TOP | HOME



EWEN

Special Episode
沈黙の回廊



§9に戻る



§10


 銃声は鳴らなかった。
 カチッとトリガーの音が響いただけ。
「弾は入ってない」
 ディーターは疲れたような笑顔を私に向け、右手に隠していた銃弾と取り外したマガジンを見せた。
「お、驚かせんといて……」
 私は、へなへなとその場に崩れ落ちる。
「ごめん、円香を殴られた腹いせに、少しだけこいつを脅かしてやりたかった」
「ディーターが、……昔のユーウェンに戻ってしもたかと思った」
「そう……だったかもしれない。でも、聖を犯罪者の息子にするわけにはいかないから」
 隅っこでまんまるの眼を開いてこちらを見ている聖にチラリと笑いかけて、彼はヒュバートに注意を戻した。
「あ……」
「ヒュバート?」
 私たちは、同時に叫んだ。
 撃たれると覚悟して身をすくめていた彼が、両手で顔をおおったまま、ぶつぶつと誰かに話しかけているのだ。
 小さな子どもの声で。
『パパ……起きてよ……ここは暗くて、怖いよ……』
『ヒュバート、おまえは……』
 ディーターが呆然とつぶやいた。
『パパ、黙ってないで、何とか言って』
「まさか……」
 解離性同一性障害。ディーターと同じ病気。
 今から考えれば、ヒュバートは私たちに接しているあいだ、くるくると表情を変えた。陽気な証券マン。冷静な捜査官。残酷な暗殺者。天才的な演技に見えたそれらは、演技ではなかったのか。もしかして、彼は本当は人格交替していたのだろうか。
 そう言えば、――彼はときどき自分のことを「わたしたち」と呼んでいたではないか。
『パパ……。ごめんなさい。ぼく、パパを助けられないよ……』
 手足をひきつらせて、男は幼児のような泣き声を上げていた。
『ヒュバート』
 手から、拳銃がぽとりと落ちた。ディーターの眼から、涙が一筋ゆっくりと頬を伝う。
 ディーターにはわかった。一瞬ですべてを理解できたのだ。どんなに恐ろしく悲しい体験が、ヒュバートの心を幾つにも引き裂いてきたか。
 敵同士だったふたりは、本当はずっと同じ心を宿していた。
『赦してくれ』
 彼はヒュバートの体をしっかりと抱きしめた。
『俺たちの……俺のしたことを、どうか赦してくれ』
『パパ』
 ヒュバートはぼんやりした表情でされるままになっていたが、やがて、彼の薄茶色の瞳がきらめいて、くにゃりと歪んだ。
 ゆっくりとズボンのポケットから何かを取り出すのが、私の目に見えた。
 もうひとつの、小型の拳銃。
『パパ……。悪いヤツをとうとう、捕まえたよ』
「ディーターッ!」
 今度こそ本物の銃声が鳴り響いた。


「動くな!」
 玄関の扉ががちゃんと鳴り。数人の男たちの怒声と足音。
 書斎のドアがばたんと開き、先頭の男がヒュバートに向かって、飛びかかった。
 門下生の、奥野くんだった。
 ヒュバートの手から、ディーターを撃った小型拳銃を取り上げると、
「拳銃所持、家宅侵入、傷害の現行犯で逮捕する!」
 もうひとりの年配の男性が、その言葉に合わせて、かちりと彼の手に手錠をはめた。
 木戸警部だった。そして、三人目の刑事が聖を抱き上げてくれている。
「坂下。本部に連絡。5時51分、身柄確保。それから至急救急車だ。腹部を拳銃で撃たれている」
 ヒュバートが制服をきた別のふたりに抱えられて部屋を出て行くと、
「円香さん、だいじょうぶっすか」
 奥野くんが腰を抜かして放心している私を背中から支え、心配そうにのぞきこんだ。
「ディーターは……」
 ソファにぐったりと凭れ、セーターを真っ赤な血で染めているディーターのところに、奥野くんに助けられて這って近づいた。
「ディーター!」
「師範代!」
 彼は閉じていた目を薄く開いた。
「円香……」
「や……だ。死なん……といて」
「円香、ごめん……」
「いやや……。何で謝るのん」
「だって、これじゃ……5日以上入院できそうもない」
「……え?」
 私は凍りついて、泣くのをやめた。奥野くんもあんぐり口を開けている。ディーターは私の顔をいたずらっぽく見上げて、にっこり笑った。
「全治3日ってところだ。この程度の傷じゃ……。入院保険は5日目からしか出ないんだろ?」
「ば、ばかぁ。何を暢気なこと、言ってるのよぅ」
 大声で泣き出す私に、彼は心の底から安堵したように、もう一度瞳を閉じた。


