インビジブル・ラブ


雑踏3


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Chapter 5-2



 次の日の朝、水主淳平殺害事件のまったく新しい容疑者が浮かび上がったということで、署内は色めきたった――なんということは、全然ない。
 なにせ、二年前の事件だ。専従捜査員である愛海と木下警部補以外に関心のある人間はほとんどなく、その前日に管内で起こった別の強盗事件のほうに気を取られていた。
「だいたい、この情報はどこから仕入れたんだ、小潟」
 そもそも責任者の加賀美捜査一係長からして、デスクにふんぞりかえりながら、愛海をうさんくさい目で見る。
 ハゲで貧相なくせに、凄むと妙に威圧感のある係長ににらまれて、愛海はしどろもどろで答えた。
「ほ、本人が……」
「本人だと?」
 おい、まさか、被害者本人って言おうとしたんじゃないだろうな。
「い、いえ! そういう意味じゃなくて――」
「そうじゃなかったら、何なんだ!」
 しかたなく俺は、横からこっそり耳打ちして、助け舟を出した。
「被害者が遺した靴の中に、工藤麻季の新聞記事が押し込んであったと言え」
 それを聞いた愛海は、急に大威張りで答えた。
「被害者の遺留品の靴の中に、工藤麻季の新聞記事が押し込んであったと言え、です」
 ――まったく、どこかの老舗料理屋の記者会見か。
 しかし、俺の言ったことは、出まかせの嘘ではなかった。
 俺は生きていたとき確かに、麻季の顔写真の載ったスポーツ新聞を、靴の詰め物代わりに丸めて押し込んだ。
 詐欺師として初めての失敗を忘れないため、悔しさと自戒をこめて、そうしたのだ。
 遺留品を調べなおせば、愛海が嘘を言ってないことは、すぐにわかる。誰もが愛海の着眼点の鋭さに、感心することになるだろう。

 翌日、係長の許可を得た愛海は、さっそく木下警部補とともに、高見プロダクションに赴いた。
 だが、けんもほろろの扱いとは、このことだ。
 高見リカコに会わせてもらうどころか、取り次いでももらえない。受付の無表情な女は、社長は海外出張中で、いつ戻るかわからないの一点張りだった。
 工藤麻季にも面会を申し込んだが、こちらも撮影中で、スケジュールの調整がつかないと言われた。
 もちろん、こんなことで引き下がっていては刑事は務まらない。電話に早朝・深夜の張り込み、あの手この手で接触をはかったのだが、全部かわされてしまう。
 令状があるわけでもなく、俺と接触したという確かな証拠も証言もない。
 こちらも、強く押して出るわけにはいかなかった。
「覚悟はしてたけど、相当ガードが固いね」
 さすがの愛海も、根を上げた。張り込み続きで、もう三日も深夜帰りだ。
「たぶん俺のこと以外にも、さぐられると腹の痛いことが、しこたまあるんだろう」
「ますます怪しい……わたし、ぜったい、あきらめ……ないから」
 強がってはみるものの、コンビニ弁当を手に、うとうとと居眠りを始める。
「おい、愛海。寝るなよ」
 あわてて声をかけたが、もう遅かった。
 弁当の容器を派手にひっくり返して、愛海はソファに崩れこんでしまった。
「まったく」
 やれやれ。寝る前の肌のお手入れは、また俺の役目か。
「おい、フー公。ここをきれいになめとけ」
 愛海をベッドまで運びながら、飼い猫に命令した。
「おまえの今日の晩飯は、このひっくりかえった残飯だからな」
「ぶみゃーっ」
 三毛猫は、哀れっぽい声で鳴いた。

