三交代制で昼夜を問わず活動している【ギャラクシー・フロンティア号】にあって、全員がそろう唯一のチャンスが、金曜の夕食だ。
このときばかりは、最低限の当直要員を除いたメンバー全てが、メインダイニングに集結して食事をともにする。
150名の老若男女が一堂に会する光景は、壮観だ。
メインシェフのジョヴァンナとスミトロは、ローストビーフを大きなナイフで切り分けては、すごい速さで皿に盛り付けている。ダイニング・クルーたちは、飲み物のお代わりを注ぐために、くるくると機敏にテーブルの間を歩き回る。
ステージでディナーショーが催されるのも、金曜夜の楽しみだった。
今日の出番はミケーレ。卓越したテノール歌手であり、当代随一のピアニストでもある。
彼以外にも音楽家、画家、写真家、小説家などの芸術関係のスペシャリストたちが、この【フロンティア号】に乗船している。この人類初の木星調査を記録し、そこから引き出されたインスピレーションを創作として形に残すことが、彼らの任務だった。
しかし何よりも、メンバーたちの毎日の生活に潤いをもたらすことが、芸術家チームの大きな使命であった。芸術なくして、人間は人間たりえない。学校で子どもたちを教え、大人向けの絵画や音楽コースを主催し、定期的に朗読や演奏のリサイタルを開く。
ミケーレは、くせのない栗色の髪とすらりとした体躯を備えた、30歳のイタリア人だ。専門はクラシックだが、ジャズ、ポップス、あらゆるジャンルをこなす。
食事がデザートとコーヒーにさしかかったとき、静かなセレナーデを弾いていた彼は、部屋を横切ろうとしていたユナに視線を注いだ。主任通信士の彼女は、早めに食事を終え、同僚と交代するためにブリッジに急ぐ途上だった。
「スィニョーラ・ミカミ」
首筋がぞくっとするほど、蕩けるような甘い声。そんな声で名前を呼ばれて、平気で無視できる女性はいない。
「お急ぎのところ申し訳ありません。ほんの数分、ここにいていただけますか。次の曲はあなたにささげたいのですが」
「まあ、私に?」
ユナはとまどいながら、黒く光るグランドピアノのそばに近寄った。ピアニストは、深い茶色の瞳でじっと彼女を見つめ、それから鍵盤に指をすべらせ始めた。
『Be My Love(僕の恋人になってくれ)』
のびやかな声が会場に流れ始めると、満席のダイニングルームはどっと歓声と拍手で満ちた。
『誰も、この慕情をとどめることはできない。僕の夢はきみへのあこがれでいっぱいだ。どうか僕の腕に来ておくれ』
ユナは立ち去ることもかなわずに、茫然とその場に立っている。
「ビー・マイ・ラブ」は、1950年制作のアメリカのミュージカル映画のワンシーンで、主演のマリオ・ランツァが歌ったラブソング。テノール歌手なら一度は歌うといわれる名曲だ。
『一度でいいからキスしておくれ。そうすれば、僕の運命は決まるから』
ミケーレの熱っぽいまなざしは片時も彼女から離れず、あたかも、この歌はディナーショーの座興などではなく、雑踏の中で彼女ひとりに向かって歌われているかのようだ。
『もしきみが僕の恋人になってくれたら、ふたりだけの約束の土地を見つけて、永遠に過ごそう』
「こ、これは……」
木星に向かうシップ内で歌うには、あまりに刺激的な歌だと人々が気づいたときには、もう遅かった。
ユナの夫であるキャプテン三神が、席からゆらりと立ち上がる。その表情はまるで、四本の手に武器を持つ三面六臂の大黒天のようだ。
「ひええ」
誰もが縮みあがる中、レイは両手を打ち合わせながら、ステージへと進み出た。
「とても素晴らしい歌だった」
「ありがとうございます。キャプテン」
ミケーレはピアノの前で、しれっとした顔で頭を下げた。
「熱烈な愛の告白の歌だな。教えてほしいものだ。どうすれば、これほど声に感情をこめることができるのか」
