§3. 「よっ、インラン娘。やっと御起床か」 目の前に、父が立っていた。 普段着のポロシャツを着て夜勤明けの休日といういでたち。ときどき鷹のようだと恐れられる鋭い目の中の白い部分が少し赤味がかって、寝不足気味なのがわかる。 「お父さん、お、おはよ」 「おはようございます、ドクトル」 ディーターも声を上ずらせながらも、礼儀正しく挨拶した。 「ああ、おはよう、ディーター」 「お父さん、朝ご飯は?」 「とっくに食べたよ。なんせ、行方不明の娘を案じて、寮で眠れぬ夜を過ごして、6時にはこっちに来てたからな」 父はさっさとコーヒーを取ってくると、何も言わず、私たちが並ぶテーブルの前に知らん顔で陣取った。 うわあ。修羅場だ、修羅場。 これがテレビドラマで有名な、父と、娘の恋人の対決シーン。 こっちは喉がつまって、食事どころではない。 「あの……」 ついに意を決して、ディーターが話しかけると、 「ああ。俺はオーケーだよ」 「え?」 「結婚するんやろ、ふたり。そう、顔に書いてあるぜ」 私たちは真っ赤になっていた、と思う。 「ただしこれは、円香の父親としてオーケーだ、という意味や」 私とテーブルの下で触れ合っていた彼の手が、こわばったのに気づいた。 「きみの主治医としての意見は、違う」 「まだ、俺には無理ですか」 押し殺した声で、彼は尋ねた。 「俺の病気は、まだそれほど良くなっていませんか」 「まだだな」 私は、さっきまでの幸福の絶頂から、奈落に突き落とされたような気分になった。 「お父さん……」 「ただし、条件つきならば許そう」 「条件……?」 「当分、避妊すること」 バース・コントロール。 日本語の意味がわからなかったディーターに、私はこっそり横から囁いた。 「円香。彼には、まだ不安神経症の発作がある。頭痛も、薬を常用して抑えている」 「はい」 「薬をきちんと飲み続ける分には、結婚に何の問題もない。ただその中には、彼の精子に悪影響を与える恐れのある薬も入っている。当分子どもを作ることは賛成できない。きちんと100%避妊すること。それが守れないようなら、結婚はしてはいけない」 「……いつまでなの、お父さん」 「ディーターが薬を必要としなくなるまで。おそらく、2・3年。最悪の場合は10年」 私はぼんやりしていた。子どもを作れないと言われたことが、ショックだったのではない。 結婚ということばを口にしながら、出産や育児その他、当然考えなければならないことを何も考えていなかった自分のいい加減さがショックだった。 唇を噛み締めてうなだれていたディーターも、きっと同じ思いだったと思う。 特に女性として、私は考えるべきだった。 ゆうべ欲望のままに肌を合わせる前に、妊娠する可能性を女の私は考えるべきだったのだ。 私たちはまだ子どもだ。 父が今朝私たちを見たときの、少し厳しい目はそのことを語っていたのだ。 「どうや。それを聞いても、気持ちは変わらんか」 と茶化したように促す父の声に、私は顔を上げた。 「あのね、そもそも私は大学生やのん。これから4年間大学に通って勉強することが決まってるのに、当分子どもは育てられへん」 「ああ、そやな」 「でも、たとえ一生子どもができなくても、私はかまわない。ディーターと一緒に暮らせたらそれでいい」 「ディーター、きみは?」 「俺にはまだ結婚する資格はないのかもしれない」 彼は、まっすぐに父の顔を見た。 「でも、円香を愛しています。結婚したい。病気には必ず勝ちます。薬をもう飲まなくてもよくなるように」 「うん」 父は少し笑みをうかべて、私たちふたりの決意を聞いていた。 「ま、それなら、ええやろ。ディーターの主治医としても、円香の父親としても、結婚をオーケーしよう」 「お父さん……、ありがとう」 私は感極まって、ぼろぼろと涙を食器の上に落とした。 ディーターは、私の頭を抱き寄せ、なだめるように手で撫でた。 それまで固唾を飲んで行く末を見守っていたらしい、カフェテリア中の人たちが、私たち3人の笑顔を見て成り行きを察したらしく、歓声と拍手で祝福してくれた。 