある。何を考えているのだろうか。

1997年5月○日
考え込むことが多くなってきた。
釣りをしても、ただ糸を垂れているだけ。
何か悩みがあるようだ。

1997年6月○日
彼を苦しめるつもりなどなかった。
心から彼を愛していたはずなのに。
ディーターは、肩をふるわせて自分の部屋で泣いていた。
私は知らなかった。
いつのまにか、彼を弟の身代わりとしか見ていなかったことを。
弟と少しでも違う仕草をすれば、私は気づかぬ間に眉をひそめていたことを。
彼は、必死で弟と同じ人間を演じようとしていたことを。
私は何という愚かな父親なのだろう。
私には、人を愛する資格などないのだ。

1997年7月○日
ディーターはケルンに行った。
ソウイチロウにいろいろと相談したいと。

1997年7月○日
一日話し合った。
旅に出たいという。
ドクトル・フキは、世界を見て回れと勧めたそうだ。
学校にも行かず、病院以外の社会と何の接点もなかったディーターに、それが一番必要なことであることを、父親である私が最初に気づくべきだったのに。
ソウイチロウの方が、私より彼のことを考えていた。
私の返事は、もはや決まっている。
なのに、感情が理性を圧迫して、その一言が出てこない。
かくも、不条理なものなのか、私の心は。

1997年7月○日
ディーターは今日、どこにも行くつもりはないと言った。
私の気持ちをおもんばかるあまり、自分を偽ろうとした。
なんという子だ。
私は、ただ彼を抱きしめるのみだった。

1997年8月○日
ディーターが出発した。
東欧から始めて、ヨーロッパを時計回りに回る計画らしい。

1997年11月○日
ギリシャから絵葉書が届いた。これが8通目の葉書。
クリスマスには、一度ここに戻ると言う。

1997年12月○日
朝一番の帰宅。夜を徹して、いろいろな国での出来事を話してくれた。
こんなに目を輝かせて楽しそうにしゃべる彼の姿を、初めて見た。
私は、これほど幸せを感じた日はなかった。

1997年12月○日
成人して初めてのクリスマス。ふたりでワインで乾杯した。
2本ボトルを空にしても、平気な顔をしている。
今や背は私をとっくに追い越している。185センチはあるだろう。
心身ともに以前よりたくましくなったような気がする。
グリュンヴァルト家の長子に代々伝わる金の懐中時計を贈ろうとしたが、あっさりと断られた。
少し寂しいが、この寂しさも、父親でしか味わえない醍醐味なのだと思える。

1998年1月○日
どうしたのだろう。このところ絵葉書が途絶えている。
予定では、今ごろフランスからベルギーへ回っているはずなのだが。
何か、あったのだろうか。

1998年2月○日
オランダで欧州旅行を切り上げて帰ってきた。
イギリスとアイルランドには行かないほうがいいという、私の忠告をきちんと守ってくれた。
少しのんびりしたら、次はトルコからアジアへ行きたいと言う。
以前テコンドーをやっていたこともあり、アジアの武術を学べるところを捜すつもりのようだ。

1998年5月○日
4ヶ月ぶりの帰宅。少し憔悴しているようだ。
イスタンブールと香港に長く滞在し、あとは、シンガポール、タイ、フィリピン各地を回っていたらしい。
それだけしゃべると、ぐったりと寝入ってしまった。

1998年5月○日
彼の上着のポケットに、鎮痛薬と睡眠薬の錠剤が入っていた。
旅行中に少し頭痛がしたという。
不安が胸をよぎる。
だいじょうぶだという彼を強いて、ケルンに行かせることにする。
父親である私よりも、ドクトル・フキの方が正しい診断をしてくれるだろう。

1998年5月○日
ドクトル・フキから電話があった。
少し精神的に不安定になっている。念のために抗うつ薬を処方したという報告だった。
ディーター名義の通帳を彼に預けることについて、少し打ち合わせる。
私の死後も、彼が診察を受け続けることができるようにしたい。
あの子の性格では、遺産相続さえ放棄するような気がするのだ。

1998年6月○日
バンコクにいるディーターから、珍しく国際電話がかかった。
ムエタイの高名な指導者と懇意になり、彼の家に住み込んで指導を受けるのだという。
とても嬉しそうに声がはずんでいた。
やりたいことを見つけたのだなと問いかけたら、黙って笑っていた。

1998年10月○日
19歳の誕生日。奇しくもその日に、バンコクからの絵葉書が届いた。
スコールで、道路や家の中まで水浸しだそうだ。
自分の誕生日のことなど、すっかり忘れているのだろう。
それほど、毎日が充実しているということだ。

1998年12月○日
いろいろな用事が重なり、クリスマスには帰れないという手紙が来た。
考えればこのところ、連絡も間遠になっていた。
悪い兆候でなければよいが。
どうも、物事を悪いほうに考える癖がついている。
年のせいかもしれない。

1999年3月○日
バンコクを引き上げて、今日帰ってきた。
ムエタイの基礎をひととおり学んだので、また何か別にやりたいことを見つけるつもりらしい。
また一段と大人びたようだ。身体もたくましくなっている。
1,2カ月はここにいる予定だと言っている。
復活祭をディーターと過ごすのは、2年ぶりだ。

1999年3月○日
以前に比べて、よくひとりで外出するようになった。
人と接することを恐れなくなったのはやはり、旅をしていた成果だろう。

1999年3月○日
少し不可思議なことあり。
書斎の電話機の通話ランプが点灯していたので、どこかに電話したのかと聞いたら、そんな覚えはないという。
嘘をつく理由もないので、故障かもしれない。

