インビジブル・ラブ


雑踏


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Chapter 1-3



「南原署か……」
 夜空を背景に寒々と立つ、コンクリートの建物を見上げた。
 15年ぶりになる。俺にとって、ここは苦い思い出のある場所だった。
 幽霊となってまた来ることになるとは思わなかったな。まさか、小潟愛海がここの刑事だったなんて。
「水主さん……体が消えかけてる」
 タクシーの料金を払って降りてきた愛海が、すっとんきょうな声を上げた。
「しまった。今日は霊指の力を使い果たしたらしい」
「だめよーっ。今から係長に会うっていうときになって。もうちょっと我慢して」
「我慢しろって、トイレじゃねえんだから」
 すぐさま彼女は二階に駆け上がり、俺はそのあとに続いて、ともにドアをくぐった。
 奥のデスクに、頭頂の禿げ上がった細面の男が座っている。
「係長、遅くなりました。水主事件の重要な証人を連れてきました」
 ほがらかな愛海の声に、彼は立ち上ってきょろきょろとあたりを見渡した。
「いっしょじゃないのか?」
「ここにいます」
 と、彼女は俺に振り向いた。
「紹介するわ。あの人が、刑事課捜査一係の加賀美係長。57歳、妻子に逃げられて目下独身」
「なにをひとりで、ぶつぶつ言っとるんだ」
 気の短い神経質そうな声で、係長は近づいてきた。
 愛海は、部屋の電気を全部消すと、
「係長、何もお聞きにならないで、これを手に持っていただけますか」
 首にかけていた護符を差し出した。その自信たっぷりな様子に押されて、上司は怪訝な表情でそれを受け取った。
「……」
「……」
「見えましたか?」
「だから、何をだ!」
 結果は語るまでもないだろう。
 怒り狂った係長に、愛海は刑事部屋じゅうを追い回されることになるのだが、残念ながら俺はそれを楽しむ前に、霊力が尽きて姿を消すこととなった。

「不思議だな」
「なにがだ」
 数倍のスピードで霊力を修復するという桃の薬湯につかりながら、俺は太公望のおっさんと会話を交わした。
「あの護符は、霊を強く感じる力を授けてくれるんじゃなかったのか。南原署の係長は、俺の気配さえ感じてなかったみたいだぜ」
「ち、ち、わかっとらんのう。おまえさんは」
 おっさんは片手で釣り竿を支えながら、うまそうに桃まんじゅうを頬張る。
「ゼロをいくら百倍しようがゼロはゼロだろうが。その係長はおまえのことを知りたいという気持など、さらさらなかったということだ。だから護符の力をもってしても、おまえさんの姿は見えなかった」
「じゃあ……愛海は、俺のことを知りたいと思っていたのか」
「ふふん、少なくともおまえさんの事件を解決したいという願いは、人一倍持っておったことだろう」
「……」
「まったく物好きな女だの。あんな変人は世界中探しても、ひとりしかおらんて」
 太公望は俺の呆けた表情を見て、にやついている。
 俺は今まで、他人はみんな敵だと思ってひとりで世間を渡ってきた。その挙句に、路地裏でゴミのように惨めに死んだ。
 そんな俺が、誰かの心に覚えられていた。
 しみじみと嬉しいのは何故だ。
 俺は一刻も早く忘れ去られたかったはずだ。この世に未練などないと言ったのは、嘘だったのか。
 俺はずっと、誰かに自分を見てほしかったのか。
 二日して愛海の前に現れると、彼女はわめきながら突進してきた。
「ばかあ。途中で消えちゃうなんて。係長にさんざ怒られたじゃない」
 幽霊の俺に飛びかかろうとして、また、すかっと床に倒れこんでいる。
 バカな女だ。バカで思い込みが激しく、ちっとも学習しない。
 だけど。
(こいつ、可愛い……)
 ないはずの心臓が、動悸を打つのを感じた。