「あ、そうや。円香。もうひとつ、言うとく」 「え?」 「ディーターのHIV検査は、もう済んどるからな。陰性やったから安心しろ」 「……」 「こいつ、ユーウェンのときに不特定多数の女と関係してたみたいやからな。念のため調べといたほうが、安心やろ」 えっ。ええーっ! ディーターは、しょんぼりと謝った。ごめん、円香。 この幸せなシーンの真っ最中に、そんなこと言うか。親父。 さては、ゆうべ親子の語らいをすっぽかされたことを、よほど根に持ってるな。 その日の午後、私たち3人はケルンの繁華街に繰り出した。 ケルンの町は、実はそんなに大きくなく、徒歩でもけっこう回れてしまう。 町のどこからでも必ず見えるという、ケルン大聖堂。間近で見ると首が痛くなりそうに大きい、壮大なゴシック様式と、内部の美しいステンドグラス。 外のらせん階段を何百段も昇って、展望台に行った。高所恐怖症の人には決して勧めないが、いい景色だ。 夕方になると、人々でごった返した地下の居酒屋で祝杯をあげた。まわりの歓声があまりに大きく、会話が成り立たないので、飲んで飲んでとにかく飲みまくる、しかない。 私はまだ18だが、こちらでは成人扱いだからと、生まれて初めてジョッキでがぶ飲みした。 ここの名物はケルシュビール。豚の血で作ったというブラッドソーセージをかじりながら、何杯でも飲めてしまいそう。 ディーターが酒が底無しの強さなのは、こういうところで生活していたからだろうか。 「アイルランド人も酒が強いからな。どっちにころんでも、酒飲みやろう」という父も、相当な酒豪だ。 これまでも父とディーターは、こうやってときどき病院を抜け出しては、居酒屋に来ていたらしい。 なんか、いい。 父親と彼氏がこんなふうに、いっしょに飲んでるのって、いい。 その夜私は、病院の前でディーターと別れると、おとなしく父の住む職員寮に引き上げた。 部屋は、2ベッドルーム。簡単なキッチンがついている。 父は、鼻歌など歌って、なんだかご機嫌だった。 シャワーを浴びてパジャマに着替えて、父の脱ぎ捨てたズボンやシャツをハンガーにかけていると、それまでベッドの上でテレビのリモコンをいじっていた父が、唐突に聞いた。 「円香。ゆうべ、ちゃんとエッチできたか?」 「はあ? 何よ、それ」 「だから、ちゃんと最後までいけたか、という意味や」 「そ、そりゃ、その、はあ、あれ」 意味不明のセリフで肯定すると、 「そうか」 「なんやの」 「ディーターはな。この1年、マスタベーションも、ようせんかったんや」 えっ? 「ケヴィンのときの、叔父に性的虐待されてた記憶があまりに生々しくてな。人格統合されてから、かえっておかしくなった。自分の精液の匂いをかいだだけで、そのときの恐怖が蘇ってしまうらしい」 「……」 何と言っていいのか、わからない。 「おまえとの結婚を決意するまでのあいつが、どんな苦しみにもがいていたか、おまえにはわからんやろう。俺から言うことでもないしな」 「……ん」 「おまえと、ちゃんとエッチできたってことは、あいつはそれを乗り越えられた、ということなんや」 「そう……なん」 「おまえみたいな、なんでもない普通の女の子が、何でこんなにディーターに力を与えられるのかわからんけど、とにかくおまえのおかげで、あいつは病気を克服できた」 「うん……」 「けどまだ、辛いことはいっぱいあるかもしれへん。良くなったと思たら、悪くなることもあるかもしれん。おまえも、そこらへんは覚悟せいや」 「うん」 「でも、絶対にこれだけは信じてくれ。心の病は、いつか治る。必ず、治る。本人もまわりも、それを信じることから出発せにゃならんのや」 「うん」 私は、最後は力をこめて深くうなずいた。 「不思議やね。お父さん。わたし、お父さんとこんなに話ししたのは、初めてみたいな気する。おまけにエッチの話まで。普通、父娘でこんな会話せえへんよ」 「親子の会話や、あらへん。俺はディーターの主治医で、おまえは俺の助手。