BACK | TOP | HOME Chapter 4-4 その日から愛海は、見違えるように捜査にのめりこんだ。 朝は五台の目覚ましを一斉に鳴らす。ベッドから這い出し、床に点々と続く目覚ましを止めながら、洗面所までホフク前進するという仕掛けだ。 フー公のエサをやるのも忘れない。 その代わり、自分はエネルギーバーを二本、牙のように口にくわえて家を飛び出すのが日課になった。 その様子を見た登校中の小学生たちは、愛海のことをひそかに、『走るセイウチ』とあだ名し始めた。 都築警部とのコンビは、ますます息が合っていた。 いっしょに飯を食べ、時には車の座席で並んで仮眠を取り、朝から晩まで、離れずに過ごしている。 新婚の夫婦だって、これほどの時間をいっしょに過ごすことはないだろう。 本居沙希殺害事件の捜査の方は、犯人の読み違えで、一時は暗礁に乗りかけたが、捜査員全員の懸命の努力で、少しずついろいろな事実が明らかになってきた。 マンションの玄関の防犯カメラに、M市で殺人のあったマンションのカメラと同じ男が映っているのを、一枚一枚の画像を比べていた捜査員たちが発見した。 「こいつ、なにをしているんだ?」 「ポスティングだよ。チラシを一軒ずつポストインして金をもらうバイトだ」 そして、マンションの空き部屋のポストにぎゅうづめに押し込まれたチラシを丹念に調べ、ポスティングの代行店を片っ端から聞き込み、過去に雇ったバイトの履歴書から、監視カメラに映っている男を特定できたのは、二週間後だった。 日本の治安は、こういう地道な捜査で成り立っているのだ。 事件は、こうしてあっけなく解決した。 逮捕された男は、現役の大学生だった。 チラシ配りのバイトをしながら、襲う女性やその部屋に目星をつけていたらしい。 そして、なんとロッククライミングが趣味という。道理で、いともたやすくマンションの雨どいを伝って、忍び込めたはずだ。 被疑者の顔は俺も見たが、ごく普通のお坊ちゃんタイプだった。いったいどうして、こういうヤツが、女性の首を絞めて暴行するという猟奇的な犯罪に手を染めたのか。犯罪者の俺にさえ理解できねえ。 本人は、まだ否認を続けているが、M市の事件と今回以外にも、きっとしこたま暴行の余罪があると、捜査員たちは見ている。 「それにしても、まだ納得がいかないんだ」 被疑者逮捕に沸いている捜査本部の中で、都築警部だけが浮かない表情をしていた。 「被害者が、死の間際に『お父さん』と叫んだことですか」 「それと、玄関とは反対側のベランダに逃げようとしたことだよ」 「きっと被疑者が自白すれば、真実がわかりますよ」 「そうだな。送検まであと40時間。僕たちも、最後の裏づけ捜査に行くとするか」 「はい」 廊下で立ち話していたふたりの後ろから、捜査書類を山積みしたカートがやってきた。 都築は軽く愛海の腕を引いて、よけさせようとしたが、バランスを崩した愛海は、そのまま彼の胸の中にすっぽりと納まってしまった。 「あ――」 「ご、ごめん」 都築はあわてて身体を離して、顔をそむけた。 「悪かった。今のはセクハラだと思われても仕方がない状況だったな」 「い、いえ。まさかそんな」 「本当は、そう――だったのかもしれないが」 きょとんとする愛海を残して、都築は肩を丸めて、歩き出す。 意味が分かってないのか、愛海。 都築は、おまえのことを本気で抱きしめたかったって言ってるんだよ。 俺は警察署の殺風景な廊下で、愛海の真正面に立った。決して見えないように細心の注意を払って。 まんまるの瞳。先がつんと上を向いた鼻。柔らかいピンクの唇。 俺は幾度、この顔をながめながら、夜を明かしただろう。 (愛してる。愛海。ほんとうに愛してる) けれど、今日でお別れだ。 おまえは、生きている男と幸せになれ――今、おまえの目の前にいる都築警部と。 やつは、俺にないものをみんな持ってる。 金も。仕事への情熱も。洋々たる未来も。おまえを抱くことのできる肉体も。 認めたくないけれど、おまえに対する愛情も本物だ。 俺は、これ以上おまえのそばにいたら、どんどん醜い男になってしまう。 静かに見守ることなんて、できない。おまえが他の男の腕の中で笑うのだけは、絶対に見たくない。 「さよなら。