下駄箱の前で靴をはきかえていたとき、数人の運動部の上級生がどやどやと入ってくる。
彼らが去っていったあと、外の夕焼けで真っ赤に染め上げられた扉のガラスが、まだたよりなげに揺れていた。
そこに映るあまりに見事な茜雲に、思わず大好きな万葉集のうたが口をついて出た。
茜さす 紫野ゆき標野 ゆき 野守は見ずや 君が袖振る
「ふううっ」
外に出ると、熱気のある狭い室内に長時間いたせいか、4月の夕暮れの風は心地よく、冷たい手で肌をなでていく。
今日の名残の陽光が、校門のそばの大きな木の頂にかろうじてとどまっているのを見ると、みぞおちがきゅううっと締め付けられた。
幼いころから私は、春の夕方になると決まって、こんな気分になる。
ことばでは説明できない感情。なんだろうと、ずっと思っていた。
楽しいことには、いつか終わりがある。
親しい友とは、別れのときが来る。
子ども心に、そんな難しいことがちゃんとわかっていたのかもしれない。
目をつぶっていても歩けるくらい慣れ親しんだ中学を、ついこのあいだ卒業した。
始まったばかりの高校生活。
素知らぬ顔をした校舎の中で、名前もうろ覚えの友と過ごす毎日は、気を抜くと自分の居場所がわからなくなっていきそうだ。
「あ……」
私の背中に何かが当たるのを感じた。
あわてて振り向くと、背の高い男子生徒が怖い目で私を見下ろしていた。
さっきまでいっしょの部室にいた、私と同じ文芸部の新入部員だ。
彼は「ごめん、見えへんかった」と謝った。
「見えへんかったあ?」
いくら私が小さいからって、そりゃ昇降口のドアの前で立ち止まっていた私も悪いけど。
見えないってことはないでしょう。
「雲を見てたから」
そう言って彼は、校門の向こうの西空を目を細めて見やった。
名前は井澤くん。
とにかく変なヤツだった。無愛想で無口で無遠慮の「三無い」男。
変といえば、今年の新入部員は私も含めて四人。私以外は全部男子なのだ。今まで女性部員がほとんどだった文芸部始まって以来の椿事らしい。
三無い男の他には金縁眼鏡の貫田くん。そしてもうひとりは上谷くん。コロンの香りなんかさせた、芸能人みたいな子。
今日は仮入部して初めての月例批評会で、みんな自分の作品を持ち寄った。私も、中学のときに書いた恋愛ものを発表した。
井澤くんは、私の真正面に座った。
彼の目は一重で切れ上がっていて、普通のときも怒っているように見える。
「互いに遠慮せずに、感想をきちんと述べ合うこと」
部長の挨拶で、会は始められた。
でも少しは遠慮しなさいと言ってほしかったと思えるほど、井澤くんは歯に衣着せぬことばを、次々と私の小説に浴びせてくれた。
「読んでてつまらない」
「たかだか20枚の短編なのに、なぜ登場人物の容姿にこれだけの頁数を割くのかわからない。主人公の外見よりももっと、内面の描写を書き込むべきと違うかな。おまけに文章も、端整とか秀麗とかことばがワンパターンすぎる」
こんな具合だった。
上級生に対してさえ、さすがに「つまらない」とは言わなかったものの、同じ調子でけちょんけちょんに酷評していた。
もちろん、最初はすごく腹が立った。涙が出そうにさえなった。
でも、そんな気持ちは、時間が経つにつれ薄れていった。
井澤くんの書いたものは、そう豪語できるだけの資格がある文章だったのだ。簡潔なことばをピラミッドのように積み上げて、いつのまにか読者は頂上に立っていて、素晴らしいパノラマを眼下にしているのに気づく――。まるで、そんな感じ。
正直、かなわないなあ、と感じてしまった。
「今年の新人は、4人ともレベルが高い」なんて、先輩方は手放しで喜んでいたけど。
「イザワくんもあの雲を見てたん?」
ちょっと無防備な表情をうかべている彼に、尋ねた。
「ああ、……うん」
途端に、彼が何か言いたそうにそわそわし始めたのが、わかる。
「あの」
「え?」
「ごめん」
「何が?」
「言い過ぎた」
私は驚いて、彼を見る。
「つまらないと言うたんは、言い過ぎやった。ただ……」
「ただ?」
「女ってみんな、あんなことを考えているのかなって」
少しうつむきかげんの顔は相変わらず、怒ったような表情をしている。
「つまり、好きになる相手の顔がどうとか、って考えてるのかなって」
「んー」
同意のつもりで出した私の声は、変なうなり声になってしまった。見かけのことばかり考えてる馬鹿女と思われそうで、なんだかイヤだったのだ。
「イザワくんは、どうやの? 女の子を好きになるときやっぱり、「可愛い」ってポイント高くない?」
「俺、経験ないから」
「え?」
「人を好きになった経験」
私はぽかんと口を開けた。それって、15歳の今になるまで初恋もしたことがないってこと?
