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Episode 8
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円香へ ときどきディーターがメールをくれるので、ふたりが元気でいることはわかっている。 俺の方は相変わらずだ。数多のガールフレンドたちとの名残を惜しむのに時間がかかって帰りそびれているが、今年いっぱいでどうやらケルンを引き揚げられそうだ。 まあ、この話は今まで何回も反故にしているから、割り引いて聞いてくれたらよい。 今は勤務の合間に、少しずつカルテやら資料やらを整理している。結構これが膨大で、途方にくれている毎日だ。 実はこれを機に、解離性同一性障害について、ディーターの症例を軸に本を執筆しようかと、今構想を練っている。 例によって、五千部しか売れないような、専門家向けのくそおもしろくもない本になる予定なので、一般の人の目に触れる恐れもあまりないはずだ。言うまでもなく、匿名は守る。 一応彼のほうの了解はとってある。ついては、おまえたちの結婚の話ももちろん出るはずだから、おまえの了承も得ておきたいのだ。 事後承諾って手も考えたが、また恨まれても困るしな。 披露宴の席で堂々と発表したおまえたちのことだから、きっといい返事がもらえると期待している。 ディーターは、俺の精神科医人生の中でも、奇跡と言える症例だった。 多くは数年から十数年を回復に要する。不幸に終わってしまう症例も、残念ながらいくつも挙げることができる。 それほど、DID(解離性同一性障害)の治療は難しい。 いったい何が彼の回復をこれほど促進したのか。これが今度の本のメインテーマになる。 脳内化学物質や海馬やニューロンの説明は端折るとして、俺の結論はやはり、おまえの存在が鍵だということだ。 実際、おまえとの結婚を決意した前と後では、彼は大きく変わった。 去年の秋、ディーターの病状が一時的に悪化したとき、おまえは電話で泣きながら、自分と結婚したことが間違っていたんじゃないかと悔やんでいたな。それは全く正反対の危惧だと俺が言ったのを覚えているか。 おまえが出版を許可してくれる見返りに、少しあのときのことを話して、おまえの的外れの思いこみを正してやるのもいいと思っている。 ディーターが片脚を失って帰国し、聖ヘリベルト大精神クリニークに再入院した最初の数ヶ月の話だ。 日本からドイツに帰ったばかりのとき、ディーターは大きく動揺していた。 無理もない。今度の入院は出口のないトンネルに突入して行くように思えただろう。 退院の見こみは主治医の俺にも立たなかった。 人格が統合されたから、きっと彼がよくなるのはもうじきだ、とあのときのおまえは誤解していたな。 俺はあえて言わなかったが、真実はそんなものではなかった。 人格がひとつになったときから、本当の闘いが始まるのだ。 専門家の中でも、人格を無理に統合する必要はないと説く人もいるくらいだ。俺も患者の性格と生育状況によってはその意見に賛同する。 ただディーターの場合は、ユーウェンという彼に殺意を抱くネガティブ人格を持っていたから、それは不可能だった。 宛がわれた病室は、奇しくも、彼が2年間を過ごした528号室だった。 彼はそこから1ヶ月の間、一歩も出なかった。病院職員の彼を見る悲嘆のまなざしに耐えられなかったのだ。 もっと悪いことに、あほうな看護婦のひとりが、彼の脚を見て目の前で泣き出してしまった。 ただでさえも鬱状態に陥っていた彼は、自分の存在が回りの者を苦しめているという妄想に、いともたやすく飲みこまれてしまった。 おまえも臨床心理士を目指すなら覚えておくといい。 医者、看護婦、カウンセラーたる者は決して患者の前で感情を露にしてはならない。患者に対する共感は大切だが、それも度を越すと「食われて」しまう。飽くまで冷静を保つ訓練をしろ。 ディーターはそれをきっかけに、食べたものを全部吐くようになってしまった。動悸が常人の2倍に達し、頭痛は頻度を増し、幻聴に悩まされた。 毎日ぼんやりとベッドの上に仰臥しながら、病室の高窓を見ているだけだった。 前にも言ったと思うが、彼は以前、栄養失調の回復期にあった15歳のときも、同じ高窓から鳥を見つめて過ごした。