(1) 傲慢 [superbia] 2年生・秋 「だぁかぁらぁ! 誰もそんなこと言うてへんやろ!」 「言うてる。自分は特別やって」 ついに、怒鳴り合いは最終段階に入った。 薄汚れた古い折り畳み机をはさんで、井澤怜と上谷祐樹が対峙している。 一年生たちは、いつでも逃げ出せるように扉のそばで状況を見つめている。 押し殺した一本調子の声で、怜が続けた。 「原稿の提出は今日まで。印刷所がそれ以上待ってくれへんて、なんべんも言うといたはずや」 「印刷所には、責任をもって俺が直接掛け合う。だいたい、こういう〆切は、二、三日は余裕をもって言ってくるから――」 「〆切は、〆切や。おまえひとりのために、例外を作るつもりはない」 「あれ?」 加納亜季が、場違いなほどあっけらかんとした顔つきで部室に入ってきた。苦笑を寄こす貫田耕冶に、あわてて近寄る。 「どないしたん?」 「ミヤの原稿のことや」 「わあ、まだ出してへんかったん」 「〆切に遅れた者は、どんな事情があっても文化祭用の部誌に載せるつもりはないと、イサがガンとして譲らへん」 「あーあ」 「あいつももう少し、融通の二文字を学んだらええのに」 「でも、それってイサらしくないなあ」 「そりゃそうやけど」 険悪な雰囲気の中で交わされる暢気な会話に、下級生たちは目を白黒させている。これくらいの修羅場、二年生たちは何度も通ってきたに違いない。 「確かにおまえは、この9月から部長になった。決定権はおまえにある」 祐樹は、いつもの眇めたような視線で怜をにらんだ。「けど、その傲慢さ、もうちょっと何とかならんか」 「傲慢?」 「自分は何でもできる。できるのが当たり前やからって、回りにそれを押しつける。それを傲慢って言うんや」 普段なら、何を映しても眠そうに受け止めて処理する怜の両眼が、そのとたん見開かれた。祐樹も、瞬時に『しまった』と思ったに違いない――とてつもない地雷を踏んだと。 怜は、近くにあったパイプ椅子を蹴り倒した。 「それは、努力しない者の言い訳やろ!」 金属音の残響が、狭い文芸部部室に降りた沈黙をいっそう濃くした。 頃合いとばかりに、耕治がすっと動いた。 「はいはい。今日はお開き」 一年生部員たちに向かって、陽気に両手を振る。「部活は、また明日な。日が短くなってきたから、気いつけて帰りや」 亜季が扉から彼女たちを押し出しながら、自らも外に出た。副部長として、念入りなフォローをするつもりだ。 祐樹はカバンを肩にかけ、扉に向かう途中で、耕治にささやいた。「すまん、バイトの時間や」 「おう」 「あとは――頼む」 エネルギーを使い果たしたような声を残して、騒動の火付け役は姿を消した。部室には、ふたりだけが残された。 紅茶のような夕闇に、ロッカーや机の輪郭線が溶けていく。 やれやれと机に腰をおろした耕治は、銅色の空を映した眼鏡をゆっくりと押し上げた。この仕草はカッコよく見えると、自分では思っている。 「落ち着いたか。イサ」 怜は背中を丸めたまま、ゆっくりと壁から離れた。 目には、冷えかけた怒りと、やってしまったという後悔と、それでも自分を責めるのは御免だという頑なさが、奇妙に同居している。 「コウ……俺は、傲慢か?」 「さあ」 「俺かて、原稿を仕上げるために何日もかかった。何度も書き直して、あまりの自己嫌悪で眠れんようになりながら、ようやく〆切に間に合わせたのに、後から来て『もう一日か二日待ってくれるか』とぬかす。挙句のセリフが、『おまえはできるから』のひとことや。努力しない者が、努力する者をバカにする。それに腹を立てたら、傲慢なのか!」 「まあ、何ちゅうか」 耕治は、苦りきったように頭を掻いた。