【 【宇宙開発機構】への定期報告。 【ギャラクシー・フロンティア】号は、まもなく火星クリュス航宙ポートに入港する。着岸時刻は予定より5分早い1355時。 停泊期間は、七日間。 入星する第二次木星調査移民団の内訳。テクノロジスト106人、シップクルー32人。15歳以下の子弟14人。総勢152人。 火星で脱落予定の者、現在のところ、ゼロ。】 係船用のタグアームが四方八方から触手のように伸び、船体をロックした。 【ギャラクシー・フロンティア】号は黒い巨大なドッキングトンネルの中で、エンジンを止めた。まるで翼を休めに湖に降り立った白鳥のように。 「なんで、こんな巨大なシップが衝撃吸収装置の作動なしに停止できるんだ」 計器の読み取りを担当していたクリューガー二級航宙士は、喉の奥でうめいた。しかも、床に記された着地指示マークから、全くずれていない。 YR2便に乗り組んだときから、キャプテン・三神の神業の操舵技術は見ていたはずだったが、あらためて驚愕せざるを得ない。 「ヨーゼフ」 通信士のユナ・三神が、彼の副操縦席の背をぽんと叩き、にっこり微笑んだ。 「お疲れ様。二階デッキで解散前のミーティングよ。行きましょう」 彼はふんと顔をそむけた。 階上では、すでにテクノロジストとその家族たちが集まっていた。 「帰船期限は、連邦標準時の8月1日1600時。必ず時間厳守のこと」 移民団団長のベッテルハイム博士が演壇に立って、すでに訓示を行なっていた。 「諸君は今からの一週間、火星でゆっくり体を休め、また羽目をはずさない程度に楽しい時を過ごしてきてほしい。それと同時に、これからの十年間について、じっくりと考え、第二次木星調査移民団における自分の果たすべき役割について思い描いてもらいたい。もし、そこに自分がいるイメージが描けなければ、潔くシップを降りることも選択肢のひとつだ。わたしおよび三神船長は、その決断に対して、何も異議をさしはさむつもりはない」 聞きようによっては、厳しい言葉だった。これからの行程はそれほど困難であり、生半可な決意では耐えられないものになるだろうと言っているのだ。 「シップには、わたしやコウ・スギタ副船長、及びドクターチームが常時待機している。もし相談があれば、いつでも来てほしい」 解散が宣言されると、152人のメンバーたちは、身の回りの手荷物を持って、ゲートに向かった。ある者は、一秒でも時間を無駄にしたくないとスキップを踏むように。またある者は突然の自由に戸惑うように、おずおずと。 キャプテン・三神はクルーたちとともに、下船する人々を見送るために昇降口のかたわらに立った。 「キャプテン!」 子どもたちのリーダー、タリーフとリュカが走ってきて、敬礼した。5歳から13歳までの14人は、ボーイスカウトのように揃いの白のスカーフを首に巻いて、レイの前にわらわらと整列する。 「火星滞在中は、自分たちだけで行動するんですって?」 彼らが可愛くてたまらないユナは、とろけるような笑顔になった。 「はい、毎日のスケジュールをきちんと立てました。テラフォーミングの現状について僕たちなりに勉強してきます。タオ機関長の案内で、銀河一と言われる食料生産工場や酸素発生装置も見学する予定だし、今からクリュスポート内の裏側を、あちこち見学させてくれるって」 「逆噴射のやり方を教えてやると言われたら、大急ぎで逃げろよ」 ドクター・リノがそう言って、愉快そうな大声で笑った。 「それじゃ、みなさん、お先に」 副操縦士のエーディクは、長身をカジュアルな私服に包んでいた。彼にエスコートされているのは、ドロレス・ノリエガ。シップ内の被服セクションで特注した、目を見張るほど若々しいオレンジのパンツスーツだ。 「これからドロレスさんと、火星一周の観光ツアーに行ってきます。火星が初めてなんだそうで」 腕を組んで歩み去るふたりの後姿に、一同はやんやの声援を送った。母子というより、まるで恋人同士だ。 「じゃ、俺たちもお先に」 その後に続くのは、バッジオ、ドミンゴ、ジュードのメカニック独身三人衆。若いだけに、彼らの一週間の行動が、いささか心配になる。 「あっ。置いてかないでくれよ。