「とても具体的に、頭に相手を思い浮かべるんです。目の前にその女性がいれば、なおよいですね」
「なるほど」
ふたりの男は、悠然と微笑を交わした。
「まったく、その恐怖の一瞬を見せたかった」
ロシア人の一級航宙士エーディクは、同国人の通信士の背中をばしばし叩く。
「怒りのオーラで、いつ放電現象が起きても不思議じゃないと思ったよ。よりによって、あのピアニスト、キャプテンの目の前でユナさんを口説いたも同然なんだから」
「まるであいつの再来みたいだったな」
すっかり面白がっているハウスキーピングチーフのトシュテンのことばに、レフは「あいつって?」と首をかしげた。
「YX35便で僕たちといっしょに乗り組んでた、ランドールって航宙士のことさ。ユナさんに本気で横恋慕して、一時はシップ全体を揺るがすほどの修羅場になったんだ」
スウェーデン人の解説に、エーディクもうなずく。「そういえば、ミケーレってランドールに雰囲気似てるよ。キャプテンを恐れるどころか、かえって敵対心を燃やして向かっていくところが」
「ドクター・リノといい、あいつといい、まったくイタリア人っていうのは、母親の腹の中で女の口説き方を教わってるのかい?」
さっきからずっと黙って若者たちの会話に耳をすませていた日本人のコウ・スギタは、それを聞くと頭をかかえた。
「ああ、だから俺は、エヴァのことが心配なんだ」
エヴァはコウのペルー人の細君で、問題のドクター・リノのもとで看護師をしているのだ。
「大丈夫ですって。ドクター・ナクラが毎日、わたしのところにレポートを送信してくれてます」
各セクションの与太話の収集が、スペイン人総務のミゲルのひそかな楽しみらしい。「ドクター・リノの毎朝毎夜の『きみは美しい』攻撃も、エヴァさんは見事に軽くいなしてるみたいですよ」
「それに比べてユナさんはまだまだ、そういう方面に免疫がないんでしょうかね」
「キャプテンが心配するのもわかるな。あの美貌でにっこり微笑まれて、あの【ギャラクシー・ボイス】で「元気?」と話しかけられた日にゃ、男どもは骨抜きになるんだから」
「この移民団の恋愛コードを、そろそろ決めておいたほうがよいんじゃないかな」
悩める夫スギタは、たちまち真面目な副キャプテンの顔に戻った。
「これから十年間、我々は閉鎖された社会でともに生きることを余儀なくされる。男女にこれだけの人数差がある以上、すべての人が異性のパートナーを持つことは不可能だ。当然、少数の女性をめぐって男性がにらみ合う構図も生まれてくるだろう」
「火星やサテライトの歴史を見れば、一目瞭然だ」
いつのまにか機関長のタオが入ってきて、話に加わっていた。深夜のブリッジはこんなふうに、暇をもてあますクルーのたまり場になる。
「女性を争ってレイプや殺人など、卑劣な犯罪がこれでもかというくらい起きておる。ありとあらゆる対策が講じられたが、決定的な解決法はなかったのだよ」
「それが理由で、銀河連邦政府は、婚姻制度を解体したんですからね」
地球においては一般に行われている結婚制度は、宇宙では存在しない。数限りない裁判や訴訟に連邦政府が業を煮やした結果、婚姻にともなう永久契約は銀河法のもとでは無効とされた。
つまり地球を離れたとたん、自由恋愛が法的に認められるのだ。
したがって、このままでは、【ギャラクシー・フロンティア】号の内部および木星殖民地の上では、夫婦は夫婦でありながら、別の異性と交わっても違法ではない。
既婚女性を口説いても、それが男女の合意にもとづくかぎり、男性はとがめられない。子孫を残すために、一妻多夫という状況も生まれかねないのが、宇宙殖民の現実なのだ。
「流血の事態にならなきゃいいがな」
ぽつりとタオが呟いたことばに、ブリッジにいたクルーたちは同意して、深くうなずいた。