「方向性の問題、ちゅうか」 「方向性?」 「口では、よう説明せん」 耕治はのっそりと立ち上がった。「ちょい、つきあってくれるか」 「どこへ」 答えの代わりに、怜の手首をぐいと引いた。 「行けば、わかる」 くぐもったカウベルの音が鳴り、祐樹は顔を上げた。 「いらっしゃいま……」 そして、あわてて顔を伏せる。 扉から入ってきたのは、西野高校文芸部の面々。亜季、耕治、そして怜だった。 「よっ」 「お疲れ」 入って来たのとは逆の順番で、カウンター席の奥三つに陣取る。 「おまえら制服のままで、よう来たな」 「おまえかて、制服で働いとるやないか」 祐樹の腕まくりした白いシャツを、耕治がつんつんと指差した。 「それで……ご注文は、なににいたしましょう」 「この店で一番安いドリンク」 「ブレンドコーヒーになりますが」 「じゃあ、それ三つ」 怜はまるで別の世界にいるふりをして、体ごと背けている。水とおしぼりを出すとき、祐樹は彼の前だけ心なしか丁寧に置いた。 分解して立ててあったサイフォンを取り出す。フラスコに湯を入れアルコールランプの火をつける。 豆を挽く小気味良い音が、カウンター越しに響いた。 「いい店やね」 亜季は、壁にかかったステンドグラスの照明にじっと目を注いだ。 「どうも」 「あれ、この店、初めてと違うやろ、アキ」 耕治が訊いた。 「何言うてんの。いっしょに来たやんか。ほら、夏休みの終わり――」 と言いかけて、亜季は息を飲み、唐突に口をつぐんだ。 それはつまり、この中で、誰かが一緒で誰かが一緒でなかったということだ。怜はそれに気づいたはずだが、相変わらず沈黙を守っている。 三人の窮状を救うように沸き始めたフラスコに、祐樹はロートをねじこむ。かけ昇ってきた湯がごぼごぼと鳴り、竹べらで素早くかき混ぜる。時間を置いてもう一度。 「すごい。手つき慣れてる」 「ここ任されるようになってから、何百杯って淹れてますんで」 なぜか、弁解するような口調だ。 「すみませーん」 「あ、はい」 店にいた他の客が席から立ち上がり、祐樹はレジに急いだ。 亜季がほうっと吐息をついた。 「なんだか、ミヤ、学校にいてるときとは違う人間みたい」 「なあ、わかったやろ」 耕治が怜の側に上半身を傾けた。 「何が」 「ミヤは努力してる。ただ努力のベクトルが、おまえとは違うだけや」 「だから方向性の問題……か」 「そこらへんを、わかってやれ」 戻ってきた祐樹の手によってコーヒーが注がれた。豊かな香りが立ち昇り、それだけで全身のしこりがほぐされるようだ。 「美味い」 三人は最後の一滴まで、神妙な表情で飲み干した。 「ご馳走さま。いくら」 「ひとりあたま、350円になります」 内輪で小銭がしばらくやりとりされたあと、耕治が言った。 「印刷所、あと一日待ってもらえることになった」 「ほんまか」 「なんだかんだ言うて、あれからすぐ電話しとったで」 顎をしゃくると、電話した張本人は知らぬ素振りだった。祐樹の頬に、子どもっぽい笑窪が浮かぶ。 「そのかわり、一日だけやからね」 亜季が釘を刺した。「明日の夕方を過ぎたらアウト」 「わかった。徹夜してでも書く」 「ところで、今どれくらい進んでるの?」 「はは、全然。まだ一行も」 カウンターの隅から、怜が呆れたような一瞥をよこした。 (2) 嫉妬 [invidia] 2年生・夏 「部長って、育ちがええ感じがするやないですか。『国王』で決まりですよ」 「なるほど。確かにそれ、イサらしいわ」 「でね。貫田先輩は、『侍従長』」 「なんで、俺がイサの家来やねん」 「王室の政務から外交全般を取りしきる、とても偉い役ですよ」 「ぷっ。