彼らは、ふたつめの【踊り場】で降りた。地下10キロポイントである。当然、気圧は地底都市【オアシス】に比べれば、さほど高くなく、ユナはたちまち息苦しさを感じた。 「ここに、酒場があるの?」 「ああ、ちょっとした下町の風情だ。地上のドームにも【オアシス】にも住めない下層階級が住んでいる。そしてもちろん」 ヨーゼフは、いかつい凄みのある顔でニヤリと笑った。「俺みたいな文無しのクルーどもがたむろして、安手のギャンブルを楽しみ、女を抱く場所だ」 ホールからは、チューブ型の通路が伸びていた。天井は低く、パイプが何本も壁を這い、どこからか、ひたひたと水の流れる音がした。 しばらく通路をたどっていくと、いきなり前触れなしに、明るいネオンのまたたく歓楽街に出た。 ジジと点滅する街灯のそばで、夫のレイがひとりの女と向き合って、熱心に話し合っている。 妖艶で神秘的な微笑をたたえた面長の美女。胸が大きく開いたスリット入りのロングドレス、豊かに結い上げた黒髪、大きな蛍光色の髪飾りが、彼女の職業をもの語っている。 ユナは、立ち竦んだ。夫と彼女の視線の合わせ方は、どう見てもはじめて会った者同士ではない。 「キャプテン」 ヨーゼフの声に振り向いたレイは、彼の隣にいる妻を見て、驚きの目を見張った。 「ユナ!」 「偶然、エレベータのところでお会いしてね」 ドイツ人の航宙士は、にやにやと意味ありげな笑いを貼りつけている。「是非にとおっしゃるんで、お連れしましたよ」 「よく眠っていたのに……どうして」 口の中でつぶやく夫の戸惑った声を聞いて、ユナはあらためて確信した。 めまぐるしく動いた一日。地底湖での長い遊泳。夕食のとき、強引にワインのボトルを開け、ユナにも勧めたこと。すべては、ユナをぐっすり眠らせるための計略だった。 それに気づいたからこそ、彼女はこっそり、管制官時代から使い慣れていた睡眠コントロールシステムを装着したのだ。深い眠りに陥って、今日こそ夫の秘密の行動を見逃すことのないように。 彼女の耳たぶのピアスを見たレイは、妻の覚悟を知り、吐息をついた。 「全部、感づいていたんだね」 「もちろんよ。この数日のあなたの服の汚れや手足の傷を見れば、いやでもわかるわ」 「ホテルにひとりで帰れと言っても、どうせ帰る気はないんだろうな」 「ここまで来た今となっては、そのほうが危険だぜ、キャプテン」 ヨーゼフがあたりを伺いながら、声をひそめる。「このあたりはすでに、教団の目が光っていると思ったほうがいい」 「わかった。予定どおり二手に分かれる」 キャプテン・三神は素早く、布陣を組み立てた。「マルギットとユナは、教団の正面で、派手な騒ぎを起こしてくれ。ヨーゼフと僕は、その間に裏に回る」 薄茶色の瞳を焦燥に曇らせながら、レイはユナを見つめた。 「きみを、こんなことに巻き込みたくはなかったんだが」 「そういうあなたの優しさに、ときどき傷つくときもあるのよ」 ユナは心からの微笑を返した。「私は巻き込まれたいの。あなたに関わることなら何だって」 後ろに立っていたマルギットが軽い笑い声を立てた。 「聞きしにまさる、すばらしい奥さまね。レイ」 そして、ユナの手をそっと取る。「さあ、行きましょう。酒場の女のふりをして。私のショールと髪飾りを貸してあげる」 女たちはネオンの瞬く繁華街を、優雅に闊歩し始めた。 道行く男たちの粘りつくような視線がたちまち、彼女たちにまとわりついてくる。 「簡単に説明するわ。私たちはしばらくのあいだ、教団の内部にいる人間の目を何とかして引きつけておく」 「ええ、わかりました。