(4) 怠惰 [acedia] 3年生・春 木造二階の北向きの部室には、春が学校のどこよりも一番遅くやってくる。 貫田耕治は部室奥のベンチに寒さに耐えて寝転がったまま、ひたすら天井を見つめていた。 「あれ、どないしたんや。みんなは?」 扉の開閉の音と一緒にかかってきた声に、気だるげに返事する。「今日から二年が修学旅行で、部活は中止」 「なんや、掲示板見とけばよかった」 上谷祐樹の金色の頭がにゅっと視界をさえぎった。「で、おまえは? ひとりで何しとんねん」 「なんだかなあ。このところ、何をする気も起きひん」 「早めの五月病か。コウともあろうもんが、今夜は嵐やな」 祐樹は完全に冗談だと取っている。「どないしたんや。小遣いが無うなったんか」 「……アホ、そんなことでいちいち落ち込んでたら、俺の人生――」 そこで口をつぐみ、大きな吐息をつく。「ああ、しゃべるのもしんどい」 「ほんまか。えらい重症やな」 「俺かて落ち込むことくらい、あるんや」 耕治は眼鏡を額にずり上げて、友人をにらんだ。 「コウがそんなんやと俺、困るな」 祐樹は折りたたみ机に腰かけると、意外なほど真面目くさった調子でつぶやいた。 「俺みたいないい加減なヤツが、こうやって、まがりなりにも文芸部員やって来れたんは、コウのおかげやもんな」 「どないしたんや、いきなり」 「いつかチャンスがあったら言おうと思とったんや、おまえにはすごく感謝してる」 「やめろよ、縁起でもない。ドラマでこういう、しんみりした会話をするやつらは、たいてい次回で死ぬんやで」 「あはは、ほんまやな」 祐樹は楽しげな声で笑った。 「じゃ、俺行くわ。今晩彼女とデートやから、バイトの前にいったん着替えに帰らんと」 彼が去ったあと、耕治はがっくりと腕を垂れて脱力した。 「おまえ、よくも最後に、後ろ足で蹴り入れてくれたな」 少しすると、入れ替わるように井澤怜がやってきた。 「ミヤと今、渡り廊下のところですれちがった」 「ああ」 「コウが、柄にもなくウジウジしてる、言うてた」 怜は彼が寝ているベンチに、おかまいなしに腰を下ろした。しかたなく、耕治はもぞもぞと脚を縮こめて、移動する。 「どうした」 「推進力がな。とうとう切れたみたいや」 「コウでも、そんなことあるんや。雹でも降るかな」 「俺かて、落ち込むことくらい……以下同文」 しばらく無言で、あやうく互いの存在を忘れかけたとき、怜がぽつりと言った。 「俺、コウに感謝してる」 「……」 「俺みたいな自分勝手な人間が部長を務めてこれたんは、おまえのフォローのおかげやった」 「ひとつ、訊きたいねんけど」 耕治は両手で目を覆って、うめいた。「俺、不治の病で余命三ヶ月の宣告を受けてるってことないやろな」 「なんや、それ」 「みんな急に優しくなってしもて、けったくそ悪い」 「おまえが、おまえらしくないからや」 怜は立ち上がった。「そろそろ行く。四時半から二者面談や」 「志望校、どこに決めた?」 「さあ。俺んち仕送りは無理やから、家から通えるところに限られるな。とりあえず京大か阪大か」 呟きを残して彼が去ったあと、耕治はエビのように体を折って悶絶した。 「なんでみんな、さりげなく俺にとどめを差すようなことを言うねん」 加納亜季が入ってきた。 「本館の廊下で今、イサとすれちがったよ」 「はあ」 「コウが柄にもなく、ごろごろ怠けてるって」 彼女はパイプ椅子を引っぱってきて、重病人の見舞い客のように神妙な顔つきで腰かけた。 「どないしたん」 「昨日の二者面談の結果、国公立は絶望的て言われた」 「ああ、そうなんや」 「おまけに、慰めてくれる彼女もおらへん。これが落ち込まずにいられるか」 視界の端で、亜季が小首を傾げて笑うのが見えた。 「コウ、そうやって眼鏡はずして、しかめっ面してると、なかなかシブい」 「……」 「そんな憂うつな顔してるの初めてやから、意外な発見や」 「……あのなあ。