インビジブル・ラブ


和風


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Chapter 3-2



 心臓が飛び出すような心地だった。もちろん、幽霊の俺には、心臓なんてものは、とっくにないが。
 久しぶりに会った三橋さゆりは、ずいぶん大人びていた。
 三年前は学生っぽさの抜けない、どちらかというと、ぽっちゃりした容姿だったが、今は顎のラインがすっきりした細面になっている。
 短かった髪も今は豊かに結い上げ、淡い青の和服も、襟を抜いて上品に着こなしている。
 ずいぶんと色っぽい、いい女になったんだな、さゆり。
 俺は、むかし騙した女に向かって、妙な感慨にふけっていた。
「いらっしゃいませ、小潟さま」
 若女将のさゆりは、愛海のバッグを真っ先に受け取ると、穏やかな微笑を浮かべた。
「ようこそ山緑館(さんろくかん)へ。お待ちしておりました」
「一晩お世話になります」
「お疲れになったでしょう。どうぞ、お入りください」
 浴衣姿の客たちが、のんびりと談笑しながら、ロビーを横切っていた。夕食前にひと風呂浴びに行くのだろう。
 入り口にある歓迎の看板の数を見ると、なかなか繁盛しているようだった。
 愛海が帳場でチェックインしているあいだに、俺はさゆりのほうにちらちら視線を注いだ。
 心なしか、さゆりが愛海の後姿を見つめる目が、不安におびえているように見える。昔のことを、刑事に根掘り葉掘りたずねられるのが、よほどイヤなのだろう。
 さゆりが俺を殺した犯人だとは、俺はまったく疑っていなかった。
 賭けてもいい。いくら俺のことを憎んでいるとしても、こいつはそんなことのできる女じゃない。
「お部屋へご案内いたします」
 チェックインが済むと、絣の着物を着た仲居のひとりが、愛海を先導した。
 渡り廊下を、離れへ向かう。
 途中で、すばらしい日本庭園の景色を楽しむことができる。露天風呂もある。
 さゆりから話には聞いていたが、これは相当に由緒ある旅館らしい。
 離れの一部屋に通されると、仲居がお茶を入れてくれ、食事や風呂などひととおりの説明をして、出て行った。
 それと入れ違うようにして、若女将のさゆりが入ってきた。
「小潟さま」
 入り口で深々とお辞儀をすると、さゆりはピンと正座した。先ほどまでの笑顔は消えている。
「ほんとうにお手数をおかけしました。わざわざ、秋田県までいらしていただいて」
「いいえ、こちらこそ感謝しています」
 愛海も、真顔で会釈した。
「ご家族や従業員の方には、決して気づかれないようにしますので」
「よろしくお願いします」
「まず最初に、少しだけ質問をさせてください」
「はい、今は夕食前ですので、あまり時間はとれませんが」
「三橋さんのご家族のことを、教えてくださいますか?」
「はい、ここの女将である母には、たった今、帳場でお会いになられましたね」
「はい」
「父は去年亡くなりました。兄弟はいません」
「それでは、お母さまが、警察の事情聴取について大反対をなさっておられるわけですね」
「ええ、それと、番頭の大河原です。先ほど、送迎の運転をした者です」
「ああ、あの方」
「父が存命のころから番頭として働いてくれています。家族同然の人です」
「お時間のあるときに、地元の秋田県警本部まで出向いてくださるのは、やはりむずかしいですか」
「今は――それだけの時間、旅館を空けるのは無理だと思います」
 さゆりは、顔を曇らせて答えた。
 若女将というのは、それだけの重労働だということだろう。
 それに、今は夏だ。東北の旅館はかきいれどきに違いない。
「それでは、最初の打ち合わせどおり、この部屋を使って事情をうかがうことにします」
「無理を申しまして、すみません。わたくしは、十時のチェックアウトと二時のチェックインの間ならば、比較的時間が空いています」
「わかりました。では、明日の十時半に、ここへいらしてください。上司の木下も同席します」
 さゆりが出て行くと、愛海は俺のほうに向き直って、ぶーっとふくれっ面になった。
「きれいな人だね。ずいぶん真剣に見とれてた」
「え?」
「そういえば、淳平は昔、あの人とも体の関係があったんだもんね」
 やたら、険のある言い方だな。
「おまえ、妬いてるのか?」
「だーれーがー!」
 憎まれ口とは裏腹に、目がうるんでいる。
「ばかだな」
 俺は霊指の力で、そっと愛海の頭を抱き取った。
「俺があいつを抱いたのは、金のためだよ。愛してたからじゃない」
「だって……」
「けど、おまえは違う。俺が真剣になったのは、おまえだけだ」
「う……ん」
 愛海の唇をついばむと、俺は魔法をかけるみたいに低くささやいた。
「さあ、はやく浴衣に着替えろよ。露天風呂へ行こうぜ」
「だ、だめ」
 愛海は、はっと正気に戻って、飛び退った。
「トイレとお風呂は、絶対にオフリミットって約束でしょ」
「露天風呂は、約束の対象外」
「やだーっ、それじゃ、絶対に入んない!」
 愛海は真っ赤になって、ぷいと顔をそむけた。
 いくら拒むふりをしても、ダメだからな。
 愛海がこの旅行で、露天風呂をすごく楽しみにしてたのを、俺は知ってる。