夜中にドームつきのリクライニングチェアの中でユナが目を覚ますと、隣のベッドに夫の姿がないことに気づいた。
ガウンを羽織って寝室を出た。キャプテンズ・ルームにも人影はない。
(きっと、あそこだわ)
ユナは手早く服を身に着け、廊下に出て船尾へ向かった。銀河標準時の午前二時。四六時中クルーが動いている第二層でさえ、船内の照明は落とされ、すれ違うのはメンテナンスロボットだけだ。
レイは、夜もあまり眠れないらしい。ときおり眉間を指で揉んでいたり、濃いコーヒーをがぶ飲みしたり、ささいなことに神経を逆なでされる。
原因はわかりすぎるほど、わかっている。シップが小惑星帯に接近しているのだ。
かなりの寄り道を強いられてでも、【第一次木星調査移民団】の遭難現場【ゼロ地点】を慰霊のために訪れることは、この計画の目的のひとつであり、木星移民たちの義務でもあった。
この場所で四歳のレイは、ただひとり救助カプセルに押し込められ、父母を含めた147人が宇宙の塵となるのを見つめていた。
もちろん、32年前の現場に事故の痕跡はあとかたもない。そのとき彼が網膜に焼きつけたであろう光景を思い起こさせるものは、何一つない。
それでもレイにとって、ここはもっとも帰ることを恐れていた場所だった。死者の嘆きが満ちる空間、あさましくも、ひとりで生き残ったという罪状をつきつけられる場所だった。
果たして、夫は後部ブリッジにいた。
船首にあるメインブリッジと異なり、ここは緊急時以外はクローズされている。船長である彼とわずかなクルー以外は、ここに立ち入る権限を持たない。小惑星帯に、そしてその向こうの木星を目指して航海を続ける白銀のシップの中で、ただ一か所、生命の住むはるかな故郷に向いている場所。
コンソールパネルのランプだけが明滅する無人のブリッジの中で、レイは操縦席に座り、身じろぎもせず虚空を見つめている。
広い背中が、今もあのときのように『助けて』と叫んでいる。そのことが、ユナにはよくわかる。
わかっているからこそ、声をかけずに、じっと見守ることしかできない。
「肝機能の数値が悪いな」
ドクター・リノはモニターパネルの画面に目を走らせてから、
「キャプテン、あんたハンガリーワインの飲みすぎだ。三日間禁酒」
と断定した。
「ギュンターがイタリアワインの減りが異常だとこぼしてたが。どこかのドクターは消毒にワインを使うのかな」
と軽口を返しながら簡易ベッドから起き上がったレイを、医師は懸念を宿した目で見つめた。
「本当にだいじょうぶなんだね、キャプテン」
「なにがだ」
「つらければ、慰霊式典の準備は、何もかもコウにまかせればいい。誰もあんたを責めはせんよ」
「そういうんじゃない」
「シィニョーラがたまりかねて、この検診を膳立てしてくれたんだ。奥方にあまり心配をかけるな。あんたは俺たちの要だ。倒れられたら大変なことになる」
「だから、違うと言ってる」
レイはベッドの端に腰かけたまま、しばらく口の中で言葉をころがしていた。
「ユナには、まだ言ってないことがある。この数週間、誰かが俺をじっと見てるんだ」
「このシップで、あんたを見てない奴なんていない。考えすぎだよ」
「その視線には、明らかな殺意がこもっている」
「……なんだと?」
「三日前はシャワールームで、俺の使うタオルに針が仕込まれていた。昨日は船外活動用の防護スーツの酸素ボンベには金属粉が混入していた」
ドクター・リノは腕を組み、医務室の中をたっぷり三周は歩き回った。
「それじゃ、このシップ内の何者かが、あんたを狙っていると?」
レイは、力なく口の端を引き上げた。
「亡霊でなければ、な」
翌週の金曜のディナータイムにも、一波乱が起こった。詩人の朗読のあと、ピアノの前に座ったのは、問題児ミケーレだ。
愛は君を愛さないことを禁ずるのだ。
