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ギャラクシー・オデュッセイ 1
〜 Galaxy Odyssey 1〜








『おはようございます。ただいま銀河連邦標準時、午前六時です』
 朝の定時コールが、リュカの枕元のスピーカーから流れてくる。
 寝覚めは最悪。起きる気がしない。何をする気も起こらない。
『本日の天気は快晴。北西の風、風速5ノット。絶好の航海日和です』
(この通信士の声は嫌いじゃない)
 頑なに瞼を閉じたまま少年は考えた。ときどき寒い冗談を言うのが玉にキズだけど。宇宙に航海日和などあるものか。
 航宙士のあいだでは彼女の声は【ギャラクシー・ヴォイス】と呼ばれていたのだと、父さんが教えてくれた。耳から体内に浸み込んでひび割れた神経を修復するような、やさしく柔らかな声。
 それでも、今のリュカには耳障り以外の何ものでもない。
 一時間ほど寝返りを打ってしぶしぶ起き上がると、サイドボードの【ギー】のボタンを押してルームサービスを呼んだ。【ギー】とは、このシップ全体を統括するコンピュータシステムだ。
 身支度をしていると、ドアが開く。
『おはようございます。今朝は何を召し上がりますか』
 大きな箱型の調理ロボットが、カタカタとパンこね機を回転させながら入ってきた。
「オレンジジュースだけでいい」
『承知しました』
 上部の窓が開き、ジュースの容器と、小さなキューブが乗ったトレイがせり出てくる。
 彼に必要な栄養を自動計算して、足りない分を固形キューブにして補給させるという仕組みだ。
 リュカはキューブを口に放り込むと、ジュースで飲み下した。
 ロボットは今も、このやりとりの一部始終を【ギー】に報告しているのだろう。まるで、生活のすべてを監視されているみたいで、息がつまりそうだ。
 朝食が終わったあと、することもなく部屋を出た。本当は学校に行く時間だが、リュカは、ここの学校が嫌いだった。口やかましい自分の母親が教師をしている学校に、誰が行きたがるだろう。
 このシップに乗っている15歳以下の児童は、十四人。リュカと同学年はひとりもおらず、半分以上が両親と同室扱いの幼児だ。テクノロジストの有志が科目を分担して教えている。
 リュカの父親は水と土壌浄化を専門とする環境エンジニア。そして、母親は大学の歴史学博士。三年前に発足した【第二次木星調査移民団】の家族での応募は、父親の発案だった。
 母と兄はすぐに参加に賛成した。母は移民団の書記として、16歳の兄はメカニック助手として登録名簿に記載された。だが、まだ子どもにすぎないリュカの意見は、ほとんど聞いてもらえなかったも同然だった。
 これからの十年間、この【ギャラクシー・フロンティア】号と、生命のかけらもない木星の衛星が、リュカの住む世界のすべてだ。
 地球では、かつての遊び仲間たちが今日もオーベルニュの緑の丘で思い切り駆け回っているのだろう。一点の翳りもない青空の下――仲間がひとり欠けたことも忘れて。


 出港から十日経った今でも、テクノロジストとシップクルーとの間には見えない壁がある。
『クルーは乱暴者が多いから、あまり近寄るなと親に言われた』
 学校で下級生たちが、秘密めかしてささやき合っているのを聞いた。そう言えば、母さんも同じようなことを言っていたっけ。
 シップクルーたちの姿は、廊下ですれ違うか、せいぜい両親とメインダイニングに行ったときに見かけるくらい。食事のときも、座る席は完全に別々だ。
 テクノロジストたちの席は、総じて静かだ。専門分野という壁に阻まれて互いのことをよく知らず、乗船して間もないために親しい人間関係も築けていない。
 その静寂に比して、シップクルーたちは騒がしく、よく食べよく笑う。部外者からは、その親密さは嫌悪とひとかけらの羨望の眼差しで受け止められる。
 クルーたちの中心にいるのは、いつもキャプテン・レイ・三神だ。
 このシップの総責任者。横暴な専制君主。乗務中は必ず誰かを罵るか殴っているという噂だ。
 最初のミーティングで、その声の荒々しさにリュカは度肝を抜かれた。彼のような高圧的な話し方をする大人は、今まで彼の回りにはいなかった。
 自分だけが正義だと思っているのだろう。力がすべての世界で、軟弱な人間は強い人間に容赦なく切り捨てられる。
(僕はあいつが嫌いだ)
 リュカをいきなり望まぬ航海へと連れ出した、抗いがたき運命。彼にとって、その象徴がキャプテン・三神なのだ。