二年間もいっしょにおったのに」 「そやかて、いつもしゃべったり笑ったり、なにかしら用事してる姿しか見たことないもん」 亜季は立ち上がると、 「元気出しぃ。そのうち、ステキな彼女見つかるよ」 ひらりとスカートの裾を翻して、「さよなら」と行ってしまった。 ふたたび静けさが戻った部室で、耕治はようやく起き上がった。 「まったく、三人とも」 慰めようとしてくれたわりには、よけいダメージを残していったような気がする。 亜季の最後のひとことは、特に。 外に出ると、夕方にしてはまぶしいほど明るい。 空にだけは、もう夏が来ていた。高校生活最後の一年は、車窓の景色が飛ぶように過ぎていくのだろう。そのことに気づいてしまったから、彼は今こうして立ちすくんでいるのかもしれない。 天をふり仰ぎながら耕治は、コンタクトを買おうと心中ひそかに決意していた。 (5) 強欲 [avaritia] 2年生・冬 決して立ち聞きしようと思ったわけではない。部室の扉が開いていたのが悪いのだ。 かと言って、平気なふりをして中に入るのもしらじらしく、回れ右をして立ち去ることなど、なおさらできない。 亜季はスニーカーの靴ひもを結び直すことに決めて廊下にしゃがみこみ、里奈と怜の会話に耳をすませた。 「何も教えてくれないんですね」 里奈のいつもの甘ったるい声が聞こえた。「だから、なんでもええんです。好きな食べ物とか、好きな音楽とか、好きな色とか。部長のことなら何でも」 「だから、さっきから言うてる。何もないって」 「無欲なんですか。部長って」 「無欲?」 怜の顔に皮肉げな笑みが浮かぶのが、見なくても声色だけでわかる。 「俺ほど、強欲な人間はおらへんで」 「ウソ」 「努力しなくても手に入るものは、欲しくない。手に入らないとわかってるものしか、興味が湧かないんや。それって、この世で最高の強欲やと思う」 「……」 「だから言わせてもらえば、あんたが今してることは完全に逆効果や。俺はますます、あんたに興味を失う」 パイプ椅子が、かたんと倒れる音がした。 と思ったら、ものすごい勢いで里奈が部室から飛び出てきた。 「ひゃっ」 あわてて身を翻して隠れようとしたが時すでに遅し。里奈は真っ赤な顔で亜季を睨むと、そのまま、廊下を走り去ってしまった。 ぎしぎしと階段が鳴る音が聞こえなくなるまで、亜季はその場にじっと立ち尽くした。 そして何度もマフラーに口を埋めて深呼吸したあと、勇気を奮い起こして部室に入った。 怜は、部室奥の木のベンチの指定席で、オーバーを着たまま座っていた。彼女をちらりと見上げると、自分の手元の本に再び目を落とす。その平然とした様子は、まったくいつもと変わらない。 すぐそばで横倒しになっているパイプ椅子を、亜季は黙って元に戻した。 「どこから聞いてた?」 怜が言った。 「えと……『強欲』のあたり、かな」 消え入りそうな声で、亜季が答える。 「ふうん」 雲間から突如、早春の太陽が窓越しに射し込んで、部室の中をくっきりと照らし出した。 空気中に浮かぶ埃が、歴代の部誌が収めてある壊れかけのガラス戸棚が、誰かが飲み残していったジュースの空き缶が、強い光にさらされて平板なモノクロ画となる。 時間というものは止まるものなのだと、亜季はこのとき生まれて初めて知った。 「……大嫌いなんや」 「え?」 怜は、項垂れたまま淡々と続ける。 「自分の強欲さが、ほとほと嫌になる。それならいっそ、何も望まへんほうが楽やと思う」 「……ん」 「だから、何も欲しがらないと決めた」 「何も?」 「そう、何も」 亜季はからからに乾いた口の中を、小さな舌で湿した。 好きな人は、目の前に座っているはずなのに、いつも遠い。そして、この距離を飛び越えるための時間は、あまりに少ない。 放課後の二時間。 週に五日。 そして、卒業を迎えるまで、あと一年。 いや、夏で退部するから、実質はもっと短い。それが彼といられる時間のすべて。 何度もあきらめようとした。あきらめられると思ったこともあった。