火星を飛び立ち、揺るぎない大地と頭上を照らす太陽のない日々がふたたび始まってから、二週間が経った。 休暇の興奮もようやく醒め、通信士のアナウンスが時を刻む規則正しい暮らしが戻りつつあるころ、ひとつの噂が通路を駆け抜ける風のように、シップの第一層から第三層まで広まり始めた。 【フロンティア】号の中に、幽霊が出るというのだ。 「もう、五件の目撃報告があるんです」 総務チーフのミゲルが苦りきった表情で報告した。 「八歳から十歳までの子どもが三人に加えて、大人もふたり、免疫細胞学と分子生物学の博士。どちらも職業柄、観察力は人一倍です。アルコールを摂取していたという事実もありません」 「目撃者は、自分の見たものを何と表現してる?」 主操縦席のキャプテン・三神が、コンソールに足を投げ出したまま訊ねた。 「それが、てんでばらばらです。白いもやが漂っていたとか、人の形をした黒い影だとか、腰の曲がった老人だったとか、チカチカ光っていたとか」 「時間や場所に関する共通項は何かないか」 メカニックチーフのコウ・スギタが重ねて訊ねた。「照明を落とし始める午後八時前後に、船具か何かの影を見間違えるという可能性は高い。あとは、ルームサービスロボが通路を走り回る深夜や早朝」 「そういう意味では、目撃時間はさまざまです。ただ場所に関する共通項はあって――」 「なんだ」 「【窓】のあるところです」 「窓?」 ブリッジのクルーたちは、異口同音に叫んだ。 船体の強度の観点からも、【ギャラクシー・フロンティア号】に窓と呼べる場所は少ない。 船内から外界が見える場所と言えば、まず前方と後方のブリッジと、シップの天頂にある可動式観測ドーム。 それ以外には、シップの左舷と右舷の両側に二ヶ所ずつある、直径一メートルほどの強化ポリカーボネート製の円形窓だけだ。 幽霊は、いずれもその円形窓の近辺で目撃されるのだという。 「それじゃ、話は簡単だ」 リクライニングチェアに陣取っていたドクター・リノは、優雅に食後のエスプレッソを口に含みながら、さも当然のように言った。 「幽霊騒ぎは、恐怖心による錯覚だ。外界に向かってうがたれた穴は、人間の原始的恐怖を呼び覚ます。23世紀の最新科学によって動かされているシップ内であろうと、19世紀ロンドンのホーンテッド・ハウスであろうと、何も変わらんよ」 「子どもならいざ知らず、いい大人までが、そんな恐怖を持っているのですか」 「大人であろうと子どもであろうと、何も違いはない。暗黒を目のあたりにしたとき、不条理は理性に打ち勝つんだ」 「いずれにせよ、子どもたちには早く納得のいく説明をしてあげないと」 ユナが切羽つまった声で言った。「幽霊を見た子たちだけでなく、その話を聞いた子たちまで、すっかり怯えきってしまって。何人かはスクールにも行かずに部屋に閉じこもっているらしいの」 大方の乗員にとって、【フロンティア】号での生活は、なじみのない町に越してきたようなものだ。 方向感覚が働かないままで、よそよそしく見慣れない町角やいわくありげな場所に出会うと、新しい住民たちは時にわけのわからない恐怖に陥れられる。 レイは黙ってブリッジの巨大モニターを見つめている。 ほかの誰よりも、抗いがたい恐怖というものを子どものころから味わってきた男だ。思い浮かべただけで肌を毛羽立たせ、臓腑を波打たせる衝動を、彼は身をもって知り尽くしている――その相手がたとえ幽霊であろうと、宇宙の広大な深淵であろうと。 「さて、どうしたものか」 「円形窓をすっぽりと遮蔽幕で覆ってしまうのは、どうです」 「かえって、『ここは恐怖スポットです』という宣伝をしているようなものじゃないか」 夕食後のミーティングでの結論が出ないうちに、ブリッジにはまた新たな問題が持ち込まれた。 シップ第一層でファームの飼育チーフをしているウィラポーンが、悲痛な叫び声で報告してきたのだ。 「ハツカネズミが一匹、ファームの檻から逃げ出しました!」 「ハ……ハツカネズミだそうです」 連絡内容をブリッジのクルーに伝えるとき、レフ通信士は脱力したような声を上げた。 「識別信号タグはつけてないのか」 「実験直前だったので、はずしていました。すみません」 モニターの中のタイ人生物学博士は、可哀そうなほどしょげている。 「ハハ。こいつは幽霊より、厄介かもしれませんね」 コウが力なく笑いながら、レイの前に立った。 