しかし、今回のほうがあのときよりもさらに、自由に空を飛べる鳥に程遠い自分を感じていたに違いない。 一ヶ月がたち、薬物療法や、作業療法、面接治療などを通して、どうにか心と身体の平静を、表面上は取り戻した。 回復を待って延期していた、左脚の断端面の再手術が同じ大学病院の外科で行なわれ、義足の製作も始まった。 彼は与えられた訓練を忠実にこなし、課題を次々とパスしていった。数週間もすると、義足をつけていることすら回りに忘れさせるほどだった。 職員や患者たちとのコミュニケーションも円滑にとれるようになってきた。誰もが、彼がめざましい改善を遂げたことを喜んだ。 だが、俺は妙に気になっていた。回復が早すぎる。 全ての課題を卒なくこなすというのは、見方を変えれば、自分からはそれ以上動かないということだ。 周囲の人間に好かれるように振舞えるということは、自分というものを持たず、相手の望むとおりに動いているということだ。 実は、作業療法中コンピューターに適性があることを観察した俺は、伝手を頼んで、教育学部のプログラミングコースに彼を送り出すことにした。 担当教授は舌を巻いていた。理解度、認識能力もさることながら、どんな複雑なプログラムからもたちどころにバグを見つけることのできるイメージ的記憶力がある、というのだ。 自閉症者の中には、同じく常人を遥かに超えた記憶力を持つ者がいるということは論文で読んだことがあるが、それと通ずるものがあるのだろう。 ただ、その教授はこうも言っていた。 『彼の、コンピューターを見るときの目と、私たち人間を見るときの目が全く同じなんだ。それに気づいたとき、すっと背筋が寒くなったような気がしたよ』 その言葉で、俺は確信した。 ディーターは治っていない。巧妙な演技で俺たちを欺いているだけだ、と。 6月第1週。診察室。面接治療。 平静。笑顔を見せる。 『円香から君宛てに、また手紙が来たよ。読む気はあるかな』 『いえ……。すみません』 『こんなふうに俺の手元で預かっているのは、もう三通目だな。もし君がこれ以上拒否するようなら、円香にもそう伝えなくてはならない。早いとこ、結論を出してほしいんだが』 『結論は……とっくに決まっています。僕は円香とはもう結婚できない。そのことはドクトルから伝えてくださっていないのですか』 『円香は、君自身からそう聞くまでは納得しないだろうよ』 『……』 『辛いだろうが、それは君が自分で伝えることなんだよ。娘も一時的には悲しむだろうが、まだ何と言っても17歳だ。やり直しは十分効く年齢だ』 『……あんなことをしてしまって、本当に悪かったと思っています。でも、あのときは本心から彼女のことを愛していた……。今さら僕の方からこんなふうに言えるとは思いませんが、円香を不幸にだけはしたくないんです』 悲しそうな顔をする。だが、作為的と言えなくもない。父親としての俺が、娘と関係を持った青年からどんな言葉が聞きたいか、計算した上で言っているようにも思える。 『今は、娘のことを愛していないということかね』 『もう僕たちは一生会えないんです。それはお互い死んだということと同じです。これ以上希望を持ちつづけることはできません』 微かにほほえむ。コンピュータールームの担当教授の感じたものが理解できるような気がする。 『君の言うことはわかったよ。ディーター。ついでに言うと、円香だけではない。この俺も、君の周囲にいる全ての人も、君にとっては死んだ者だということもね』 『え……?』 『今日はこれくらいにしておこう』 6月第2週。診察室。面接治療。 少し視線が落ち着かない。 『今日も円香のことから話そう』 黙ってうなずく。 『君と円香には、考えてみればいろいろな共通点があるな。まず一人っ子だということ。それから、2人とも子ども時代に両親と別れていること。君のご両親は、君が5歳のとき、北アイルランドの内戦の不幸な巻き添えを食らった。娘の方は、10歳で母親を交通事故で亡くし、父親の俺はすぐに研究という名目で日本を逃げてきた。だからかな。君と円香は最初から惹かれ合うものを持っていたようだね』 『はい』 『ただ、違うところも多い。同じ一人っ子でも、円香は甘やかされ放題だった。周囲の大人が自分の思い通りになったからか、わがままで甘え上手だ。