確かにコウは、いつも仕切ってるもんな」 「で、上谷先輩は、『傭兵隊長』」 「きゃはは。そっくりそっくり、イメージぴったりィ」 新入部員の並木里奈は、洋風ファンタジーを得意としている。彼女の空想の筆にかかれば、薄汚い文芸部の部室も丘にそびえ立つ王城であり、部員は全員、王宮のメンバーというわけだ。 おまけに、文章が巧い。プロットが緻密、それでいてファンタジーによく見られる『くどさ』がない。さすがの怜でさえ、彼女の持ってきた原稿を最初に読んだとき、「けっこう読ませる」と評したくらいだ。 イサがはじめて他人を認めた。亜季にとっては天地がひっくりかえるくらいの衝撃だった。 「で、私は?」 身を乗り出して、亜季は訊ねた。「私は、何の役?」 「亜季先輩ですか?」 里奈はまろやかな微笑を浮かべて、小首をかしげた。 「さあ、どうしましょう。いっぱいあって迷うな」 一学期で三年が部活を引退し、夏休みの部室に来るのは一年と二年だけになった。 今年の新入部員は四人で、全員女子。三年生もそうだったから、男子が三人も入部した二年生だけが、異常事態だったということになるのかもしれない。 年下の初々しい女の子たちに『先輩』とちやほやされるものだから、男どもはご機嫌だ。今日は来ていないが、万年幽霊部員の上谷祐樹でさえ、心なしか部室にこまめに顔を出すようになった。 「ただいま」 「あ、ご苦労、ご苦労」 ジャンケンに負けたふたりの一年生が、学校近くのコンビニまでシューアイスを買出しに行ってきたのだ。シューアイスは、西野高校文芸部の夏の公式デザートに認定されている。 「わー、おいしそう」 「バニラ、チョコ、いちご、ラムレーズンの四種類やで」 「どれにしよう。迷うなあ」 「部長は、どれにします」 里奈の甘ったるい声に、隅で本を読みふけっていた怜は、顔を上げた。 「ああ、俺は余ったので」 「一番に選んでくださいよ」 「『国王』さまの特権か?」 耕治がからかうように言ったので、下級生たちはきゃあきゃあ笑った。 「はい」 里奈はコンビニの袋ごと、怜の前に差し出した。 怜は中身もろくに見ないで取ると、「どうも」と小声で言う。 順繰りに回った袋が亜季のもとに来たとき、いちごフレーバーはなくなっていた。 去年の夏は部員たちでシューアイスを分けるとき、みんな必ず亜季にいちご味を残してくれた。 肌の内側で、波が立つ。 長く差し入る影に、本館の廊下には早くも夕暮れの気配が漂っていた。 「わたしって、アホやなあ」 開け放された窓の桟をぎゅっとつかみ、何かにぶつけるように亜季はつぶやいた。 自分で自分の思いの醜さに、身をよじりたくなる。 三年たちが引退するまで、亜季は後輩として可愛がられた。同級生部員たちは男ばかりで、やはり紅一点の彼女をそれなりに大切に扱ってくれた。 入部してから、その立ち位置に今までずっと甘え切っていた。 今度は、自分が先輩として新入部員の面倒を見なければならない番なのに、男性部員の目が彼女たちに注がれるだけで、心穏やかでいられない。 「ええかげんにせえよ、アキ」 自分を叱咤して、ずんと足を踏み出した。 下駄箱脇の女子トイレの中からは、先に来ていた一年生のおしゃべりの声が漏れてきた。 「ねえねえ、里奈は部長狙い?」 「うーん、本当は上谷先輩目当てで入部したんやけど」 「あ、私もそう」 「でも、このごろ部長もええかな、なんて思い始めた」 「けどさ、亜季先輩も部長のことを好きやって聞いたよ」 「え、ウソ。貫田先輩やとばかり思ってた。あのふたり、いつも仲ええやん」 「どっちも違うって。