ディーターは、甘いものが大嫌い。
クレープもドーナツもシュークリームも、できれば関わりたくないという顔をする。
オヤツであんこモノを食べるときは、いつのまにか見事に姿が消えている。
だから、聖が二歳になったあたりから、「おすそわけ」が始まったときは、さぞ大変だったろう。
とにかくヤツと来たら、その場にいる人に手当たり次第「あーん」を強要したものだ。
もちろん、母親の私を除けば、ファティが最大の犠牲者となるわけで、息子の差し出すケーキやドラ焼きを、すごく悲壮な顔をして食べてやっているのを何度も目撃した。
「やれやれ、酒飲みって、どうしてこう甘いものが嫌いなんやろね」
半分愉快がって、半分慰めるように私が言っても、たいてい黙っている。
けれどある日、ポツリとこう答えた。
「別に、嫌いじゃないよ」
「え？」
「甘いもの。嫌いってわけじゃない。苦手なだけで」
「それって、どう違うの？」
眠そうに目をこすり始めた聖を膝に座らせながら、ディーターは考え込むように「うーん」と口の奥でうなった。
「いくら好きでも、しかたないから。それでわざと苦手になったんだと思う」
それを聞いた私は、心臓がきゅっと紐でしばられたような心地になった。
「子どものとき――お菓子を全然食べさせてもらえなかったんやね？」
彼は、ただ少しだけ笑って、翡翠色の目を遠くに向けて、あっというまに時間を飛び越えてしまった。
パトリック叔父さんが亡くなってからというもの、ディーターはときどき、子どものころを思い出すらしい。
そういうときは、傍目にも見ていられないほど、ひどい苦痛を伴うこともあるのだけれど、今みたいに、懐かしそうで切なげな表情になることもある。
思い出したことを、断片的なことばで私に話してくれることもあった。
今日はそれだと感じた私は、口を閉じて、じっと待った。
夏の暑い日の午後。エアコンの効いた葺石家の居間で。
私たちは、１７年前の冬の北アイルランドへ、ベルファストの街角へワープした。
「もう、我慢できねえ。家を出る！」
シェーンは、消火栓をがんがん蹴飛ばしながら、わめいた。
「どこへ？」
ダニエルが、おそるおそる尋ねる。
「どこへだって、いいだろ。あのヘンタイの顔を見なくてもすむところさ」
「だって……夜はどこで寝るの？」
「そのへんの軒下」
「学校は？」
「そんなもの、誰が行くか」
声の出せないケヴィンは、会話に加わることもできず、ひくひくと忍び泣いている。
「ああ、くそ。おまえらさえ、いなけりゃな」
シェーンは舗道に唾を吐くと、そのまま、どこか知らない家の壁にもたれて座り込んだ。
こいつらさえいなけりゃ、もうとっくの昔にあんな家、出て行ってやったのに。
お利口なダニエルや臆病なケヴィンに引き止められて、いつだって何もできやしねえ。
「パトリックおじさん……何か食べてるかな」
ダニエルが敷石を見つめながら、ぼんやりと呟いた。
「アイリーンおばさんがいないから、おじさんひとりだと食事が作れないよ」
「あいつのことなんか、どうでもいいってば！」
「おばさん、どうして出て行っちゃったんだろう」
自分の体を包むオーバーの匂いをそっと嗅ぐ。かすかに、香水の匂いがした。
「俺たちのせいに、決まってるじゃないか」
ダニエルの問いに、シェーンは口をゆがめてクスクス笑った。
「覚えてないのか？ あの女に『淫売』とののしられて、顔を叩かれたことを」
「おばさんは……僕を叩いたりしなかった。いつも優しかったよ」
「確かに、『おまえ』は叩かれてないからな」
ダニエルは震え始め、シェーンは禁句を口にしたことに気づいて、押し黙った。
古びた婦人物のオーバーとマフラーにくるまった長い金髪の少年が、人目を避けるようにして裏路地で座っていた。
口をつぐんだまま、視線は絶えずどこかをさまよっている。だが、その間にも彼の頭の中では、ひっきりなしの会話が続いていることを、道行く人の誰が気づいていただろう。
十歳になる前後のダニエル・デュガルの解離性同一性障害は、通常では考えられない病症を見せる。
三つの異なる人格がほぼ同時に現われて、脳内で会話を交わしていたのだ。
それはまるで、三人が互いに相談しながら、過酷な一日一日を生き抜いているかのようだった。
ふと気づいて、空を見上げた。ベルファストの冬の街は、まだ四時にさえならないというのに、明々と燃えあがるような夕焼けに包まれていた。
すさまじいばかりに美しい、太陽の最後の祝宴。もうすぐ、冷たく長い夜が来る。
（おなかが空いた……）
ケヴィンが、声にならない声を上げた。彼が自分を主張するのは空腹を訴えるときだけだ。
「お金がないんだ。我慢して」
ダニエルが哀願するように、言う。
「胃袋は同じだ。ちっとは我慢しろ」
シェーンが怒鳴る。
頭の中は少しの間、静かになった。
「何か、かっぱらってくる」
やがて、耐えかねたようにシェーンが沈黙を破った。