囮役になるのね」 「その間に、あのふたりは排気口から侵入し、銀河連邦警察が強制捜査令状を取れるだけの、決定的な脱税の証拠を手に入れる」 「脱税?」 「ええ、かなりのものらしいわよ。もっともレイの狙いは、教団を壊滅させるほどじゃないみたい。奴らを混乱させて、テロ計画を中止に追い込む。または、その隙をついて、シップが出航する時間を稼ぐことのようね」 「……」 「ユナさん?」 「は、はい」 「さっきから黙っているのは、まさか私とレイとの関係を邪推してない?」 「いえ、そんな」 どぎまぎするユナの鼻の先をちょんと指の先でつついて、マルギットは言った。「弁解するのは簡単だけど、やめておくわ。レイから直接聞いたほうが楽しいでしょ?」 「楽しい――というんでしょうか」 「楽しいのは、私のほうかしらね。あはは」 あけっぴろげに笑う彼女を見つめているうちに、ユナも次第にゆとりと落ち着きを取り戻した。 「あなたが好きになってきたわ。マルギットさん」 「ええ。私もよ。ユナさん」 「私たち、息の合った演技ができそうね」 ふたりはごみごみした繁華街を折れ、人通りの少ない通りに入り込んだ。正面に、間口の狭い五階建てのビルが、低い地下都市の天井をぶち破りそうにそびえ立っている。 場末の街にひっそりと君臨する巨大教団の支部は、いかにも胡散くさく、宗教の隠れ蓑の背後にある秘密を感じさせた。 ふたりの女性は視線を交差させて軽くうなずくと、いきなり奇声を発して、つかみあいのケンカを始めた。 「よくも、あたいの男を取ったわねーっ」 「なによ、このブス。取られるほうが悪いんじゃないか」 ――とても打ち合わせなしとは思えないほどの、名演技だった。 【ギャラクシー・フロンティア】号の昇降口は、ぞくぞくと乗り込む団員たちであふれかえっていた。 彼らはひとりずつ順番に二階デッキに昇り、ベッテルハイム移民団長から、それぞれ一枚の電磁カードを渡された。 誓約証。 彼らは十年にわたる調査移民にあらためて参加を表明し、他のメンバーと協力して、木星殖民地建設のために全力を尽くすことを誓う。そして移民団団長は、どんな危機に際しても、彼らをひとりたりとも見捨てることなく、全員で守り抜くことを誠実に約束する。 もう決して後戻りのできない、片道6億キロの旅への出発の儀式。 手続きを終えた彼らは、ビデオルームに誘導される。そこで地球に残した家族や友人と、最後の挨拶を交わすのだ。 『父さん。元気でいってらっしゃい。僕たちは大丈夫だ。連邦警察が警護してくれてるから、心配しないで』 ソン・スンウ博士は、地球に住む息子一家からのメッセージに大粒の涙を流した。 「わかった。テロリストどもの脅しに負けたりはしない。行って来るよ。十年後に会おう」 「よかったわ。スンウ博士が辞意をひるがえしてくれて」 副キャプテンのコウ・スギタとその妻エヴァは、団員たちの様子を安堵した表情で見守っていた。 「今のところ、シップを降りると申し出た者たちは皆無だ」 「これから待ち受ける任務の苛酷さを思えば、これは奇跡よ」 「ああ。火星までのわずか三週間のフライト中に、152人の中に強い絆がすでに生まれていたのかもしれないな」 「あなたの夢が叶いつつあるのね、コウ。この船は必ず、住み心地のよい、本当の家族が集うホームのようなシップになるわ」 スギタ夫妻は、短いが愛情のこもったキスを交わした。 『副キャプテン』 通信室から、副通信士レフのかすれた声が響いてきた。 「なんだ」 『管制より、出航二時間前の定期報告が入りました。天気快晴、クリュスポートの周辺に砂嵐の発生認められず、離脱経路すべて異常なし』 「了解」 『それから、十分前に集計した乗船状況です。