愛海」 聞こえないようにつぶやいてから、俺は、愛海の唇にそっと触れるか触れないかのキスをした。 目に見えないキス。 きっと愛海には、風が吹いたくらいにしか感じないだろうな。 全身がきりきりと痛んできやがる。俺には身体なんて、とっくにないはずなのに。 俺は次の瞬間、上空に浮かんで南原署の建物を見下ろしていた。 もう愛海のお供をして、ここも来ることもないだろう。 俺の父親が過酷な取調べで罪を自白させられ、留置場で自殺した因縁の場所。 思春期のガキにはめずらしく、俺は親父が大好きだった。休みの日は、路上でいつもキャッチボールをしていたっけ。 殺人犯の息子と呼ばれて、さんざん苦労しても、俺は親父を恨んだことは一度もない。 ただ、生きていてほしかった。 どんなにさげすまれても、世間から白い目で見られても、死を選んだりせずに、俺たちのそばにいてほしかったんだ。 こんなに感傷的なことを考えるのは、愛海と別れたばかりだからだろうな。 「これから、どこへ行こう」 俺は、声に出してつぶやいた。 もう俺には、地上では行きたい場所も、会いたい人間も、なくなってしまった。 俺はあてどもなく、ふらふら空中を漂い始めた。 とうとう、正真正銘のノラ幽霊になっちまうんだな。 「はざまの世界に戻って、太公望と並んで、のんびり釣りでもするか」 ひとりごとを言って自分を鼓舞してみても、むなしいだけだ。 いつのまにか俺が向かっていたのは、愛海のマンションだった。 「そうだ。フー公に会って、サヨナラでも言ってやろう」 本当は、愛海の匂いの残るところを、最後にもう一度見たいという未練だった。 空に浮いて下を見ていると、線路の土手の上に、ずっと前に一度会ったきりの、あの中年男の幽霊がいるのが見えた。 (まだ、自分の死んだことが信じられないのかな) そう思いながら見ていると、俺は驚くようなことに気づいた。 男が座っている土手の上には、JRの線路がある。そして、線路をはさんで反対側に建っているのは、本居沙希が殺された、あのマンションだった。 俺は、ひとつのことに思い当たった。 『死んだのか……』 あのとき、幽霊がつぶやいたあの言葉は、彼自身のことだと思っていた。 だが、もしかすると違うのかもしれない。 あれは、本居沙希が死んだのかと、問いかけていたのではなかったか。 「おい、あんた」 俺は、男のそばに降り立つと、詰め寄った。 「あんた、本居沙希って女を知っているか」 男は、ぼんやりと俺の顔を見た。 「沙……希。沙希は……死んだのか?」 やっぱりだ。俺は確信した。 「あんた、もしかして――本居信夫じゃないのか」 本居沙希の父親、本居信夫はもうとっくに死んでいたのだ。 警察にも行方を探し出せなかったくらいだから、きっと身元不明の遺体として処理されているのだろう。 現世への未練からか、それとも俺と同じ理由なのか、あの世にも行かずに地上にとどまっていた信夫は、やがて何かの偶然で、この場所に引き寄せられ、沙希を見つけた。 自分が14年前に捨てた娘が元気で暮らしている。 そのことを知った信夫は、ここに居つくようになった。ときどきマンションの窓から娘の姿を覗くだけで、満足だったかもしれない。 だが、あの夜、悲劇が起こった。 自分の娘が暴漢に襲われ、殺されてしまう一部始終を見ながら、この父親の幽霊はどんな気持だったのだろうか。 たぶん、ベランダの窓の外で必死に叫んだはずだ。 そして、その声は、なぜか娘の沙希に届いた。瀕死の状態にあったからこそ、霊の声を聞き取れたのかもしれない。 最後に父親の姿を見、その声を聞いた娘は、長年の恨みも忘れて腕を伸ばし、父親のもとに近寄ろうとしながら叫んだ。 『お父さん!』と――。 「あんたの娘さんは、死んだよ」 俺は非情な宣告をした。 男の幽霊は、顔をくしゃくしゃにゆがめて、地面に突っ伏した。 「ごめんな、沙希。ごめん。ごめんな」 「あんたが家族を捨てた過去は、もう取り返しがつかない。けど、死に際にあんたがいてやったことを、きっと娘さんは感謝してると思うぜ」 「沙希……」 「さあ、立ちなよ。もしかすると、あんたが行くのを待ってくれてるんじゃないか?」 それがどこだか、俺は知らない。 『はざまの世界』に似た何もない場所で、本居信夫は、娘の沙希と再会した。 