レイは、キャプテン・ルームのベッドに、崩れるようにして倒れこんだ。 目の奥にしこりができて、ズキズキと脈打つように痛む。クシロを出航して17日目。睡眠時間は平均して二時間そこそこだった。 太陽からの距離と位置によって、またフレアなどの太陽の表面活動の変化によって、太陽風はいつも一定ではない。 そのために、絶えず人力による細かいプラズマセイルの微調整が必要になる。そのデータをコンピュータに蓄積するのも、今回のミッションの重要な目的なのだ。 YX35便は、キャプテン・スギタ以下メカニック班の活躍によって、その都度、適切な帆の角度調節を行ない、またYR2便にも報告を逐一送ってきてくれる。彼らがいなければ、たとえレイと言えども、ひとりでこのシップを帆走することは不可能だった。 今は、慣性航行に入り、太陽風も安定している。数時間くらいは休息が取れそうだった。 ユナ。 睡魔の開いた門に吸い込まれていく途上で、レイは妻の名を呼んだ。 『レイ』 彼女の幻影は、いつものきらめくような微笑を返してくれた。 ユナ。会いたい。 おまえだけが、俺のただひとつの居場所。帰り着く港。 だが、睡魔のヴェールにからめとられて落ちようとした瞬間、レイの口から絶望の呻きが漏れた。 妻が青い瞳の男に寄り添っている姿が垣間見えたのだった。 目を覚ますと、舌が上あごに張りつくほど口の中は干からびていた。 デスク上のインターコムがせわしなく点滅している。 「なんだ」 『キャプテン。至急、ブリッジまで来てください』 「――わかった」 返答すると、レイは首筋を手の甲でぬぐった。ジットリといやな汗をかいている。 すぐに起き上がり、ブリッジへ向かった。 ブリッジには、大勢のクルーがたむろしていた。中には服務中なのに勝手に持ち場を離れている者もいる。 「何をしてやがる。ここは、パーティ会場か」 レイは大声で叱責したが、すぐに口をつぐんだ。ひとりの男が、群れの中から、つかつかと進み出てきたからだ。 ヨーゼフ・クリューガー二級航宙士だ。 「相談して、意見がまとまった。俺たちYR2便のクルー全員は、待遇の改善を要求する」 「待遇の改善だと?」 レイは、ドーミエの風刺画のような皮肉な笑いを浮かべた。 「それは、きちんと仕事をしている人間のことばだぜ。エサに文句を言ってる豚のほざくセリフじゃない」 「まっとうな要求も聞き入れられないというのなら、キャプテンに対して全員で実力行使に出るつもりだ」 「銀河連邦法によれば、定期航路上のシップ内での叛乱は、懲役10年以下の重罪とあるが?」 「あんたが告訴すれば、の話だろ」 クリューガーは、低く笑った。「あんたみてえなプライドのクソ高い人間が、自分のシップでクルーが叛乱を起こしたなんて事実を、公に認めるわけはねえよ」 「お褒めにあずかって光栄だな」 「床の塵を舐めるのは、てめえだ。今から、このシップの指揮は俺が取る」 クリューガーが指をならすと、そばにいた数人がレイの体を拘束しようと腕を伸ばした。 レイは即座に上体をひねると、重いパンチを最初の男の腹に浴びせた。二人目と三人目は、のけぞった男とともに、バランスを崩して倒れた。 その隙に、ブリッジの扉に向かって突進した。途中でふたりが進路に立ちふさがったが、肘と拳を巧みに使って、左右両側に吹き飛ばした。 ドアから廊下に飛び出すと、迷わず後部ブリッジを目指して疾駆する。前方ブリッジが破損あるいは占拠された場合のために、サブ操縦システムが後部ブリッジに備えられているのだ。 そこに立て籠もれば、コンソールを通して船内のすべてを掌握することができる。入室のための専用パスワードを知っているのは、彼だけだ。 22人対ひとりの壮絶な戦いが始まった。 敵は、熟練したコマンド部隊のように連携して攻撃を仕掛けてきた。照明はすべて切られ、煙幕や防護ネットなど、船内の非常用トラップまでも作動する。もちろん、YX35便と同型のこの機を知り尽くしているレイにとって、そんなものは足止めにもならなかった。 クルーたちは今度は、容赦なく凶器を使って襲いかかってきた。光線銃こそ厳重な管理下にあって持ち出せないものの、資材倉庫のパイプやキッチンのセラミックナイフまで用意している。それでもレイの鉄拳は、あえなく彼らを返り討ちにし、ことごとく通路の壁に叩きつけて気絶させる。 彼らの顔を確認するたびに、レイのはらわたは煮えくり返った。 全員がクリューガーの叛乱に心から賛同しているわけではないだろう。