 そうして不毛な一週間が経った、ある日。
 遅出が許可されて、久々にゆったりした朝を過ごせることになった愛海は、ぬるいコーヒーを飲みながら、朝刊を丹念に読んでいた。たまには、こういうリラックスできる時間を無理にでも作らないと、どんなに若くても身がもたない。
 幽霊の俺でさえも、ヘトヘトの気分になるくらいだからな。
「淳平!」
 静かな部屋に突然、愛海の興奮した大声が響いた。
「高見社長に会える方法が見つかったよ!」
 その指が差す紙面には、とんでもない広告が載っていた。
『区民ミュージカル、一般参加者募集』
 広告には、オーディションの日取りとともに、主催・協賛団体の名が連ねてある。
 そして、審査員として『高見リカコ』の文字が筆頭に載っていたのだ。
「私、これに応募してみるよ!」
 愛海は、仰天するようなことを言い始めた。
「冗談じゃねえ、刑事が、こんなのに出てる暇あるか」
「捜査のためだもん。係長の許可を取る」
「第一、ミュージカルだぞ。歌って演技をするんだぞ。おまえにできるのか?」
「できるよ。だって、子どもの頃は歌手にあこがれて、歌を習ってたんだもん!」
 おいおい。そんなこと初耳だ。刑事にあこがれてたんじゃなかったのか?
「いくら上手でも、プロとアマじゃレベルが違う。絶対に無理だ」
「わかってるよ。そんなの。だけど、ここに『アマチュア募集』って書いてあるもん」
「……ほんとか?」
 俺は、あらためて広告記事を読んだ。
 なるほど。愛海の言うとおりだった。
 公演は来年の7月、一日だけ。募集は小学生から。演技や歌の経験は問われない。練習は学校の休みや土・日利用となっている。
 もっと驚いたのは、主要な役のひとりがなんと、あの工藤麻季だった。その他にも、高見プロの俳優が何人か入っている。
 主なキャストはプロで固めるが、群集シーンには、公募した素人を使う。なるほど、「区民ミュージカル」と銘打っているわけだ。
 主催者は、地球温暖化防止などの社会啓蒙活動に近ごろ熱心な大企業だ。企業イメージを高めるためなら、こういう手間のかかるやり方もいとわないのだろう。
 おまけに、素人公募のオーディションは話題作りになる。出演者が自分の親族友人にチケットを配り歩くだろうから、観客の入りも保証されている。
 これなら愛海にも十分、選ばれる可能性がある。
 高見リカコに工藤麻季。ふたりに一度に接触するには、確かにこれは絶好のチャンスだ。
「だが……」
 俺は、気が進まなかった。
 リカコは怖い女だ。もし愛海のオーディション応募の真の目的が、捜査のためだとバレたら、何をされるかわからない。
 まさか、そう簡単には刑事を殺すようなマネはしないと思うが――。
「ねえ、お願い。やらせて」
 目をキラキラと輝かせながら、愛海は拝むように手を合わせた。
 その瞳の濡れたような光と、つややかな唇を間近で見たとたん、俺はノックアウトされてしまった。
 俺がオーディションの審査員なら、間違っても、こんないい女を落とすようなことは絶対にしねえ。
 いや、そんなことは、俺がさせねえ。幽霊の沽券にかけても。
「しかたないな」
 しぶしぶ妥協したふりをしながら、俺は霊指の力で愛海のほっぺたを、そっとはさんだ。直接、五感では感じられなくても、その柔らかさは、霊体を通して、じわりと伝わってくる。
「俺が、影から手伝ってやるよ。絶対に、オーディションに受からせてやる」
「うれしい。一生に一度でいいから、ミュージカルに出たかったんだ」
「ふうん。俺の事件の捜査のため、って理由は、実は二の次だったのか」
「も、も、もちろん、捜査が一番だってば」
「うそつけ」
 俺は、嘘の罰として、愛海に口づけた。そして、出勤までの残りの時間で、彼女の弱いところを心ゆくまでいじめることに決めた。