 愛海は結局、内風呂で汗を流すと、大広間で豪華な懐石料理の夕食に舌鼓を打った。
 部屋食もできたのだが、愛海はわざと広間での食事を選んだ。
 旅館の従業員たち、特に女将であるさゆりの母と、番頭の大河原の様子を観察したかったのだ。
 本人が殺人を犯すような女でなくても、彼女の身近な人間が、俺のことを殺したいほど恨んでいるということは、ありうることだ。
 だが、さゆりの母親はしっかり者ではあるけれど、老いが目立つし、番頭は愛想がよく、あまり激情にかられるタイプではないように見える。
 古参の従業員たちも、特にマークすべき人間はなさそうだ。
 部屋に戻ると、すでに布団が敷いてあった。
 もちろん、ひとり分だ。幽霊の俺の分の布団などあるわけない。
 それでも愛海はなんとなく、顔を赤らめている。いつもはベッドで寝ているので、布団というのは彼女にとって、特別のシチュエーションなのだ。
「そ、それじゃ寝るとするかな」
 などと、照れ隠しのひとりごとを言っている。
「露天風呂は?」
「え、えと。朝行くよ」
「明るいと、余計恥ずかしいぞ」
「じゅ、淳平には関係ないでしょ」
「ほう。そういうことを言うか」
 俺は、愛海の身体に後ろから抱きつくと、うなじをするりと撫でた。最初に出会ったころと同じく、愛海の一番弱いところだ。
「ひゃあっ」
「そんな色っぽい浴衣姿で誘っておいて」
 帯をゆっくりと緩めていく。「俺が、何も期待していないと思うなよ」
「だ、ダメ。ああん、ダメだってば」
 愛海の抗議の声に、甘ったるい響きが混じり始めた。
 しかし、こういう不純な行いには、邪魔がはいる運命らしい。