「もし身幅が3センチ以下のネズミなら、ファームからダクトを伝って上層にもぐり込む危険性がある。ニューラルネットワークを歯で齧られでもしたら、操縦系統全体に重大な障害が起きる危険性があります」 「マイクロカメラを潜らせることはできんのか」 「やってみますが、発見したとして、どうやって捕まえます?」 「ええい、くそ!」 コンソールを蹴飛ばした音で、ブリッジのみならず、シップ第二層全体が震え上がった。とうとう、キャプテン三神の堪忍袋の緒が切れたのだ。 「どいつもこいつも、どうして俺の昼寝を邪魔するような厄介ごとを次々と作り出しやがる!」 そのころ、ドクター・ナクラは子どもたちの部屋を回診していた。 幽霊騒ぎによって心が不安定になった子どもの巡回ケアだ。もちろんドクター・リノと手分けして回るのだが、先輩医師は『女の子でないと診たくない』と駄々をこねるので、彼はもっぱら男の子の担当だった。 八歳のジョゼは、幽霊の目撃者のひとりだ。三日前に【真っ白な服を着たお化け】を目撃して以来、恐がってベッドの中にもぐりこんで、なかなか出てこない。辛抱強く、ナクラが得意のアニメの話題を持ち出してあれこれ話しかけていると、ようやく枕を抱えたまま少しだけ顔を出した。 「あのね……ドクター」 「なんだい」 「はい」と突き出した拳に握られていたのは、米粒のように小さな白い乳歯だった。 「あ、歯が抜けたんだ」 「うん、三日前にね」 イーッと開いた口は、下の前歯が一本欠けていた。 「あのね、屋根に放り上げたいんだけど、このシップの屋根はどこかな」 口をとがらせて、困ったように言う。 「へえ。ブラジルでも下の歯は屋根に放り上げるのかい。日本と同じだね」 「僕と同じ三年生のエリックは、小さな宝物箱に入れるんだって言ってたよ」 「それは、オーストラリアの風習だよ。世界中の国で、やり方が違うからね。歯の妖精が来るところもあるよ」 「抜けた歯を屋根に放り上げないと、おとなの歯がちゃんとまっすぐ生えてこないんだ。どうしたらいいの。……お父さんもお母さんも『うるさい』って、教えてくれないんだ」 ジョゼの黒い瞳は、波にもまれる草舟のような不安に揺れていた。 少年の心配ごとは、木星へ出発したばかりの途上にある大人たちには些細なことに見えるのだろう。みな漠然と鬱屈したものを心に抱え、なんとはなしに余裕がないのだ。 大人の不安は、みごとなほどに子どもに伝染する。幽霊の正体とはまさしく、移民団メンバーすべての、未来への不安そのものなのかもしれない。 ナクラは、ジョゼの頭をやさしく撫でた。 「わかった。僕にまかせてくれるかな。すぐに、歯を放り上げる屋根を捜してくるよ」 プルシアン・ブルーの制服に四本線の金の肩章をつけた最高指揮官は、手を腰に当て、射抜くようなまなざしで小さな兵隊たちを検閲した。 「おまえらを、栄えある【ハツカネズミ捜索隊】の隊員として任命する。今から二十四時間限定で、このシップ内を自由に捜索する許可を与える。できるだけ早く、逃げたネズミを捕獲しろ。ただし、三十分おきにニーザム保安主任に定時連絡を入れること。困ったときは、すぐにクルーのアドバイスを仰ぐこと。いいな」 「アイアイサー!」 タリーフとリュカを隊長とする十四人の子どもたちは、直立不動の姿勢で答えた。 「二班に分かれて行動を開始する」 「まず、第二層の船首側をリュカ班が、船尾側をタリーフ班が捜索する」 それぞれの班長は、自分の班の六人の隊員たちと円陣を組んだ。 「目をこらして、どんな暗いところも捜すんだ。ハツカネズミになったつもりで考えろ。どんなところに行きたい?」 「ゲームのあるところ!」 「ばか。それはおまえだろう」 「食べ物のある場所。腹ペコになったら、きっとチーズを欲しくなるよ」 「よし、その考えはいいぞ。じゃあ、まずキッチンと食糧倉庫を最初に捜そう」 敏捷に走り去っていく子どもたちの後姿を見送りながら、レイとユナは微笑を交わした。 「名案だわ。あの子たちなら体も小さいし、大人では入れないような場所にでも潜りこむことができる。大人とは違う視点でシップ内を探索できるわ」 「ああ。それに、くまなく自分の足で歩き、自分の目で確かめることで、このシップはもはや見知らぬ場所ではなく、自分たちの裏庭になる」 「あの子たちがへとへとになるまでシップの中を縦横に駆け回って、幽霊騒ぎを乗り越えてくれればよいのだけれど」 レイは黙って妻の肩を抱き寄せると、左舷通路の円形窓に導いた。 