私の問いに、赤くなって顔をそむけてしまう。
「……だから、つまらないんやなくて」
「うん」
「俺には分からへんかった」
「……ああ」
「そういうことかもしれへん」
「ふうん」
「……ごめん」
私は自分が相槌ばかり打っているのに気づいた。
彼のぶっきらぼうな話し方のせいだ。部室であれだけ機関銃のようにことばを出していたのが嘘のよう。
もしかすると、この人。ほんとうは無愛想なんかじゃなくて。
書き言葉ではうまく話せるけど、話し言葉に切り替わると、とたんにしゃべれなくなるタイプがあると聞いたことがある。
不器用なんだ。
あれだけ美しく澄み切ったことばたちを頭の中に住まわせているくせに。
私はとても可笑しくなって、あわてて笑みを噛み殺した。きっと、ひょっとこみたいな顔になっていたにちがいない。
「イザワくんは、電車通学?」
「あ……、うん。加納も?」
「そう」
それが合図だったかのように、私たちはどちらともなく、校門に向かって歩き始めた。
学校のブロック塀沿いに並んで歩く。背の高い井澤くんは、私に合わせてゆっくり足を運んでくれている。
「もしかして、こうやって私に謝ってくれるのって、誰かの差し金?」
カマをかけると、あっさりとうなずいた。
「貫田ってやつ。すごい剣幕で、あの子を追いかけて謝って来いって」
「そうなんや」
そんなに私、ショックを受けてるように見えたんだ。まだまだ修行が足りないぞ、加納亜季。
あの金縁メガネくん。……優しいとこあるんだな。
なんだか、元気がでてしまう。
「私ね、小説の面白さは、真実を書くだけやないと思う」
「フィクションって意味?」
「書く人の夢をそこに書いて、ええんやないかな。読者もそれを読んで、夢を共有する。容姿の綺麗な登場人物たちに憧れる気持ちって、決してちゃらちゃらした意味やないの。
紫式部かて、光源氏を美しい理想の男性像に描いた。その源氏かて、末摘花よりも、美しい紫の上を后にした。
現実の恋は、きっと苦しくてつらいことがいっぱいやから、せめて物語の世界だけでも夢を見ていたい。それが千年ものあいだ、日本の女性文化の中に引き継がれてきた伝統なんやと思う」
調子に乗ってちょっと偉そうに講釈を垂れたことに照れて、私は空を見上げた。
学校から駅までのほんの少しの道のりなのに、西空はもうすっかり夜の色で、雲の淵だけがうっすらと金の光を含んでいる。
「そういう考え方も、確かにあるな」
意外と素直に同意した井澤くんの声は、すこし笑っていた。
私は思わず、そっと彼の横顔を盗み見た。
人間って不思議。知り合えば知り合うほど、正面からだけではなくて、いろんな角度からその人のことが見えてくる。
三無い男だと思っていた井澤くんが、こんな笑顔ができるなんて。
なんだか、皮膚の表面でサイダーの泡がはじけるみたいに、ぞくぞくした。
春の宵闇の甘ったるい空気があたりを包む中、国道に行き交う車のヘッドライトが、ふたりの黒い影をリールで巻き取るように通り過ぎていく。
その魔法のフィルムに、井澤くんの端整な横顔が焼き付けられる。
……あ、やっぱり、私。
彼の批評した「ワンパターンな描写」ってところは、正しいみたい。
「イザワくんの言ってくれたとおり、私、次からはもう少し、人物の内面を描いてみるようにするね」
「えと、あの、加納?」
彼は困ったように口ごもった。
「はい」
「……俺の名前」
「え?」
「イザワやなくて、イサワなんやけど」
「ええ??」
「だから、イ・サ!」
国道の騒音に負けまいと、彼はせいいっぱいの大声を出した。
これ以後、彼のあだなが『イサ』に決定したのは言うまでもない。
そして私は、このときに。
これから始まる3年間の高校生活で自分の居場所を、彼の隣に決めてしまったのだ。
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