インビジブル・ラブ


雑踏


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Chapter 1-2



「除霊をしていただきたいのですが」
 愛海は非番の日を待ちかねるようにして、近くにある心霊調査事務所を訪れた。
 もう気のせいなどと言ってはおれない。あれ以来、「見えない指」は断続的に愛海の首筋を触り続けているのだ。
 触れるか触れないかの羽根のような優しさで、しかも、一度は満員電車のただ中で。
 必死で我慢したものの、我慢しきれないで細い腰をよじる姿に、周囲の男性乗客の熱い視線がからみついた。
 そのおかげで痴漢をひとり、現行犯逮捕した。
「さすが、捜査一係の刑事さんです」
 鉄道公安隊にすぐ引き渡したが、まかり間違えば、こっちの方がヘンタイになるところだった。
 心霊調査事務所の所長は、茶髪頭の派手なスーツを着た男性だった。
「はあ、痴漢の幽霊ですか」
 困ったように、微笑む。
「姿を見せたことも何度かあり、近頃はお体を触り始めたとおっしゃるのですね。何か、心当たりは?」
「ありません。痴漢の霊に祟られる覚えなんて、先祖七代さかのぼっても、ありません!」
「ぱっと拝見したところ、悪い霊魂が取り憑いているようには思えないのですが」
「これ以上このままでいたら気が変になりそう。お願いです。何でもいいからお祓いをしてください」
「わかりました」
 彼はため息をついた。
「ですが、あいにく私は出張で今すぐ出かけなければなりません。三日後にまたおいでいただくというわけにいきませんか」
「そ、そんなに待てません。ほかに除霊のできる所員はいらっしゃらないの?」
「いるにはいるのですが、ひとりは霊を祓うよりも自分がナンパするのが好き、みたいなヤツで、もうひとりは頑固な無愛想男で、こういう仕事にはテコでも動きそうにないし」
「……」
「もうひとりは女性なんですが、あいにく今はツワリでお休みを取ってまして、もう一匹は狐――」
「はあ?」
「では、こうしましょう。この護符を差し上げます」
 所長は引き出しから、一枚のお守りのような札を取り出した。
「これで、霊が祓えるのですか」
「いいえ。その反対です。霊感が高まって、より霊を強く感じることができるようになります」
「そんな!」
 愛海は顔を引きつらせて叫んだ。
「これ以上強く感じたら、私死んでしまいます……」
「まあ。そうおっしゃらずに」
 所長はにっこり笑って言った。
「むやみに恐がらないで、その霊の言うことをじっくり聞いてやってくださいませんか。そうすれば、きっと霊の変な行動も鎮まると思いますよ」
「でも、あの……」
 久下という名の所長は、じっと優しい瞳で彼女を見つめた。
「その霊は、きっとあなたにしかわからない何かを、伝えたいのだと思います」

「だからね。小学生じゃあるまいし、どうして次の聞き込みはどこへ行くかなんて、教えなきゃならないの」
 木下警部補のねちっこい説教がまた今日も愛海を襲う。
「本気で聞き込んで回ってたら、次に行く場所はひらめいてくるもんだろ。聞き込み百回、おのずから道は通ず、だ。もし何もなければ、振り出しに戻ってやり直す。刑事はその地道な作業の繰り返しなんだよ」
「はい」
「で、この安藤みずほのところへは行ったの」
「はい、行きました。でも、この人はやっぱり……」
「追い返されるのは覚悟の上だろ。そこは同じ女性同士、話しやすいムードを作って、うまく引き出してほしいわけよ。そのへんが、きみは全然下手なんだなあ。痴漢を捕まえるのは得意みたいだけど……」
 周囲に笑い声が漏れる。愛海が電車で痴漢を捕まえたことは、もうとっくに知れ渡っているらしい。
「もしかして、被害者が女性の敵だからって、犯人に同情しちゃってるってことはないよなあ」
「そんなこと!」
 愛海は思わず叫んで、唇を噛みしめた。
 確かに最初はそう思ったこともあった。水主淳平の足取りを追えば追うほど、彼が多くの女性を騙して多額の金銭を貢がせていたことがわかった。被害者でもあるが加害者でもある。彼を殺した犯人を捕えること自体がむなしく感じたこともあった。
 だが、今は違う。
 捜査が長引くうちに、愛海にはなぜか水主が悪人だとは思えなくなったのだ。生きて、呼吸をして、日々の暮らしを刻んでいたひとりの人間。もし本当に悪人だったとすれば、なぜそうなったかが知りたいと思う。
 彼のことが、知りたい。
 愛海は知らず知らず、ポケットに入れていた護符をぎゅっと握りしめた。