いい意味でも悪い意味でも、自分というものをしっかりと持っている』 『……』 『俺は逃げてきたと言ったが、円香を日本に置いてきたのには、俺なりの教育方針があったんだ。妻を亡くした父親と母を亡くした娘がお互いに寄りかかることは、決して娘のためにならない。行き場を失った愛情は時には毒以外の何物でもない。もちろん娘の強靭な精神を信頼しての行動だ。結果的に俺の判断は正しかったと言えるといいが……』 『そう、思います』 『その点、ディーター、君は全く正反対だった。利口すぎたんだろうな。ご両親が君に何を望んでいるかを、ごく小さい頃から先回りして汲み取る子どもだったんだろう。ご両親が与える知的刺激をすべて余すところなく吸収してみせること、そしてご両親の喜ぶ顔を見ることが君の最大の喜びだったんだろう。君の音楽、芸術、数学や語学に関する幼児期に与えられた知識は脅威的だったと、グリュンヴァルト博士は言っておられた』 俺の真意を計りかねて、眉をひそめ始める。 『もし、ご両親が健在で、君が叔父のもとに預けられることなく成長していたら、さぞかし表面では思いやりのある顔をしているが、内心は自分の才能を誇り、他の奴らを見下す、鼻持ちのならないヤツになっていたんだろうな』 『ドクトル……。あの、おっしゃっていることがわからないのですが……』 『君には、自分というものがないんだ。これは先天的な性格にもよることだ。いつも人の顔色をうかがい、人の喜びそうなことを推し量って行動する。だが実際には本当の意味で他人の心に触れることを拒否している。そんな君だから、今だって俺のことがロボットみたいに見えるのだろうな。違うかい?』 次第に、震え始める。 『隠す必要はない。君はまだ治っていない。治ったふりをしているだけだ。穏やかな心を持っているふりをしているだけ。微笑むふりをしているだけ。悲しむふりをしているだけ。 本当は何の感情も感じていない。人間は全てただのしゃべる機械にしか見えない。 今の君は、深刻な解離状態にさいなまれている。離人症ともいう。現実感を喪失し、人としての接触ができない。人が人形のように生命のないものとして見える。 だが本当は、君自身が人形なんだ。葛藤を拒否し、自らの意志で対処しようとしない君の性格が、他の交替人格を作り出してしまった。そして、その交替人格も消滅してしまった今、君は現実から逃避することで、問題を解決しようとしている。だが、それは不可能なことなんだよ、ディーター』 あえぎながら立ちあがり、診療室から飛び出す。 その日一日、自分の病室に閉じこもってしまう。 ディーターの病状は再び悪化を始めた。 俺との面接治療のたびに目に見えて悪くなっていることを、同僚の医師たちさえもがいぶかり始めた。 病棟で一番高齢のある患者などは、カフェテリアで大声で俺に対する非難を始める始末だった。 ディーターは日本へ行って脚を失った。悪いのはすべて日本人なんだ、と。 四面楚歌ってやつだ。まあ、辛いと言えば辛い時期だったな。 俺はこのとき、大きな博打をしていた。 本当ならば、俺のやっている治療は、治療と呼べるものではなかった。精神科医として、決して後輩に真似をさせるわけにはいかない、掟破りの仕業だった。 だが、俺はこの方法を選ばざるを得なかった。 何故かと聞かれれば、こう答えるしかない。 ディーターを愛しているから。 患者と主治医という関係を超えてまるで息子のように愛しながら、そして円香の愛するただひとりの男として嫉妬しながら、あいつのことをめちゃめちゃにぶん殴ってでも、俺たちの世界に引きずり戻したいという欲求に勝つことができなかったのだ。 もし失敗したら、自分の医師免許を破り捨てるつもりだった。 俺はそのとき生まれて初めて、神に祈ったよ。 7月第2週。治療室。面接治療。 椅子に腰掛けようとしない。 その表情から、俺に固く心を閉じているのがわかる。 『じゃあ、ちょっと場所を変えよう。ついて来てくれ』 足取りが重い。砂地に足をとられているかのように、ぎこちなく歩く。 身体と心の統一性も失われてきているのだろう。 この時間は使われていない、運動療法用の広いジムに入ると、しっかりと入り口に鍵をかける。 『デュッセルドルフに住む友人に送ってもらったんだ。