集団心理だ。大勢から孤立する恐怖と猜疑心のために、もはや誰も正常な思考ができなくなっている。 そして、それはレイとても同じだった。孤立無援の状況が長引くにつれ、手負いの獣の持つ凶暴さが自分をむしばんでいくことを、レイは荒い息の下で自覚し始めた。 そのうちに、どちらかに死人が出る。 (早く、誰か気づいてくれ) わずか20キロという、手が触れられそうな位置にYX35便が伴走しているのが、唯一の希望だ。通信が途絶えたことをチェンかロロが気づけば、何らかの対策を講じてくれるに違いない。 叛乱が起きて一時間が経過した。 レイはまだ安全地帯にたどり着けない。後部ブリッジに至る通路の角で立ち往生したままだ。 メカニックルームの扉の陰に、数人が待ち構えている気配がする。レイの計算によれば、三人。 クルー名簿の、ひとりひとりの経歴を思い出す。元警官。連邦軍退役。ヤミ商人上がり。最後の砦には猛者がそろっている。 慎重に間合いを計ってから、一気に通路に走り出した。呼応して大男たちが物音も立てずに飛びかかってきた。 双方とも声もあげない。闇の中――文字通りの意味の、暗闘だ。 ひとりに蹴りを入れ、もうひとりに掴みかかったとき、背中のあたりに小さな痛みを感じた。 「油断したな」 背後から、クリューガーの野太い声が響いた。「それとも、キャプテン・レイ・三神も、ただの人間だったということか」 手足からすっと力が抜けていく。背中に刺さったのは、麻酔剤の針だったのだ。 「人間じゃなきゃ……なんだと思ってた」 「決まってるだろ、悪魔さ」 レイは、喉の奥で引きつった笑い声を上げると、昏倒した。 「ええい、くそ!」 一級航宙士ランドール・メレディスは、YX35便の主操縦席のコンソールをガンと叩いた。ブリッジ中のクルーが驚いた顔をして振り向く。 「なんて操縦をしやがる。まるで酔っ払いを肩にかかえて歩いてるみたいだ」 船長のスギタが、すばやく近寄ってきた。 「YR2便の軌道が定まらないのか」 「ああ。昨日からうすうす気づいてはいたが、どんどんひどくなってる。キャプテンなら、居眠りしながら操縦レバーを握っていたって、これよりは百倍マシだぜ」 「まさか、三神船長以外の人間が?」 「ありえない。今度のプロジェクトに失敗は許されないんだ。ほかのときならともかく、あいつがこんな下手な航宙士に操船を任せるとは思えない。――もっとも、そうするしかない状態になっているなら別だが」 スギタとランドールは、顔を見合わせた。そして、通信席のチェンに振り向いた。 「向こうの通信士にずっと、キャプテン・三神と直に話したいと申し入れているのですが」 チェンは強ばった顔で報告した。 「それで」 「キャプテンは今、手が離せないと……」 ランドールは、やおら立ち上がった。 「俺が様子を見に行ってくる」 「冗談じゃない。おまえがいないと、このシャボン玉みたいな壊れやすい羽根をつけたシップを、誰が操舵するんだ」 「エーディクがいる。あとを頼んだ。メカニック、小型艇の準備をしてくれ」 「ええっ。僕ひとりじゃ、とても無理です。それより、僕が行きますってば」 「バカもの! 航宙士たちが船を離れて、どうする」 ブリッジに闘牛のごとく飛び込んできたのは、タオ機関長だった。 「わしが行く。こんなことになったのも、YR2便のクルーの危険性をうすうす気づいていながら見過ごした、わしの責任だ」 「ま、待ってください。こういう場合は、保安主任のこのわたしが」 「お祈りの時間じゃないのか、ニザーム」 「ええい、みんな黙れ!」 スギタが叫んだ。「とにかく、冷静になれ!」 キャプテン・三神の危機かもしれない時に、YX35便のクルーたちに冷静になれというほうが無理だった。 ブリッジにある仮眠用リクライニングチェアの上で、死んだように眠っていたレイが身じろぎした。 「おい、ナクラ。また睡眠剤をぶちこんどけ」 「これ以上は無理だ」 日本人ドクターは患者から顔を上げ、操縦席の男をにらみつけた。 「もう今まで二回も睡眠剤を注入している。これ以上意識を奪い続けると、衰弱して死ぬぞ」 「栄養剤でも何でも、いっしょに投与すればいいだろ」 クリューガーは怒鳴り返した。 何もかもうまくいかない。こんなはずではなかった。 キャプテン・三神を拘束し、ヤツの窮屈な命令から解放されて、好き勝手に火星までの航程を楽しむつもりだった。 だが、シップが言うことを聞かないのだ。