「きゃああっ」
 突然、外から甲高い女の悲鳴が聞こえてきた。
「な、なに?」
 愛海は布団の上でガバッとはね起きて、警察手帳の入ったポーチをひっつかむと、部屋を飛び出した。
 途中、廊下を走っているときに邪魔になったのか、浴衣の裾をサッとからげて、ふたたび走る。この機動力は、さすがに刑事だ。
 夜の庭は、庭園灯で足元がほんのり明るい。
 石畳の上を駆けていき、池にかかった弓なりの橋にさしかかると、庭の隅の暗がりに、人だかりがしているところを見つけた。
「どうしたんですか?」
 人の群れを器用にくぐりぬけ、正面に出た愛海は、「ひっ」という小さな悲鳴を上げた。
 形のよいマツの木が一本、立っていた。その幹に、誰かの持つ懐中電灯の光が当てられている。
 磔(はりつけ)にされていたのは、ネコの死体だった。
 しかも、それは尋常な死体じゃない。半分に引き裂かれ、左右対称にぴんと肢を伸ばして釘で打ちつけられていたのだ。
 さすがの俺も、あまりの残酷さに慄然とした。まるで八つ墓村か何かの猟奇小説に出てくるような光景だった。
 顔をそむけている仲居や客の群れをかきわけて、若女将の三橋さゆりが番頭の大河原とともに現われた。一瞬蒼ざめたが、気丈にもまっすぐに死体に目を注ぐ。
 そして、数秒たたない間にもう、にこやかな笑顔を浮かべていた。
「もうしわけございません。お見苦しいものをお目にかけてしまいました」
 さゆりは、さっと客たちの視線を遮る位置に立った。
「これは何でもありません。すぐに片付けさせますので」
「何でもないって、明らかにこれは異常だろう」
 客のひとりが叫ぶ。
「この頃、近くの国道に暴走族が出没して、あちこちにペンキの落書きなどの被害が出ています。これも、その悪戯のひとつでしょう」
「暴走族のいたずら?」
 居合わせた客たちはまだ何か言いたそうだったが、若女将の指示ですばやく死体が片付けられると、しぶしぶ部屋に戻っていった。
「あーん、気持悪いよ。こんな旅館で寝られない」
 若いカップルが声高に話し合っている。
「そうか。面白えじゃねえか。この旅館、なにか因縁があるんだよ」
「因縁って?」
「先祖代々のタタリとかさ。ヤバイ、早く友だちにメールしようっと」
 さゆりと愛海の目が合った。さゆりは軽く会釈すると、小走りに玄関のほうへ戻っていく。女将や従業員たちと、これからの対応を協議するのかもしれない。
「誰が最初に、これを見つけたのですか?」
 愛海は懐中電灯を持っていた男性従業員に、こっそり後ろから声をかけた。
 いよいよ、刑事モードの愛海の登場だ。
「わたしです」
 男は怪訝そうに振り向きながら、答えた。
「前後の状況を教えてください」
「庭園灯のひとつが消えているのを、見つけたんです。それで、替えの電球を持って、ここに来てみたら……」
 男の視線のすぐ先には、こんもりと低木が茂った築山があった。なるほど、円型庭園灯のひとつだけが点いていない。これを調べに懐中電灯持参でやってきたところへ、ネコの死体を見つけてしまったのだという。
 そこへ偶然、露天風呂へ行く途中の泊り客が通りかかって、大騒ぎになってしまったらしい。
「その泊り客というのは、常連の方ですか」
「あのう」
 男性従業員は、不審げに眉をひそめた。「失礼ながら、警察の方でいらっしゃいますか?」
「い、いいえ。そんな!」
 愛海は大あわてで否定した。せっかく刑事であることを隠してここに来ているのに、バレてはまずい。
「まさか警察なんてとんでもない。ミステリを読むのが大好きな、ただの女の子です。キャピ♪」
 ……おい、実生活で「キャピ」ということばを使う人間は、初めて見たぞ。
「それにしても」
 従業員たちへの聞き込みはあきらめて部屋に戻る途中、俺は気にかかっていたことを愛海に話した。
「今度の事件は、初めてじゃないな」
「え、どうして?」
「この旅館の従業員の様子だよ。さゆりのやつも、確かにネコの死体にはおびえてはいたが、それほど驚いてはいないようだった」
「暴走族が犯人だって言ってたけど」
「客を納得させるための出まかせに決まってる。暴走族が、わざわざ旅館の敷地の中まで入り込んで、そんなことするわけない」
「それもそうだね」
 愛海はそう答えたあと、口の中でさらに何かブツブツ言っている。
「ふん、なにが『さゆりのやつ』よ」
 どうも、俺がさゆりを馴れ馴れしく呼んだのが気に入らないらしい。女ってのは、こんな修羅場でも、そういうことは忘れない生き物だな。
「さゆりが事情聴取を受ける気になったのは、このせいかもしれないな」
「え? どういうこと?」
 俺たちが部屋に戻って少しすると、思ったとおり三橋さゆりが、愛海を訪ねてきた。
「先ほどは、醜態をお目にかけてしまい、本当に申し訳ございませんでした」
 敷居のところで深々と頭を下げるさゆりは、やはり憔悴の色を隠せない。
「お母様もさぞ驚かれたでしょう」
 愛海が母親のことに話を向けると、うっすらと涙ぐんだ。
「はい。女将は今、わたくしと手分けして、あの死体をご覧になったお客様の部屋を回らせていただいておりますが、こっそり心臓の薬を飲んでおりました」
「今度のことは、初めてではないのですね」
 彼女ははっと顔を上げた。「どうして、そのことを?」
 愛海はチラリと横目で俺を見ながら、
「刑事の勘です」
 威張って答えた。
「ずっと断っておられた事情聴取を承諾なさったのは、この事件のことを警察に相談したいという気持も、あったのではないですか」
「さすがに刑事さんです。何も隠すことはできないのですね」
 さゆりは、観念の吐息をつくと、居住まいを正した。
「ご推察のとおりです。実は二ヶ月ほど前から、うちの旅館に対して、このような嫌がらせが続いていました」
「ネコの死体をはりつけて?」
「いいえ、あれほど悪質なものは今日が初めてです。それまでは、「旅館をやめろ」と大書した脅迫状まがいの手紙が届いたり、五寸釘を刺したワラ人形を投げ込まれたり、イヤなうわさをばらまいたり」
「うわさ、とは?」
「ええ、このあたり一帯は、戦国時代に古戦場だった土地柄なのです。この旅館の建つ場所にはかつて首塚があり、無念の恨みをもって死んだ武士たちの霊が化けて出るなどと、根も葉もないことを……」
 さゆりは悔しさのあまり、キュッと唇をかみしめた。
「今はインターネットの時代ですから、お客様のクチコミ情報はあっというまに広まります。そのせいか、日を追うごとに、当館にお泊りになるお客様が減っているのです」
「犯人の心あたりについては、何か?」
「わかりません……でも」
 さゆりは、いったん首を横に振りかけたが、思いなおした。
「疑っている人はいます」
「どなたですか」
「佳山(かやま)健太郎さんといって」
 俺はそれを聞いて、「え」と叫んだ。もちろん俺の声は愛海以外には聞こえない。さゆりは続けた。
「うちのすぐ隣の、佳山グランドホテルの経営者です」