テクノロジスト106人中、95人がすでに乗船を終えています。11人が下で搭乗手続きと検疫チェック中。未成年児童たち14人も全員、乗船済み』 「わかった。これで、全員そろうことは確実だな」 『それが――クルーがまだ全員、乗船していません』 「なんだと? 誰だ。この後に及んで、まだ帰ってきてない奴は」 『それが、ヨーゼフ・クリューガーと……』 「また、あいつか」 『それから、三神キャプテンとユナさんです』 「な、なんだってーっ」 離脱予定時刻一時間前、胃を痛くして待っていた【フロンティア】号のクルーのもとに、ようやくキャプテン三神夫妻とヨーゼフ・クリューガー航宙士が駆け戻ってきた。 驚いたことに、三人の顔や服は煤けて汚れ、あちこちにひっかき傷ができていた。 「管制とのデータ照合は?」 プルシアンブルーの航宙士の上着を羽織ったレイ・三神は、インドの風神ヴァーユのような勢いで、ひらりとガードバーを飛び越えると、主操縦席に納まった。 「第一回目のデータ照合は終わりました。それ以外はすべて待機中」 「わかった。至急、管制とつなげ」 「了解」 通信士席に座ったユナも何事もなかったように、レフとともに素早くコンソールパネルの上に指をすべらせ始める。ヨーゼフも、エーディクの隣に席を定め、担当であるシュミレータを起動させた。 「機関室!」 『エンジン・チェック。異常なし』 「メカニックルーム」 『ニューラルネットワーク始動。操縦、制御システム、オールグリーン。磁気プラズマセイルの作動テスト完了』 それまで眠っていたようだった【フロンティア】号のブリッジが、フル稼働し始めた。 人類史上かつてない巨大移民シップ【ギャラクシー・フロンティア】号は再び、キャプテン・三神という唯一にして無二の主を、その玉座に戴いたのだ。 数十分の遅れは、たちまちにして取り戻された。 そんなあわただしい雰囲気の中、地上からひとつのニュースがもたらされた。 ウラヌス教団が脱税容疑で告発され、本部支部数十箇所に銀河連邦警察の一斉捜査の手が入ったというのだ。 クルーたちの間から、抑えようもない大歓声が上がった。 離脱許可が出るまで、乗員すべてが息をひそめる時刻になった。 だが、レイはまだコンソールの上で、鍵盤を叩くピアニストのような手の動きを止めることがない。 「メカニック。大気圏離脱後、防御皮膜展開。姿勢制御ロケット、フルチャージ」 『どういうことだ、キャプテン。隕石の中でも突き抜けるつもりか?』 「二度同じことは言わねえ。クルー全員、衝撃ガード装着のうえ着席しろ」 『ばかもん、そんなもん背負ってエンジンなど動かせんわい』 『メカニックも、座ってたら仕事になりません』 『あのう、お祈りの時間なんですけど……』 「俺の言うことが聞けねえなら、五ミリ角に刻んで、盛大に宇宙に撒き散らしてやるぞ!」 「キャプテン」 ユナは落ち着いた声で、コンソールの交信スイッチを拡大スピーカーへと切り替えた。「管制センターから、離脱許可が出ます」 レイは数秒間、両眼を閉じた。伸ばされた大きな手が、がっしりと操縦レバーをつかむ。 しばらくそうして微動だにしないキャプテン三神は、あたかも【フロンティア】号の機体と完全に同化し、操縦システムの一部となったかのように見えた。 『クリュス管制より、【ギャラクシー・フロンティア】号へ。離脱を許可する』 「了解」 『ボン・ボヤージュ。木星への旅の成功を祈ります』 船体を繋ぎとめていたタグアームがするすると退き、白銀の巨大シップは音もなく、浮かび上がった。 ドッキングトンネルから出港した【フロンティア】号は、ぐんぐん上昇し、火星の成層圏を脱出した。 