いい娘を紹介するって言ったくせに」 彼らの後を、ハウスキーピングのトシュテンがバタバタ追いかけていく。 若い男性クルーたちは、これからの十年間、女性と夜をともに過ごすことはない。それを考えると、レイは彼らの人生に対して重い責任を感じる。 クリューガー航宙士が無言でタラップを降りていった。今回の航海で、彼が誰かと親しげに話しているのを見たことがない。荒くれ者の彼が孤立している様子に、ユナはひそかに心を痛めていた。 身軽な若者に始まって、移動に時間のかかる乳幼児連れの家族が下船し終えるまで、正味一時間近くはかかった。 これから一週間、【ギャラクシー・フロンティア】号はドックで整備士の手に委ねられながら、静けさの中に憩うことになる。 「悪いな。コウ。留守を全部まかせて」 レイは、長年の旧友に言った。 「なあに。俺も家内も、火星はいやというほど見てる。静かな船内で、のんびりと骨休めするさ」 スギタは、妻であるペルー人看護師エヴァの腰に手を回しながら、三神夫妻に対して片目をつぶった。 「それより、奥さんにうんと火星を堪能させてあげろよ。長年の夢だったんだから」 「ああ。そうするつもりだ」 レイはかたわらのユナと微笑み合った。 地上までのクリーンエレベータの中は、小さな劇場のようになっていて、スツールに座って入管手続きや観光スポット紹介の映像を見ているうちに、滅菌シャワーと検疫チェックが完了するという仕掛けだ。 クリュス航宙ポートの地上デッキに降りると、レイは深い吐息をついた。 三週間ぶりに、惑星の大地を踏みしめている。152人の生命の責任者から、ひとりの男に戻れる。その安心感こそが、彼が生まれついての穏やかな性格へ、本来のレイ・イシュトヴァーン・三神へと戻ることのできる鍵だった。 「さあ、どこへ行こう」 レイは快活な足取りで歩き始めた。 「マリネリス渓谷行きのシャトル便が、一時間に一本出ている。ナイトクルーズは夜十時出発だから、それまでの時間、渓谷を見下ろすタワーレストランで豪華なディナーが存分に楽しめるよ」 「そんなに慌てなくても」 ユナは性急な夫の計画に、苦笑した。「とりあえずホテルにチェックインして、ジャグジーにでも入ってゆっくりしない? まずあなたの睡眠不足と疲れを解消しないと」 「疲れ? 本日のキャプテン・三神には、そんなことばは存在しないよ」 レイは大真面目に答える。 「絶対に宇宙には行けないと思っていたきみと、こうして火星の大地を踏むことができるのに、ホテルでじっとしていろと言うのかい。きみに火星を案内することは、僕のささやかな長年の夢だったんだよ」 「それは、私も同じだけど……」 「それなら、黙ってベテランツアーガイドに従うこと。そうだ、オリンポス火山と極冠地方、両方のツアーも予約しておかないと」 「私たちの観光プランって、あの子たちに負けている気がしない?」 大笑いしながら、ドーム間を結ぶ【チューブライナー】の駅へと向かうレイとユナの進路を、物陰から現われたふたりの男が突然さえぎった。 「久しぶりだな」 「キャプテン・神楽!」 ふたりは異口同音に叫んだ。「それに……ランドール」 そこに立っていたのは、火星定期貨物シップYR2便の神楽船長と、メインパイロットのランドール・メレディスだ。 「なぜ、君たちが火星にいる」 抱き合って再会を喜んでから、レイはいぶかしげに眉をひそめた。 「予定では、YR2便は5日前に地球への帰途についているはずだろう」 「ああ、実は機体にトラブルが起きてね」 キャプテン・神楽は、片目をつぶった。 「このランドールのへたくそめが、クリュス入港直前に、周辺の浮遊ゴミの中に突っ込みやがった。側面の塗装が剥げちまったので、今ドックで修理点検中だ」 プルシアン・ブルーの制服を着た航宙士は、横でどこ吹く風という顔をしている。 「それって……」 ユナが言いかけて、あわてて口を押さえた。出航を遅らせるために、ランドールが故意にヘマをしたのがわかったのだ。もちろん、キャプテン・神楽の暗黙の了解があってのことだろう。 それにしても、不法投棄ゴミの中を巧みにくぐり抜けて、シップそのものは損傷させずに塗装だけを剥がすテクニックとは、どれほどのものか想像もつかない。 