パートナーとして患者の相談にのってもらってる、みたいなもんや」 父は、そう言って大あくびをして、横になった。 私は涙を浮かべて、後ろを向いた。 今までの人生で、私は父に何も相談してもらえなかった。 母が交通事故にあったときも、臨終のときまで父は隠した。 ドイツに行くということも、決まるまでひとことも話してもらえなかった。 大事なことは、何も。 それが父の私に対する愛情のかたちだとは、よくわかっていながら私は寂しかった。 だけど今、父は私を助手と呼んでくれた。パートナーと。 長い間のわだかまりが融けたことが、私には嬉しかったのだ。 ケルンというところは、よくわからない。 最初の日は、そう寒くないと感じた。 その翌日は、雪の降る極寒が待っていた。 そして今日はまた、春を思わせる暖かさが訪れた。 ディーターの話によると、同じ月に雪が降ったり、いきなり熱波が襲ってきて30度を越すということもあるらしい。 道理で父は、日本を立つ私に、夏服と冬服を両方持って来いという指示をよこしたはずだ。 ディーターと私は、暖かさに誘われるようにして外へ出かけた。 大学は、ライン川沿いの中心地から見ると、町の南西にあたる。 大学の中枢が建ち並ぶ、中央の「ウニヴェルジテート通り」を北に向かった。 彼は、義足をつけていることを全く感じさせない足取りで歩いている。 多少前よりゆっくり歩いている気はするが、背の低い私にとっては逆にありがたい。 「あれが、俺の通っている、コンピュータールームがあるところ。教育学部」 歩きながら、構内のあちこちを説明してくれる。 「他に、なんの講座を取ってるの?」 「日本の歴史、数学、キリスト教」 「なんや、ばらばらだねえ」 「しかたないよ。病院の朝の診察時間は出られない。夕方や夜も、だめだって言われる」 「つまんないね。早く、退院できるといいね」 それにしても、ケルンは本当に教会の多い町だ。 何ブロックか歩くごとに、壮麗なロマネスク様式の、あるいは日本の女の子の好きそうなかわいらしい教会が見えてくる。 裏通りなんかも中世の佇まい、そのままだ。 さすがに、ドイツの京都、と呼ばれているだけのことはある。 「でも、ほとんどは、空襲で焼けてしまった」 ディーターのことばに私は、えっと驚く。 大聖堂の周辺以外は、第二次世界大戦時、連合軍の激しい空襲に襲われ破壊されたという。 今の昔さながらの町並みは、戦後、以前と全く同じに建て直そうとした、人々の努力の賜物らしい。 そう思って町を眺めると、日本と同様の敗戦の混乱の中で、自分たちの町と歴史を何よりも大切にしたこの国の国民の誇り高さを、うらやましくさえある。 私の住む夙川も多くの古い建物を震災で失い、それを保存することもできずに、跡地をマンション群にしてしまった。後世に遺すことの大切さと難しさを、思う。 町をどんどん北に上がると、やがてとてつもなく広い緑の芝生が見えてきた。 公共墓地だった。 途中で花を買い、中に入る。 日本の墓地と違い、公園のようだ。豪奢な十字架の墓や、ただ地面を四角く切り取っただけの石碑が、個性的に並んでいる。 ディーターは、その中の一つの墓の前で立ち止まった。 「円香。俺の、父」 まだ真新しいりっぱな石碑には、"Otto Sigmund Gruenewald 1926 - 1999" と刻まれていた。 「その隣に、父の弟がいる」 となりの墓はかなり古びた色をしていて、そこには、"Dieter Matthaus Gruenewald 1927 - 1942" とあった。 私は、ぶるっと身を震わせた。 ディーターと同じ名前の人。ケルンの大空襲で命を落とした、グリュンヴァルト博士の弟。 博士はディーターの人格が現われたとき、死んだ弟の生まれ変わりではないかと思ったと言っていた。 しかもこの人は15歳で亡くなっている。あのときのディーターも15歳だった。 偶然の一致ではないと博士が思ったとしても、不思議ではない。 人知と時空を越えた事柄に出会ったような気がして、私はしばし呆然とした。 