「私、ふう、あれから、ふう、考えたんだけどね」
 熱いマグカップを両手で抱え、コーヒーの湖面にふうふう息を吹きかけながら、愛海はしゃべっている。
「犯人を見逃すっていうのは、やっぱり良くないと思う。ふう。あなたを殺してしまった罪悪感に、きっと夜も眠れない日々を過ごしているはずだもの」
 相変わらずの少女趣味思考だが、俺は話の中身より彼女の横顔に、とりわけツンと上を向いた鼻の頭に夢中になっていた。
「だから、ふう、犯人を救うためにも、やっぱり捜査を続けよう」
 こくりと、ひとくち飲んで「あっちち」と顔をしかめる。こいつ、とんでもない猫舌だな。
「ねえ、水主さん」
「あ?」
「協力してくれる? あなたが協力してくれたら絶対、犯人見つけられるよ」
「ああ」
 本当は、そんなわずらわしいことに関わるのはごめんだったはずなのに。
 断れば、彼女と俺をつなぐ唯一のきずなが切れてしまいそうで、気がつくと俺は承諾していた。
「ほんとっ? やったー」
 愛海は、クッションを抱きしめながら足をばたばたさせている。
 その笑顔は、まぶしいくらいだ。
「じゃ、さっそく作戦会議」
 愛海はそそくさと立ち上がると、テーブルに、ノートやペンやレコーダを並べ始めた。
「捜査資料を家に持ち帰ることは署の内規で禁止されてるの。だから簡単なメモしかないんだけど」
 と前置きして、レコーダのスイッチを入れる。
 おいおい、幽霊の声を録音する気か。
「もう一度、殺害された日のことを思い出してくださいませんか」
 ことばつきが変わった。ぽよんとしていた目元を引き締めて、愛海はいつのまにか刑事の顔になっている。
「あの路地で何をしていたんですか?」
「……誰かを待っていたような気がする」
「佐田亜希子という名前に聞き覚えは?」
「ある」
 亜希子は、俺が最後に騙した女だ。
 伯母が金持ちで、その死によってまとまった遺産がころがりこんできた。俺はそこまで調べあげて、彼女に近づいたのだった。
 そうだ、思い出した。
「あの日、俺はそいつと待ち合わせていたんだ」
「そうです。株の損失で、どうしても二百万円の手当てが必要になったからと、佐田さんをあの路地に呼び出した。携帯の履歴で、そのことがわかっています」
「じゃあ、亜希子が俺を殺したと……」
「でも、それは不自然なんです」
 刑事モードの愛海は、メモを見ながら順を追って説明してくれる。
 あの路地は行き止まりではない。人ふたりがようやくすれ違うことのできる狭さだが、東へと通り抜けることができる。数こそ少ないが、その路地を通行する人は皆無ではなかった。
 俺を刺した犯人は、東側の道から路地に入り、俺の背後へと歩いてきたはずだ。
 だがもし、それが俺の待っていた亜希子なら、俺は背中を向けるはずはない。
「佐田亜希子さん以外の人物だった、というのが私たちの結論です。だからあなたは、誰かが近づいてくるのに気づいても、あえて無視して、いやむしろ顔を隠すように背中を向けていた」
 もちろん、まったく足音を立てずに背後に忍び寄られたという可能性もあるが、それはかなりむずかしいだろう、というのだ。
 石畳を踏むカツカツという足音。誰かが近づいてくる。すれ違うと思った瞬間、そいつは俺に――。
「だめだ、思い出せない……」
 正直、吐き気がしていた。胃なんてものは、もう俺にはないはずなのに。
「もうひとつの証拠は、水主さんの刺し傷の角度です」
「角度?」
「凶器は見つかっていませんが、鋭い刺身包丁のようなものを、肋骨の隙間からかなりの力で差し入れられています。たとえば、私の背丈の人間が、立っている水主さんの胸を思い切り刺そうとすると、どうしても上から下へとかざす形になりますが」
 愛海は立ち上がって、実演してみせてくれた。
「実際の傷は、ほぼ平行についていました。ということは……」
「俺と同じ背丈の男か――」
「背の高い女性、という推理ができます。かなりかかとの高いブーツかハイヒールを履いているかもしれません」
 ハイヒールを履いた背の高い女性、ということばを聞いたとき、俺の頭にひとりの女の姿が思い浮かんだ。
 六本木のクラブの指名ナンバーワンで、稼ぎもよかった。すらりと背が高いことを自慢にしていたっけ。
 一年前、俺は新興IT企業の経営者のふりをしてそいつに近づき、運転資金だと称して千二百万を巻き上げたんだ。
「安藤みずほ、という女は調べたか?」
「安藤みずほ」
 彼女はテーブルに身体を乗り出し、俺にかみつくように叫んだ。
「その人を私たちも、重要容疑者としてマークしてるの!」
 警察の取調室然といった雰囲気はあっというまに掻き消え、刑事モードだった愛海は、いつもの愛海に戻った。
「何度面会を申し込んでも、拒絶されるの。そんな話、聞きたくもないと言われて」
「そうか」
 みずほは俺の詐欺師歴の中でも最高級のカモだった。あいつを落とすのに、俺は途方もない時間と金と精力を使ったのだ。
 結果は千二百万。さぞかし俺のことを恨んでいるだろう。
「みずほさんに、詐欺の被害届だけ出してくれと何回もお願いしたんだけど、ダメなの。それだけ警察との接触を拒否しているなんて、何かあるに違いないと木下警部補は言ってる」
 そうか。みずほが俺を殺したかもしれないのか。
 だがそう聞いても恨みの念は湧いて来ない。自分が彼女にした悪事を考えると、あっさり納得してしまう。
「俺はやはり、殺されて当然の人間なんだろうな」
 ぽつりと言った俺のことばを、愛海は聞きとがめた。
「殺されて当然な人なんて、いないよ!」
 やわらかな髪の毛をひらひらさせながら、思いっきり首を振る。
「ヒトラーだって麻原○ョーコーだって、殺されて当然なんかじゃない。生きていればこそ、正当な裁判も、つぐないも、改心もできるんじゃないの」
「たとえが悪すぎるな。よけい落ち込むぜ」
 俺は笑い出した。
 愛海が俺の弱気なセリフに必死になって反論してくれたことが、本当はうれしい。
「ねえ、今から会いに行ってみない?」
「みずほに、か?」
「うん、どうせ玄関で追い返されるだろうけど、声でも聞いたら、忘れていることを何か思い出すかもしれない」
「そうは思えないがな」
 「さ、行こ」と立ち上がった愛海は、テーブルの上で回っていたレコーダを止めると、きゅるきゅると巻き戻した。
「わーっ。私の声しか入ってない」
 当たり前だろ。幽霊の声が録音されてたら、それこそ、「木スペ」ものの怪談だ。