巨大な皮膜とプラズマセイルを周囲に展開している機体は、思ったように操れない。反応が鈍いうえに、太陽風の風圧が変わるたびに左右に大きく振られてしまうのだ。 そんなはずがあるか。こいつが操舵していたときは、凪ぎの海を滑るがごとくに真っ直ぐ進んでいたのに。 叛乱に賛同していたクルーたちも、彼のことを次第に不信の眼で見るようになった。 「くそっ」 目の前のモニターに向かって毒づく。 二級ライセンスしか持っていなくても、腕は一級だと自信があった。それなのに、この男との間にこれほど高い壁があるというのか。 『YR2便、応答しろ!』 ひっきりなしに、YR35便からの来信が入る。 「どうする?」 「無視しろ。スピーカーのスイッチを切っちまえ」 ロシア人通信士のレフは、何か言いたげな様子でそっぽを向いてしまった。 『YR2便、何をしてるんだ!』 スピーカーの音は止まったが、なおもコンソールからかすかに叫び声が漏れ続けた。 『気づいていないのか。右舷前方2度の方向に廃棄シップの残骸、距離およそ0.5光秒!』 「なんだと」 YR2便は騒然となった。 「本当だ……」 「バカやろう。なぜもっと早く発見しなかった! この速度でぶちあたったら、ただじゃすまんぞ」 「シュミレータの予測は?」 「機体の右舷ぎりぎりをかすめる。だが、プラズマセイルを支えている皮膜システムの一部に衝突する!」 『YR2便!』 今度は、YX35便のキャプテン・スギタの咆哮が、耳を焼くほど轟いた。 『落ち着け。今すぐに左舷に5度回頭しろ。こっちも、それに合わせて同様に回頭する』 「できねえ……」 クリューガーの表情が凍りつく。 『なんだと?』 「操縦レバーが重くて動かねえ……帆が風をはらみすぎているんだ!」 『そんなバカな。パワーステアリングシステムがあるだろう』 「利かないんだ。ちくしょう、モーターの点検をサボりやがった」 『肩の骨が折れる気で引け!』 「やってる! だがビクともしねえ。今だけプラズマの磁力を止めてくれ」 『今さら遅い。磁場が消えるには、数分かかる!』 「くっそーっ」 自暴自棄になり、レバーを放そうとしたクリューガーの手首を、下から何者かの拳ががしりと掴んだ。 「ひいっ」 航宙士は、幽霊でも見たような悲鳴を上げて、のけぞった。 それは、キャプテン・三神だった。 すべてのクルーの目がモニターに釘づけになっていた隙に、リクライニングチェアから主操縦席まで、床を這いずって来たのだ。 「おまえの……手を貸せ」 焦点の合わぬ目をしながらも、レイは不敵に笑った。 「俺の手を……操縦レバーの上に固定しろ……それだけでいい」 クリューガーの喉が力なくゴクンと鳴る。もう抗う気力をなくしているのは、明らかだ。 「まさか、そんな。信じられない」 ドクター・ナクラは、震える声でつぶやいた。「あれだけの睡眠剤を投与したんだ。動くのはおろか、意識だって回復するはずがない!」 レイは、本来彼がいるべき主操縦席に這い上がるようにして座ると、自らの両手をレバーの上に乗せる。そして、クリューガーの手をその上に包み込むように置かせた。 「ぐうぅっ」 低いうめき声をあげたかと思うと、彼の握る操縦レバーは、まるで油を塗ったレールに乗ったようにスルスルと動き始めた。 不安定な振動を続けていた機体は、機嫌が直った貴婦人のように、しずしずと向きを替えた。 「左舷5度――正確に5.0度に回頭しました。右舷に浮遊物通過。機体および皮膜に損傷なし」 キャプテン・三神はレバーに手をかけたままコンソールの上に突っ伏し、ふたたび意識を失った。 「すごい……」 誰かが感極まってつぶやき、かくてYR2便の叛乱は終わりを告げた。 銀河連邦時の深夜、シェフのスミトロは、ひとりでキッチンのあと片付けをしていた。 いつも何時間もかけて鍋を磨き、あらゆるところを念入りに消毒する。それが食中毒を出して以来の、彼の一日も欠かさない習慣だ。 ひゅんとダイニングルームの扉が開いた。立っていたのはレイ・三神だった。 「夜中にすまんな。腹が減ってる。何か食うものはないか?」 「あ、あれだけ夕食を召し上がったのに?」 「三日間飲まず食わずだったんだぜ。その分を体が取り戻したがってる」 「すみません。夕食の残りは、腐るといけないので全部廃棄してしまって……何か作ります」 「ああ、いい。俺がやる。おまえは、そばで手伝ってくれ」 キッチンに入り込むと、レイは熟練のシェフさながらに、棚から次々と食材や調味料を取り出した。 