 エレベータの来るのを待ちかねて、私は3階まで一気に階段を駆け上がる。
 持っていた色とりどりのスイトピーの花束が、わっさわっさ揺れる。
「ディーター、来たよっ」
 奥の窓際のベッドで本を読んでいたディーターは、呆れたように眉をひそめた。
「それだけ走って、よく看護師に怒られないな。それに、ここは4人部屋で――」
「はいはい。わかってますよ」
 私は丸椅子を壁際から引きずってきて、彼の枕元に座り、有無を言わせず唇をふさいでしまう。
 だって、毎日旦那さまに会えるのがうれしくて待ち遠しくて、仕方ないのだ。まるで高校生カップルのデート気分。


 ディーターが入院して、1週間経つ。
 心配のあまり卒倒しかねない私のために、全治3日などとやせ我慢していたけれど、本当はかなり重傷だったのだと思う。
 ヒュバートが隠し持っていたもう一丁の拳銃でまさに撃たれると気づいたとき、両手で彼を抱きしめていたディーターは完全に無防備だった。それでとっさに身体をひねって、脇腹の古傷と同じ場所に当たるようにしたのだ。それは、18歳のときにユーウェンが作った傷で、そのとき処置をしてくれたヤミ医者に「一番幸運なところに当たった」と言われたらしい。
「昔はあのくらいの傷、3日で治ったんだけどな。年かなあ」
 ディーターはぶつくさ言っていたけど、結局、診断は全治一ヶ月。というわけで、めでたく入院保険は支給されることになった。
 病院嫌いのディーターには、喜ばしくない結果だったろうけど。


 あの日起こったことは、まさに奇跡の連続だった。
 順を追って説明する。
 木戸警部はあの日曜日の午後、こっそりと私たちをマンションの前を見張っていたのだ。そして、見知らぬ外国人が私と立ち話をして、その直後マンションの中に入っていくのを目撃した。彼は翌日になってまた張り込みを続けたが、まったく姿を見せない私たちのことを、次第に不審に思い始めた。
 一方、月曜日の午後私たちを訪れた父も、私の様子がどうも変だと感じていた。さすが医者というか、私の頬にうっすら残っていた叩かれた痕に気づいたのだ。そして、私の話に出てきた「ドイツ人の家に招待されている」にヒントを感じ取ってくれて、ノルト夫妻と連絡を取った。そして、私の話が嘘だと知り、大騒ぎになる。
 そのときたまたま、非番の月曜日に道場に稽古にやってきた奥野くんにそのことを話すと、奥野くんはすぐに木戸警部に連絡を入れた。
 父の持っていた合鍵を使って、銃声が響いた直後に警官隊が突入してくれなかったら、ディーターも私も聖も、どうなっていたかわからない。
「奥野くんは、よくやりましたよ。あの状況で容疑者に飛びかかっていくなど、無謀とは言え、さすが武道に入門しているだけありますな」
 木戸警部がディーターのお見舞いに来たときに、そう言って誉めてくれた。誉めてるのか、けなしてるのかわからないところが、あの人らしいけど。
 奥野くんは、その横でおおいに照れて笑っていた。ほんとうに彼は、私たちの命の恩人だ。スパイだなんて色眼鏡で見て、ごめんね。
 ヒュバートは完全に黙秘を貫いていて、取調べは難航しているという。元SASのOBたちが優秀な弁護士を派遣するとのことなので、話はさらにややこしくなりそうだ。裁判は長期にわたり、その過程でもディーターは、相手側の法廷戦術として、テロリストとしてのあらぬ疑惑を持ち出されて攻撃をしかけられるだろう。当分のあいだ周囲から白い目で見られ、辛い経験をすることになりそうだ。
「これから当分、奥野たちと一緒に、できるだけあなたたちご一家のことは警護しますので」
 木戸警部はそう請け合ってくれたが、イヤミを付け加えることも忘れなかった。
「ただ、私個人の意見を言わせてもらえば、今回のことは因果応報、というものだと思います。それほどにテロというのは、多くの人を苦しめる無残な行為なのですよ」
 しかし病室を立ち去るときには、背中越しにぽそりと、こうも言ったのだ。
「でもとにかく、……無事でよかった」


