雪原のログキャビンでの優雅な二日間を過ごしたキャプテン・三神夫妻は、【フロンティア】号が係留されているクリュス・ポートにいったん戻ることにした。 ドック内で、整備士たちの手により磨き上げられたシップは、静かに眠りながら出航のときを待っているように見えた。 最上階のクルー専用の陽光にあふれた円形ラウンジで、コウ・スギタ副キャプテンが待っていた。スナックスタンドで飲み物と軽食を受け取ると、ソファに座ってスギタの報告を聞く。 「テクノロジストのひとりが今朝がた、移民団を脱退したいと行ってきてね」 コウは、少し憂うつ気にドーナツをかじった。 「誰だ」 「航宙工学のソン・スンウ博士だよ。ジェネレーターの開発で、俺たちメカニックにずっと協力してくれてる。本気だとしたら、ひどい痛手だ。いや、実際は痛手どころじゃなく、航行計画に支障が出る恐れもある」 「理由は?」 「やっていく自信がなくなったとか、あいまいなことを言ってる。今、ドクター・リノが説得に当たってるんだがね」 レイはそれを聞いて、合点がいかないというように目を細めた。 「彼は、この計画に早くから関わってきたブレーンのひとりだ。今さらそんな理由で辞めるはずはないのだが」 「ああ、何か裏がある」 扉が開き、ドクター・リノと看護師のエヴァが入ってきた。 「やあ、キャプテン」 どうだったという無言の問いに、医師は肩をすくめた。 「ようやく、本当のことを吐いてくれたよ。少々荒っぽい手は使ったがね」 「荒っぽいって……、まさか、殴ったんじゃないだろな」 コウが心配げに妻に目を向けると、エヴァは「まあ、寸止めってところね」と笑った。 「ソン博士は、誰かに脅されているらしい。シップを降りないと、地球の息子夫婦をひどい目に合わせるという匿名の連絡があったそうだ」 「まあ」 ユナは口の中で小さな悲鳴をあげた。 「そんなことをしそうなのは……」 コウがうめくと、ドクター・リノは苦虫を噛みつぶすような顔で答えた。「例の、ウラヌス教団のしわざだろうな」 「なんて卑怯な奴らなの」 「木星調査移民計画を止める方法は、何もシップの破壊だけではない」 レイが怒りを押し殺した声で言った。「一番効果的なのは、主要メンバーを、なんらかの妨害によってシップに乗せないことだ」 ユナは、これ以上我慢できないというように、すっくと立ち上がった。 「どこへ行く」 「全員と連絡を取るわ。シップに集合して、安全な場所に避難してもらう」 「ユナ。そんなことをしても何にもならない」 キャプテン・三神は落ち着きはらった仕草で立ち上がった。そして、妻の両肩になだめるように手をかけて、ふたたびソファに座らせた。 「騒ぎ立てて、このことが公になれば、かえっていたずらに不安をあおるだけだ。そうすれば、ここで脱退する者はもっと増え、奴らの思うつぼになる」 悔しさのあまり、ユナは涙ぐみながら訴えた。 「奴らは誰を狙うか、わからないのよ。もし脅迫だけではすまず、危害が及ぶとしたら?」 相手は、【火星独立解放戦線】という、人の命を何とも思わぬテロリスト集団と結んでいるかもしれないのだ。 「過激派も、火星の上では目立ったことはできない。もし、あえて狙うとすれば、乗船しなければ航行に支障をきたすような、一部の人間だけだろう」 「たとえば」 彼らはソファで顔を見合わせた。 「まず移民団長のベッテルハイム博士と副団長のヌジェンガ博士」 ドクター・リノが、てきぱきと名前を挙げた。「だが、このふたりは、今回のテロ計画についての対策と打ち合わせのために、ずっと【火星開発機構】に詰めている。火星で一番安全な場所だ」 「14人の子どもたちは?」 「タオ機関長がついている。警備の厳しい公共施設中心に回らせているから、危険は少ない」 「あとは、狙うとすれば、パイロットとメカニックだな」 「メカニックは全員居場所を確認済みだ。チーフ級のテクノロジストには、これから連絡を取る」 コウが言った。「あとはパイロットだ。キャプテンを別にすれば、エーディクとヨーゼフ・クリューガー」 「エーディクは、今どこだ?」 「火星一周ツアー一行は今オリンポス山にいるらしい。ドロレスもいっしょだ」 レイのそれからの行動は、迅速だった。 クルーザーを用意させると、三十分後にはユナを乗せて、オリンポス山へと飛び立っていたのだ。 クリュスの北西に位置するオリンポス山は、標高25000メートル。地球の最高峰より三倍も高く、裾野は600キロ以上に及ぶという巨大な青い山である。 活火山ではあるが、今は数百万年サイクルの休眠期に入っているといわれる。 頂上はすでに成層圏で、空は黒に近い藍色をしている。カルデラを取り囲むように展望台があり、透明なドーナツ状の展望室の中からは、東のタルシス三連山、クリュスシティのドームやマリネリス峡谷まで望むことができる。 