インビジブル・ラブ


和風


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Chapter 3-4



「あーあ。南原署に帰ったら、もう私の席ないかもなあ」
 木下警部補とさんざんのバトルを繰り広げて、ケンカ別れしてしまった愛海は、くたっと広縁の椅子の背にもたれこんだ。
「出張先で勝手に有休取って休むなんて刑事失格だ、とまで怒鳴られちゃったもんなあ。あんな恐い木下警部補、はじめて見たよ」
 このところ手柄をいくつか立てて、ようやく汚名を返上しつつあるところなのに、またダメ刑事の烙印を押されたことが悔しいらしい。
「すまんな」
 と言いかけて、俺はことばを飲み込んだ。愛海はそれを聞いたら、きっとまたスネてしまう。さゆりのためにしたことなのに、俺があやまるのはおかしいって。
 飲み込んだことばの代わりに「ありがとう」と、彼女の身体をすっぽりと抱きしめた。普通の男なら椅子が邪魔になるところだが、身体のない俺にとっては何の妨げもない。
「なんで、『ありがとう』?」
「俺のそばにいてくれて、『ありがとう』だよ」
「やだ、変なのー」
 愛海は照れくさそうに、コロコロ笑った。
 幽霊と平気で同居して、平気でキスされて、しかも、どうしようもない悪党のために、土下座までして謝ってくれるなんて。
 まったく常識では考えられない。この愛海という女の、存在自体が奇跡だった。
「いつも、コンビニ弁当で髪ふり乱して仕事してるんだ。たまにはこうやって、ゆっくり過ごしてもバチはあたらないさ」
「そうだね。だけど、もう一日ここにいるとしたら、フニちゃんの食事どうしよう」
「俺が、携帯の電波を使って、エサをやってくるよ」
「うん、お願い。……それから、もうひとつ」
「なんだ?」
「……今夜は絶対、露天風呂には入らないからね」

 正午前に和風レストラン『清流』に行くと、すぐに奥の和室に通された。
 襖一枚で隔てられた隣の部屋が佳山健太郎との会談場所になっている。普通なら、こういう場合は絶対に隣に客を入れないはずだ。彼らの会話を盗み聞きできるようにとの、さゆりの配慮だった。
 席に着くとすぐに、豪華な和風御膳が用意された。
 愛海はさっと料理に目を走らすと、刺身や天麩羅など、うまそうなものから順に、ものすごい勢いで食べ始めた。
 早食いは、刑事の哀しい習性だ。いつ食事が中断されるか、次はいつ食べられるかわからない毎日の中で、自然とそうなってしまうのだろう。
 案の上、五分ほど経つと、年配の仲居が伝言を持ってきた。
「お客様。申し訳ありません。若女将から、『隣に予約客がいらっしゃいますので、うるさくいたします。ご堪忍ください』とのことです」
 佳山健太郎が来たという合図だ。
 愛海は、とたんに刑事モードに入った。
 仲居が去ったとたん、食事には未練も見せずに、隣室との襖に張りついて、持っていたテープレコーダをセットする。
「ちょっと、様子を見てくる」
 俺が言うと、黙ってコクリとうなずいた。
 俺は、山緑館の玄関まで全速力で飛んだ。
 ちょうどひとりの若い男が、車から降りてくるところだった。仕立てのいいスーツを着た、すらりとした男。
 彼は玄関前でお辞儀をして出迎える女将、若女将、番頭に、丁寧に会釈をした。
 そして、さゆりと視線がかち合うと、うっすらと笑みを浮かべた。
 寒々とした、酷薄な笑みだった。
「お座敷までご案内いたします」
 さゆりは番頭とふたりで、来客を庭に案内しようとした。
 食事だけの利用客のために、『清流』へは前庭の石畳をたどって行けるようになっている。
 しかし、佳山はそれを拒否した。
「いや、建物の中を通らせてもらえますか」
「館内を、ですか?」
 さゆりは、眉をひそめた。「相当な遠回りになってしまいますが」
「かまいません。一度ゆっくりと中を拝見してみたかったのですよ」
 どうせ、やがては自分のものになるのだから。
 そう言ったも同然の佳山の口ぶりに、さゆりはきゅっと唇を結んだ。
「それでは、どうぞ」
 玄関で靴を脱ぐあいだも、値踏みするように建物のあちこちに視線を走らせている佳山を、フロントの従業員たちは不安な面持ちで眺めている。
 ただひとり、さゆりだけが毅然と顔を上げて、今から襲ってくる運命に抵抗しているように見えた。