「聖は?」
「今日は、お父さんが面倒見てくれてる。午後になったら一緒に来ると思うよ」
 私がせっせとディーターの病室に通っているあいだ、聖は相変わらず葺石家の面々に甘やかされていた。父、祖父、藤江伯母さんに加えて、京都からはるばる茜さんまで通って、聖の面倒を見てくれる。どう見ても茜さん、やっぱり赤ちゃんを欲しがっているみたい。がんばらなきゃね、鹿島さん。
 みんなの愛情に育まれて、聖も少しずつ事件のショックから癒されているみたいだ。あのあと最初の数日はおびえて、ずっと抱いてやらないと寝られなくなってしまった。ディーターの病院に連れて来ると、帰りは火のついたように泣いて、別れをいやがるのだ。
 泣きながら、「ファー」「ファー」と叫ぶので、どうも「ファティ」と言ってるらしいで、と大騒ぎになった。聖が最初にしゃべった記念すべきことばは「ファティ」ということになる。悔しいけど、先を越されちゃったなあ。
 あのとき聖が見ていてくれなかったら、たぶんヒュバートを撃っていた。あとでディーターはぽつんとそう言ったことがある。私たちは聖によって、今こうして生かされているのかもしれない。


 入院中、たくさんの人がお見舞いに来てくれた。
 ヒュバートを紹介したシュテファンとアガーテ夫妻は、事件の報に驚いて駆けつけてくれた。
『ほんとうに、すまない。あの男がまさかそんな素性の者だとは、夢にも思わなかったんだ』
 ヒュバートがディーターに近づくために自分たちが利用されたことを知り、ひどく嘆いていた。でも、彼らのせいではない。ディーターだって、自分の素性を隠していたのだから、こちらこそ謝らなければならなかった。
 もちろん、ジュリーさんこと宮下くんも来ました。あのバーの開店祝いみたいなド派手な花束は、後々までもこの病院の語り草になるに違いない。
 マンションの理事長である安西さんも、大きな果物かごを持って来てくれた。
 警官突入まで招いた流血の騒ぎを起こしてしまい、内心マンションを出て行ってくれと言われるのではないかと冷や冷やものだったが、安西さんは相変わらずディーターのことが大好きみたいだった。
『全然、気になさることはないですよ』
 というふうに聞こえないでもないドイツ語で、病床の彼を慰めてくれているところへ、私が横から口をはさんだ。
「あの、安西さん。実は主人は今度のことで後遺症が出ちゃって」
「え? どういう?」
「ショックで一種の記憶喪失になったらしいんです。母国語のドイツ語をすっかり忘れてしまったみたいで。だから、これからは日本語だけでお願いします」
 安西さんは目をシロクロ。
 彼が帰ったあと、ディーターは「いてて……」とお腹を押さえて苦しみながらも、大笑いをしていた。