 俺たちはすぐさま、安藤みずほのマンションへタクシーで向かった。
 いつのまにか、外はもうすっかり朝になっている。
 そのとき、気づいた。俺の『霊指』の能力が、いつのまにか向上している。
 少し前ならこんなに長い時間、現世にとどまれなかった。今は苦もなく、何時間でも愛海と話していられるのだから、たいしたものだ。
「ね、見てみる?」
 愛海は警察手帳を取り出し、はさんであった一枚の写真を見せてくれた。まるで中学生がカレの写真を生徒手帳にはさんで、友だちに見せるノリだ。
 それは、どこで手に入れたのか、俺の生前の写真だった。四隅がぼろぼろになるほど使い込まれている。
 事件の聞き込みのために何百回と、彼女はこの写真を見せていたのだろう。
「あのぅ。お客さん」
 タクシーの運転手がおそるおそる聞いた。
「それは、わたくしに見ろとおっしゃってるんでしょうか」
「やだ、違うって。写真の本人に言ってるのよ」
「はあ……。さいですか」
 タクシーが目的地に停まる数秒前に、メーターがかしゃんと上がった。
「あーあ」
「あっ、けっこうですっ。基本料金でけっこうですからっ」
 運ちゃん、明らかに愛海にビビってやがる。
 安藤みずほの住所は、都心にある、かなりの高級マンションだ。
 彼女の部屋のある上階を仰ぎながら、愛海は口をとがらせた。
「不思議だなあ」
「なにが」
「水主さんて写真を見る限り、特にイケメンというわけでもないのに、どうしてこんなに次々と金持ちの女性を騙せたのかなって」
「言いにくいことをはっきり言うヤツだな」
 俺は苦笑した。
「なまじ顔がいい男は、警戒されるんだよ。結婚詐欺師には向かない」
「そんなもんなの」
「そんなもんだ。どこにでもいそうな平凡な男が、自分にだけ最高の顔を見せてくれると思い込む時に、女は萌えるんだよ」
「なによ、それ。わけわかんない」
「どういうことか、教えてほしいか?」
 俺は愛海の手首をそっと握った。もちろん『霊指』の力でだ。そうやって動けなくしておいてから、顔を近づけて、そっと耳元にささやく。
「俺のこと、これからは『淳平』と呼べ」
「きゃっ」
 愛海はすっとんきょうな声をあげて、大きくうしろへのけぞった。
「おい、暴れるな。俺の力じゃ、まだ支えきれないぞ」
「だ、だって」
 顔がゆでダコみたいだ。
 どうやら本気で、感じちまったらしい。




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