けれど、やっぱり無理だった。 亜季は、ようやく口を開いた。止まった時間を動かすには、途方もない力が必要だ。 「でも、何かを欲しがらないと、人間は何も変わらへんよ」 「変わる必要なんかあるのか」 「わからへん。けど、小説というのは、人間が変わっていく物語やで」 彼は、読んでいた本から目を離した。 「ハッピーエンドにしろバッドエンドにしろ、主人公たちは物語の中で変化していく。人はその変化を自分に投影するのが嬉しいから、本を読むんやと思う」 少しの沈黙のあと、怒ったような声が返ってきた。 「でも俺は、変わるのはごめんや」 「それなら、今は、そのままでええんと違う?」 「……『今は』?」 「変わりたいと思える時が来るまで、じっと待つの。こんなふうに」 古いベンチをキシと鳴らして、亜季は静かに怜の隣に座った。 壁に頭を預けて目を閉じる。あるかなきかの微笑を唇に浮かべ、それはまるで何かに聞き入っているような仕草だった。 怜は、膝の上でそろえられた彼女の両手をじっと見つめた。そして何かを握りつぶすように自分の拳を固めると、また文字に目を落とした。 今日に限って他の部員はまだ誰も来ない。時間はふたたび、ゆっくりと音を立てて止まった。 陽射しがさっきより少しやわらいでいる。午後の部室は、まるで春の光の紡ぐ繭のようだった。 (6) 暴食 [gula] 3年生・夏 「酒は絶対に飲まさへんからな」 上谷のマスターは、私服の高校生たちに念を押した。色黒のヒゲ面で睨みつけると、かなりの凄みがある。 「あー。わかっとるてば」 祐樹は彼の両手からコップをひったくるように受け取った。「俺かて、この店を営業停止にしとうない。それよか、食うもんジャカジャカ持ってきてや」 「ほいほい。バケツいっぱいのスパゲティに、金たらいのパエリアね」 亜季が、真顔で祐樹の袖を引っぱった。「ほんまに、バケツや金たらい使うん?」 「あほ、冗談や」 祐樹の義理の父親が経営している喫茶店は、いつもは夜の七時から酒を出す。だが八月も終わろうとする今夜、店の扉には貸切の札がかかり、四人の他に客はいない。余分な椅子やテーブルは片付けて、隅に寄せてある。 祐樹がめいめいのコップに、手際よくジンジャーエールを注いで回った。 「そんじゃ、イサ『元』部長。乾杯のご発声を」 怜の嫌そうな表情を承知の上で、茶化してカラオケ用のマイクを向ける。 「……乾杯」 「なんや、その覇気のない声は。ほら、コウ、代わりにやれ」 「今夜は、食って食って食いまくるぞー」 「おーっ」 「日頃のウサを、吹き飛ばすぞー」 「おーっ」 「かんぱーいっ」 飢えきった獰猛な17歳たちに、マスターは不敵な笑みで近づくと、どんと大皿を置いた。 「さあ、勝負と行こうやないか」 最初に運ばれてきたのは、揚げたてのジューシーなオニオンリング。一斉に四本の手が伸び、数十秒で皿は空っぽになった。 「くっ。さすがやな。足止めにもならんか」 おろしたてチーズがたっぷりかかった特大ボウルのシーザース・サラダは、まるで満員のウサギ小屋に放り込まれたキャベツのようだった。 固めに茹でられた山盛りのスパゲティ・ナポリタンも、フォーク同士の綱引きで、あえなく四散した。 「おまえら、まるでウワバミやな。ちゃんと噛んどるんか」 マスターが宇宙人を見るような畏怖の目つきで、言った。 「噛む前に口の中で溶けてなくなっとるんや」 ここまで来ると、さすがに人心地のついた顔になって、四人は野菜スティックやコーンチップスをばりばりと齧り始めた。 「こうして四人が揃うのは、久しぶりやね」 亜季がサワーディップで汚れた指をしゃぶりながら、言った。 「七月の蒜山(ひるぜん)合宿以来かな」 「うそ、そんなになるか」 「イサがけっこう休んでたもんな。部長を辞めたとたん、受験モードに入りよって」 「そんなんと、違う」 怜は、怒ったようにコーンチップスを激辛のサルサソースに浸して、何枚も頬張った。 