 『清流』へと続く屋根つき渡り廊下の真ん中で、佳山健太郎はぴたりと立ち止まった。険しい表情で屋根庇を見上げている。
「手入れがなっていませんね。軒天の木がぼろぼろだ」
「……」
 先導していたさゆりが、思わず振り返る。
「外回りをざっと拝見しても、壁の付け梁や腰板が割れていた。こういう有様は、旅館の品格を落としますよ……ほら、この手水鉢のみすぼらしさも、見るに耐えませんね」
「ご指摘ありがとうございます。参考にさせていただきますわ」
 さゆりは寛容に微笑もうとしたが、その声は怒りにかすかに震えていた。
「従業員たちの教育もなっていない。あんな辛気臭い顔で迎えられては、客はたまりませんな」
「死神に微笑むことのできる人間は、おりませんわ」
 言い捨てると、さゆりはプイと顔をそむけた。
 山緑館は、四千坪を越える敷地を持つ老舗旅館だ。
 維持費だけでも相当なものだろう。赤字続きの今は、とても修理までは追いつかないのかもしれない。
 素人の目には隅々まで掃き清められた美しい建物や庭も、プロが見れば、いくらでもアラをほじくる場所はあるだろう。だが、当の若女将、しかも昔の恋人に向かって、これほど心無い言葉が吐けるものだろうか。
 ふたりの会話をそばで聞いていた俺は、この非情な買収屋の尻を、霊指の力で蹴飛ばしてやりたかった。大騒ぎになるから我慢したが。
(今夜は、こいつの枕元に立って、思い切り呪ってやる)
 憤懣やる方ない気持でそんなことを考えながら、ふと佳山の顔を見た。
 店の引き戸を開けようとするさゆりの背後で、彼はその後姿をじっと見つめている。
 幽霊でもなければ誰も見ているはずのない角度から、俺は佳山健太郎のかすかな表情の揺らぎに気づいた。
 さゆりと佳山が奥の間に入ると、俺は愛海の待機している隣の部屋に戻った。
『どうだった?』
 愛海は、唇の動きだけで問いかけた。人がいることを隣に知らせてはならない。かすかな物音も立てられないのだ。
 俺は、愛海に携帯を持たせて、返事を文字で打ち込んだ。
『ひとことで言えば、ケンアクな雰囲気だな』
『佳山健太郎って、どんな男?』
『気に食わない。俺は、自分より顔のいい男はみんな気に食わない』
 愛海はふきだしそうになって、あわてて口を手で押さえる。
『やっぱり、この旅館を力ずくで乗っ取ろうとしてるの?』
『それは、まだわからない』
 俺は少しためらって、それから続けた。
『もしかすると、佳山はさゆりの敵じゃないかもしれない』
『敵じゃない? どうして』
『別になんの確証もない。だけど、佳山がさゆりの背中を見ていた目つきを見て、そう感じた』
 さゆりの前でいつも見せる冷たい笑みは、姿を消していた。大事なものを見守るような、優しいぬくもりを帯びたまなざし。
 結婚詐欺師だった俺にはわかる。俺も女の前でよく、あの目をした。けれど俺の場合は、相手をダマすために、わざと演技していただけだ。
 本人に見えないところで、ああいう表情になる理由はひとつ。佳山健太郎は、今でもさゆりを愛しているということだ。
『ってことは、脅迫の犯人でもないってこと?』
『そうなるな』
『じゃあ、こうやって盗み聞きする意味、ないじゃん』
『そうとも言えないぞ』
 俺たちは、携帯での筆談をやめて、隣の会話に耳をすませ始めた。
「山緑館には、この商談を断る余裕はないはずだが」
 皮肉げな佳山の声が響いてくる。
 俺は、こっそり襖の向こうの隣の部屋をのぞきこんだ。
 幽霊だけにできる裏技だ。俺の姿が見える愛海にとっては、不気味な光景だろうな。なにせ、人間の頭だけが、襖の向こうに突き抜けているのだから。
「八十年の伝統を、母と私の代で終わりにするわけにはいきません」
 固い声でさゆりが答えた。「まして、あなたのホテルの別館扱いだなんて」
「誰がそんなことを吹き込んだか知らんが、あんたは誤解している。山緑館の名は残すと言ってるだろう」
「あなたが銀行に提出した書類の中に、うちを全面改装する計画書が入っていて、そこに『佳山グランドホテル』と記してあったと言うじゃありませんか」
「それは、融資を受けるための方便だ。俺は、山緑館のゆかしい建物を建て替えるつもりなどない。修繕して何百年も持つようにしたいだけだ」
 佳山は本当は、山緑館を、そしてさゆりを救いたいと心から願っているのだ。だが、彼のことを敵だと思い込んでいるさゆりには、その熱意が伝わらない。
 俺の勝手な想像だが、きっとさゆりの心の中には、佳山を愛していた気持が処理されずに、まだくすぶっているのだ。だから余計に依怙地になる。
「嘘ばっかり。うまいことを言って、判をついたとたんに何もかも乗っ取るつもりなんだわ」
「そう勘ぐりたいなら、勘ぐればいいさ。あんたがいくら突っぱねようと、結果は同じだ」
 このふたりは高校のときから、こうやってずっと互いへの思いを封印して、生きてきた。だから素直になれずに、すれ違ってしまうのだろう。
「そう言えば、小耳にはさんだんだが、このところ妙な噂を立てられているそうだな。この旅館は呪われていると。おまけに昨日は、猫の死体を木にぶらさげられた」
 さゆりは、はっと顔を上げた。
「いつのまに、そんな話を……」
「誰に恨まれているのか知らないが、この温泉全体の評判を落とすようなことは、すぐにやめさせてほしいな。あんたにできなければ、俺が手伝ってもいいが」
「……やっぱり、あなたなのね。こんな卑怯な手を使って、うちを安く買い叩こうって言うわけ?」
「何を言ってるんだ」
 さゆりは、興奮のあまり立ち上がって、佳山をにらみつける。
「もういい、いつまでも、しらばっくれてればいいわ。きっとあなたの化けの皮を剥してやる!」
 普段は楚々として、落ち着いた物腰のさゆりが、その時だけは、まるで般若のようだった。
 あらためて、しみじみと思った。女というのは、こわい。
「いいから、座れ」
 佳山は、顔色を変えることもなく、静かに言った。
「そんな怒り狂った状態のまま、この部屋を出て、他の客に女将として微笑むことができるのか。落ち着くまで、ここにいろ」
 さゆりはその叱責を聞いて、いっぺんに頭が冷えたようだった。
「……すみません」
 力なく腰を落とすと、まだ怒りの残滓(ざんし)を引きずった、かすれた声であやまった。
「ついカッとなって、いらぬことを申しました。せっかく、わざわざ当館までお運びいただいたのに」
「今日は、『清流』の板長が腕をふるうというので、期待して来たんだ。遠慮なくいただくよ」
 佳山は、なにごともなかったかのように、目の前に置かれた突き出しに箸をつけ、じっくりと味わった。
「うん、この銀杏の朴葉(ほうば)焼きは悪くない」
 さすがにこの若さで、ホテル事業を継いだだけのことはある。佳山健太郎は、骨の髄まで経営者だった。
 さゆりも、その様子に感銘を受けたのか、それ以降は佳山の給仕に徹した。ふたりはほとんど口をきかずに、ゆっくりと時間が過ぎていった。
 ところが、ちょうど食事が終わった頃、あわてふためいた従業員が、さゆりを厨房の裏に呼び出した。
「大変です、若女将」
「どうしたの」
「湯小屋の庇の一部が、腐って落ちてきたんです」
「ええっ?」
「幸い、どなたにも怪我はなかったのですが、ちょうど入浴中だったお客様が、驚かれて、大騒ぎに……」
「すぐに、行きます」
 さゆりは佳山のもとに取って返し、なじるように叫んだ。
「どうせ、あなたの差し金でしょう。どこまで卑怯な手を使うの」
「何があった?」
「言わなくても、わかっているくせに!」
 蒼白な顔で小走りに去っていくさゆりの後姿を、佳山は眉をひそめながら見送った。
『どういうこと?』
 隣室に戻った俺は、愛海と顔を見合わせた。
「ちょっと行ってくる。おまえはここに残って、佳山の様子を見ていてくれ」