あの亜季先輩の性格やで。お高くとまって、ちやほやされて、どっちつかずが一番居心地ええんと違う?」 甲高い、無邪気な笑い声が響く。 「そうそう、今思いついた。亜季先輩、『お局さま』っていうのどう?」 「いややあ。ぴったり」 亜季はその場からそっと離れて、渡り廊下から中庭へ出た。校舎と校舎の細長い隙間を、思いがけない涼風が神の慈悲のように吹き抜けた。 「何が『お局さま』や」 風の中で、自分の声が体を伝って虚ろに響く。 「仮にも西洋ファンタジーを標榜するなら、せめて『女官長』ぐらいのことは言うてほしいわ」 時に一片の真実ほど、残酷に響くものはない。 ほのめかした自分の思いを、怜にこともなげに拒絶されたのは去年の夏の終わり。今日みたいに暑い日だったっけ。汗ばんだTシャツが背中にはりついて、やがて乾いていく冷たさを今でも覚えている。 それ以来、無意識のうちに、どっちつかずを選ぶようになった。そうすれば、何があ っても心の最後の砦は絶対に傷つかないから。 イサとは初めから何もなかったかのようにふるまい、コウとも微妙で曖昧な距離を保ったままだ。 私は、狡い。その狡さを下級生にたちまち見抜かれている。たぶんイサとコウにだって軽蔑されているだろう。それでも、どうしようもない。自分からは動けないのだ。 里奈のあの真っ直ぐな眼差しと、好きな人にぐんぐん近づいていく強さが、心底妬ましい。 手の甲で涙をぬぐい、やっぱりいつものように何ごともなかったふりをして部室に戻った。 怜と耕治が、がたがたとパイプ椅子を畳んでいた。 「遅かったな。下校時刻やで」 「あ、もうそんな時間」 「一年たちが戻ってきたら、解散やて言うといてくれ。それと最後の点検と戸締り」 「うん、あ、えーと。鍵持ってたん、私やったっけ?」 耕治がぽんと背中を叩いた。「しっかり頼むで。我らの『お姫さま』」 眼鏡の奥から、いたずらっぽい瞳が覗いている。背中を向けていた怜が、くっと喉の奥で笑う音が聞こえた。 「なんやのん、ふたりとも」 亜季の頬にみるみる紅がさし、穴があったら入りたいという情けない顔になった。 (3) 憤怒 [ira] 2年生・冬 「なあ、『だらだらと、居座る男に文句を言った』っていうたら、『だらだら』はどこにかかると思う?」 小さな円テーブルに顎を乗せながら、祐樹は書きかけの原稿用紙をにらんでいた。 「『居座る』にかかるんと違うかな」 「やっぱりそうかあ。副詞って入れどころがむずかしいんや」 ぶつぶつ呟きながら、原稿に朱を入れる。 「また新しい小説?」 「うん。今度はタイムスリップもの」 「ヒーターなかなか効かへんでしょ。寒くない、祐樹くん」 詩季子は台所から、電気ポットと湯のみのお盆を運んできた。 「シチュー、すぐに温まるからね」 「うん」 「ごめんね。ゆうべの残り物で」 「何をおっしゃいます。カレーやシチューの種族は、次の日のほうが確実に美味くなるんやで」 「それもそうやね。パンとライス、どっちがいい?」 「じゃあパンで」 彼女は、お茶の湯呑みを「はい」と差し出し、ふたたび台所に戻っていった。 熱いほうじ茶をすすりながら、壁に立てかけてある縦長のスタンドミラーを横目で見た。そこに映っているのは、髪を脱色してテーブルに片肘をついている高校生男子。その落ち着きはらった態度は、とても女性の一人暮らしの部屋に来るのが初めてだとは思えない。 年上の彼女と付き合う男が必ずぶち当たるジレンマ、『メシ代を誰が払うか』という難問の前に、詩季子が出した答えは、「うちへ来て食べない?」だった。 ひとり暮らしなのに、いつもビーフシチューをたくさん作りすぎてしまうの。 