下に目を転じれば、はるか雲海の下、山を吹き降ろす強風が、地表のここかしこで小さな砂嵐を巻き起こしているのが見える。 季節によっては、頻繁にこのような砂嵐が発生する。テラフォーミングが始まる前は、惑星全体を何週間も覆い尽くすほどの巨大な砂嵐が吹き荒れることもあった。そのため、火星の主だった輸送ステーションはすべて地下または地上数千メートルの高さに設置されているのだ。 クルーザーを駐機場に降ろすと、レイとユナは展望台へのチューブ・エスカレータに飛び乗った。 エーディクの青いシャツと、ドロレスの鮮やかなオレンジ色のスーツが見えたとき、ユナは安堵感に包まれて足を止めた。 「あれ、キャプテンにユナさん」 彼らの姿を見つけたエーディクは、伸び上がって手を振った。テロリストたちに狙われているかもしれないという焦燥感など、まるで感じられない気楽さだ。 「おふたりも、オリンポス山観光ですか」 「ああ。まあ、そんなところだ」 「もうご覧になりました? ユナさん。360度すばらしい景色ですわ」 「ええ、本当に」 しばし、のんびりと景色を楽しむと、お茶でも飲もうということに話がまとまった。レストランへと移動する途中、 「キャプテン」 女性たちの後ろで、ふたりの男は足を止めた。 「ウラヌス教団のことですね。スギタ副船長からの緊急連絡をついさっき聞きました」 「主要メンバーのひとりがすでに脅迫を受けた。脅迫だけではすまない可能性もある」 「だいじょうぶですよ。こう見えても、僕は元連邦軍軍人です」 「ああ。長いシップ生活の中で、僕の拳を受けて平気だったのは、きみだけだったからな」 レイは信頼に満ちた笑みを浮かべた。「だが、ドロレスの身には、くれぐれも気をつけてくれ。万が一のことがないように」 「わかっています」 エーディクは力強くうなずいた。「それより、うちのクルーの中で狙われる危険が一番大きいのはキャプテンだと思いますが。こんなところを出歩いていいんですか」 「そうだったな」 レイは、笑いをこらえる表情になった。「妻はなかなか頑固な女性だから、きみの安全確認をダシにしないと、観光どころじゃなかった。おかげで一番見せたかったオリンポス山を見せてやれたよ」 「ダシだったんですか」 エーディクは、いじけたような溜め息をついた。「どうせ僕の使い道なんて、そんなことだと思ってましたよ」 クルーザーに戻ったとき、ユナが言った。 「レイ。次はヨーゼフを捜しにいきましょう。定時連絡を返している気配がないの」 「いや、彼なら大丈夫だ」 「どうして、そんな自信たっぷりに言えるの」 助手席に乗ったユナは、心配のあまり、つい口調がきつくなる。 「だいたい、あなたは普段からヨーゼフに冷たすぎるわ。クルーの中で彼が孤立しているのに知らん振りだし」 「きみは反対に、ヨーゼフのことばかりかまうんだね。僕としては気に入らないな」 「何を言うの。これから十年間苦楽をともにするクルーなんだもの。あたりまえでしょう」 軽い諍いを始めたふたりを乗せて、クルーザーはまたクリュスシティに戻ってきた。 再びドックに立ち寄り、コウと主要メンバーの安全について確認すると、「今日は疲れたよ」と、レイはさっさとホテルに引き揚げてしまった。 「レイ、それどころじゃ」 木星調査移民団の危機にも動ぜず、暢気に構えている夫に、ユナは怒りに似た焦燥に捕らえられたが、しぶしぶホテルのベッドに横たわってみると、たちまち眠りに引き入れられた。 よほど疲れていたのだろう。 たっぷりとした午睡がすむと、ねぼけまなこのユナの顔じゅうに、レイは雨のようなキスを降り注いだ。 「さあ、奥さま。起きて、急いでシャワーを浴びて。今夜はちょっと珍しい場所に連れていってあげるよ」 抗議する暇も与えられず、手早く荷物をまとめて、ホテルをチェックアウトした。少し歩くと、緑の屋根のついた小さな建物の中に入り、螺旋階段を降りていく。 街のあちこちにある、この特徴的な建物はいったい何なのだろうと、ユナはホテルの窓から見下ろすたびに不思議に思っていたのだった。 券売ロボットから二人分のチケットを買うと、メダルと小さな錠剤のようなものが手渡された。 「この錠剤を、口の中に含んで」 言われたとおりにすると、レイはいくつかある扉のひとつに、IDカードを差し込んだ。するすると目の前の扉が開き、小部屋が現われる。 小部屋の透明な壁越しには、暗い空間が広がり、夜光虫のような光が点滅している。 『着席してシートベルトをお締めください。出発します』 「あっ」 アナウンスを合図に、小部屋は斜めに下降を始めた。最初はそろそろと、次第にスピードは時速数十キロへと達した。ものすごい浮遊感だ。 「ど、どこへ向かうの?」 「【オアシス】だよ」 「【オアシス】?」 