インビジブル・ラブ


和風


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Chapter 3-3



「んー。んーと」
 愛海は、しばらくのあいだ、激しく悩んでいた。
「ごめんなさい。やっぱりダメ。ここは秋田県警の管轄ですから、私は事件の捜査には一切関わることができないんです」
「そうですか」
「もしよければ、秋田県警との橋渡し役になることはできますが」
 さゆりは、首を振った。
「いえ、警察沙汰にはしないでと、女将からきつく止められています」
「ほんとうに、ごめんなさい」
「いいえ、わたくしこそ、無理なお願いをいたしました」
 さゆりは、ふっと目を上げた。
「実は、明日もその話で、健太郎が来る予定です。こっそりその場に立ち会っていただけませんか。せめて刑事さんの目で、彼が犯人かどうかを見ていただくわけにはいかないでしょうか」
「わ、私、そんな名探偵みたいなこと、できません」
 愛海はあわてて、ぶるぶると両手を振った。
 だが思いなおしたように、ちらりと俺のほうを見た。
「でも、ダメモトでよければ……やってみます」
「ありがとうございます!」
 かすかな希望を得て、さゆりの目にようやく生気が戻ったようだった。
「明日の正午、一階の『清流』という食事処で会食する約束をしています」
「わかりました」
 さゆりが去ったあと、愛海はふーっと大きなため息をついて、ふとんに倒れこんだ。
「大変なことになっちゃったなあ」
「ああ」
「淳平、佳山健太郎って人を知ってるの?」
「知ってるというか。名前はさゆりから聞いていた」
「どんな人」
「あいつの初恋の相手だ」
「えーっ」
「地元で、小学校から高校までずっといっしょだったらしい。いわゆる幼なじみ」
「道理で、彼の名前を呼び捨てにしたり、ヘンだなと思った」
「高校のときまでは、互いを好き合っていたそうだ。だが、片や格式ある和風旅館のひとり娘。片や新興ホテルのひとり息子。自分の立場がわかる年齢になれば、うまく行くはずはなかった」
「それって、まるっきりロミジュリじゃない」
「あいつが旅館を継がずに、東京へ逃げ出したのも、佳山との破局が一因だったんだ」
「なんだか、さゆりさん可哀そう。初恋の相手が、今や旅館を乗っ取りにきた敵だなんて」
 愛海はしんみりとした口調で言った。
「なんとかしてあげたいね」
「すまないな」
「淳平があやまることじゃないよ。私がそうしたいの。さゆりさんのために」
 恩に着せてもよさそうなものなのに、こいつは根っからからのお人よしなのだ。
 小さな鼻の先がつんと上を向いて、上目づかいで天井を見ている。こいつのこういう色っぽい顔に、たまらなく俺は弱い。
 彼女の唇をついばむように何度も触れた。
 その軽い刺激に耐えられなくなって、愛海は身をよじる。
「ねえ、不公平だよ」
「どうして?」
「だって……、淳平は触り放題……なのに、こっちはちっとも……触れないんだもの」
「俺を触りたいのか」
「ううん、憎たらしいから、叩いて、蹴っ飛ばす」
「なんで、憎たらしいんだ?」
「だって……さゆりさんのことを、あいつとか呼ぶんだもん」
 まだ言ってる。すねた子どもみたいだ。
「わかった。もう、二度と呼ばない」
「――あ」
 今度は愛海の口の中に押し入り、強くからみつくように舌を触った。
「あ……ふ」
「その代わり、ひとつ言うことをきくか?」
 俺は悪人だから、いくらでも恩に着せるぞ。
「はに?」
「今から、露天風呂に行く」
「えーっ。今はら?」
 愛海はすっとんきょうな声を上げて、手足をばたばたさせた。
「もう遅いよ。閉まってる」
「いや、11時までは空いている。ちなみに朝風呂は7時からだ」
「…・・・いつのまに調べたの」
 ぬかりはない。