 その日も疲れきって、コンビニの弁当をぶらさげ、一人暮らしのマンションのワンルームに帰ってきた。
 刑事課に配属になって一年。まともに料理を作ったことは数えるくらいしかない。
 鍵を開け、ノブを回し、大きな吐息とともにドアを閉め、明かりをつけようとスイッチに手を伸ばす。
 手が止まった。
 ひとりの男が何に寄りかかるようにして、宙に座っているのだ。まるで力尽きて目を閉じた剣闘士のように。
 その髪も肌も蒼く透き通り、背後の闇に半ば以上溶け入っていた。
 愛海は悲鳴を上げようとしたが、喉が恐怖に堰きとめられている。
 唾を飲み込もうと何度もむなしく試みたあげく、やっとひとつのことばが声になった。
「誰?」


 目を開けると、薄闇の中で俺は浮いていた。
 自分の体を通して、背後の家具まで透けて見えている。
 セミダブルベッドにふたりがけのラブソファ、それに乱雑に食器が積み上げられた小さなキッチン。
 ワンルームマンションの一室だろう。
「だ、だ、だ、だ」
 奇妙な音が聞こえるので目を上げると、ひとりの女が俺に向かってまっすぐ人差し指を突き出し、呆けたような顔をして立っている。
「だ――誰?」
 声を聞いてようやく、この女があの白い首筋の女だということに気がついた。正面から顔を見るのは初めてだった。
 とうとう、俺の姿が見えたのか?
 この何日間か、太公望のおっさんから『霊指』の特訓を受けていた。
 俺の触りたいものと言えば、あの細くなめらかな首筋しかなかったから、ひたすらそれだけを思い浮かべながら、能力を磨いた。
「誰なのよ!」
 彼女は半泣きになりながら、叫んでいる。
 恐いんだろうな。当然だ、真っ暗な部屋の中にいきなり男の幽霊が浮かんでいるんだから。
 脅かすつもりじゃないんだ。俺はただあんたに、ひとつの言葉だけ伝えたかった。
 けれど、声を出すことができない。現世に体を固定するだけですべての霊力を消耗しきっていた。
 目を閉じ、また暗黒の海の中に沈もうとしたとき、俺を引き止めるものが現れた。
 彼女のコートのポケットに入っている御札のような紙切れだ。
 御札はまばゆいほどの輝きを放ち、命綱を差し伸べるかのように、俺にその光をからませてくる。
 必死になって、その光をつかもうとした。人のぬくもりに似た力が体内に満ちてくる。
「お……れの……名……」
 ロレツの回らない酒飲みみたいに俺は必死で、ないはずの舌を動かした。
「みず……じゅ……んぺ……い」
 彼女は、たった一度でそれを理解した。
「水主(みずし)? 水主淳平?」
 まんまるに目を見開き、人差し指はピンと俺に向けたまま。
「水主淳平」
 女はうわごとのように呟いている。
「……この一年捜査していた殺人事件の被害者……なの?」
 捜査? 被害者?
 そうか、わかった。
 この女は俺の事件の担当刑事かなにかだ。だから殺害現場に花を供え――。
 と考える間もなく、彼女は力尽きたようにペタンと床に尻餅をついた。
「ごめんなさい、すいません! 決してサボってたわけじゃないんです」
 そして、両手を合わせて俺を拝み倒し始めた。
「捜査本部が縮小したのも署全体の予算が削られたのが原因で……あの、あの、決してあなたを殺した犯人の逮捕をないがしろにしたわけじゃ、ないんです。木下警部補も私も一生懸命、目撃者探しとか、付着繊維の流通経路とか調べたんですけど、ちっとも手がかりに結びつかなくて」
 どうやら、捜査が進まないのを恨んで化けて出てきたと、この女は思い込んでいるらしい。
 一生のあいだ蛇蝎(だかつ)のごとく嫌ってきた警察だが、こんなウブな刑事もいたんだな。
 なんだか、笑っちまう。
 そして同時に、この世に心を残していた最後のものが消えてなくなったように、体が軽くなった。
 俺はすっと床に降り立ち、うずくまっている女の肩に手を触れた。
「ぎゃやわああっ」
 彼女は恐竜のような大声を立てると、1メートルくらい後ろに飛びすさった。
 目に涙を浮かべ、俺をこわごわと見上げる。
「俺はただ、あんたに礼を言いたかっただけだ」
「え?」
「花を供えてくれて、ありがとう。うれしかった」
 やっと言えた。
 普通なら、これで極楽か地獄へ行くのだろうが、俺は死者の中にも数えられていない。永遠の闇の中に溶け込むだけだ。でも、それでいい。もう、思い残すことはない。
「じゃあな」
 体が現世から消えていくのを感じた。
「ま、待って!」
 突然、女が俺の腕をつかもうとした。もちろん幽霊の体などつかめるわけはない。
 すかっと床に倒れこむと、あわてて身を起こして叫んだ。
「行かないで。行く前に、あなたを殺した犯人の名前を教えて!」
 こいつ、何て言った?
 自分の耳を疑った。俺を殺した犯人の名前を教えろって? そんなことを刑事が幽霊に訊くか?
「名前がわからなきゃ、特徴だけでもいい。犯人を特定できる手がかりになるなら、なんでもいいの」
 恐怖に歯をカチカチ鳴らしながら、それでも必死にとりすがろうとする。
「お願い、殺人事件の被害者の事情聴取なんて、めったにある経験じゃないもの」
 めったに、どころか、普通の刑事なら経験しないまま一生を終われる。
 だが、俺の体はどんどん消え始めた。
 話したり動いたり、彼女の肩に触れたり、想像以上に『霊指』の力を使ってしまったらしい。
「だめ……だ。今日はもう……限界……」
 完全に意識の沼の中に沈み込んだ俺に、彼女の透き通った声が遠くから聞こえてきた。
「また化けて出て来て。私、待ってるから!」