君の柔らかい手は 僕を払いのけようとしても、
本当は僕の手を握りしめようとしているのだ。
君の唇が「愛していません」と言っても
君の瞳が「愛しています」と言っている。
「うわあ、今宵も思い切り挑発的な歌だなあ」
「相変わらず、涼やかな両目が、ピタリとユナさんに照準合わせてるぞ」
「なあ、ギュンター」
クルーたちは、ドイツ人の給仕長を手まねきで呼んだ。
「ミケーレってのは、どんな奴なんだ」
「わたしの知ってる限り、こういうことからは縁遠い男なんですけどね」
ギュンターは腰をかがめ、困ったように赤茶色の眉をひそめた。「うわついた話には一切乗ってこないし。どちらかというと、無口で自分を律する性格っていうか」
「そんな真面目な男が、なぜ」
「ユナさんの美貌に、よほど心を狂わされたということかな」
「おい、振りかえらなくてもわかるほど、キャプテンの席で憤怒の熱帯低気圧が渦巻いてるぜ」
【ギャラクシー・フロンティア】号は、【ゼロ地点】まであと二日の航行というところまで迫っていた。なんとはなしに、シップ内に沈鬱なムードが漂い始めた。笑うときでさえ、自然と声がひそやかになる。
墓地に足を踏み入れるときのように、おごそかで、畏れに満ち、それでいて不吉なものに一刻も早く背中を向けたいという気分。
「キャプテン、目標宙域内の精査終わりました。大スクリーンに投影します」
サブパイロットのエーディクがパネルに指を走らせると、正面のスクリーンの映像にぴったりと重なるように、航路図が映し出された。
各天体ごとの大きさ、質量、軌道計算などのデータが、コメ粒のような微小惑星にいたるまで、完璧に調べ上げられていた。
【アステロイド・ベルト(小惑星帯)】という名称からすれば意外なことだが、実際には、それほど多くの小惑星が密集して存在しているわけではない。スクリーンに映し出されている天体も、ごくわずか。
それでも、茫漠とした宇宙の深淵から比べれば、ここは危険地帯と言える。現に隕石を避けようと回避行動を取った【第一次木星調査移民団】シップは、小惑星のひとつに激突してしまったのだ。
後の事故調査で、その小惑星がどれだったか、どの位置にあったかも特定できた。その場所【ゼロ地点】で、彼らは盛大な慰霊式を計画していた。
ひとりひとりの犠牲者のパネルが映し出される中、厳粛な追悼のメッセージを移民団長のベッテルハイム博士が述べ、真空処理したポッド入りの花束や遺族のメッセージカードを排出口から流し、そのあと全員で、鎮魂のための黙祷をささげることになっている。
たったひとりの生存者は、その中で何を考え、何を祈るのだろうか。
コンソールに両足を放り出し、時間をかけて航宙図をチェックし終えたキャプテン三神は、作業を終えると無言で立ち上がった。
ブリッジのクルーたちは彼を気遣いつつも、ピリピリした空気を感じて、わざと視線をはずしている。
その間隙を縫って、ことは起こった。
主操縦席の後ろの仮眠用リクライニングシートの横には、サイドボードがある。昼食を取る暇がなかったレイのために、キッチンからローストビーフサンドイッチとコーヒーポットが届けられていた。
サンドイッチを手でつかもうとしたレイは、ぽとりと取り落とした。その指からは鮮血がほとばしりでる。
「キャプテン!」
クルーの間から悲鳴があがった。通信席のユナが異常を知って真っ先に駆けつける。
「ドクターを呼んで、早く!」
「だいじょうぶだ。騒ぐな」
レイは止血のために左手の親指のつけねをぐっと押さえながら、落ち着きはらった声で言った。
「サンドイッチの中に、薄い刃が仕込まれていたらしい」
医務室から出てきた夫を、ユナは青ざめた顔で迎えた。
「だいじょうぶだ。ナノマシンの治療で、傷はすぐにふさがった」