「そやったら、なんで来なかった」 耕治がガーリックトーストのバケットをまるごと口に押し込む。 「いつまでも元部長が顔出したら、新部長がやりにくいと思ただけや」 「反対やと思うけどな。並木たちにとって、今が一番いろいろ聞きたい時期とちゃうか?」 「あいつらなら、うまくやる。むしろ、俺のやり方なんか参考にしないほうがいい」 「ふうん、それがほんまの理由かな?」 耕治の断定的な質問は、答えを求めていない。 座の空気が微妙に淀み始めたところへ、満を持したエビフリッターとフライドチキンの盛り合わせが運ばれてきた。しかし、このボリュームたっぷりの一皿とて、野獣たちの血肉となり果てるには三分とかからなかった。 それまで黙り込んでいた祐樹が、喉を鳴らしてコップを飲み干した。 「おまえら、三年間はたで見てて、おもろかったわ」 人差し指をくいと突き出し、指された三人は口の動きを止める。 「夏の合宿へ行くたびに、互いの立ち位置というか、距離が変わるんや。一年のときは、合宿が終わったあと、なんとなくイサとアキが接近した気がした。けど、二年の合宿の後は、ふたりは限りなく離れ、今度はコウとアキが急接近した」 亜季が居心地悪そうに座りなおした。頬にみるみる血の気がのぼってくる。 「三回目の今年は……ようわからん。わからんけど、何かが起こったことだけはわかる」 「ミヤ」 不機嫌を含んだ一本調子の声で、怜が遮った。「おまえには関係ない」 「確かに、部外者が口出しすることやない」 今夜の祐樹は、しつこかった。 「けど、俺にしか言われへんこともある。今のうちにおまえらは、きちんと決着をつけたほうがいい」 「もうやめろと言っているんや」 一気にたちこめた険悪なムードを断ち切るように、耕治がすっとんきょうな笑い声を上げた。「すげえな、ミヤ。ジンジャーエールで酔っぱらって、からむ奴を初めて見たぞ」 「はいはい、お待たせ」 さらに絶妙のタイミングで、マスターがシーフードが山と乗ったパエリアを運んできた。 「さ、祐樹。そこらへんの皿、片して」 取り皿やコップが脇に寄せられると、鉄製のパエリア鍋がテーブルを揺らす勢いで、どすんと置かれた。 「すげえ」 一同は目を見張った。イカ、エビ、ムール貝といったシーフードや色とりどりの野菜が、黄金色のサフランライスが見えなくなるほど敷きつめられている。 燦然と輝く宝箱のような彩りは食欲をそそる。ましてや、怒りというのは絶好の消化促進剤だ。気まずさから来る沈黙は、さらにそれを助長する。 金たらいと呼ぶのが誇張ではないほど大きな鉄製の平鍋は、それこそ早回しの映像のようにみるみると、黒い地肌をむき出しにした。 マスターは、もう驚く気力もないという顔で、空っぽの鍋を取り下げる。 その後はミートローフサンドイッチと、みそをつけた焼きおにぎりの皿が、おずおずとテーブルに出されたが、意外なことに、それには誰も手を出さなかった。 店主はぱっと顔を輝かせた。とうとう満腹になったか。この勝負は、俺の料理の手腕に軍配が上がったのか? 祐樹は両膝を手でつかむと、ぐいと顔を上げた。 「俺、夏休みの前に、彼女と別れたんや」 え、と亜季が声にならない声を喉につまらせた。 「俺なりに、悩みぬいて決めた。発展的解消ってヤツ」 「発展的解消?」 「今のままやったら、何も変わらへん。変わらなければ、居心地はいい。けど、結局はそれだけや」 流し台でごしごし鍋をこすっていたマスターが、息子の背中をちらりと盗み見、また顔を伏せた。 「俺からメールを送った。『お互いの気持がこれ以上進めないなら、ここで終わりにする』って。ある意味賭けのつもりやったけど、無謀な賭けやったんやろな。彼女からの返事は保留のままや」 祐樹は、完全にふっきれた明るい声を出した。「だから、俺はおまえらにも前に進んでほしいんや。そしたら、最低ひとりは、俺と同じ不幸仲間を作れるし」 笑いながら、視線を元通りテーブルの上に落とす。他の三人も、つられたようにテーブルの上を見る――初めてそこにあるものに気づいたというように。 