14年間、自分たちを捨てた父を憎み続けてきた沙希は、ただ声もなく泣きながら、父親の胸にすがりついた。 俺はそれをかたわらで見ながら、俺の父親もこうやって俺のことを見てくれていたのだろうか、と思った。 あの世へ行ったら、また親父に会えるのだろうか。お袋や姉貴もそこにいるのだろうか。 そう考えれば、あの世に行くのも悪くない。きっとどれだけ時間があっても足りないくらい、話したいことがいっぱいある。 あやまらなければならないことが、いっぱいある。 だが、悪事の限りを尽くしたあげく殺された俺は、あの世に行く資格もないのだ。 俺は、愛海のことを思った。 愛海に会いたくて、たまらなくなった。 もう二度と会わないと堅く決意したばかりだが、気が変わった。せめて、本居信夫のことだけは、愛海に教えてやりたい。 そして、信夫が沙希を見守っていたように、俺も愛海のそばにいたい。永久に姿を現さないままでいいから、愛海の声を聞いて、笑顔を見ていたい。 たとえ、他の男のそばにいてもいいから。 俺はすぐさま、南原署に舞い戻った。 捜査本部に入り、被疑者送検前の48時間をあわただしく過ごしている都築警部と愛海のそばに行って、山積みの資料の一番上に、身元不明死体の一覧表をそっと乗せておいてやった。 きっと、ふたりのうち、どちらかが気づくだろう。 送検のわずか四時間前になって、被疑者のDNA鑑定の結果が、本居沙希のベッドの上に落ちていた体毛と一致することがわかり、被疑者は全面自供を始めた。 ほぼ時を同じくして、都内の排水溝で五年前に発見された身元不明死体のひとつが、本居信夫のものと判明した。 家まで送っていくと言って、都築警部は愛海の横に並んで歩いていた。 「これで、捜査本部も解散だ」 都築は、寒さに首をすくめながら、くぐもった声を出した。 捜査が始まったときは、まだ初秋だったのに、夜はすっかり冬の匂いがする。 「そうですね」 「だが、ひとつだけ、どうしてもわからないことが、まだ残っている」 都築は悔しげにつぶやいた。 「被害者がベランダに近づき、『お父さん』と叫んだことですか」 「そうだ。死ぬまぎわに憎んでいたはずの父親の名を呼ぶなんて、腑に落ちないんだ」 「私は、わかるような気がしますよ」 愛海は、にっこりと笑った。 「どんなに憎んだふりをしていても、やはり子どもはお父さんが恋しいんです」 「そんなものかな」 「もしかして、あの夜の満月の光が、彼女にお父さんの幽霊を見せてくれたのかも」 「ロマンチストだな」 都築はくすりと笑い、そして立ち止まった。 「僕は明日から、また捜査一課に戻ることになると思う」 「そんなに早く?」 愛海はブーツの足元に視線を落とした。 「あっというまの一ヶ月でした。警部には、いろいろな捜査の極意を教えていただきました。いっしょに組めて、とても楽しかったです」 都築は真剣なまなざしで、愛海を見つめた。 街灯に照らし出された夜道に映るふたりの影は、まるで寄り添っているように見える。 「小潟くん。よかったら、これからも」 都築警部は愛海から目をそらさず、一語一語選んで言った。 「ときどき会ってくれないか」 愛海は大きく目を開いて、都築の顔を見返した。 つんと上を向いた鼻の先が真っ赤になっているのは、寒さのためなのか。 「返事に困るなら、黙ったままでいい」 「いえ、そうじゃなくて、あの……」 マフラーの影に隠れた愛海の口元から、白い息がもれた。 「ごめんなさい。私、好きな人がいます」 深く頭を下げる。 「都築警部みたいにエリートでもイケメンでもないけど、最高の男性なんです。毎朝、寝坊の私を起こしてくれて、コーヒーを入れてくれて、ソファで寝てしまうとベッドまで運んでくれて」 「……そんな相手がいたのか」 「でも、あんまり私がわがままを言ったもんだから、ケンカして出て行っちゃって、それっきり。もしかして、もう二度と帰ってこないかもしれません」 「それでも、気持は変わらないと……」 「はい。それでも私は彼のことを――愛してます」 都築は、星空を見上げて、ため息をついた。 「それじゃあ、僕には一分の可能性も残っていないわけだ」 「……すみません」 「きみがあやまる必要などないよ。