 12月も押しつまった週末の日、区民ミュージカルの一般オーディションが行なわれた。
 書類審査を通過した140人という総勢から、最終選考で選ばれるのは24人。五分の一以下の狭き門だ。
 オーディションの第一次試験は、数人ずつグループになって歌うというものだ。これは、歌の巧い下手だけではない。グループの他の応募者と、どれだけ合わせられるか。つまり協調性も見られているらしい。
 愛海は、この試験に難なくパスした。愛海の声は特別きれいというわけじゃないが、適度に高くて通りがいい。音程もブレない。舞台に向いている声だ。
 ここで約半分が落とされた。
 次が最大の難関、面接試験だ。ひとりずつ中に入って、審査官たちの前で受け答えをし、課題を与えられて、そのとおりに演じる。
 たかが素人の審査だと思っていたら、けっこう本格的だ。もしかして、プロダクションが新人発掘も兼ねているのかと勘ぐりたくなってしまう。
 俺は体が見えないのをいいことに、審査会場に入って、試験の様子をずっと観察していた。
 審査員の中にあの女がいた。
 高見リカコに会うのは七年ぶりだった。工藤麻季と別れる手切れ金の交渉のために、都内のホテルのラウンジバーで会って以来。
 強い光を放つ目、固い輪郭の顔立ち。相変わらずの美貌だ。
 だが、あれから確実に歳を取っている。髪型を変えたのは、きっと目じりのシワを隠すためだ。
 こいつのせいで、俺は一銭も儲けられなかったどころか、命からがら逃げ出す羽目になったのだ。思い出すだけで、ハラワタが煮えくり返る。
 子役の選考が終わり、今度は若い女性のオーディションが始まった。
 俺は審査員たちのひとことひとことに耳をすませた。
「もう少し、明るい雰囲気の子がいいかな」
 候補者が部屋を出て行くたびに、プロデューサーらしい男が、他の審査員の意見を聞く。
「そうですね。『妖精』は、セリフはないが、主人公ふたりの心を結びつける重要な役どころです」
「動きが機敏で、表情のはっきりした人がいいですね」
 俺は、それを部屋の外で待っている愛海に、逐一伝えるのだ。
「明るく、機敏に、表情ははっきり、だそうだ」
「わかった」
 ベンチで順番を待っていた愛海は立ち上がって、派手なガッツポーズをする。「明るくだね。明るく。うーんと明るくっ!」
「ま、待て。おまえは普段どおりで、十分明るい」
「小潟愛海さん」
 受付係の女性が、名前を呼んだ。いよいよ、愛海の番だ。
 ドアをノックし、部屋に入る。
 審査員の前まで閲兵式の兵隊みたいにスタスタ歩いていくと、愛海はニカーッと、口が耳まで裂けるくらい笑った。
 ――いくら表情をはっきりと言っても、それはやりすぎだ。
「お名前をどうぞ」
「小潟愛海です」
「小潟さんは、警察官でいらっしゃるそうですね」
「はい」
 高見リカコのボールペンを持つ手が、ぴくりと動いた。
「どんなお仕事ですか」
「はい。交通課勤務ですので、毎日ミニパトで走り回ってます。おかげで身体の右側が日焼けするの何のって」
 もちろん、嘘に決まっている。
『捜査一係の刑事だとわかれば、とたんに用心されて、審査を落とされるに決まってます。もし問い合わせがあっても、交通課勤務だということにしてください』
 愛海は、この捜査の許可を得るとき、加賀美係長に頼み込んだのだった。
「しかしなあ」
 最後まで係長は渋い顔だった。潜入捜査のたぐいに女性刑事を送り込むことを、加賀美はあまり快く思っていないらしい。
 木下もそうだった。なんだかんだ言ってるが、こいつらなりに愛海のことを心配してくれてるのかな。
 いや、ただ単に、厄介ごとになったときの後始末を心配しているだけかもしれない。長年、警察を敵としてきた俺は、どうしても奴らのことを良い人間とは思えないのだ。
「それでは、小潟さん、簡単な演技のテストをします」
 高見リカコは、両手を顎の前で組み、にこりともせずに言った。
 まるで、猛禽類の目だ。他の応募者だったら、その目を見ただけで泣き出してしまったかもしれない。
「自分の前に恋人がいるつもりになって、その恋人に心をこめて、『愛してる』と言ってみてください」
 審査員たちが、「え」と意外そうな表情でリカコを見た。