数分後、サンドイッチとおにぎりがあったはずの場所からは、すべてが消えていた。 外へ出ると、むっと残暑の熱気がまとわりつく。 喫茶店のマスターは、肩を落とし、敗北に打ちひしがれた様子で客を見送った。なにしろ、四人はあの後、アイスクリーム2パイントと特製バナナカスタードパイとコーヒーをぺろりと平らげたのだ。もちろん、店の収支は完全な赤字だった。 心地よい満腹感も手伝って、眠さと気だるさで歩みも遅い。 「あーあ、とうとう引退か」 二学期が始まる時に三年生は引退するのが、部の慣例だ。 今夜は、四人の三年部員が自分たちだけで一足先に開いた、内輪の『追い出し会』だったのだ。 耕治が後ろにのけぞりそうになるほど空を振り仰ぐ。つられて祐樹も、そして怜も頭を上げる。そうしていると、不思議に空気がひんやりと感じられた。 晩夏の空は、すでに秋の星座が主役だった。カシオペヤのWや、東から昇ってきたペガススの四辺形が、街灯の明かりから遠ざかったときだけ、かろうじて見える。 満たされた腹とは逆に、ぽっかりと胸に風穴が開いたのを、四人は感じている。 「あとは、受験勉強一筋の毎日か」 静まりかえった深夜の街。男子たちは箍がはずれたように、口々に大声で吼え始めた。 「地獄へ突入する気分や」 「くそ、やってらんねえ」 「俺たちの青春を返せ」 都会の夜は、無慈悲に彼らの叫びを吸い込んでいく。その余韻を締めくくる亜季の甲高い声は、星々に包まれて震えているように聞こえた。 「西野高校文芸部、楽しかったーっ」 (7) 色欲 [luxuria] 3年生・夏 標高500メートルの蒜山(ひるぜん)高原は、高天原伝説の舞台となった場所と言われる。蒜山三座の山すそに広がる緑の放牧地では、褐色のジャージー牛がのどかに草を食んでいる。 西野高校文芸部の夏の合宿は、毎年ここの研修センターで行なわれる。今年は予約が取れずに例年よりも一ヶ月早い七月になった。 この合宿は三年生にとって、事実上最後の活動だ。 三年間、毎年来るたびに同じように驚くのは、朝夕の涼しさ。空気のおいしさ。空の青さ。 そして、降るような星のまたたき。 夜が更けたころ、怜は宿舎を抜け出した。四角に切り取られた窓の明かりが、丈の長い芝生の上に等間隔で並んでいる。 庭の隅の一本の松の木を選んで、幹にもたれた。 今夜もたぶん眠れない。半分閉じた目で夜空を仰ぐと、地面が今にもふわりと浮き上がりそうだ。 「寝えへんのか」 ぼりぼりと頭を掻きながら、耕治が近づいてきた。 昼間はコンタクトをしているので、眼鏡の顔は久しぶりだ。 「女子部屋の前を通ってきたけど、えらい騒ぎやったで。あいつらも今晩は寝えへんつもりやな」 「毎年、初日の晩はそうやろ」 「ああいうノリは、男にはついてかれへんわ」 今年の二年部員は四人、一年部員は三人。全員女子。 それに三年の亜季も合わせた八人の女子部員は、例年どおり広い大部屋を使っている。 対して、祐樹が欠席したため二人となってしまった男子部員は、これも例年どおり狭い和室に押し込められている。 しかし、来年は和室を取る必要もなくなるだろう。 「来年の新入生に男子がおらへんかったら、文芸部は完全に女子部員オンリーになってしまうな」 「元に戻るだけや」 怜が事もなげに言った。「男が三人もそろった俺たちの学年が、そもそも異常なんや」 「異常っていうか、偶然の必然っていうか」 急激な夜の冷え込みに、耕治はTシャツの肩をすくめた。 「俺は男兄弟の末っ子やし、女だらけの文芸部にひとりで飛び込む勇気なんて、これっぽちもなかった。男子が入ったと聞いて、そんなら俺も入るかって気になったんや。ミヤはたまたま、幽霊部員になれる居心地のいい部を探してただけで、おまえが入らなければ、たぶん俺もミヤも文芸部員にはならへんかったと思う」 そうすれば、たぶん亜季にも出会わなかった。 耕治は眼鏡越しに目を細めて、空の闇を見上げた。