小潟くん。僕が勝手に突撃して、勝手に玉砕しただけだ」 彼は大きな手を差し出し、せいいっぱい無理をして笑った。 「僕も、きみと捜査ができて楽しかった。またいつか機会があれば、組もう」 「はい。喜んで」 ふたりは握手をして、愛海のマンションの前で別れた。 都築の後姿を見送ったあとも、いつまでも立ち尽くしている。 「淳平……寂しいよぅ」 愛海の大きな目に、我慢していた涙が、堰を切ったようにあふれだした。 「戻ってきてよ。……私、ちゃんと自分で起きられるようになったよ。どんなに疲れてても、ちゃんと顔の手入れして寝てるよ。もう淳平に迷惑かけない。呆れられたりしない。なんでもひとりでやれるように頑張るから。だから……だから、お願い。淳平、戻ってきて!」 愛海は両手で顔を覆うと、すすり泣き始めた。 おまえは、そんなことを考えていたのか。 何でもひとりでできるようになったら、俺が戻ってくる。そう思って助けも呼ばずに、毎日がんばっていたのか。――愛海。 「バカだな。おまえは」 「……え?」 「あんなチャンスを棒にふるなんて。玉の輿じゃねえか。俺よりもずっと顔が良くて、頭が切れて、おまえにとって最高の男は、あっちじゃないか」 「淳平……」 愛海はぼかんと、目の前に立っている俺を見つめた。 「なんで、あいつをふって、幽霊の俺なんかを選ぶんだよ」 「淳平!」 愛海は俺に向かって突進してきて、そのまま、すかっとマンションの植え込みの中に、頭から突っ込んだ。 相変わらず、学習しない女だ。 ドジで、天然で、思い込みの激しい小潟愛海、28歳。南原署捜査一係の刑事。 この世だろうと、あの世だろうと、俺がたったひとり愛する女。 わんわん泣いている愛海を霊指の力で強く抱きしめながら、俺は誓った。 何があったとしても、俺はもう絶対、こいつから離れない。 こうして、俺と愛海の同居生活は、一ヶ月のブランクを経て元のさやにおさまった。 いや、厳密に言えば、元に戻ったとは言えないかもしれない。 実はひとつ、困ったことが起きた。 あの幽霊の父娘、本居信夫と沙希が、俺にくっついたままなのだ。俺のことを恩人か何かだと思っている。 いくらあの世に行けと言っても、離れようとしない。どうやら、行き方がわからないらしいのだ。 別にうるさく話しかけてくるわけでもないし、愛海にも見えていないし、放っておいてもかまわないのだが、どうにも俺が落ち着かない。 たまりかねて、『久下心霊調査事務所』に泣きつくことにした。 「おい、誰かいねえのか」 父娘を引きずったまま、事務所の扉をすり抜けた俺は、無人と見える室内をきょろきょろと見回した。 「ここに、いるぞい」 声の方向を見下ろすと、デスクの上にちょこんと、真っ白なぬいぐるみみたいな狐がいるのに気づいた。 「あんたも、ここのヤツか」 「まあ、留守番代わりじゃ。して何の用かな?」 「こいつらに、成仏でも昇天でも何でもいいから、あの世への行き方を教えてやってくれ」 「ほほう。父娘の幽霊とは、めずらしい」 「頼んだぞ。じゃあな」 「あ、ちょっと待て」 トボけた顔の狐は、俺を呼び止めて、まじまじと見た。 「おぬし、うまく邪念を克服したようじゃのう」 「え?」 「覚えておらんか。『はざまの世界』の池のほとりで、会うたじゃろう」 「あ、あんた。まさか、あのミヤビな平安貴族か?」 「草薙(くさなぎ)と申す。以後お見知りおきを」 ピアノ線みたいヒゲを震わせながら、白狐は愉快そうに笑った。 困ったことは、もうひとつある。 愛海のヤツ、俺が戻ってきたとたんに、また、ぐーたら女に戻ってしまったのだ。 朝はいくら起こしても起きないし、フー公の世話は俺にまかせっぱなし。 元の木阿弥とは、このことだ。 俺に、美容液を顔にたっぷり塗らせながら、 「ああん、気持いいっ。淳平のフェイシャルマッサージ最高」 と甘えた声を出してみせる。 惚れた弱みにつけこんで、こきつかいやがって。俺は、世界一かわいそうな幽霊だ。 まあ、でも。 世界一幸せな幽霊も、俺なのかもしれねえな。 chapter 4 end NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2006-2008 BUTAPENN. |