ようやく物思いから引き戻されると、花束を二つに分けて、博士と弟さんの墓に供えた。 にわかカトリック教徒の私はどう祈っていいかわからず、とりあえず十字を切って冥福を祈った。 目を開くと、すぐ背後から高い人影が私の上に落ちていた。 「ディー……」 言いさして、身を硬くした。 この気配は。 ディーターじゃ、ない。 私は恐怖に目を見開きながら、とっさに後ろを振り向いた。 §4. 「円香さん」 ゆっくりと身構えながら立ち上がる私に、彼は静かに呼びかけた。 そこにいるのは、まぎれもなくディーターだった。 でも、ディーターじゃない。 若く美しい顔に浮かんでいる穏やかな微笑みは、年を経た知性を感じさせる。 そう、老獪さとでも呼べるもの。 「はじめまして、円香さん。驚かせてしまいましたね」 彼はほっそりした指を、身体の前で組み合わせた。 「いえ、実を言えば、1度だけお会いしたことがあります。夙川の川岸でベンチに座っていたとき……、グリュンヴァルト博士の話をしましたね。『首がない』とドイツ語で呟いた。あれは私です」 私は震えて、うまく頷くことができなかった。 「日本語が話せるの……?」 「他の人格が話せる言葉は、すべて話せます」 「あなたは、誰?」 「私には名前がありません。ダニエルに多くの人格が生まれた頃から、私もいました。私は表に出ることがなく、ただ見守るだけ。そういう存在です」 「お父さんは、ディーターの人格は統合されたって言ってたのに……」 「表面的には、そうです。でも、この子の心の奥深くにはまだ消滅しきれない意識が残っています。特にユーウェンの意識はまだ強く、大きい」 『見守る者』は悲しげに睫毛を伏せた。 「この子はまだ、すべての記憶を取り戻すことができません。あまりに残酷な思い出は心を壊してしまう。私は記憶を封じる役目のために今も存在しています。ただ円香さん、あなたには真実を知らせておきたかったのです」 「何を……?」 「グリュンヴァルト博士が殺されたときのことです」 私は爪が掌に突き刺さるほど拳を握りしめ、今度は深く頷いた。 「教えてください」 「この子は日本へ発つ前の数日間を、博士とスイス国境の別荘で過ごしていました。その身体をユーウェンはいきなり乗っ取り、書斎にいるグリュンヴァルト博士を襲いました。ナイフで脅し、殴りつけた。そして仲間を邸内に招じ入れ、金庫を開けるように迫りました。 目的を達したあと、口封じにナイフを突き立てようとしたユーウェンに向かって、博士は微笑みました。 まるでそこにいるのは愛するディーターで、並んでいっしょに釣りをしているかのように微笑んだのです。 それを見たとき、この子はありったけの力でユーウェンから意識を奪った。 身体を麻痺させた。 しかし咄嗟にそばにいたジャニスが、机の上のナイフを取って博士をうしろから刺したのです。 目の前で父親が殺されるのを見てしまったこの子は、もう限界でした」 私は嗚咽をもらさないように歯を食いしばって聞いていた。 「私は初めて、この子の替わりに表に出ました。だがユーウェンに私の正体を悟られるわけにはいかなかった。私に気づけば彼の憎悪は私に向けられ、私は消滅していたでしょう。それほど彼は強いのです。だから私は偽装しました。英語を理解することができないカンボジア人の新しい人格として」 「あ、あなたが『死体処理屋(ボディスウィーパー)』?」 「ユーウェンはそう呼んでいましたね」 『見守る者』は、少し眉をひそめて不快そうに笑った。初めて見せる人間らしい表情だった。 「私はことばが理解できないふりをして、テロリストたちの制止も聞かず、黙々とグリュンヴァルト博士の胴と首を切断し始めました。さすがの彼らも気味悪げにその場から立ち去り、手に入れた証券類を金に換えるため出てゆきました。それが私の狙いだったのです。 私は首を、ジャニスの指紋のついた凶器のナイフとともにくるんで、見つからぬよう床下に隠しました。そして胴体のほうは庭に埋めました。