 現世と来世の『はざまの世界』に戻ると、太公望のおっさんが待ち構えていたように、釣り竿をかついで、にやにや笑っていた。
「よくやったの。初めてのコンタクトにしては、上出来だ」
「疲れた……」
 俺の体は形を保てず、ぐにゃぐにゃのクラゲ状態になっている。
「あの御札みたいなもんがなければ、とても会話などできなかった。……あれはいったい、何だったんだ?」
「人の念を増幅する力を持つ護符だろう」
「護符?」
「『夜叉追い』とかいう霊能力者の持つ小道具だ。あの女性が助けを求めに行ったのかもしれんな」
 太公望は、わしわしと長い顎ひげをしごきながら、ひとりでほくそ笑んでいる。
「おまえさんを現世につなぎとめるもの。もしかすると、早くも見つかったかもしれんの」

 太公望が沸かしてくれた桃の薬泉に二日二晩つかり、俺がふたたび元気を取り戻して彼女のところに現れたのは、三日目のことだ。
 部屋の床には、ご丁寧にも線香と仏花が供えてあった。たたられるという恐怖がまだ消えないらしい。
 ソファに座ってテレビを見ていたらしい彼女は、俺の半透明の体を目にするや、「ぎゃー」とクッションを投げてきた。
 「私、待ってるから」と色気のあるセリフを吐いておいて、その仕打ちはねえだろう。
 恨みのこもった目でにらんでやると、「ひーっ。ごめんなさい」と、またひれ伏して俺を拝む。
 その拍子に、彼女が首からぶらさげていた護符が揺れた。この護符のおかげで、俺たちはまるで生きている者同士のように、普通に会話が交わせるのだ。
「えーと、そ、それじゃ、いろいろと事情を聞きたいから、とりあえず座って」
 女はへっぴり腰で立ち上がると、ソファを指し示した。
「ここでいい。別に立ってても疲れるわけじゃない」
「じ、じゃあ、コーヒーか紅茶でも飲む?」
「そんなもの入れる胃袋は、とっくになくなった」
 俺は聞こえよがしに大きな溜め息をついた。
「実は、こないだ言いそびれていたことがある」
「なに?」
「悪いが、俺は殺されたときのことをまったく覚えてない」
「ええっ」
 彼女は、自分用のコーヒーを準備していたマグカップを取り落とした。
「話によると、死ぬ瞬間に放出する脳内麻薬の作用らしい。死ぬ前数時間のことがまったく思い出せない。なぜ俺はあの路地に立っていたのか。誰を待っていたのか。俺を殺したのはどんなヤツか」
「そんな……」
 はた目にもそれとわかるほど失望して、がっくりと椅子に座り込む。
「せっかく、はじめて犯人を逮捕できるチャンスだと思ったのに……」
 あまりの落胆ぶりに、俺はなんだか自分が彼女をいじめているような気分になってきた。
「あの……あんたの名前を教えてくれないか」
「あ、小潟です。小潟愛海(おがたあいみ)」
「じゃあ、小潟刑事。お願いがある。この事件の捜査をすぐに打ち切ってくれ」
「打ち切れって、どうして!」
「殺された本人がそう望んでるんだ。どうしてだっていいだろ」
「だって、自分を殺した犯人が見つからなくて、悔しくないの?」
 小潟愛海は、キツネにつままれたような顔をして俺を見る。
「犯人を恨んで、化けて出てきたんじゃないわけ?」
「言ったろう。俺は花を供えてくれた礼を言いたかっただけだと」
「だって、私ならすごく悔しいと思う。いきなり命を奪われるなんて納得できない。納得しちゃいけないよ」
「別にそんな気持はこれっぽちもない」
 俺は実に辛抱強く、彼女の話に付き合った。