 佳山グランドホテルは、ここに来る途中の車の窓から見えた。
 ホテルとは言え、温泉地によくある威圧的な高い建物ではなく、周囲の景観にほどよく溶け込んでいる。
 俺の見た限りでは、この山緑館とともに、この温泉地を代表する名宿という印象だった。
「なぜ、佳山さんを疑っていらっしゃるのですか」
「半年ほど前から、しつこく合併話を持ちかけてくるのです」
「この旅館とホテルとを、ですか?」
「八十年続いた格式ある山緑館を、ホテルの別館にしようだなんて、とんでもないわ」
 それまでの静かな物腰から一転して、なじるような口調になったさゆりに、愛海は驚いたようだった。
「あ、す、すみません」
 さゆりは、恥じ入って顔を赤らめた。
「すみません。なんだか、興奮してしまって……」
「あんなことがあった後ですから、当然ですよ」
「何も証拠があるわけではありません。ただ、うちの業績が落ち、これ以上赤字が膨らむようなことになれば、交渉はそれだけ向こう側に有利になってしまいます。銀行もますます強く、合併を勧めてくるでしょう」
 さゆりの蒼ざめた横顔を見て、俺は胸をえぐられる思いだった。
 赤字の続く旅館の若女将として、こいつがどれだけの心労を重ねているか。
 それもこれも、俺のせいだった。さゆりが、あれほど嫌がっていた旅館を継いだのは、俺が無理矢理、実家に借金をさせたせいなのだ。
「刑事さん。無理を承知でお願いします」
 突然、さゆりは畳に頭をつけてお辞儀した。
「ここに滞在していらっしゃる間に、嫌がらせの犯人をつきとめていただけませんか。私にできる限り、どんな協力でもいたしますから」




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