「クリュスシティの地下三十キロに、広大な地下都市がある。病院や高齢者のホーム、それに金持ちの別荘なんかがあってね。それが【オアシス】と呼ばれていて、一種のリゾート地区になっている。ほら、感じるだろう? 体が楽になってきたのが」 確かにレイの言うとおりだった。火星上のドーム内は、0.8気圧に統一されている。しかしながら、地下三十キロの地底では、1ないし1.2気圧が得られるというのだ。 途中十キロごとにに【踊り場】と呼ばれる中継点があり、二回エレベータを乗り換えることになった。そのたびに気圧の調整が行なわれる。口に含んでいた錠剤のような機械は、気圧の急激な変化による耳鳴りや頭痛を抑えるためのものだった。 ついに最下層のランプが着き、エレベータの扉が開くと、驚くほど涼やかで清浄な風が吹き込んできた。 まっすぐな街路が伸び、その両側には、まるでクリスタルの結晶体のような多面体のビルディングが林立している。 「気圧が高まることで、血液中に溶解する酸素量は増え、脳や全身に酸素がスムーズに送られる。溜まっていた疲れが、いっぺんに取れただろう」 「ほんとうだわ」 気圧が低いために、自分の体がどれほど無理をしていたかを、今さらながらに知る。 「もしかして」 ユナは、自分の頬を両手で押さえた。「このところ、あなたとケンカばかりしていたのは、この疲れのせいだったのかしら」 「ただでさえ宇宙貧血体質のきみに無理をさせて、僕が観光に連れまわしたからね。きみの体はそろそろ限界だったんだよ」 「イライラと八つ当たりして、恥ずかしいわ」 レイは妻の肩に腕を伸ばし、やさしく抱き寄せた。 「出航まであと二日ある。きみは何も考えずに、ここでゆっくりと体を休めるべきだと思うよ」 「何も考えずに」 宗教教団が暗躍するテロ計画。地球に残した家族に対する脅迫におののく【木星調査移民団】のメンバー。そして、火星での滞在中に、いつどこから襲われるかわからない恐怖。 だが、夫にすべてを任せていればいいのだ。ユナは目を閉じて、力を抜いた。 「わかったわ。キャプテン。出航まで、ここでおとなしくしています」 「いい子だね」 ホテルのプールは、地底湖を利用したものだった。人造の蛍光クラゲがゆったりと浮遊する中を、ふたりは夢幻の中を漂うような心地で泳いだ。 泳ぐという経験を、木星系で過ごすこれからの十年間、彼らは味わうことができないのだ。 洞窟の水上レストランでの、夫との豪華な晩餐。最高の夜とワインに酔って、もう目を開けていられなくなり、最後はレイの腕に抱かれてホテルのスイートルームに戻った。 ふと目を覚ましたとき、夫はベッドにいなかった。 明かりのついた隣の部屋から、レイの低い話し声が聞こえてくる。 「わかった……いや、それはない。向こうでマルギットが待っている。……よし、十分後にエレベータに乗る」 夫の影が動き、とっさに眠っているふりをしたユナを見つめる気配がしたが、すぐに入口のドアが開閉する音が聞こえた。 「レイ……」 ユナは上半身を起こした。 いったい夫は、こんな時間にどこへ行くというのだろう。確かに女性の名を口にしていた。 決心がつくと、あとは早かった。たちどころに身支度を整え、ユナは真夜中の人気のない街路に飛び出した。 降りてきたときに使ったエレベータホールに急ぐ。 中に入ると、確かにエレベータのひとつが点滅している。間違いなく、レイはこれに乗っている。 その隣のエレベータにIDカードを差し込んだが、うんともすんとも言わない。 「私のIDカードは、火星では通用しないんだわ」 よく考えれば、あまりに当然のことだった。レイは定期火星航路に乗務していたため、専用のIDを持っていたのだろう。 失意にうちひしがれそうになりながら打開策を考えていると、入口が開いて、ひとりの男が入ってきた。 「ヨーゼフ!」 彼はユナを見て、ぎょっと肩をすくませた。そこにいたのはまぎれもなく、【フロンティア】号の二級航宙士ヨーゼフ・クリューガーだったからだ。 「こんなところで会うなんて、奇遇だな。ミセス・ミカミ」 明らかな作り笑いでとぼけながら、彼は横をすりぬけて、IDカードを差し込む。 「こんな時間に、どこへいらっしゃるの?」 ユナは、扉の前に両手を広げて、立ちふさがった。 「火星で男ひとりが行くところなんて、決まってるじゃないか。酒と女があるところですよ」 「私も連れて行って」 「冗談じゃない。あそこは、およそ上品なレディの足を踏み入れる場所じゃない」 押し問答している間に、エレベータが開き、ユナは無理矢理、体をねじこんだ。「さあ、力ずくで追い出す?」 チッとクリューガーは舌打ちした。 「わかったよ。その代わり、何があっても知らねえぜ、マダム」 ブログ記事「火星観光(2)」で、写真入りで火星を紹介しています。合わせてごらんください。 |