「か、貸切気分だね……」
 その時刻の露天風呂は、人っ子ひとりいなかった。
 まして、あんな事件があった後だ。敢えて外風呂に入りに来る奴はいないだろう。
 愛海も、夜風がさやさやと竹を揺らすたびに、薄気味悪そうに身を縮こめている。
「怖いのか」
「な、なんか、あのネコの死体見たり、首塚とかいう話聞いちゃうとね。心霊写真特集をテレビで見た日は、首筋がぞわぞわして、お風呂で頭を洗うときも目をつむれない、ってことなかった?」
「幽霊と同居してるくせに、そんなものがまだ怖いのか」
「怖いよーっ」
「わかった、わかった。幽霊が出たら、俺が退治してやるから」
 俺は投げやりに言うと、何度目かのため息を吐いた。
 実はここの温泉の湯は、ツンと硫黄臭がする塩化物含有炭酸水素泉。濃い乳白色に濁っているため、湯につかっている愛海の裸体がまったく見えないのだ。
 くそ、ショックだ。俺としたことが大きな誤算だった。
「フニちゃん、どうしてるかな」
「……」
「ひとりで、寂しがってないかな」
「……」
「ねえ、淳平」
「あ?」
「寒くない? もうちょっと、こっちおいでよ」
「幽霊は寒くもないし、身体がないから風呂にも入れないぞ」
「入るふりぐらい、できない?」
「そりゃ、ふりくらいはな」
 俺は湯小屋の屋根から飛び降りると、露天風呂の中に足を入れようとした。
「あっ。服は脱がないの?」
「服?」
 どうやら、幽霊になってからの俺は、いつもジーンズに黒のTシャツ、青いチェックのトップスという出で立ちに見えているらしい。
 それが生きていたときの俺の普段着だったということだろう。特に意識したことはなかった。
 もしかすると、その気になれば、ハダカにもなれるかもしれないな。一度、太公望のおっさんに、やり方を教わってみよう。
 俺が風呂の中に身体をすべり入れても、湯はチャプともいわないし、波紋も立たなかった。
 当たり前だ。俺は幽霊で、質量も体積もゼロなのだから。
 この世には存在しないモノ。物質的に、俺は「無」でしかない。
 愛海は、不思議そうに俺を見ている。やはり同じことを考えているのだろう。
 そのとき、とんでもないことが起こった。俺の体が、湯に溶け始めたのだ。
 前にも言ったと思うが、霊というのは自然に弱い。自然の圧倒的な力に負けて、自分の体を保てなくなるのだ。
 そのときの俺も、そうだったのだろう。気がつくと、俺は乳白色の湯と一体になっていた。
「あれ、淳平?」
 愛海が、俺が突然消えたことに驚いている。
 苦しくはない。意識もある。俺は愛海の声のするほうに、引き寄せられていった。
「淳……平」
 愛海も気づいたようだ。湯の中に俺がいることに。いや、湯が俺そのものであることに。
 俺は、愛海を包み込んだ。
「あ……」
 愛海の身体がのけぞった。閉じた睫毛が小さく震えた。
 びちゃびちゃとさざ波を起こす。湯をスクリューのように捩りながら、愛海の柔らかな部分をあちこち突いてやる。
「淳平、ダメ……これって……気持」
 悪いわけはないだろう? そう答えてやりたかったが、残念ながら声は出ない。
 俺は返事の代わりに、もっともっと強く愛海の全身を抱きしめた。
 で、数十分後。
「ひい〜。気持悪いよー」
 完全に湯当たりを起こした愛海は、自分の部屋の布団の上でノビていた。
 やっぱり、湯に変身するのは、やめておいたほうがよさそうだ。

 水を飲ませたり、冷蔵庫の缶ビールを、わきの下にはさんだり、俺がさんざん苦労して飛び回っているうちに、いつのまにか愛海は眠っていた。
「ぐお〜っ」
 すごい大いびきだ。おまけに寝相は最悪。
 浴衣はすぐに、腰のひもを残して全部はだけてしまった。あれほど見たかった愛海のハダカなのに、これでは色気も何もあったもんじゃない。
 俺は愛海のふとんのそばで、ガックリとへたりこんだ。
 幽霊は眠れない。いつもは散歩したり、朝までボーッと意識を飛ばしたまま過ごしているが、今夜はなんだか無性に人恋しかった。
 俺はこのまま、愛海のそばにいていいのだろうか。
 俺を殺した犯人を捕まえて、愛海に大手柄を立てさせる。それまでという約束で同居を始めたはずだった。
 だが、俺はこいつにどんどん溺れ始めてる。こいつを離したくない。
 このまま、愛海をこの世ならぬものに引きずり込むことは、赦されるのだろうか。太公望のおっさんに、いつか訊こうと思うが、怖くて訊けない。
 俺は、愛海のポーチに入っている携帯のキーを押した。
 愛海の家にダイヤルする。数回の呼び出しの後、留守番電話が作動した。
『ただいま、留守にしております。ピーという発信音の後に……』
 回線がつながると、俺の霊体は電波に乗ってすぐに転送された。
 カーテンを閉め忘れた月明かりの中、いつもの見慣れた室内が青く沈んでいる。
「よう、フー公」
 俺の声に、部屋の隅にうずくまっていたオスの三毛猫は頭をもたげ、「ふぎゃー」と情けない声を出して、俺に飛びかかってきた。
 俺たちは一日ぶりの抱擁を交わした……はずはない。すかっと素通りして、後ろの壁に思い切り鼻をぶつけてやがる。
 それでも戻ってきて、俺に甘えるようにゴロゴロと喉を鳴らした。
 フー公、おまえも寂しかったんだな。
 俺は、霊指の力でポンポンと奴の頭をなでる。
 そして、ひっくりかえっていた皿を元通りにして、大好きなササミ味のネコ缶を開けてやった。