私はまた、この件にユーウェンが関与していることを知らせるために、机の上にドイツ語のメモを残しました。『悪魔が生き返った』という――。」 「あれは、博士が書いたんじゃなかったんだ……」 「私が博士の筆跡を真似て書いたものです。戻ってきたテロリストは庭の死体を確認しましたが、私の工作には気づきませんでした。 それにその庭は秋になれば、庭師が木を植え替えるために掘り返すことも、胴体が発見されれば当然首の捜索も始まり、ほどなく無実の証拠であるナイフも発見されることにも、奴らは気づきませんでした」 「なぜ、わざとそんなことを?」 「この子には、時間が必要だったのです。あのときすぐに博士の死を知らされれば、この子はもう崩壊してしまったでしょう。日本であなたに会えてよかった。円香さん。あなたのおかげでこの子は強くなることができました」 「え……、あ、あの……」 「この子をよろしくお願いします」 そう言った『見守る者』の目には涙がにじんでいた。まるで子どもを心配する親のような。 そうか。この人は亡くなったダニエルの両親なんだ。 真実かどうかはわからない。でも、無念を遺して死んだ彼の両親の愛情が、彼の中に人格となって現れていた。それはありうることのような気がした。 「この子はまだ戦わなければなりません。自分の身体に残っているユーウェンの意識と。悲しい記憶と。でもあなたがそばにいてくれれば、勝つことができます。あなたはこの子のすべてを包んでやってください。ユーウェンであった部分も含めて、愛してやってください」 「……はい」 「もうお会いすることはありません」 彼はすっと瞼を閉じた。 次に瞳を開いたとき、彼はディーターだった。 怪訝そうに、彼は私を見つめた。 私は彼の身体に寄り添って、そっと腕を回した。 ねえ、聞いて。ディーター。 グリュンヴァルト博士は、本当にあなたのことを愛していたんだよ。 だから、殺される瞬間でもちっとも恐くなかった。本当のディーターの姿だけが見えていたから。 それに、あなたの本当のお父さんとお母さんも。 あなたがどんな辛いときでも、二人はいつも見ていてくれた。 そのことだけは、忘れないでね。 意味はわからなかっただろうけど、彼は「うん」と言って私の頭を抱きしめた。 私はもう一度彼といっしょに、グリュンヴァルト博士のお墓の前にひざまずいた。 天国で、もうひとりのディーターと仲良く暮らしてください。 こちらのディーターは、私が必ず守りますから。 病院に戻ると、私たちは父の診察室に呼び出された。 「けさ担当医師連絡会議が、緊急に招集されてな。ま、ディーターのことなんやが」 緊張していたから見抜けなかったが、そのときの父は悪童のように笑いを噛み殺していたのだった。 「非常にまずいことになってな。病室に女の子を連れこむような破廉恥な患者は、前代未聞だという意見が続出したんだ」 何と答えてよいか私たちが迷っていると、父が追い討ちをかけた。 「それでつまりは、そういう患者はもう、うちでは扱えない。早々に追い出したほうが良いだろうという結論に達した」 あれ。お父さん。それって、つまり。 「明日中に荷物をまとめて出てってくれ。明日中やぞ。あ、主治医の退院許可書は、今晩書いとくからな」 「ほ、ほんとうですか。ドクトル」 待ち望んでいた退院。私たちは飛び上がって喜んだ。 「ああ、言い忘れてた。行くとこがなければ、ちょうど今大学の学生寮に空きがあるそうや。ここの副学長は俺に賭けポーカーで借りがあるからな。よもや嫌とは言わんやろう」 へえ、父はもうそんなことまで、根回ししていたのか。 「あ、それと、もう一つ」 「まだ、あんの? 心臓に悪い。もったいぶらないでよ」 「3月17日は、なんか予定あるか? 空けといてほしいんやが」 「何があるの?」 「おまえたちの結婚式や。ここのスタッフ一同が、もうさっそく計画をこねあげとるで」 次の日の昼食時、ディーターの退院を祝うパーティーが開かれ、婚約者として紹介された私は、病院中の医師・看護婦・職員と患者さんたちから、握手と抱擁とキスを受けて回ることになった。 