窓は、まるで石炭袋のような漆黒の闇に塗り込められていた。宝石をちりばめたような銀河の星々は、この方向からは見えない。 「昔会ったシップ乗りの中に、宇宙空間には死者の霊が漂っていると信じていた奴がいたな」 少し硬い声で、レイは話し始めた。 「霊たちは太陽系の彼方にある天国を目指すんだが、ほとんどの罪深い者たちはたどりつけずに、宇宙を永遠にさ迷い続けているんだそうだ」 「なんだか……恐くて悲しい話だわ」 「もし本当に、このシップに幽霊が出るのなら、俺も会いたいと思った。もしかするとそれは――」 後を続けずに、口をつぐむ。夫の思いつめたような横顔を見ながら、ユナはふと思った。 木星を目指して航行する【フロンティア】号は、あと二ヶ月で小惑星帯に到達し、【第一次木星調査移民団】のシップが爆発した宙域を、慰霊のために通過することになっていた。 レイの両親である三神博士夫妻以下147人が命を落とした場所。 幽霊でもいい。亡くなった両親にもう一度会いたいと願うのは、あの時たった四歳の少年だった彼にとって、祈りにも似た切実な思いであるのに違いない。 「レイ……」 ユナは愛する人の腕をそっと取り、窓外を見つめた。 彼も今、極限の不安に苛まれながら、それをひた隠しているのだ。もしかすると、彼の手足である【フロンティア】号の船体が、それを敏感に感じ取って、みずからの胎内に亡霊を生み出しているのかもしれない。 つーんと涙で鼻の奥が痛くなる。そのうちに、さらにこめかみの痛みを覚えたユナは、夫の体に寄り添うように体を預けて目を閉じた。 そして、そのまま何もわからなくなってしまった。 「ユナ。だいじょうぶか」 気づいたときは、キャプテンルームにある彼女専用のリクライニングチェアの上だった。 このドーム付きチェアは、ドクター・リノとドクター・ナクラの研究による特別製で、宇宙貧血患者のために重力コントロール機能がある。 「私ったら、また倒れたのね」 「まだ今は動くな」 ドームカバーの向こうから、気遣わしげなレイの腕が伸びてきて、額をなでる。 「ずいぶん良くなっていたのに――」 情けなさに唇を噛んでいると、コウ・スギタがドクター・リノとともに、あたふたと入ってきた。 「キャプテン、幽霊の正体がわかりました!」 コウはキャプテンルームの航路図用デスクのパネルを操作して、3Dの船内見取り図を浮き上がらせた 「ユナさんが倒れたのでもしやと思い、念のため、幽霊の目撃された窓の近辺で、電磁波を測定してみたんです。そしたら、とんでもない異常な磁場が発生していることがわかったんです」 「なんだと?」 レイは噛み付かんばかりの勢いで、テーブルの上に身を乗り出した。 電磁波の流れが、細く青い無数の曲線となって表示された。 「ほら、ここと、ここも。いずれも円形窓のそばです。シップ全体の磁場の流れが、第二層と第三層の四箇所で収束してます」 「なぜ、こんなことが起きたんだ」 「原因は究明中ですが、おそらく火星での整備時に電気系統の配線をいじったのが原因だと思います。ほんのわずかなズレが、異常な電磁場を発生させたんでしょう」 「これだけの電磁波なら、人間の脳に及ぼす影響も相当なものだ」 ドクター・リノが痛ましげにユナを見つめた。 「先ほどシィニョーラにもたらしたような極度の貧血や頭痛、倦怠感、視野狭窄。あるいは幻覚に近い症状が起きても不思議ではない。加えて、木星への途に着いたばかりという不安心理。ひとりが幽霊を見たと伝え聞き、次々と大人子ども問わずに連鎖反応が起きていったのだろう」 「では、幽霊というのは」 医師はうなずいた。「電磁波のいたずらと結論づけてよいと思う」 「さっそくメカニック総出で配線をやり直しています。明日までには正常な状態に戻してみせます」 自信に満ちたことばを残して、コウは急いで部屋を飛び出て行った。 「それでは、シィニョーラ。何かあれば、またお呼びください」 リノが一礼して、それに続く。 キャプテンルームには、苦笑を浮かべた三神夫妻が残された。 「電磁波による幻覚か。なんだか真実がわかってみると、あっけないものだな」 「それが、ここまで大きな幽霊騒ぎになったのは、それだけみんなが緊張で、極限まで張り詰めていたということよ」 「そうだろうな」 「やはりクルーチームとしては、何か対策を講じないといけないと思うわ」 「わかった。ミゲルたち総務スタッフと相談して、乗員たちの気晴らしになるようなイベントを企画してみる。