 夜が明ける前に、俺は電話線を使って、「山緑館」に戻った。
 今日は忙しい。
 まず、十時半に木下警部補と落ち合い、「水主淳平殺害事件」に関しての事情聴取を、三橋さゆりを呼んで行なうことになっている。
 続いて正午には、合併交渉のために訪れる佳山グランドホテルオーナー、佳山健太郎とさゆりとの会談を盗み聞きする。これは、この数ヶ月続いている「山緑館」に対する嫌がらせが、佳山によるものかどうかを判断するためだ。
 さゆりは彼が犯人だと疑っているが、昔の恋人に対して、果たしてそんな仕打ちができるものだろうか。 「愛情と憎悪は一枚の紙のうらおもて」だと言うが。
 愛海は朝食をすませると、ロビーから日本庭園を見晴らすソファに陣取った。
 テーブルには、これみよがしにノートパソコンや原稿用紙らしきものを乗せている。
 さゆり以外の旅館の従業員たちに対しては、愛海は執筆のためにやってきた小説家、ということになっているのだ。
 午前中、あちこちを歩いたり、小説の構想に悩んでいるふりをしながら、さりげなく周囲に目を配った。
 ふたつの事件の捜査が、愛海の頭の中で同時進行している。
「おはようございます」
 庭を竹ぼうきで掃いていた番頭の大河原が、ひょいと麦わら帽子を脱いで会釈した。「何かお探しで」
「え、ええ。小説の資料用に、なんとなくあたりを観察させてもらってます」
「作家さまというのも、大変なお仕事ですな。部屋にこもって文章をお書きになっていればよいのかと思っておりましたが」
「ええ、まず足を棒にして、見たり聞いたりすることが大事なんです」
 愛海は、調子を合わせるのに必死だった。
「聞き込み百回、おのずから道は通ずって、いつも言われてます――あはは」
 バカヤロ。それは刑事の哲学だ。