1999年3月○日
大学での講義の日。ディーターもついてきた。
クリニークで、しばらくスタッフたちと歓談。
彼にとっても、ここは故郷のような居心地の良さを覚えるらしい。
夜はドクトル・フキと、ビールで乾杯した。
ソウイチロウの父親は、日本流の剣術の道場を開いているらしい。
ディーターは、身をのりだすようにして話に聞き入っていた。昔から、この子は日本に強い関心を持っている。
ソウイチロウの実家なら、私も安心できる。
バンコクで何か悲しい目に会って帰ってきたように、私には思えるからだ。

1999年3月○日
コンスタンツの町にいっしょに買い物に行った。
途中、とんでもない女性に悩まされた。
派手な風体で、つい最近ディーターと会ったと言い、しつこくからんでくる。
新手の客引きなのだろうか。ほとほと迷惑した。

1999年3月○日
やはり、日本に行くことを決意したようだ。
ケルンのドクトル・フキと長いこと電話でやりとりしている。

1999年3月○日
何故、嘘をつくのだろうか。
確かに私は、彼が昨晩外出するのを見たのだ。なのに、外には出ていないという。
私はそれほど彼にとって、うるさい父親だろうか。
それとも、本当に覚えていないのか。そうだとしたら…。

1999年4月○日
村に下りて、復活祭のパレードを見た。
相変わらず、ディーターは若い女性に話しかけられている。照れてうつむいてしまうのも、いつもどおりだ。
この子も、いつか好きな女性を私のもとに連れてくるようになるのだろうか。

1999年4月○日
彼の脇腹に、大きな傷跡があるのを見つけた。
ムエタイで蹴られた跡だと言うが、これは間違いなく弾痕だ。
詰問したが何も答えなかったので、思わず大声で怒鳴ったら、全身が震えだし過呼吸発作を起こした。
治療し、安定剤を与えて寝かせる。
もしや私は、大きな見落としをしていたのだろうか。

1999年4月○日
深夜になってとうとう、ディーターは真実を話してくれた。

朝、パリのエトワール広場のカフェに座っていて、気がついたら夕暮れになっていたこと。
旅を続けるにつれて、加速度的に記憶を失う頻度は増していった。
イスタンブールでは、いつのまにか2週間が過ぎ、シリアへの入国と出国の印がパスポートに残っていたこと。
あるときは使った覚えのない大金を使っていた。あるときは、持っているはずのない大金を持っていた。
フィリピンでは、家屋不法侵入の疑いで、一日留置場に入れられた。
シンガポールでは、高層ビルから飛び降りようとしたところを、回りの人に取り押さえられた。
そしてバンコクでは、300錠もの睡眠導入剤を一度に飲み、病院で一命をとりとめたこと。
どんなに弁解しても、ムエタイの師は、自殺未遂を犯した彼を赦さなかったという。
何故、自分がそんなことをしてしまうのかわからない。
一体どこで、大金や睡眠薬を手に入れるのかも、覚えていない。
だが誰にも相談できなかった。あまりにも恐ろしかったと言った。

私は何と愚かだったのだろう。
彼の解離性同一性障害は、治っていなかったのだ。
今の彼の話から考えると、少なくとも2つの人格が別に存在する。
そして、もしかすると、そのひとつは…。
いや、まだ確証はない。

1999年4月○日
ドクトル・フキへの電話を、彼は必死で押しとどめた。
病院へ戻るのはいやだと泣き続ける。
ついに私は、彼の病状について本当のことを話した。
彼の不幸な生い立ちについて、ユーウェンについて、話した。
そして、ユーウェンの犯した罪に関しては、彼には全く神のお咎めがないことも諭した。
彼は真実を知り、少し落ち着いたようだ。
それでも、日本に行きたいと言う。ソウイチロウには知らせないでほしいと言う。
私は、彼の頼みを聞き入れることにした。
日本への出発予定まで、あと2週間。
私にどこまでの治療ができるだろうか。

1999年4月○日
かなり強い抗精神病薬を投与。副作用がひどいはずだが、ディーターは耐えている。
午後、催眠療法。他の人格は現われない。

1999年4月○日
ほんの数秒、人格交代を起こす。
幼い少年の声。ダニエルだろうか。

1999年4月○日
一日、治療。
夕方、不審な無言電話がかかる。

1999年4月○日
久しぶりに二人で釣りに行った。寒い。
ディーターは、幼い子どものように私にもたれかかったまま、離れようとしない。
お父さんを愛している、と何度も呪文のように呟く。
この子が、今まで人知れず耐えてきた過酷な運命のことを思うと、涙を禁じえない。
たとえ彼が今この瞬間、あの悪魔に戻ったとしても、私は幸せだ。
ディーターのゆえに神に感謝する。
彼が私に与えてくれた幸福な日々、味わわせてくれた親子の愛情は、どんな悪魔の策略にあっても色褪せることはないだろう。』


 日記はここで終わっていた。
 最後の日付の翌日、グリュンヴァルト博士の目の前で、ディーターはユーウェンになった。
 そして、ユーウェンの仲間のひとりの手によって、博士は刺殺されてしまったのだ。


 グリュンヴァルト博士の日記帳は、今も私の机の本棚にある。
 私はその背表紙を見るたびに、想う。
 博士が死の瞬間まで愛したディーターを、今は私が愛している。
 博士が彼と過ごした幸福な日々を、私がつないでいる。
 私たちがともに生きているかぎり、博士もまた私たちとともに生きているのだ、と。



   
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