二階デッキで座席についていたテクノロジストの中には、窓から外を見て「おや」と思った者がいたかもしれない。本来なら宇宙の海に出たとたんに磁気プラズマセイルの展開が始まるはずなのに、白鳥は翼を閉じたまま滑り出したのだ。 ぐんぐん加速を始めた機体は、すぐに火星の衛星フォボスの軌道に到達した。 その瞬間、フォボスの地表で何かがチカッと光った。かと思うと、機体のすぐ後方を一筋の光が通り過ぎ、周囲の暗黒空間がほのかな淡い光りの泡に包まれた。 「うわあ。きれい。花火みたい」 小さな子どものひとりが歓声を上げた。おとなたちは、その美しさに溜め息をついた。 それはまさに、木星への長い旅路を辿る者たちの前途を祝する、音のない打ち上げ花火だった。 同じとき、ブリッジでこんな物騒な会話が交わされていることを、クルー以外の多くのメンバーは知らない。 「フォボスからのビーム砲三発すべて回避。被弾なし」 「防御皮膜、拡散粒子を吸収。機体に損傷は認められません」 「これが、ウラヌス教団が【火星解放戦線】と結んで企んでいた、本当の阻止計画だったんですね」 「ざまあみろ。てめえらが、うちのキャプテンを出し抜こうだなんて、百年早いって!」 キャプテン三神夫妻は、船長専用のプライベートルームで、ふたりだけのささやかな壮行会を開いていた。 とっておきのハンガリーワインのグラスを打ち合わせる。 「ほとんどの観光地は回れたし。楽しかったわ、火星での休暇」 「そうかな」 宇宙の専制君主へと戻ったレイは、行儀悪くテーブルの上に両脚を投げ出し、ソファに背を預けた。 「俺はへとへとだ。とんでもない一週間だった気がするぜ」 「あなたは、ほとんど夜も休まずに、ウラヌス教団の弱みを握るために、支部をひとつひとつ探っていたんですものね。あちこちの観光地をめぐるふりをして」 ユナはちょっぴり、うらみがましい視線を浴びせた。 「私が気づかないうちに、ヨーゼフとふたりですてきな夜の冒険を楽しんでいたんだわ」 「ヨーゼフは、火星の裏社会のことを知り尽くしている。相棒に選ぶには、これほど頼もしい奴もいない」 「そのことを隠すために、表向きは彼に対して素っ気ない態度を取り続けていたのね」 ウラヌス教団の支部から脱税に関するデータを盗み出したとき、ヨーゼフ・クリューガーが、夫のそばで飼い犬のように従順に付き従っていた様を思い出して、ユナはおかしくなった。 キャプテン・三神は、一番厄介なクルーを、とうとう熱烈な信奉者のひとりに仕立ててしまったのだ。 「それと、マルギットさんも頼もしい協力者だったわ。女性の私でも見惚れるほど魅力的な女性で、勇気もあるし」 「おい」 レイは、その言葉に含まれる険に気づいて、ぎくりと反応した。 「待て。彼女とはそういう関係じゃ――」 「私は、あなたが結婚前に誰と付き合っていたかに、いちいち傷つくようなバカな奥さんじゃないわ」 ユナはグラスを手に立ち上がり、夫の膝の上に優雅に腰かけた。 「でも、あれほど危険な事件に巻き込んだからには、さぞ信頼し合う長い歴史があったに違いないわね」 「ユ――ユナ」 「じっくりと昔話を聞きたいわ。時間はたっぷり十年もあるし、逃げ場はどこにもないわよ。キャプテン」 【 【宇宙開発機構】への定期報告。 【ギャラクシー・フロンティア】号は、予定より七分遅い1623時、火星を離脱した。 機体および各システムに異常なし。順調に、木星までの6億キロを航行するフライトへと出発した。 木星系に向かう第二次木星調査移民団の内訳。 テクノロジスト106人、シップクルー32人。15歳以下の子弟14人。総勢152人。 火星で脱落した者、ゼロ。】 |