白いバンデージを巻いた左手を少し持ち上げて、笑った。「ドクター・リノの手当は、少々大げさなんだ」
ユナは、興奮の後の呆けたような表情で夫のもとに近づくと、彼の腕にしがみついて泣き出した。
「レイ……」
「どうした。なんでもないと言っただろ」
「違うの。ただ私……怖くて。一瞬、あなたが死んでしまうんじゃないかって」
ユナの異常なほどの動揺に、この数日の自分がどれほど彼女に不安を与えていたかと思い知る。泣きじゃくる妻を腕に抱きとめ、レイは彼女のこめかみに何度も唇を押しあてた。
「すまない。この怪我は、完全な俺の不注意だ。このところ何をしても、うわの空だった。タオにも、こっぴどく叱られたよ」
「仕方がないわ。だって……」
「いや、これで目が覚めた。ことによると誰かが俺の不甲斐無さを見かねて、喝を入れようとしてくれたのかもしれない。もしかするとバーバ・ヤガかも」
「バーバ・ヤガ?」
レイは、おどけたように肩をすくめた。
「ハンガリーのおとぎ話に出てくる魔女の婆さんだよ。ふだんは鶏の足が生えた小屋に暮らしていて、臼に乗って移動する。言うことをきかない子どもを食っちまうと脅かされて、悪いことをしたときは、本気でこわかったんだ」
ユナはそれを聞いて、しゃくりあげながら笑いだすという高等技術を見せた。
「それなら感謝しなければいけないわね。私の夫を良い子にしてくれた、その魔女さんに」
三神夫妻のいないブリッジでは、そのころ犯人捜しが始まっていた。
「おい。サンドイッチを持ってきたのは、誰だ」
スギタの詰問に、ミゲルが震えながら「ギュンターです」と答えた。
ただちに呼び出された若き給仕長は、顔色をなくしてブリッジに飛んできた。
「凶器の混入があったなどとは、全然気づきませんでした。わたしの落ち度です。申し訳ありません」
「サンドイッチは誰が作った」
「シェフ・ジョヴァンナです。それをキッチンカウンターから受取り、トレイに載せてわたしが運んできました」
「ほかの誰かが、カウンターに近づくチャンスはなかったか」
「ダイニングルームには、あのとき誰も――」
と言いかけて、ギュンターは「あっ」と叫んだ。
「……ミケーレがいました。ステージのピアノの調律をしたいと」
天蓋から、宇宙が見渡せる。
シップの最上部にある観測ドームの床には、グランドピアノが運び込まれていた。
「ステージのピアノをここまで動かすのは、〇・八気圧のシップ内でも骨が折れたんだぜ」
陽気な声に振り向いたミケーレの視野に、ブルシアン・ブルーの上着を肩に羽織ったキャプテン三神が入ってきた。
暗がりに、片手に巻かれた白いバンデージが、くっきりと浮かび上がる。
「手にお怪我をなさったそうで。操縦はだいじょうぶですか」
「ああ、やられたのは左手だ。操縦レバーを握る側の手は、なるべく使わないようにしてたんでね」
「それはよかった。あなたに万一のことがあれば、われわれは命さえ危うい。昔ここで露と消えた142人の後を追うことになりますね」
そのときレイの薄茶色の瞳は、暗がりのわずかな光源を反射して、きらめいた。
「犯人は、おまえだな。ミケーレ」
イタリア人は肩をすくめた。「何の根拠があって、そんなことを。……ああ、あのときダイニングにたまたま居合わせたからですか」
「それだけじゃない。一昨日のおまえの演奏だ」
船長はゆっくりと右足を斜めに踏み出した。「あれは、ジョルダーノの歌劇『フェドーラ』のアリア、『愛さずにはいられないこの思い』だったな。ロシアの皇女フェドーラの婚約者の伯爵が、一発の銃弾で撃ち抜かれた血まみれの死体となって雪の中で発見された。この愛の歌をフェドーラに向かって歌うのは、その暗殺者だったと記憶しているが」
「よくご存じでいらっしゃる。オペラにまで造詣が深いとは」