何がいいだろう」 「日本だったら、この季節は、夏祭りか盆踊りだわ」 「ハロウィーンにはまだ早いが、仮装舞踏会というのもいいな」 「みんな一斉に、幽霊の仮装をしそうだわ」 レイは妻をいたわりながら、自分もリクライニングチェアの隣にゆったりと身を横たえた。 「少し休憩だ。事件は解決したし、キャプテン夫妻に短い昼寝くらいは許されるだろう」 そう言いながらも、彼の手は情熱的にユナの体のあちこちに触れ始める。 「あ、あなたったら」 ユナは身をよじりながら、その刺激をやり過ごそうとしたが、もちろん成功するはずもない。 ため息をついて、ユナは彼の口づけをすすんで受け入れた。 「……まだ、ハツカネズミの一件が終わってないのよ」 「だいじょうぶ。わが優秀な配下たちが、いずれ解決してくれるさ」 14人の子どもたちは、汗でぼとぼとの雑巾のようになって、ラウンジの床に座り込んでいた。小さい子たちは、とうとう堪えていた弱音を吐き出した。 「疲れたぁ。もう一歩も動けない」 「さっぱり見つからないよ」 「お部屋に帰りたーい」 彼らは一日かけて、シップの第一層から第三層まで、くまなく捜し歩いた。もちろん、危険箇所の捜索は、保安スタッフたちの監督のもとで行なったのは言うまでもない。 だが、ハツカネズミの姿は影も形もなかった。 「もうすぐ夕食の時間だし、小さい子たちはそろそろ限界だ」 タリーフはリュカに提案した。「明日の早朝から捜索を再開することにして、とりあえず解散しよう」 「ニザーム主任への報告は?」 「僕からしておくよ」 「ニザームなら、さっきお祈りをはじめたばかりだぞ」 ちょうどドアから入ってきたばかりのドクター・ナクラが言った。「ジョゼ。ちょっと抜けられるかな。ニザームに捜してもらって、歯を放り投げる場所が見つかったんだ」 「ほんとに?」 少年はたちまち元気になって飛び上がり、前歯の抜けた口を開けて叫んだ。「すぐ。今すぐ行こうよ」 「じゃあ、おいで。まさしく家の屋根のような場所だよ」 一歩も動けないはずの他の子どもたちも、ぞろぞろと興味津々でついてくる。 若い医師を先頭に廊下を集団で歩いていると、ドロレス・ノリエガが通りかかって、目を丸くした。「まあ、ハーメルンの笛吹きと子どもたちだわ。どこへ行くの」 子どものひとりが答えた。「あのね、ジョゼが歯を屋根に放り上げるの」 「まあ、歯を屋根に?」 子どもたちの隊列の後ろに、もうひとり白髪の老婦人が加わった。 「ほら、ここだ」 ドクター・ナクラが指し示したのは、各層の船尾に配置されている、巨大な排気ダクトだった。 シップ内の空気を集めて、炭酸ガス還元装置に通し、清浄な空気として循環させる。ひどい風圧も騒音もなく、わざわざ見上げなければ、こんなところに排気ダクトがあるとは誰もわからないだろう。 排気口は合掌するような形で壁から天井まで傾斜していて、下から見上げると、まさしくブリキの屋根のように見える。 「な、ここならいいだろう」 「うん」 「放り投げると、すべって落ちてきてしまうから、上まで登ろう。自分でやってみるかい」 ナクラは、ニーザムから教わったとおり、壁に取り付けられた伸縮ハシゴの上に乗り、ジョゼを抱きかかえてスイッチを押した。するするとハシゴは上に伸びてゆく。 「さあ、これが君の歯だよ」 ナクラは少年に乳歯の入った小さな箱を渡した。「今、ダクトの蓋を開けるからね。すばやく中に置くんだよ」 「まあ、こんなの初めて見たわ」 両手を口に当てながら、ドロレスははらはらと二人を見上げている。 「おばあちゃんの国では、屋根に歯を放り上げないの」 「ええ、枕元に置いておくと、夜中に持っていってくれるのよ」 「あ、それ、僕の国も同じだ。歯の妖精でしょ」 「ちょっと違うわ。スペインでは、ネズミが歯とコインを交換してくれるの」 「ネズミ?」 子どもたちが叫んだのとほぼ同時に、上ではジョゼが、おそるおそるダクトの中に頭を突っ込んだ。 内部では、風がごうごうと吹きぬける音が響いている。塵ひとつない灰色のトンネルの中は真っ暗だった。彼はその隅に歯の入った箱をそっと祈るような気持で置いた。 (抜けた穴から新しい大人の歯が生えてきますように) 「あ」 何か白いものが動いているので、ジョゼは反射的にひょいとつかんだ。 「これ、なに」 下に降りてみると、あれほど捜していたハツカネズミが腹を空かせて、手の中で哀れっぽく鳴いていた。 |