 居住スペースのひとつ下の階層は、食糧生産セクションだ。
 シップ内とは思えないほど広々とした空間に人工太陽が輝き、水耕農場が広がっている。
 280種類以上の野菜、果物が、整然と区切られた巨大プランターの中で生命を育んでいる。
 住んでいた谷の豊かな緑とは比ぶべくもないものの、リュカはこのセクションに来るのが好きだった。ここへ来るときだけ、肺の底から深呼吸できるような気がする。
 ときおり空気循環装置がごおっと作動し、家畜用の牧草を柔らかく撫でていく。
「本物の風に吹かれているみたい」
 デッキの隣にいた女性が、農場を見下ろしながら突然ひとりごとを言った。
 その声にどこか聞き覚えがある響きがして振り向くと、黒い髪を後ろで束ねたアジア系の女性が同意を求めて彼を見た。「そう思わない?」
 シップクルーの制服を着ている。あいつらの仲間だ。
 リュカは頑なに返事をせず、視線を戻した。その拒絶も意に介さず、彼女は続けた。
「私は、ユナ。このシップの主任通信士をしているの」
 なるほど、声に聞き覚えがあるのも当然だ。毎朝、彼を起こす声はこの人のものだったのか。
「あなたは?」
「……リュカ」
 しぶしぶ名乗る。
「あなたのこと、前にも見かけたわ、リュカ。私もここが大好きで、ときどき来るの。ここの空気は湿っていて、生き物の匂いがして、地球にいるみたいで気分が落ち着くもの。シップの空気は、無味無臭で乾燥していて苦手」
「苦手? クルーのくせに?」
「ええ、でも私は月より向こうに行くのは、これが生まれて初めてだから」
「へえ?」
 思わず小さく揶揄の叫びを上げた。そんなシップクルーっているのか。
 急に会話が途切れ、再び彼女の方を振り向くと、顔色が死人のように蒼白だった。デッキの手すりにもたれかかるようにして、かろうじて体を支えている。
「どうしたの?」
 あわてて、数歩駆け寄る。
「……少し目眩がしただけ」
 彼女は目を閉じたまま背筋を伸ばし、しばらく呼吸を整えていた。ぎゅっと手すりをつかむ指先に、だんだんと血の気が戻ってくる。
「もうだいじょうぶ。心配かけてごめんなさい、ちょっと貧血体質なの」
 と、汗ばんだ額の髪をはらいながら、にっこり笑った。
(きれいな人。乱暴な人間ばかりだと思っていたクルーの中にも、こんな人がいたなんて)
 儚く、砂糖菓子のように脆く壊れやすい。
 この人も、どこまでも広がる無限の深淵に内臓が縮むのだろうか。床が崩れていきそうな錯覚に足がすくむのだろうか。
 息苦しさが絶えずつきまとい、閉じ込められた感覚におびえるのだろうか――僕と同じように。
 だから僕みたいに、地球を恋しがっている。緑と風のある場所へ逃げてくる。
 彼女は毎朝スピーカーを通して、妖精のように軽やかに語りかけてくる。あの声はどうやって出しているのだろう。とても、つらくて苦しいはずなのに。
 あふれる共感と好もしい思いに駆られて、彼女の胸のネームプレートに目を落としたリュカは、驚愕の事実に気づいた。
『ユナ・ミカミ』
 あの悪魔ベルゼブルのような船長と同じ姓。
「あなたは、キャプテン・ミカミと同じ日本人? 親戚か何かなの?」
 彼女は幼い少女のように、はにかんだ微笑を浮かべた。
「ええ、まあ、そんなところかしら」
「ひょっとして……まさかキャプテンと結婚してるとか?」
 半分、冗談のつもりだったが、彼女は照れくさげに親指を上げた。
「ええーっ」
 リュカの初恋は、わずか四十秒で終わりを告げた。