もっとも、保険会社にとっては、あまりありがたくないテクニックだが。 「お元気ですか」 ランドールは、柔らかい微笑みを浮かべながら、ユナを見た。 「ええ、ありがとう。おかげさまで、宇宙貧血ともなんとか折り合っているわ」 「よかった。ドクターたちなら、きっとやってくれると思っていました」 少し遠くを見つめるようなブルーの瞳には、以前のような昏い陰は浮かんでいない。 ランドールのユナに対する激しい恋慕の情は、すでに過去のものになったのだ。ユナはそのことを感じて、縛めから解き放たれるような安堵を覚えた。 「立ち話もなんだから、ゆっくり話せる場所に行かないか」 キャプテン・神楽が提案した。「これから、何か予定はあるのか」 「いや、特に」 「それなら、名物のレッドサンド・スムージーでも飲もう。少し付き合ってくれ」 神楽は口髭を触るふりをして、声をひそめた。 「実は、ランドールが火星滞在中に、とんでもない噂話を聞き込んできた」 クリュスポートに隣接した【クリュス・シティ】へと移動した一行は、かまぼこ型のドームを支える十六本の柱【ピラー】の内部にある、一軒のカフェに入った。 テーブルにつくと、それぞれの席の前のパネルに触れて、飲み物を注文する。 「噂とは、どういう類の?」 レイに促されてランドールは話し始めた。 「キャプテンは、火星で勢力を伸ばしている【ウラヌス教団】という新興宗教を知っているか?」 「ああ」 「その教団の過激分子が、【ギャラクシー・フロンティア】号の破壊を目論んでいるという噂が、裏社会でささやかれている」 ランドールは、元は火星を根城にした密輸業者だった。今でも火星に降りると、昔の仲間に声をかけられるという。 噂というのは、その密輸仲間のひとりと久しぶりにクリュスの街で出会って、酒を飲んでいたときに聞いたものだった。 「ウラヌス教団は文字どおり、ウラヌスという名前の神を信仰する宗教だ。天空を司る神で、ガイアの息子であり夫でもある。だが、ウラヌスとガイアは互いに反目している――という教義らしい。俺も今回はじめて知った」 「要するに」 キャプテン・神楽が、テーブルのポケットからするすると出てきた赤い蛍光色のカクテルを一気にあおると、唇をぐっと拭った。 「ガイアは地球を表わし、ウラヌスは惑星やサテライトの植民地政府を表わす。【ウラヌス教団】は宗教の隠れ蓑を着てはいるが、銀河連邦における地球の優位を否定する政治団体と密接なつながりがあるらしくてな。さらには裏で、テロリスト集団ともつるんでいると言われている」 「【火星独立解放戦線】か――」 ラムダ宙域で、【火星独立解放戦線】のメンバー五人がYX35便を乗っ取り、十数時間にわたって占拠したことは記憶に新しい。 ユナは不安そうに、夫の横顔を盗み見た。あのとき、レイは敵の光線銃で撃たれ、瀕死の重傷を負ったのだ。 「その教団のメンバーが、火星停泊中の【フロンティア】号の破壊を計画していると?」 「ああ。地球主導型の新たな惑星開拓計画を阻止すべしという、過激なスローガンを掲げてな」 神楽は吐き捨てるように言った。「くだらんことを!」 「その話は、信用できると思うか」 レイの鋭い視線を受けて、ランドールはうなずいた。 「ガセネタの可能性は少ない。密輸業者の連中は、決してテロリストの味方はしない。むしろ強い敵意を抱いている。奴らのせいで、銀河連邦の取締りが厳しくなる一方だからな。今回の話も、ぜひキャプテン・三神に伝えてくれとあっちから打ち明けられたんだ」 「そうか」 レイは拳を顎に当てて、じっと考え込んだ。 「手伝ってやりたいが、俺たちは明日の朝には火星を離れねばならん」 キャプテン・神楽が悔しげに言った。 「この話は、内密に火星自治政府および【宇宙開発機構】に伝えてある。万全の警備体制が取られるはずだ」 「ありがとう、キャプテン。恩に着る」 連邦軍の元艦長は、険しい目に限りない優しさをたたえて、教え子を見つめた。 「レイ、シップを守りきってくれ。移民団のためのみならず、木星に思いを馳せるすべての者のために」 「ああ」 彼らは立ち上がり、固い握手を交わした。 「皆には会わずに行く。せっかくの休暇を邪魔しては悪い。