あそこは日本人駐在員が多く住んでいて、日本人学校もあるのは知っていたけど、まさかこんなものまで手に入るとは思わなかったよ』 俺はそう言いながら、剣道用の竹刀を2本、倉庫から取り出す。 1本差し出すと、ぼんやりした面持ちで受け取る。 『久しぶりだろう。その感触。……俺も何年ぶりかなあ。……おいおい、そんな目で見るなよ。俺だってこれでも、小さい頃は葺石流の跡取りとして修行させられてきたんだ。年季からすれば、俺の方が上だよ』 挑発するように、彼の鼻先でビュンと竹刀を振った。 『なぜ俺が葺石を継がなかったか、話したことあったっけな。俺は、強さに関する考え方に、親父の主張する葺石の流儀と合い入れぬものを持っていたんだ。 親父は自分に克つということをよく教え込んだ。おのれに克つ者が真に強い者なのだ、と。弱い者を支配する欲望に勝つこと、強さに溺れるおのれに勝つこと。それが、剣の修行なのだと。 俺は、反発したよ。結局、強い者が弱い者を従える構図に変わりないじゃないか。自分に勝てない弱者を救済する道はどこにもないじゃないか。 それで、家を飛び出して世界中を放浪して、俺なりに精神科医という職業に、自分を含めた弱い者の救いを求める決心をしたわけだ。 だが、20年以上精神医学を研究して、やはり限界を感ずることがあるよ。 ディーター。君のような患者を目の前にするときだ』 かすかに肩がぴくりと動く。 『自分の弱さを言い訳にしてそこに安住してしまう人間は、どんな医学でも救うことはできないよ。自分に克つのは難しいことだが、自分の弱さを心底いやがって、そこからちょっとだけでも抜け出そうとあがくことは、誰でも始められることなんじゃないか? 君はそれさえも逃げ出してしまっている』 『……』 『円香に悪いことをしただと? そんな言葉を俺も円香も求めちゃいない。君の本当の気持ちを聞きたいだけなのに、それもするりと逃げてしまう。最低の男だ。君は』 俺は竹刀を上段に振り上げる。 『竹刀を構えろ。俺の剣を受けてみろ。少なくとも君に負ける気はしないね。どうせのらりくらりと逃げるだけだ』 突っ立っている彼に、俺は打ちかかる。手加減は一切なしだ。 彼はかろうじて防御しようとしたが、跳ね飛ばす。 『何だ。よけもしないのか。そうか。痛くないんだな。身体も心も痛みさえ感じずに、ただ生きているふりをして死んでいる。それが君の人生というわけか』 『ドクトル……。やめてください』 『ああ、そうか。患者が医者を負かしちゃいけないと、けなげにも気遣ってくれてるのか。へへっ。たいした気配りだな。反吐が出るぜ!』 ののしりながら、滅多打ちにする。 『おまえは偽善者だ! おまえなんかに比べたら、ユーウェンの方が10倍も真剣に生きていたぞ。主人格のダニエルをあれだけ守ろうとしたんだからな。おまえなんかとっとと消えちまえ! ユーウェンに身体を明け渡せっ!』 その次の瞬間、俺の目の前からディーターの姿が消えた。 消えたと思ったのは、そのあまりのスピードのゆえだろう。一瞬のちには、肩といい脇腹といい、数十箇所に切り裂かれるような痛みを感じた。 今度は俺がディーターから滅多打ちを受ける番だった。 必死の反撃も防御も何の役にも立たない。20年のブランクがあるとは言え、俺の葺石流での11年の修行はなんだったのかと思ったね。 それでも、精神科医の仕事である観察はきちんとしていた。 さっきまでのうつろな目つきが嘘のように、爛々と虹彩が青白く燃えていた。 表情が怒りに歪み、竹刀を振るうたびに、奥歯がきしむ音が聞こえる。 『弱さに安住してるだと? 自分から逃げてるだと? おまえなんかに何がわかる! 何もわかっちゃいないくせに! 偽善者はおまえのほうだっ!』 あまりにも一方的で不条理な暴力の前には、身体能力も思考能力も停止し、感情は摩滅することを、初めて自分の身をもって体験した。 ディーターはこんな暴力に、まだいたいけもない幼児の頃から、毎日さらされていたのだな。 いつのまにか竹刀は吹き飛ばされ、自分が床にころがっているのに気づいた。 肺は焼け付き、全身が火箸を押しつけられ、火傷で2倍に膨れ上がった心地がする。 みぞおちに10トンのトラックが載ったような衝撃を感じた。 ありったけの殺意をこめて、彼が竹刀の先を俺の身体にぐりぐりとめり込ませている。 死ぬつもりはハナからなかったが、気を失う前に自分の仕事をせねばならん。 