「すみません、わざわざ持ってきてくださらなくても、こちらから取りに行くのに」
 在室中のドクター・ナクラが、恐縮して頭を掻いた。
「できるだけ歩くようにしているの。体質改善訓練の一貫だと思って」
「でも、くれぐれも無理はしないでくださいよ。あなたに限らず、そろそろ疲れがたまり始める時期ですから」
 ユナが彼に届けたのは、総務セクションが全メンバーに配布した健康調査票の集計だ。
 このところ、テクノロジストとその家族を中心に心身に不具合を訴える人が多い。長期間の宇宙滞在を初めて経験する者に特有の、倦怠感、不眠、動悸、食欲不振が目立っている。
 ドクター・リノは一日じゅう診察に追われ、奥の部屋で仮眠中だという。
「ま、火星を過ぎたら、みんな覚悟が決まるんでしょうけど。今が一番じたばたと悩むんですよ」
「ねえ、ドクター。リュカという男の子を知ってる?」
「ええ、リュカ・デュプレ。11歳の生意気ざかりです。頭のいい子ですよ。並みの大人なら言い負かされる」
「さっき、第一階層で偶然会ったの。彼、スクールには行ってないの?」
「行ってないみたいですね。両親が彼の抑うつ状態を報告してきています。ノスタルジア、要するにホームシックです」
「ホームシック……」
 ユナは首をかしげ、考え込むように眉をひそめた。
「母親といっしょに医務室に来て、眠れないから睡眠コントロールシステムを取り付けてくれと言われたのですが――」
 未成年者には睡眠システムは有害だと、ドクター・リノが拒否したという。その理由は単純で、すてきな夢が見られないからだそうだ。
「先輩はけっこう、男の子にはスパルタ教育論者ですよ。そのくせ女の子には甘いけど」
「まあ、そうなの?」
 ふたりがカウンターごしに内緒話を楽しんでいると、スクリーンの奥から日本人ドクター目がけて、正確なコントロールで靴が飛んできた。


 画面の中では、なつかしい仲間たちの笑顔が押し合って、鈴なりになっている。
『リュカ。元気で行って来いよ』
『十年後に会おうぜ』
 リクライニングチェアの上で膝を抱えながら、リュカはぼんやりと見ていた。
 もう一度最初から再生する。同じ笑顔。同じことば。そしてもう一度。
 オーディオルームの扉が開いて、ひとりの男が入ってきた。
 部屋が暗くて、顔は見えない。だがプルシアン・ブルーの制服と四本線の肩章を見たとき、リュカはあわてて画面に視線を戻した。こんな制服を着ている男は、彼の知る限りシップにはひとりしかいない。
 男は隣のブースにどかりと腰を下ろし、両足を乱暴にコンソールの上に投げ出した。
 やがて、リュカは自分の体の片側に眼差しを感じた。
「ここは、現実から逃避するには良い場所だ」
 リュカはゆっくりと身をこわばらせた。亀の首が甲羅にもぐりこむように。
 どうせ、大人が次に言うことは決まっている。『過去を懐かしんでも何もならない。もっと建設的に未来に目を向けろ』。父さんと母さんが口ぐせのように言うことば。もううんざりだ。
 吐き捨てるように、答えた。「僕がどこで何していたって、あなたには関係ないだろう」
「誤解するな。逃げてきたのは俺だ」
「え?」
「キャプテンというのは、ひとりになれない因果な商売でな。ときどき、何もかも放り出して逃げたくなる。ひとりきりになれる場所を探して、こそこそと隠れに来る」
 少年はおずおずと、彼の横顔を盗み見た。
 明滅するモニターに照らされた瞳は、金色や暗褐色に色を変えながら、虚空の彼方を見つめている。それは驚くほど、寂しげだった。
(逃げてきただなんて、嘘に決まってる。きっと芝居だ)
 いつも居丈高に怒鳴りまくっているくせに、そんな弱さを他人に見せるわけがない。
「思い出せる故郷があるのはいい」
 彼はさらに、うめくように続けた。リュカの前のモニターは、今も次々と慣れ親しんだオーベルニュの風景を映し出している。
「帰れる場所があるのは幸せなことだ。旅が日常になったら、人間は根無し草になってしまう」
 声を立てずに笑ったのか、頬が少し動くのが見えた。「昔の俺みたいにな」
 リュカは混乱した。この穏やかな表情をした人が本当に、あの強靭さとタフさのかたまりのような男、キャプテン・三神と同一人物なのだろうか。今自分が見聞きしていることが自分で信じられなかった。
「地球に戻りたいのか」
「あたりまえだろ」
 わかりきった質問をされ、思わずかっとなった。
「父さんも母さんも、家族は離れ離れになってはいけないって言う。それに、移民団に参加することは将来きっと僕のためにもなるって。でも、僕にはとてもそうは思えない。こんな窮屈なシップの中で一年近くも過ごして、そのあと十年も、空気も水もない星で酸素スーツを着て過ごすなんて」
 まるでピニャータが割れて中からお菓子があふれだすように、とめどもなく言葉が出てくる。
「そんなの嘘だよ。どうせ僕は、親の付録で連れて来られただけなんだから。いつもそうだった。ようやく親しい仲間ができたと思ったら、父さんの仕事のせいですぐに引越しだ。こんなことなら、地球にひとりで残ればよかった――僕だけでも残りたかった!」
 残響が消えても、リュカはまだぶるぶると身を震わせていた。
「人生の中で、親と過ごせる時間は驚くほど短い。仲間とはまたいつか会える」
「嘘だ……十年も経ったら、みんな僕のこと忘れちゃうよ」
「忘れるものか。夜空を見上げるたびに、おまえの仲間たちは、自分たちの友人が今宇宙にいることを思い出す。おまえは、ここにいるだけで地球と宇宙をつないでいる」
 リュカは涙にぬれた目を上げた。
 キャプテン・三神は、まっすぐに視線をはね返してきた。そこには子どもに対する憐れむような態度も、なだめるような作り笑いもない。薄茶色の目は深い洞察力を湛えて輝いている。
「木星移民団の報告が流れるたびに、人々は記事の中におまえの名前を探して、心躍らせるようになる」
「まさか。僕はただの子どもなのに。名前なんか載るわけないよ」
「いつまで子どものつもりでいる。十年後には立派な大人だ。ニュースになるような業績を果たしても不思議ではない」
 リュカは笑おうとしたが、口が引きつっただけだ。
「……何をして?」
「今からなら、何にだってなれる。十年あればな。このシップには世界中の超一級の頭脳が乗っている。あらゆる分野の最先端の研究、最高の技術がここに結集している。地球にいては望めないほどの幸運だ。おまえがその気になりさえすれば、賢者たちの指導を直に受けられる」
「……」
 キャプテン・三神はチェアから立ち上がると、リュカの頭に手を置いた。
 まるで教会の按手の礼、騎士の任命の儀式のようだ。
「な、なに?」
 おずおずと見上げると、キャプテンは闊達に笑った。
「学校には行かなくてもいい。そのかわり、今日からおまえはシップ内のどこへ出入りしてもいい」
「ど、どうして?」
「おまえは、このシップの重要な一員だからだ」
 リュカは、自分のみぞおちが何か大きな換気扇のようなもので、ぐるぐるとかき回されるのを感じた。
「俺の名で許可証を発行してやろう。シップクルーでもテクノロジストでも、誰でもいい。そばについて、彼らのすることをよく観察し、仕事を分けてもらえ――これから、この船内すべてが、おまえの学校だ」