後でよろしく伝えてくれ」 「それは……無理だと思うが」 「え?」 くすりと笑ったレイの手には、通信機が握られていた。 「ランドール!」 「キャプテン・神楽!」 カフェの外では、元YX35便のメンバーが鈴生りになって手を振っていた。 レイとユナは夜遅くなって、ようやくホテルに落ち着いた。 レイが火星定期航路に乗り組んでいた頃、このクリュスシティホテルの最上階のスイートは、必ず彼の滞在スケジュールに合わせて空けておかれたという伝説がある。 壁には、オリンポス火山を描いたレイの見事な油絵が掲げられている。 「結局、時ならぬ同窓会という趣向になってしまったな」 ふたりでバルコニーに並び、クリュスシティの夜景を見下ろしながら、レイは不満げに口を尖らせた。「僕たちのヴァカンスは、いつも誰かに邪魔される運命にあるようだ」 「でも、木星に発つ前に、みんなに会えてよかった」 YR2便に乗り組む元YX35便のクルーたちも駆けつけて、再会を喜び合った。特に看護師のハヌルは、キャプテン・三神夫妻に会って、大泣きに泣いていた。 パーティが終わる間際、ランドールはレイに固い声で告げた。 「俺は、今度のフライトが終わったらハヌルと結婚しようと思っている」 「ああ」 レイはほほえんで、答えた。わざわざ聞かなくても、ランドールの彼女に向ける眼差しを一度見れば、わかることだった。 この半年余りの間に、彼にとってハヌルは、かけがえのない大切な女性になったのだ。 「よかった。どうしても、あんたに直接、自分の口で伝えたかったんだ」 「なぜだ?」 「だって」 ランドールはその言葉を言うとき、太陽のような笑みをこぼした。「あんたは、永遠に俺のキャプテンだからさ」 ドームの透明隔壁の向こうには、巨大都市の照明を受けて火星の赤茶けた大地が浮かび上がる。その雄大な景色を飽かず眺めながら、ユナはほうっと幸福な吐息を漏らした。 長い間、夢見ていた火星での夜。 「ねえ、明日は私たち、シップに戻ったほうがよくはない?」 「なぜ」 「だって、【フロンティア】号が破壊されるかもしれないって噂を聞いたのに、暢気に観光なんかしていられないわ」 「クリュス航宙ポートのドックは、要塞だよ。出入りは徹底的にチェックされる。テロリストの入り込む余地はない。それに」 レイは愉快そうな笑い声を上げた。「副キャプテンに、くれぐれも気をつけてくれと頼んでおいた。細君の前にいるときのコウは、銀河で最強の男になるんだよ」 「でも、それじゃ」 ドック停泊中でないとすれば、テロ工作は、どこで、どのようにして、どのタイミングで行なわれるのだろうか。ユナは不安とともに、次のことばを飲み込んだ。 「だいじょうぶ」 レイは妻を抱き寄せて、額の生え際にキスした。「僕を信じてくれ」 その腕の温かい感触に身を委ねながら、ユナはすべての疑問を放棄した。 「わかったわ、キャプテン。大船に乗った気持でいます」 火星の夜明けは、たとえ大騒ぎの同窓会の翌朝でも、早起きして見る価値のある眺めだ。 日中は埃っぽい茶灰色の空が、太陽が地平線近くにあるときだけ澄みきった青色を帯びる。火星で生まれ育った子どもが地球へ来ると、反対に赤い朝焼け、夕焼けにびっくりするという。 三神夫妻はベッドから離れるや否や、時間を惜しんで精力的に動き始めた。 まず、昨日予定していたマリネリス渓谷へ向かう。 マリネリス渓谷は、クリュスシティの東に広がる広大な渓谷で、全長四千キロ。これは火星赤道の三分の一の長さにあたり、北アメリカ大陸を横断する距離に相当する。 谷というには、あまりにも深く巨大なので、シャトルが上空から下降するとき、観光客は惑星の裂け目を中心まで降りていくような錯覚を覚える。 ここの観光の目玉は、迷路探検だ。数億年前の水が流れていた跡をそのまま利用し、サンドバギーを使って網の目のような悪路を猛スピードで疾走する。 行き止まりや無限回廊に現われるホログラムの案内人、バギー同士のチェイス、たとえ互いにクラッシュしたり、岸壁に激突しても、迷路全体に張り巡らされた透明なエアクッションのおかげで怪我することはない。 【タワーレストラン】では、千メートルの高さから渓谷全体を見晴らしながら、舌鼓を打つ。 