そのときの彼女のためらいのない笑顔に、祐樹はちょっぴり傷ついた。この人は、俺のことを腹を空かせた犬、くらいにしか思っていないんだろうな。オオカミと思ってくれとは決して言わないけれど。 それでも、うれしくないわけはない。女性の家でふたりきりで夕食を食べるというフラグは、恋愛シュミレーションゲームならばグッドエンドへの分岐点だ。 (ふとした瞬間に言葉を失い、見つめ合い、そのまま勢いで――) お約束のシーンが事細かに浮かんで来るたびに、あわてて頭から振り払う。小説だって人生だって起承転結は大事。焦って欲をかくとロクなことがない。 「お待たせ」 「いただきます」 テーブルに並んだのは、湯気の立つビーフシチュー、水菜とミニトマトのサラダ、バターを塗ったフランスパン。それに特大のコップになみなみと注がれた冷たいルイボスティー。 「いつも思うんやけど、祐樹くんて、食べ方がとってもきれいやね」 「そう?」 「姿勢が良くて、スプーンやフォークの使い方も上手やし、音をたてないし」 「おふくろの三番目の亭主ってのが、口やかましい奴やってん」 祐樹はクズを出さないように丁寧にパンをちぎって、口に運んだ。 「食事中に行儀悪かったりこぼしたりしたら、容赦なく殴られて、メシを抜かれた」 おふくろは、あいつには十ヶ月で見切りをつけたっけ。四人中、最短記録。 ふと気づくと、詩季子は痛ましげな目で彼を見ていた。 「ごめん。イヤなこと思い出させたね」 「なんで? 俺おかげで行儀良くなったし」 祐樹はのんびりと笑った。「少しの間だけでもおふくろを幸せにしてくれて俺は助かったし、それぞれの親父には感謝してる」 「すごいね。祐樹くん、私なら、感謝なんて口が裂けても言われへん」 詩季子はまぶしそうに目を細めた。「普通は、自分の親が男や女やて認めるのかて、すごく抵抗あるのに」 「そんなもんか?」 彼にとっては至極当たり前のことだった。 『寂しいよ。祐樹ちゃん。寂しいんや』 夜中にトイレに起きると、母親が台所で泣いている。二番目の亭主、上谷の親父と離婚したばかりの時。 その姿を見ながら大きくなってきたから、母親というのは、どこの家もそんなものだと思い込んでいた。 「ごちそうさま」 食べ終わった食器を運び、台所で食器を洗い始める詩季子を、テーブルを拭きながら祐樹はちらりと見た。ラベンダー色の清楚なカーディガンの裾には、誘惑的な膨らみを帯びた腰が隠れている。 「ねえ、食後に何飲む?」 無防備な背中を見せたまま、彼女は問いかけた。「やっぱり、コーヒーかな」 「コーヒーなら俺が淹れてやる。フィルターとか、ある?」 「うん、そこの上の棚。粉は冷蔵庫」 「やかん、借りるで」 彼は立ち上がると、詩季子の隣に並んで手際よく準備を整えた。マグカップにたっぷりのコーヒーを注いで、テーブルに運ぶ。 「さっきの小説、見せて」 「ああ。まだ三枚しか書けとらんけど」 小さな円テーブルで、額を付き合わせるようにして原稿を覗き込む。 「タイムスリップ?」 「日本に核ミサイルが飛んできて、その衝撃で商店街がまるごと、三百年後の荒廃した世界に飛ばされてしまうって話」 「軍艦のタイムスリップは聞いたことあるけど、商店街って発想おもしろいね」 「今んとこ、最初に出てくるのは八百屋と百円ショップと理髪店の予定やねんけど、他に何かアイディアある?」 「私に訊いたってダメ。SFオンチなんやから」 詩季子は不似合いなほど大きなマグカップを両手で持ちながら、春一番に咲いた花のように美しく笑った。祐樹も笑い返した。 ああ、彼女の無邪気さは、最大の防壁だ。男の征服欲を根こそぎ奪っていく。 