 その日から、【ギャラクシー・フロンティア】のあちこちで、じっとクルーたちの作業を見つめる少年の姿が頻繁に見られるようになった。
「今日も来てますね。あの子」
「そう、キャプテンの厳命よ。危険の伴わない限り、どんな場所でも見せて、仕事を手伝わせてやれって」
「昨日は保冷庫で汗だくになって、一日スモークチーズを切り分けていましたよ。手伝ってるんだか、邪魔してるんだか」
「でも、ああやって小さな子に見られてると、なんだか頑張らなきゃって気分になってくるじゃない。ねえ、スミトロ」
「はい、シェフ・ジョヴァンナ」
 キャプテン発行の許可証を持つ少年少女は、ほどなく四人に増え、彼らは機関長のタオといっしょに重いタービンを動かしたり、ハウスキーピングのトシュテンを手伝って床をぴかぴかに磨いたり、農場でトマトを収穫したりし始めた。
 テクノロジストの中には、作業の邪魔だとキャプテン・三神に食ってかかる者もいたが、シップの最高責任者がどこ吹く風と聞き流しているうちに、苦情は目に見えて減っていった。
 なぜなら、人間にとって次世代を育てること以上に、大きな喜びがあるだろうか?


 主任通信士のユナは、ブリッジに入ったとたん足を止めた。
 メインパイロットの操縦席に、愛する夫の広い背中が見える。そして、その膝には、ぐっすり寝入るリュカの姿があった。
 ついさっきまで、コンソールのあちこちを触らせてもらっていたのだろう。操縦レバーを小さな手で握りしめたまま。その上に大きな手がかぶさっている。
「レイ」
 妻の呼びかけに、キャプテンは満ち足りた微笑を見せた。
 ふたりはどちらともなく、巨大パネルに映る暗黒の宇宙に見入った。火星まであと二週間。そして、木星系まで、あと九ヶ月。
 今はまだオーベルニュの谷のような水や緑はないが、いつか人類はそれらの星を豊かな緑のしたたる地へと変えてゆくだろう――生まれ来る次の世代に託すことによって。
 レイとユナは互いの指をそっと絡み合わせ、いつまでも静かに虚空を見上げていた。
 







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