ここではメインディッシュが運ばれてくると、初めての人は誰もが手を叩いて大喜びする。言うまでもなく、火星名物のタコ料理だ。 くたくたに疲れて、渓谷の岸壁に掘られた三ツ星の洞窟ホテルにチェックインすると、レイはさりげなく言った。 「悪いが、夕方まで二時間ほど出かけてきていいかい?」 「いいけど、どこへ?」 「ちょっと長年の知り合いに会ってきたいんだ」 「もちろんいいわ」 ユナはシャワーを浴びたあとのもつれた髪を梳きながら、顔をしかめた。「気密スーツとゴーグルで完全装備していたはずなのに、どうしてあんなに砂まみれになったのかしら」 「じゃあ僕のいない間、きみはエステに行ってくるというのはどうだい?」 無論、夫の提案はたいそう妻のお気に召した。そういう贅沢は、これからの十年間望めそうにないからだ。 きっかり二時間後、レイはホテルに帰ってきた。 部屋に入ってくると、彼はいったん立ち止まり、ユナをまじまじと見つめて言った。 「エステティシャンを表彰したいぐらいだ。間違いなく今晩のナイトクルーズの参加者たちは、景色ではなしに、きみに見とれるよ」 「まあ」 「誰にも見せずに、このまま閉じ込めておきたい」 レイは半分本気とも思えるような情熱的な声音でささやくと、彼女を逃げ場のない腕の中に閉じ込めた。 ユナは、あとで椅子に脱ぎ捨てた夫のシャツを手に取り、「おや」と思った。袖や裾のあたりが少し汚れている。黒ずんだ油のような汚れ。 (どこで、汚してきたのかしら) 不思議には思ったものの、ナイトクルーズの時間が迫っていたので、ホテルのランドリーボックスに放り込んで、そのまま忘れてしまった。翌朝には、ロボットがきれいに洗濯してクローゼットに戻してくれた。 翌日は、ユナが一番楽しみにしていた【北極冠ツアー】だった。 火星の極を中心にした地域には、純度95%という大量の氷が存在する。白い氷原と二酸化炭素の白霜は【極冠】と呼ばれ、19世紀の昔から天文学者により観測されてきた。 火星の【テラフォーミング(地球化計画)】は百年以上前にさかのぼる。 北極冠の300万立方キロとも言われる氷やドライアイスを太陽エネルギーで処理することによって、膨大な水と酸素が取り出されてきた。 それらは現在では地下パイプラインを通して各都市に安定的に供給され、北部のごく一部の地域に限っては、赤茶けた砂漠の中に緑化地帯が出現している。今世紀中には南極においても同様の施設が建設され、火星の植民地化は一気に加速することになるだろう。 観光客は、火星の生命線とも言える【酸素生成プラント】を見学してから、芋虫のようなトラムカーに乗って、1000キロに及ぶ広大な雪原を延々と走る。 「火星が地球のように、酸素マスクなしで呼吸ができるようになるには、あと千年かかると言われている」 「私たちは、これと同じことを木星でも始めるのね」 木星系開発計画の要となっているのが、やはり酸素と水の供給だ。衛星エウロパとガニメデに存在する氷をシップで輸送し、イオの地熱エネルギーで水と酸素を精製することになっている。 人が生きていくうえで必須の水と酸素とエネルギーを、木星系の三つの衛星間を結ぶことによって獲得する。わずか三十年前までは荒唐無稽な夢物語と言われていた計画が、一年後にはスタートしようとしている。 もちろん、それらのすべてが十年で完成するということではない。幾世代、何百年にもわたるプロジェクトとなるだろう。 夕食をすませ、雪原ホテルのログキャビン風の一室に落ち着いたとき、レイがまた「ちょっと出てくる」と言って、出かけてしまった。 ベッドにもぐりこんで、すぐに眠りに落ちたユナが夫が戻ったことに気づいたのは、空は蒼白い暁の光に彩られ始めた頃だった。 朝になって彼の脱いだ服を調べると、ズボンの膝や裾が昨日よりももっとひどく汚れていた。 それどころか、まだ眠りをむさぼっている彼の手の甲には、うっすらとひっかき傷のようなものがついている。 (いったい、レイは何をしているのかしら) ユナは、首をひねるばかりだった。 ブログ記事「火星観光(1)」で、写真入りで火星を紹介しています。合わせてごらんください。 |