BACK | TOP | HOME Chapter 5-4 稽古が終わり、レッスン場を出ると、麻季が廊下で待ち伏せするように、立っていた。 「小潟さんは、どこにお住まい?」 「え? 地下鉄のN駅の近くですけど」 「もし、まっすぐお帰りになるのなら、車でお宅まで送ります」 「い、いえ、お忙しいのに、そんなことまで……」 俺は、霊指で愛海の尻をぱちんと叩いた。 「ひゃん」 「え?」 「いえ、お、お願いします」 地下のパーキングに降りると、真っ黒なシトロエンC3が停めてあった。 「これでも、ドライブの腕はちょっとしたものなのよ」 麻季は手袋をはめ、サングラスをかけると、静かに車をスタートさせた。 驚いた。女優業のかたわら、いつのまに運転免許など取ったのだろう。 おまけに、マネージャーの姿もどこにもない。明らかに、プロダクションには内緒の、麻季の単独行動だ。 「こんな商売をしていると、どこへ行っても人目についてしまってね。車の中というのは素の自分に戻れる貴重な時間なのよ」 ハンドルを操りながら、麻季は助手席に乗った愛海に話しかけた。 「そうでしょうね」 「小潟さんとは、一度ゆっくり話したいと思っていたの」 「あ、えっと、……うれしいです」 「小潟さんは、南原署に勤務していらっしゃるのね」 「はい」 「水主淳平という人を、ご存じ?」 愛海がいっぺんで、身を固くしたのがわかった。ちらりと後部座席の俺を振り返る。 俺は、首を横に振った。相手の意図がまだわからない以上、慎重に行ったほうがいい。 「ええ、一応。うちの管内で起きた殺人事件の被害者ですから」 愛海は、ことばを選んで答えた。 「背中から刺されたと新聞に書いてあったけど、苦しんで死んだのかな」 「いいえ……ほとんど即死状態だったと、聞いてます」 「あ、そうか。部署が違うと、あまり詳しくはわからないわね」 「……」 「彼はね。実は」 麻季は、ハンドルを右に切った。絶妙のステアリングだ。 「私の恩人なの」 「恩人?」 何を言い出すんだ、こいつは。自分を騙した結婚詐欺師を、恩人だって? 「うーん。どう説明したらいいかなあ」 麻季は首をかしげて、片手でうなじにかかる髪の毛をはらった。 「まあ、ぶっちゃけて言うと、昔、彼とつきあったことがあるの」 「えっ」 「結局お金は取られなかったから、被害届も出してないんだけど。一時は本気になったものよ」 楽しそうに、くすくすと笑う。 「そうだったんですか」 自分から告白を始めた麻季に戸惑いながら、愛海は訊ねた。 「淳ぺ……水主さんって、どんな人だったんですか」 「カッコよかったわよ。自分の魅力を知ってて自信家で、でもナルシストじゃないの。いつも、先回りして私の気持をわかってくれて」 「なるほど」 「要するに、女が女であることに酔わせてくれる男、っていうのかな」 「ほんとに、そうですよねー」 「え?」 「い、いえ。なんでもありません」 「結局は、お金のための演技だったと後でわかって、悲しかったけど」 麻季は少しだけ、唇をきゅっと噛みしめた。 「私はいっとき、彼のお芝居に見惚れていた観客だったのかもしれない。そう考えると、いい時間を過ごしたわ」 それきり黙りこんでしまった麻季を促すように、愛海は言った。 「でも、恩人というのは、どういう意味なんですか」 「ああ、それはね。彼がいなければ、私は今ごろ、女優を続けていなかったと思うからよ」 「ええっ。どうしてですか」 「私はもともと、純情路線でデビューしたの。今のアネゴ肌のイメージからは考えられないでしょ」 「は、はい。いえ、まあ」 「自分でも、だんだんと求められているイメージと、本当の自分とのギャップに悩み始めていた。そんなとき、ユウイチロウに会ったの」 『ユウイチロウ』とは、俺が麻季に使っていた偽名だ。 「彼は私にこう言ったわ。『おまえの話は、聞いてて飽きない。もっと機関銃のようにしゃべる、個性派の女優として勝負できるんじゃないか』って」 「……」 「確かに、彼の見抜いたとおりだったの。私は社長を説得して、イメージを180度変えた。そのおかげで、今の工藤麻季があるっていうわけ」 「だから、水主淳平を恩人だと……」 「高見社長は、彼のことを相当恨んでたみたいだけど、そのへんのところは認めてるんじゃないかなあ」 麻季はフロントガラスを見つめながら、ふっと息をもらした。 