まず、鍋にたっぷりの湯を沸かした。それから、生ハムをスライスし、唐辛子とアンチョビを刻む。 パスタを鍋に入れ、ルッコラをちぎり、ガーリックを包丁の腹でぎゅっとつぶす。本業のスミトロが見とれるほど、鮮やかな手さばきだった。 「キャプテン。すみません」 「なんだ」 「わたしは、あの叛乱に加わりました」 「もういい。すんだことだ」 「本当はキャプテンに味方したかった。隙を見て、奴らの手からキャプテンを救おうとしました。なのに怖くて、できなかったんです」 「スミトロ。てめえは、あらゆることを怖がってるんだな」 「え?」 オリーブオイルに、ガーリックと唐辛子が加えられ、フライパンからすばらしい芳香が立ち昇った。 「人生にはタイミングというものがある。それは料理も同じだ。おまえは食中毒を恐れるあまり、いつもそのタイミングを逸している。人生にも料理にも、歯ごたえってもんが必要だ」 「アル・デンテ(歯ごたえ)……ですか」 「ああ、そのとおりだ」 レイはフライパンを操る合間に片手を上げて、キッチンの隅のワインセラーを指差した。「船長命令だ。とっておきの25年産のシャブリを開けてくれ。それと皿とグラスをふたつずつ」 「……わたしも?」 アル・デンテに茹で上がったパスタが、フライパンの中で、銀河の星々のように具とからめられ、皿に盛りつけられた。黄金色の白ワインが、なみなみと注がれた。 ふたりはテーブルに向かい合って、笑顔でグラスを打ち鳴らした。 「乾杯。俺たちの歯ごたえのある人生に」 叛乱の主謀者たるヨーゼフ・クリューガーは、レイの命令により倉庫の中に軟禁されていた。 だがこれは、無用な私刑から彼を守る、配慮のための措置だったと言えよう。 入ってきたキャプテンを胡散臭げに見上げると、クリューガーは吐き捨てるように言った。 「火星に着いたら、俺を当局に引き渡すつもりか」 「いや、そんなことはしない」 「ふん、やっぱりな。クルーに叛乱を起こされた船長という汚名が怖いんだろう」 「その程度のことで傷つくような名なら、最初から惜しくねえよ」 レイはコンテナのひとつを選んで、腰をかけた。 「代わりに、おまえには別の取引を持ちかけるつもりだ」 彼の差し出した電磁紙を受け取ったクリューガーは、内容をひとめ見て眉をひそめた。 「なんだ、これは……」 「参加しないか? 特別待遇で迎えてやるぜ」 「冗談だろう。いくつ命があっても足りねえ」 「こんなチャンスは逃したら、二度とやって来ないと思わないか?」 「チャンス…・・・?」 「もしおまえが根っからのシップ乗りなら、これは最高のチャンスだ」 レイを見つめ返したクリューガーは、ぶるっと震えた。それほど彼の全身からは、宇宙への情熱が太陽のフレアのごとく立ち昇っていたのだ。 「考える時間をやる。じっくり考えれば、おまえは絶対にノーとは言わないはずだ」 「あんたは、どうなんだ?」 彼は、思わず引きずられるようにして尋ねた。「あんたも、この計画に参加するつもりなのか」 レイはひとときのあいだ、逡巡して目を閉じていた。 「ああ……そのつもりだ」 「ふっ。へへ……」 クリューガーは突然、下卑た笑い声を上げた。 「面白い。そんなら、最高に面白くなりそうだぜ」 「最終選考は半年後だ。返事は地球に帰ってからでいい」 「ああ。わかった。せいぜい前向きに検討させていただくぜ」 彼を残して倉庫を出ると、レイはブリッジに向かう途中の廊下で立ち止まった。 (あと七日で火星に到着する) そして、五日間の停泊後、ふたたび地球に向けて出航。帰りのYR2便は、行きよりもずっと居心地が良くなっているはずだ。 平静を取り戻したクルーたちは、命令を下さなくとも、少しずつ自分の頭で考え、行動し始めるだろう。 帆は素晴らしい風をはらみ、シェフのスミトロは最高の腕をふるって、クルーたちを楽しませてくれるにちがいない。 そして一ヶ月後、YX35便とYR2便の二機は、磁気プラズマセイルの実験を成功させて、無事にクシロに降り立つ。世界中の人が彼らを拍手喝采して迎えるだろう。 だが、そんなことはどうでもいい。ユナに会えるのだ。 それも、たった二週間ではない。火星航路が閉鎖される期間いっぱい、まるまる四ヶ月ユナといっしょに過ごせるのだ。 レイは目眩を起こしたように、力なく通路の壁に寄りかかった。 俺は、気が遠くなるほどその日々を待ちわびている。そして同時にその日々を何よりも恐れている。 ――地球でユナとともに過ごす、最後の休暇を。 |