ミケーレは顔を伏せ、くつくつと笑った。「では、わたしがロリス・イバノフ役だとして、あなたは、どうしようもないバクチ好きの放蕩者ヴラディミロ伯爵を演じてくださると」
「お断りだな。俺は放蕩者じゃないし、おまえの妻を寝取ったおぼえもない」
「それは残念です。あなたを殺す理由がなくなってしまった」
音楽家は、ピアノの前に腰を降ろすと、蓋を開けて鍵盤を撫でた。
「こんな場所までピアノを運んでくださって感謝します。広大な宇宙を観客に演奏ができるとは、ピアニスト最高の幸せです」
ミケーレは笑顔を消し、陶酔したような表情になって、喉をふるわせた。
木の葉舞い落ち 木々は色あせ
暗い海は 白く波立ち
ふたりの上に 影落ちる
風さわぐ空に 弧を描いて
ツバメは やがて旅立つ
さようなら 夏よ さようなら さようなら
英国の詩人ジョージ・ホワイト・メルヴィルの詩に、イタリア人作曲家トスティが曲をつけた歌「Good-bye」。
レイはピアノの縁に手をかけ、ソリストの位置に立った。
「では、なぜ俺を狙った」
「殺すつもりはありませんでしたよ。それはご存じでしょう」
「ああ、俺が身の危険を感じて心を乱せば、それで満足だったんだろう。ユナに色目を使ったのも、同じ理由からだ」
「ずっと、この時を待っていたんですよ。父が亡くなったこの場所に来る日を」
レイは目を細めた。「お父上は、あの【第一次移民団】の一員だったのか」
「父の名は、イワン・ニコラエヴィチ・ウォロノフ。ロシア人のピアニストです。私の本名はミハイル。イタリア人の母方の姓を名乗っているので、身元審査ではわからなかったでしょう」
「すまないが、俺はお父上のことを何も覚えていない」
「ええ、そうでしょうね。四歳ではしかたありません」
「だが、おまえも年からすれば……」
「ええ、私は父の死の数年後に生まれました。母が冷凍受精卵を使って私を産むことを選択したんです。おかげで私は父のことを何一つ知りません」
ミケーレの指からは、美しいメロディがほとばしり続ける。
「目に見えぬ者を慕うのは、ひどく心もとない。神への信仰のようなものだ。ねえ、そう思いませんか」
「ああ」
「あなたに卑劣なことをしました。キャプテン。赦してくださるとは思っていません」
唐突に、音楽が止まった。鍵盤の上で、彼はぎゅっと拳を握りしめた。
「生きる意味がわからなくなり、自分の音さえ見失っていた。父の死んだ場所に来れば何かが変わるような気がしていたんです。藁にもすがるような思いで移民団に参加しました。けれど、たとえ宇宙の果てに行ったとしても、結局は何も変わらない。そのことが一番怖かった。そこに、ちょうどあなたがいた。あの事故から、ただひとり生還したあなたが」
レイ・三神は静かに息を吐くと、部屋の隅に置いてあったバイオリンを手に戻ってきた。
肩から上着を落とすと、包帯をした手で楽器を持ち、右手で弦をはじいた。
「憎む相手が必要なら、俺を憎めばいい」
「そんなわけにいきませんよ。父の最期の思いと願いは、あなたに託されたんだ。私ではなく」
ミケーレは雫のゆらめく瞳で、まっすぐにレイをにらみつけた。
「だから私は、あなたがうらやましかったんだ」
シップの指揮者は、答えの代わりにバイオリンを顎に当て、弓を取った。やがて甘いテノールが、そのメロディに寄り添うように合わされる。
彼方より かすかな声来たらん
「聞きて学べ
今日と等しき 明日は続く」
紐はすりきれ 壺は乾き
鎖はちぎれ 灯火消ゆ
さようなら 永遠に さようなら さようなら
バイオリンを縦糸に、ピアノを横糸に。
親を亡くしたふたりの子どもが主催する鎮魂の儀式は、静かに紡がれ、虚空に立ち昇っていった。
作中歌詞:
”Be My Love” (私訳)
”Amor Ti Vieta” (永竹由幸訳)
”Good-bye" (私訳 一部分改変)