このひとときの幸福を失う危険を冒すくらいなら、一生ずっと彼女の飼い犬でも我慢できる。 「祐樹くんの淹れるコーヒー、やっぱりおいしい」 「さんきゅ」 「どうしてやろね。いつもと同じ粉やのに不思議」 「愛情かな」 不意に着メロが鳴り出した。マスターが店でよくかけているドーナツ盤のクラシック。ジャケットは確か、何か企んでいるように薄笑いを浮かべるモーツァルトの顔だった気がする。 詩季子の顔色がさっと変わった。よろけながら立ち、サイドボードの携帯を取り上げる。 「はい……もしもし」 その声に含まれた、まるで陶器のような冷たさ。 「はい、元気です。……いえ、だいじょうぶです。……ええ」 相手の話に相槌を打ちながらその肌は蒼ざめ、ときおり何か言いたげに唇が震えた。 「そんな……!」 彼女の唐突な叫びに、祐樹は思わず膝に力をこめ、いつでも立ち上がれるよう身構えた。 「いいえ、できません」 彼女は、にわかに紅潮した顔で祐樹を見た。暗い激情の炎に目が燃えている。 そこにいるのは、詩季子ではない。見たことのない別人だった。 「違います。今、そばに人がいるんです――ええ、男の人」 そして一呼吸置いて言った。「さようなら。もう二度とかけてこないでください」 のろのろと携帯を置く詩季子の後ろ姿に、祐樹はしわがれた声で問いかけた。「あいつなのか」 彼女の頭が力なく縦に動いた。詩季子をかつて地獄の泥沼に引きずりこんだ、大学の准教授。 「なんて言うてきたんや」 「今から……会えないかって」 「なんでや、あいつとはとっくに別れたって」 詩季子は黙って項垂れた。ほつれ毛が落ちた横顔に、涙が伝い落ちる。 「ごめん」 「なんで、あやまる」 「祐樹くんを、ダシに使うてしもた」 「……」 「でも、良かった。祐樹くんがここにいてくれたから」 頼りなげに揺れる視線を、ようやく祐樹に定める。「でないと私……」 そのとたん、祐樹の体内のどこか奥まったところが、沸点を振り切った。 憎悪でもなく、悲哀でもなく、ただ静かな憤怒。 「ぼちぼち帰る。遅くなった」 「……あ」 「晩御飯、ごちそうさま」 「祐樹くん」 詩季子のマンションを逃げるように飛び出した。 凍える空気の底を踏みしめ、破滅するソドムから逃げ出すロトのように、振り返るのを我慢して歩き続ける。 ようやく自分をなだめて立ち止まり、肩越しに彼女の窓の豆粒のような明かりを見たとき、あの着メロの曲のタイトルを思い出した。 『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』 詩季子が初めて店を訪れたときも、かかっていた曲だ。 「好きな曲が聞こえたので、ついふらふらと入ってしまったの」 そして店の片隅で男を想いながら、涙していたのだ。 寒風の吹きすさぶ橋の上に立ち、欄干から川を見降ろす。 自分が何に怒っているのか、わからなかった。イヤというほど心に刻みつけていたはずだった。女はひとりでは生きられない生き物なのだと。 母親が次から次へと結婚を繰り返したのは、自堕落だからではなく、寂しさを真正面から受け止められない弱さのゆえなのだと。 だから、詩季子の中にも同じ弱さがあることを知ったからといって、どうして今さら憤るはずがあろう。別れたはずの男の番号を消すこともせず、思い出の曲を着メロに指定しているからといって。 祐樹は、手袋を忘れてかじかんだ手の甲に、爪をぐいと立てた。喫茶店の水仕事で荒れた手にはすぐに血がにじみ、あてがった唇に鉄の味を残した。 冬の川は、流れに沿って行き交う自動車のライトを反射させ、とろりと光っていた。 七つの大罪(4)につづく