 確かにこの課題は、他の応募者たちに比べて、けた違いにむずかしい。プロの女優でも、ためらうに違いない。
「小潟さん、どうぞ」
 リカコは愛海を見上げながら、うっすらと微笑んだ。
 間違いない。リカコは、警察官である愛海を候補から外したいために、わざと審査をむずかしくして、落としにかかっているのだ。
「あのう、はい。ええと」
 演技の勉強などしたこともない愛海は、どうしたらよいかもわからず、シャツのすそをいじっている。
「愛海。落ち着け」
 部屋の隅に隠れていた俺は、一瞬で愛海の隣に舞い降りた。
「相手役には、俺がなる。俺に向かって好きなことをしゃべってみろ」
 要するに、恋人が目の前にいるつもりで演技すればいいのだ。目に見えない幽霊なら、相手役にうってつけじぇねえか。
 愛海はまだ戸惑っているらしく、目をまんまるにして、じっと俺を見ている。
 審査員たちが、息をのむ気配がした。愛海の目つきは、まるで本当に人が目の前に立っているように見えたのだろう。
 愛海に愛していると言わせるために、俺は恋人役を演じることにした。
 だいたい、詐欺師なんてものは、俳優みたいなもんだ。マネーゲームという舞台の上で、一流の演技で、相手をその気にさせる。プロにだって、ひけをとるものか。
 さあ、元結婚詐欺師・水主淳平、一世一代の演技だ。
「愛海」
 愛情たっぷりにささやいたかと思うと、一転して冷ややかに言う。
「さよならだ。俺は今日かぎり、おまえと別れることにした」
 愛海は、はっと目を見開いた。
「え?」
 思い込みの激しいコイツのこと。一度演技の流れに乗せちまったら、こっちのもんだ。
「だって、おまえと付き合ってても、いいことなんか何にもないもんな」
「どうして――?」
 そうつぶやいてから、への字に曲がりそうな口元をきゅっと結んだ。
 うまいぞ、その調子だ。
「理由は言わなくても、わかるはずだろ。まったく低血圧で朝寝坊で、どれだけ俺が苦労してると思ってるんだ」
 あれれ? なんだか微妙にホンネが入っているが、まあいいか。
「とにかく、おまえにこきつかわれるのは、もううんざりなんだ」
 愛海は涙でうるみ始めた目で、頼りなげに俺を見つめた。
 俺の声が聞こえない審査員たちは、固唾を呑んで愛海の演技に見入っている。
 本当に、恋人のことばに耳を傾けながら、身体を固くしている女のようだ。
「おまえが俺のこと、どう思ってるのかも、わからないしな。どうせ、使い走り以下の便利なヤツだと思ってるんだろう」
「違うよ!」
 愛海の頬をきらきらと光るものが伝った。
「こんなに好きなのがわかんない? 愛してるよ。ほんとのほんとに愛してる!」
「愛海」
 俺は、ぎゅっと愛海を抱きしめて、唇にキスをしかけた。
 審査員の目には、宙を相手にキスシーンを演じている名女優が映っていたことだろう。
「そこまで」
 高見リカコが冷ややかな声で呼びかけた。だが、ほんの少しうわずったような響きが混じっていたのは、気のせいか。
「ありがとう。審査の発表があるまで、外でお待ちください」
 ドアの外に出た愛海は、真っ赤になった目で俺を見上げた。「どうだった?」
「うまかった。て言うか、サイコーの演技だった」
 俺は、しみじみと言った。「おまえ、もしかすると女優の才能あるかもな」
「だって」
 ベンチに腰を下ろすと、ぐすりと鼻をすすり上げる。
「……淳平がひどいこと言うんだもん。なんだか本当に泣けてきて」
「うまく合わせられるように、それっぽいセリフを言っただけだよ。本気じゃない」
「演技なんて、もうこりごりだよ」
 待合室で、そんな会話を交わしている間に、全員の審査が終わった。
 審査委員長の挨拶があり、補欠も含めて合格者30人の発表があった。
 もちろん、愛海は文句なしの合格だった。
 営業スマイルを貼りつけて、ひとりひとりに会釈する高見リカコが、愛海に対してだけ一瞬、冷ややかな視線を浴びせたのを、俺は見逃さなかった。
 これから、愛海にとって心休まらない日々が始まるのかもしれない。
 そう思うと、俺はひどく不安になった。






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