 俺は、事故が起きた湯小屋にひとっ飛びで飛んだ。
 さゆりはまだ到着していない。庇が崩れたという現場には、従業員によって青いビニールシートが張られ、立ち入り禁止の紙が貼られていた。
 それにしても、こんな偶然があるのだろうか。
 佳山がさゆりに、渡り廊下の庇について注意をしたのは、つい一時間前のことだ。
 だが、佳山にこんな細工をするチャンスはなかった。自分の配下の誰かに命令してやらせたにしても、早すぎる。
 できるとすれば、この旅館の内部の者――。
 あのとき佳山とさゆりの会話を聞くことができた唯一の人物の顔を、思い浮かべる。
 俺はすぐに愛海のところに取って返した。
「あ、淳平」
 愛海はバタバタと、『清流』からの渡り廊下を走ってくるところだった。
「佳山は?」
「今帰ったところ。現場はどうだった?」
「それより、あの従業員を探してくれ。もう一度聞きたいことがあるんだ」
「どの従業員?」
「ネコの死体が見つかったとき、おまえが話を聞いた男だよ。庭園灯が消えたという話をしていただろう」
 愛海は刑事の機動力で、たちまち初老の従業員を見つけ出した。
「すいません、ちょっとあの、小説の執筆の参考に、お話を聞きたいんですけど、キャピ♪」
 ……もう、キャピはいらないだろう。
「なんでございましょう」
「あのとき、築山の庭園灯が消えていたので、電球を替えに行って、ネコの死体を見つけたとおっしゃいましたね」
「はい、そのとおりです」
「庭園灯が消えていることを最初に見つけたのは、あなたですか。それとも誰か他の人ですか」
「わたしです」
「そうですか」
 がっかりして立ち去ろうとする愛海を、その従業員は後ろから呼び止めた。
「あ……ちょっと待ってください。今思い出しました。そう言えば、番頭が庭をしきりに見て、『消えてるな』と言ったので気づいたんです」
「誰ですって!」
 愛海は振り返り、ものすごい勢いで、従業員の二の腕を鷲づかみにした。
 かわいそうに、きっと青アザになっているぞ。
「ば、ば、番頭です」
「番頭の大河原さん?」




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