 約束の十時半少し前に、三橋さゆりは愛海の部屋を訪ねてきた。
「木下警部補さんがいらしたら、すぐお通しするように帳場には言ってありますので」
 さゆりは、名産の餅菓子とお茶を愛海に出した。
「その前に、三橋さんとおふたりだけで、少しお話したいことがあります」
「なんでしょうか」
 愛海は座布団をはずして、さゆりと差し向かいになる位置に座った。
「水主淳平のあなたへの遺言をお伝えしたくて」
 さゆりは、はっと目を見開いた。
「……遺言ですって?」
「ええ。正確に言えば、手紙の下書きがパソコンの中に隠されていたんです。きっと出そうとして出せなかったのでしょう」
「サトルが……わたしに」
 『サトル』とは、俺がさゆりに対して使っていた偽名だ。
 さゆりはしばらく、視線を泳がせたあと、
「どういう内容でしょうか」
 固い声で問うた。
「『さゆり。おまえのことを騙してすまない』」
 愛海は、俺がそばでつぶやいた言葉を、口移しに彼女に伝える。
「『おまえが実家の旅館の若女将になったことを、風のたよりで聞いた。あれほど嫌がっていた家業を継ぐ決心をさせたのは、おまえが俺のために親から借りた金のせいなんだな』」
 さゆりは唇をきゅっと結んだまま、何も言わない。
「『おまえは自由を求めていたはずだったのに。週末は思い切り寝坊するような、そんな平凡な生活がしたいだけだと言っていたのに。俺のせいで人生を狂わせてしまった』」
 そこまで言うと、愛海はいきなり畳の上に両手をついて、頭を下げた。
「なにをなさるんですか」
「私からも、お願いします。水主さんを赦してあげてください」
「刑事さんが謝るなんて、そんな――」
「いえ、私は一年半のあいだ、この事件を捜査してきて、ヒガイシャの足取りを追ってきて」
 愛海の大きな目が、ひたむきに必死に、さゆりをとらえて放さない。
「彼の気持がわかります。今もし、水主淳平がここにいたら、あなたが苦労して旅館を経営なさっているのを見て、きっとこうやって土下座をしてでも謝ると思うんです。
人は、死んでから自分の罪を後悔しても、もう遅いです。でも、死んだあとも恨み続け、恨まれ続けるということは、お互いにつらいことです。――三橋さん。どうか、もうこのへんで、水主淳平を赦してやってくださいませんか」
「刑事さん」
 さゆりの目に、大粒の涙が浮かんでいた。そして愛海の目にも。
 ふたりの女が目をぬぐっていると、廊下から声がかかった。
「雑誌社の木下さまが、お見えです」
 愛海担当の編集者こと木下警部補が、入ってきた。愛海の泊まった部屋をうらやましげにジロジロ見回す。察するに、木下の泊まった駅前旅館というのは、かなりひどいところなのだろう。
 警視庁南原署の刑事ふたりによる、三橋さゆりの事情聴取が始まった。
 話は、俺が殺された当日のさゆりのアリバイや、すでに東京で提出している詐欺の被害届の内容確認などに話が進んだ。さゆりは淡々と、しかも明確にそれらの質問に答えた。
 一連の質問が終わったとき、
「わたくしのほうから、ひとつだけよろしいでしょうか」
 さゆりは、発言を申し出た。
「サトル――水主さんに対して、わたくしが感じていることです」
「どうぞ、お話しください」
「わたくしは、彼を恨んでおりません。いえ、むしろ感謝していると言ってもいいくらいです」
 木下と愛海は、驚いて互いの顔を見合わせた。
「それは、どういうことでしょうか?」
「わたくしは、ごぞんじのように彼に騙され、二百万という借金を親に頼み込みました。もしも返せなければ、実家に戻って女将の職を継ぐことを、親と約束したのも事実です」
 さゆりは、目を伏せて微笑した。
「確かに、騙されたとわかったときは、彼を憎みました。呪いました。……でも、しばらくすると、彼がわたくしに言ったことばが、思い出されてしかたなかったのです」
「それは?」
「『おまえは、よく気のつく女だから、旅館の女将が絶対に向いていると思うな』
サトルはわたくしの髪を撫でて、そう言いました。……父の訃報を聞き、実家に戻る電車の中で、わたくしは決心していました。山緑館を継ごう。女将になろうと」
 さゆりは、しばらく絶句した。泣いているのかと思ったが、違った。次に顔を上げたとき、彼女の表情は晴れやかだった。
「わたくしは、自分が一番向いていることから、本当にやりたいことから逃げていた。サトルがそのことを見抜いて、言ってくれたひとことのおかげで、自分の進むべき道に軌道修正することができたような気がするのです」
「それはなんとも」
 木下は返答に困っているらしかった。
「自分を騙した結婚詐欺師に感謝したいとは、前代未聞のご発言ですな」
「わたくしだけではありません。母もしみじみ、そう申したことがありますのよ」
「そうですか」
 木下は、ほうっとため息をついた。
「捜査を重ねるたびに、つくづく思いますよ。水主淳平とは、とんでもなく罪作りな男だったと」
「ええ。わたくしも、そう思いますわ」
「ハイハイ、私も!」
 愛海が挙手までして、すっとんきょうな同意の声を上げたので、座は失笑に包まれた。
「これは、ますます赦せませんな」

 さゆりが部屋から出て行ったあと、木下はプカーとタバコの煙を吐いた。
「まあ、シロってところだろうな。アリバイもしっかりしてるし、ガイシャを恨んでないってことばも、嘘とは思えん」
「はい」
「んじゃ、さっそく署に戻るぞ。小潟、今日中に報告書上げてくれ」
「あのう、そのことなんですけど、木下さん」
 愛海は満面の作り笑いを浮かべて、申し出た。
「有休取って、私だけここにもう一泊していいですか?」






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