 最初は警察の事情聴取があるため個室に入れられていたが、数日して4人部屋に移ることができた。そのうえ、あちこちからたくさんのお見舞い金をもらったので、保険給付金を合わせるとトータルは黒字かもしれない。と、算盤をはじきながら、私はほくほくだ。
「入院って、儲かっていいねえ。これからも1年に2、3回くらい入院してみたら?」
「いやだ。それに義足の修理代もかかるんだぞ」
「それも保険が利くように交渉してみるよ。そしたら、ねえ、余ったお金でソファ買わへん?」
「ソファ?」
「書斎のソファ。ディーターの血で汚れてしもて、拭いてもシミが取れへんの。もともと鹿島さんからもらったもんだから、古いし小さいし。もうちょっと大きくてかっこいいレザーのソファを買おうよ」
「うん、まあ」
「色は深緑色がいいな。退院したら、北口の家具屋さんへいっしょに行こう。あ、それからついでにカーペットも全部変えたいなあ。だって、書斎に入るたびに……見ると……悪い思い出……あれ?」
 気がつくと、私はぼろぼろと涙を流していた。
「円香」
「う……うえ……」
 ディーターの胸に顔をうずめて、わんわんと泣いた。押し込めていた涙が、後から後からあふれてくる。聖と三人でショッピングに行ける日が来ることを想像しただけで、たまらなかった。それほどに私たちは、生きることを一度あきらめてしまったのだから。
「円香、俺は……」
 ディーターは、私の頭をいつまでも撫でながら、病室の天井を見つめてつぶやいた。
「ヒュバートの言ったことは正しいと思う。俺は家族を持つべきじゃなかった。人の家族を奪った者が自分の家族を持つなど、赦されるはずがなかったんだ」
「そうじゃない。そうじゃないと……信じたいよ。過ちを犯した人は、もう二度と人を愛してはいけないの? ディーターは私と聖を愛してくれている。そのことさえも赦されないことやの?」
「俺の心の中には、今でもユーウェンの持っていた憎しみがくすぶっている。そのことがよくわかった。人を愛する資格なんて、ないんだ。聖だって、大きくなったときに俺の犯した罪を知ったら、どんなに苦しむだろう」
「ありのまま教えるよ。それしかないじゃない」
 私はディーターの手をしっかり握りしめた。
「聖にちゃんと教える。ファティのしたことには、たくさんの理由があった。自由を奪われて苦しんでいる人たちが、あの国にはたくさんいた。
でもやっぱり、それは間違っていた。苦しむ人々を増やしただけだったって。だから、私たちがこうして平和に暮らしている陰で、たくさんの人を苦しませてしまったことを忘れてはいけない。生きている限り、その人たちの幸せのために祈ろうって」
「それだけで……ほんとうにいいのか。ほんとうに、俺は赦されるのか」
「わからない。私には……。私たちは、一生赦されてはならないのかもしれない。赦してほしいと願うことさえ、できないのかもしれない。でも、世界中の人が憎しみを忘れて生きることができたらいいのに。
だって憎しみは、憎しみを持つ側の人生も、めちゃくちゃにしてしまう。そして、報復はまた新しい憎しみを生み出していく。……終わらない憎しみを、止めたいの。どうしたら止めることができるんだろう」


 ヒュバートが本当に解離性同一性障害だったのか、確かめる術はない。
 父の説によるならば、
「十数時間程度の悲惨な体験によってPTSDになることはあるが、それが直接、解離性同一性障害に結びつくことは、あまりない。だが、もしその後の人生で彼が過酷な現実を体験し続けるなら、それが人格の解離という症状に進むことはあるだろう」
 ということだった。
 ヒュバートが送ったのは、どんな人生だったのだろう。
 私たちは、裁判という限られた場所でしか、ヒュバートにはもう会えない。でも、もし自由に話すことができたら、伝えたいことがある。
 私たちは心の底から、あなたを理解したい。ふたつを隔てている高い壁を、少しずつ壊したいのだと。


 陽の光あふれる朝の病室で黙ってディーターと手を握り合っている私の目に、ひとつの幻が見えた。
 倒れた円柱が瓦礫となって横たわる回廊。その中で、父親を求めて泣き叫ぶ子がいる。
 彼らは、幼い頃のヒュバート・ウィリアムズであり、ダニエル・デュガルであり、阪神大震災のときの恒輝であり、世界中の戦争や災害で親を失った子どもたち。
 そして、それは涙の中で数え切れないほどたくさんの顔となって、どこまでも続いていき、いつしか真珠色の柔らかな光の中に溶けていくのだった。



                               了

あとがき
NEXT | TOP | HOME

Copyright (c) 2002-2005 BUTAPENN.