ディーターが彼らの息子のように愛されていたこと、また彼もここの人たちを家族のように愛していたことを知り、嬉しさと感激にあふれたひとときだった。 午後は、彼の病室の整理を手伝った。 と言っても、何にもなかった。この1年に増えたものといえば、中古のノートパソコンと、プログラム関係の本が数冊だけ。 引出しには、私の送った13通のラブレターがそっくり取ってあった。今見ると、我ながら照れる。 その他には、5枚の写真があった。 うち3枚は、見覚えのあるもの。祖父や藤江伯母さんと食事のとき写した集合写真。京都で鹿島さんが撮ってくれた、私とふたりの写真。それと、いったい誰にもらったのか、私がひとりで写っているスナップ。 あとの2枚は、ドイツで撮ったものだ。 そのうち1枚は、白髪の老人と、その横でカメラを嫌い、ふてくされたようにレンズから視線をそらせている17歳くらいの彼が、写った写真だった。 「これって、お義父さん?」 私は、くぐもった鼻声で尋ねた。 さっきの昼食会で、恥ずかしながら私は最後の最後で、みんなの前で大泣きしてしまったのだ。 「うん」 「優しそうな、人だね」 青い湖と白い建物を背景にした、美しい場所だった。 「ここ、どこ?」 「ボーデン湖。これが、父の別荘」 「えっ。この、お城みたいなのが?」 その夜、私が父に聞いた話によると、グリュンヴァルト家は、古くからケルンに住む名門貴族の家柄で、かなりの資産家だったというのだ。 この別荘やケルン郊外の自宅など、不動産だけでも1000万マルクは下らないそうだ。 「だから、テロ組織が、目をつけたんやろな」 結局奪われたのは、現金や銀行預金、有価証券類だけだったのだが、それでも残った莫大な財産は、博士が生涯独身だったこともあって、養子のディーターがすべて相続するはずだったという。 けれど、彼は相続を放棄した。 複雑な思いが、彼にはきっとあったのだろう。 博士の遺言で定められていたことは、相続する者が誰もいなかった場合は、聖ヘリベルト大学内のさまざまな基金に寄付されるというものだった。財産は遺言どおりに、学問の発展の礎となった。 「もし、ディーターがこれを全部相続してたら……」 彼は、元名門貴族の後継ぎ。 私は、このお城の女主人となっていたのだ(殺人現場だということは、この際考えない)。 今でもスーパーで28円のもやしなんか手に取ってると、もったいなかったなあという気持ちがよぎる。 ほんの、一瞬だけ、ね。 話を、もとに戻そう。 最後の1枚の写真を、私はめくった。 それはさっきの写真より、さらに昔。 ディーターが最初にこの病院に入院していた頃の1枚だった。 今の彼とは、似ても似つかない。 手足が長い木の棒のように痩せこけて、目だけが異様に大きい、どう見ても少女にしか見えない15歳の彼が、ファインダーを見上げてうずくまっている写真だ。 ユーウェンがハンガーストライキで餓死寸前になり、一時は35キロまで体重が落ちたと言っていた。そのあと、ディーターの人格が出現した、その直後の写真だろう。 「これは、長いあいだ、俺のたった1枚の写真」 ディーターは私からそれを受け取ると、じっと見つめた。 北アイルランドにいた頃の写真は、1枚も残っていない、という。 「俺は、これに写っている自分が大嫌いだった。だからずっと、写真が大嫌いだった」 ああ、そうだったんだ。 ディーターは、たった1枚のこの写真の姿を、これまでずっと自分だと思いこんで、自信を持てずに生きてきた。 だから、写真に撮られることを、あれほど嫌がったんだ。 教えてあげたい。今の彼がどんなに素敵な男性になったのかということを。 退院の準備ができて、からっぽになった病室を出ていくとき、彼は少し足を止めた。 今まで2回にわたって、3年間暮らした部屋。 どんなにか、いろいろな思い出があるのだろう。 けれどディーターは、すぐにそれを振り切り、私ににっこりと笑って歩き出した。 |