「盗むの？」
「盗むんじゃない。ただ、もらってくるのさ。食べ物がありあまってる奴らのところから、必要な分だけ」
「でも……盗みだ」
ダニエルは胸のロザリオを握りしめながら、強く否んだ。「神さまは盗んじゃいけないって」
「そうでもしなきゃ、飢えて死ぬんだぞ」
「家に帰れば、冷蔵庫にまだ食べるものが……」
「そうして、またあのヘンタイにいたぶられるのか。俺はごめんだ」
ケヴィンは、ふたりの言い争いを、身を強ばらせながら見つめている。
ビルディングの端に隠れつつある太陽は、すべてのものに平等に影を投げかける。金持ちの上にも、貧しい者にも。
ひとりの初老の女が、顔に憐れみの微笑を貼りつけて、近づいてきた。
「神さまのお恵みがありますように」
暖かそうな手袋をした手で差し出されたのは、一枚のチョコレートだった。
彼は、女をぼんやりと見上げた。そして、視線をまた菓子に戻した。
「さあ、おなかが空いてるんでしょう。かわいそうな坊や。お食べ」
かわいそうと言われて、恥ずかしさのあまり頬がかっと熱くなる。
真っ先に肉体の主導権を握ったのは、シェーンだった。
いきなり女の手を払いのけると、呪いのことばを吐き出した。
「馬鹿にするな。俺は、乞食じゃねえ！」
「……んまあ！ なんて子でしょう」
女は蒼白になると、手をポケットに戻し、肩をそびやかして通りを歩み去った。
女の姿が見えなくなると、ケヴィンがわっと泣き出した。
（お菓子が……）
「あんなもの、食えるか！」
と叫ぶシェーンの目にも、じわりと涙がしみてくる。「……あきらめろ」
ダニエルも長い間、ひそやかに泣いていた。
あたりがすっかり暗くなり、舗道の敷石が氷の塊に感じられるころ、ダニエルが低く言った。
「食べものを、盗もう……」
「……いいのか」
「乞食になるより、そのほうがいい」
「うん」
「でも、明日からにする。もし明日の朝になっても、何も食べるものがなければ、そのときは」
「わかった」
彼らはしばらく、黙りこくった。
ケヴィンはいつのまにか眠ってしまい、ダニエルは歌うようにささやいた。
緑なす草原のように
浜辺の砂のように
牧草に降りる露のように
恵みの神の たくさんの祝福が
死んだ人と 今生きている人と
やがて生まれてくる人の上に ありますように
それは、亡くなった母が、彼が眠るときに毎晩唱えてくれた祈りの文句だった。
シェーンはただじっと聞いていた。彼らは、冷たい夜の壁にもたれながら、静かに目を閉じた。
ディーターは目を開くと、それが日本の葺石家であることを確認して、深い吐息をついた。
「それで、どうなったん。次の朝」
「パンを盗もうとしたけど、店の人に捕まって、あっというまに家に戻された。それからも、何回か家出を繰り返して……本当に路上で暮らし始めたのは、一年経ってからだった」
「ときどき、ディーターの話を聞いてて、思うんや」
私は、畳の上をすり寄っていって、彼の肩に頭を押しつけた。
「この病気の人格たちって、まるで家族みたいやなって。自分が持つことのできなかった家族を、自分たちで分け合うてるんやないかなって」
「そんな――なまやさしいものじゃないよ」
「そうか。……へんなこと言って、ごめん」
「でも」
ディーターは、膝の上の息子の髪をそっと撫でた。
「本当は、円香の言うとおりなのかもしれないな」
髪を触られた拍子に、聖が短いお昼寝からぱっと目を覚ました。
ファティの膝に押しつけていた背中が、びっしょりと汗をかいている。
「暑かったね、聖。おめざに、アイスクリーム食べへん？」
「うん。食べる！」
聖も今は大きくなって、知恵がつき、「誰よりも自分が一番大切」になった。それにつれて、「おすそわけ」は、だんだんと下火になってきたのだけれど。
木のスプーンを器用にあやつっているうちに、アイスを山盛り乗っけて、隣に座っているディーターに「あーん」と差し出した。
思わず反射的に口を開けたファティの前で、聖はさっとスプーンを引き戻して、自分でぱくりと食べてしまった。
「ああ、おいしい」
「……聖」
四歳の息子に、アイスではなく「いっぱい」食わされたディーターは、呆れたように彼をにらんだ。
「あーあ。ファティ、かわいそう。すっごく食べたかったやろな。泣いてしまうかもしれへん」
からかうつもりで言った私のことばに、聖はびっくりして、あわて始めた。
「ファティ。泣かないで。これ全部あげるから」
小さな両手でカップを丸ごと差し出した聖を見たとき、ディーターはまるで幼い少年みたいに、うれしそうに笑った。
この短編は、時村朱冷さんが描いてくださったイラストにインスピレーションを受けて、書きました。本当にありがとうございました。
時村さんのイラストは、こちら。
参考文献： "A Blessing on Everyone" from 「IRISH BLESSINGS」 by Pat Fairon