彼女に会わなければ、俺の三年の高校生活はどうなっていたのだろう。 これほど充実していなかっただろうか。それとも、もっと楽に生きられただろうか。 「おまえ、アキのこと、どうすんねん」 「どうって」 怜は気だるそうに、抱えた膝に顎を乗せた。「別にどうもせん。今までどおりや」 「何もなかったことにするってことか」 「本当に何もなかったんやから、しかたない」 「そんなはず、ないやろ!」 星々が震えた。 田舎の夜に不似合いな声だと気づいて、耕治はあわてて音量を下げた。 「去年の合宿で、おまえはアキに面と向かって言うた。二度と俺のそばに近づかんといてくれ、迷惑やからと」 「迷惑やなんて、言うた覚えはない」 「同じことや」 「わかった。言い直す」 怜は短く吐息をついた。「アキとは、一年の終わりに少しだけ付き合うて、すぐに別れた。けど、もう過去の話や」 「おまえにとって、か」 「アキにとって、や。人の気持が、いつまでも同じでいるほうがおかしい」 幾重にも重なり合う虫の音が、思考を一瞬、遮断する。 怜は底冷えのするような声で続けた。 「第一、おまえとアキはこの一年、隠れて会うてたんやろ」 「誰も、隠れて会うてたわけやない」 「俺には、わざわざ言う必要がなかっただけ、か」 「ふうん、さすがのおまえも、振った相手が別の男と付き合い始めると、やっぱり気に入らんか」 「付き合うてたと、認めるんやな」 「そういう意味やない、つまり、俺たちが会うてたんは……」 「男と女がふたりで会うて、他にどんな意味がある」 「そうやない言うてるやろ。アキは今でも、イサに惚れてるんや」 自分の声のはずなのに、他の誰かが言っているような錯覚に耕治は囚われた。まるで何かに操られているようだ。たとえば、頭上に広がる大宇宙の魔力とやらに。 言葉がジグゾーパズルのように、正しいところにすとんすとんと嵌まっていく。 (ああ、やっぱり俺とアキは、そういうことなんや) 妙な具合に、気持のどこかが納得していた。いっそ爽快と呼べるほどに。 「アキは今でも、おまえに惚れてる」 その言葉を聞いて、重い荷物を背負いこんだのは、怜のほうかもしれない。 「今さら、そんなことを聞いて、どうなる」 「だから、さっきから訊いとんねん。どうするって」 怜は、自分の腕にぐっと爪をたてて抱えこんだ。 「アキは思い違いをしとる」 「え?」 「本当の俺を知らんくせに。うわべしか見てへんくせに。どうして、そんなに簡単に人を好きになれるんや」 「別に、簡単やないと思うけどな」 「俺の中にどんな怪物がいるかも知らずに――おまえたちがふたりでいたと思うと、妬ましくて眠れなくなる。おまえを殺してやりたいと思うことも、アキを組み敷いてめちゃめちゃにしてやりたいと思うことさえ……」 醜いことばを吐き終えると、怜は自分の内側にめりこんでしまうくらい、頭を深く垂れた。 「本当の俺を知ったら、アキは傷つく。軽蔑して、きっと俺から離れていく。それくらいなら――」 「俺にアキを譲ったほうが、平和で綺麗な心でいられるってか」 耕治は含み笑いながら、ゆっくりと芝生の上に片肘をついた。 「そう言えば、俺の中にも、おったわ」 「なにが?」 「怪物。多分、おまえと同じ種類のヤツや」 「……」 「うん、私にもおるよ」 宿舎の四角い光の隙間から、亜季が出てきた。 「……コウがイサを捜しに行くって言うから、一緒についてきてしもた」 「黙ってて、すまん」 耕治は、ぺろりと舌を出した。 「私の中にも、怪物がいてる。女やから、イサのと同じかどうかは知らんけど」 涙を押し返すように、亜季はひとことずつ区切って話す。 「だから、私のことわかってへんのは、イサも同じ。これで、おあいこや」 怜をじっと見つめる目には、夜の闇を写して暗い深淵が宿っていた。そこから、一筋の光がこぼれ落ちた。 怜は、自分の中の怪物が、おどおどと背中を丸めるのを感じた。 (「七つの大罪」 了) ご愛読ありがとうございました。