「たとえば、おまえがどこか遠くへ引っ越したとするだろ。そしたら、前のアパートの隣のババァがイヤなやつだったとか、近所の犬に噛まれたとか、そんなこと、いちいち根に持って仕返しに行くか?」
「……ううん。そんなことしない。だって、もうすんじゃったことだもん」
「それと同じなんだよ。この世のことは、もうすんじまったこと。ただでさえ、あの世で暮らすのは大変で、わけのわからんオッさんにからまれたりするのに、いちいち恨みなんてモノを持つエネルギーは残ってない」
「そんなものなの」
「そんなものだ。それに……」
 少し言いよどんだ。実はこっちのほうが、俺にとってはホンネだ。
「俺は、殺されて当然なことをしてきた。犯人を恨むなんて権利は、俺にはない」
「……」
「だからな、こんなムダな事件に割く時間があったら、定時に家に帰って美容パックでもして寝ろ」
「ま、待って!」
 消えようとする俺を呼び止めると、彼女はうるんだ大きな瞳を向け、じっと見た。
「あなた、本当はいい人だったんだね」
「は?」
「だって、犯人を心からゆるして、捜査を止めようとしてるんでしょ。――そうやって、たくさんの女性をだました自分の罪をつぐないたくて、この世に戻ってきたんでしょ?」
「はあ?」
 何を少女趣味なことを考えてるんだ、この女は。
 つぐないだと? さかさまに吊り下げて脳みそを振ったって、俺の頭の中から「つぐない」なんて言葉は出てきやしない。
 俺は、ただ逃げたいだけだ。この世のわずらわしいこと一切がもう御免なだけだ。
 一刻も早く忘れ去られたい。そして自分も、何もかも忘れて眠りたい。
 それが俺の望むことだ。
「あなたが犯人を気づかう優しい気持はわかるんだけど、私の一存ではどうしようもないの」
 愛海はすっかり少女趣味の世界に入りこんで、陶酔している。
「これは刑事事件だから、被害者が捜査を止めてくれと頼んでも、ダメなの。第一、殺人事件の被害者が捜査中止を申し出て認められた事例なんて一件もないし」
 あたりまえだ。殺された奴が警察に申し出るなんてことが、そうそうあってたまるか。
「そうだ。私の上司に一度相談してみる?」
 突然、彼女は目を輝かせて立ち上がった。
「相談? 誰が?」
「もちろん、あなたよ。水主さん」
 女刑事は携帯を取り出すと、耳に当てた。
「あ、係長。今……そうですか、ちょうどよかった。今すぐそちらに行きます。会わせたい人がいるんです。……ええ、水主淳平殺害事件のことで」
「おい、待て。俺が誰と会うって――」
「さあ、行きましょう」
「行くってどこへ」
「私が勤めてる南原署よ」
「南原署……だって?」
「捜査一係の係長に直接話をして。係長ならなんとかしてくれるかもしれない」
 小潟愛海は、コートとバッグを手に取ると、もう外に飛び出していた。意外なほどの機敏さは、さすが刑事だ。
 タクシーを拾うと、「南原署へ」と告げた。
「『久下心霊調査事務所』というところで、このお守りをもらってきてから、あなたと話せるようになったの」
 彼女は後部座席の背にもたれ、コートの胸元から大事そうに護符を取り出した。
「霊を強く感じることのできるようになるお札だと言ってた。だから、これを渡せば、きっと係長もあなたの姿が見えて会話ができるはず」
「あのう、お客さん」
 タクシーの運転手が薄気味悪げに言った。
「それは、わたくしに話しかけておられるんでしょうか」
「え、違うわ。隣の人によ」
「……ひ」
 運転手がいっぺんで総毛立つ気配がした。




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