『さすがだな……。ディーター。たった4ヶ月の修行でここまで葺石流の剣を使えるとは……。君はやっぱり天才だよ』 彼は、憎悪に満ちた目で俺を見下ろした。 『いい目だな。人間らしい感情をもった目だ。……安心したよ。君はまだ死んじゃいない。 君は不幸な生い立ちのせいで、反抗することも怒りを持つことも許されなかった。それらを別の人格に引き受けさせるしかなかった。ユーウェンは確かに多くの人間を殺したが、彼は君にとって必要不可欠な存在だった。ユーウェンがいなければ、君はとっくに心を亡くしていただろう……』 竹刀が離れるのを感じた。俺はしばらく空気を求めて苦しんだ。 『怒ること、憎しみを持つことを君は拒否して生きてきた。確かに天使のように見えたよ。でも君は誰のことも愛しちゃいなかった。愛するふりをしてきただけ。残念なことだが、あれほど君を愛してくれたグリュンヴァルト博士でさえ、どれだけ君の心の琴線に触れることができたのだろうか。 だが、円香を愛し始めたとき、君ははっきりと変わったと俺は思った。あの子をユーウェンから守ろうとしたときの君は、本当に強かった。だからユーウェンに勝つことができたんじゃなかったのか。そのときの君はいったい何処に行ってしまったんだろうね。 他人を思いやるふりをして、優しく微笑むふりをして、たとえ今の君を全世界の人が愛してくれたとしても、自分で自分をそんなふうに虐待している限り、君は良くなることはありえない』 打ち捨てられたあやつり人形のように、彼は虚脱して床に崩れこんだ。 『俺は円香の父親として、君の本当の気持ちが聞きたい。答えて欲しい。たったひとりの君自身として』 『円香を愛してる……』 彼は子どものように、両手を口に当てて泣きじゃくった。 『円香に会いたい。彼女が好きだ! ずっと一緒にいたい!』 『そうか……』 俺はディーターの肩を引き寄せて、背中をぽんぽんと叩いた。 こういうのって父親冥利に尽きるじゃねえか。ほんの少し、こんちくしょうって気持ちも湧いてきたがな。 『真実を話してくれてありがとう。これでやっと、治療を始めることができる。1年が目標だ。来年の夏の退院を目指すことにする。その頃には、円香もどっかの大学にもぐりこんで、花嫁衣裳の算段でもしているだろう』 『……』 『あ、そうだ。これからの俺との会話は、すべて日本語で行なうことにするぞ。1年もあれば、君のことだから、日本で暮らしていくだけの日本語はマスターできるだろう。日本の入国手続きは俺がなんとかする。ドクトル・フキの手腕をもってすれば、開かないゲートはないさ』 ディーターはとまどって俺を見た。あまりの性急さについていけなかったのだろう。 まあ、いきなり気持ちを切り替えろと言うのも無理な話だった。 俺は痛む身体のあちこちをさすりながら、診察室に戻って、預かっていたおまえの手紙を渡した。神妙な顔をして、何回も何回も読み返していたよ。 それからも、彼は心が揺れている様子だった。円香を幸せにできないと、ときどき絶望したように呟いた。 病状もかなりの期間、一進一退を繰り返した。 だがな、その日以降の彼の回復は、全体を通して見ればまさに奇跡的だった。 怒り、苛立ち、打算、男性としての欲望、そういったものを隠さなくなった。 そして、それまでおまえ以外には見せたことがないはずだった、本当の優しさ、本当の笑顔を見せるようになった。 トータルな人間としての感情を取り戻した。真の意味で人格が統合されたと言ってよいだろう。 その結果は、翌年2月におまえがケルンを訪れたとき以降、おまえが一番よく知っているはずだ。 病気そのものとは、これからも戦い続けねばならんが、それは生命が生み出されたあとの後産の苦しみに過ぎない。 それを成し遂げたのは、悔しいが、おまえのディーターに対する愛情だ。 おまえがいなければ、今も彼は人形として528号室にいるだろう。 もちろん、俺の本でそんなことを書くつもりはないぞ。全ては俺の先見的な治療の賜物だ。飽くまで、精神科医・葺石惣一郎の功績を輝かせるための本だからな。 ただ、ここだけの話だが、おまえにひとこと言っておきたい。 俺にすばらしい息子をくれて、ありがとう。 父より |
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