「ユウイチロウと会えて、幸せだった」 俺はいたたまれない気持で、後部座席にいた。 幸せだったはずはない。俺に裏切られたと知ったあと、麻季は地獄を見たはずだ。 だが、その地獄を乗り越えて、麻季は女優として大きく成長した。苦しみさえも自分の糧として。 なんてすごい女を、俺はくだらない欲望のための踏み台にしていたんだろう。 「水主さんもきっと、工藤さんを騙して悪かったと後悔しています。生きていたら土下座してますよ」 「あはは。あの人の土下座なんて、想像できないなあ」 愛海は後ろにいる俺を振り返って、にっこり笑った。 俺は、ただ麻季に向かって深く頭を下げた。 釜茹でにされても、雷に打たれて黒こげになっても文句は言えない俺なのに、大勢の人に赦されて、こうしてここにいる。 「あ、そろそろN駅の近くへ来たわよ」 麻季がウィンカーを動かして、右折レーンに入った。 「すみません。そこを曲がったら、二つ目の信号で左折です」 麻季は、愛海の指示通りに車を進め、道路の路肩で停止した。 「助かりました。本当にありがとうございました」 「小潟さん、今私が打ち明けたこと、事件担当の捜査員に話す?」 シートベルトを外していた愛海は、はっと顔を上げて、麻季を見た。 「そ、それは……」 「話してもいいわよ。偶然知ったことにして、あなたの手柄にしちゃいなさい。その代わり――」 麻季は次の瞬間、笑みを消した。 「私の頼みをひとつだけ聞いてほしいの」 ふたりは、しばらく真顔で見つめ合った。 「……どんなことでしょうか?」 「私の所属しているプロダクションの社長のこと。社長の身辺をそれとなく見ていてほしいの」 「高見社長が、どうなさったんですか」 「この数ヶ月、様子がおかしいの。私たちには決して言わないけれど、ときどき、イヤなことが起こるらしいの。……もしかすると、誰かから脅迫されているのかもしれない」 工藤麻季と別れた後、愛海はマンションに戻らずに、南原署に直行した。 向かったのは、組織犯罪対策課である。ここは、いわゆるマル暴。暴力団関連の捜査や、薬物や拳銃の取締りを行なう課だ。 刑事課には内勤の女性警察官もいて、まだしも、ほのぼのとしたムードがあるが、ここだけは、さすがに殺伐とした空気が漂っている。 担当刑事たちも、どちらが取り締まられる側か、わからないような顔をしている。 「何の用じゃい。忙しいんだがな」 いかつい顔をした刑事がひとりソファに寝ころびながら、競輪新聞を読んでいた。どこが忙しいんだと思うが、もしかすると、暴力団の動向についての情報収集なのかもしれない。 「大崎課長、差し入れです」 愛海は、コンビニの袋をさっと差し出した。中には、棒つきキャンディや傘の形のチョコレートが、ぎっしり入っている。 「おお、気がきくな」 マル暴課長は、とたんに飛び起きて、キャンディをひとつ取り、おいしそうにねぶり始めた。 「禁煙はうまく行ってます?」 「四度目の禁煙が、これで六日目。口さびしゅうてな」 愛海はこれでも、よその課の猛者たちには、けっこう可愛がられているのだ。 「で、課長。ひとつ教えてほしいことがあるんです」 「どうした」 「同勇会と高見プロダクションとの関係について、何か聞いたことはありませんか」 「同勇会ねえ」 大崎は、むさくるしいヒゲだらけの顎をこんこんと拳で叩いた。 「まあ、あると言えばあるわな」 「どんなことです?」 愛海は勢い込んで、たずねた。 指定暴力団、同勇会。 東京に本拠を置き、関東を中心に暗躍している暴力組織だ。 工藤麻季の話から、高見リカコを脅迫している相手が、同勇会なのではないかと俺は睨んだのだ。 「一度、高見社長がおそろしい形相で、携帯で話していたことがあるの。金の話らしくて。出せないとか、そういうことばを耳にしたわ。それに、事務所の人が話してくれたんだけど、封書で高見社長宛てに、拳銃の弾が送られてきたことがあるって」 リカコは以前、暴力団を使って俺をしつこく追いかけていたことがあった。その暴力団というのが、おそらく同勇会だ。 俺も裏社会の人間だったから、そういう勘は人一倍働く。 「芸能プロと暴力団のあいだには、昔から切っても切れないつながりがある」 大崎課長は、飴をベロベロ舐めながら、愛海に説明してくれる。 「地方での興行に地元の暴力団が口を利くとか、プロダクションの脱税に一枚噛むとか、奴らの資金集めパーティにタレントが出演したとか、そういう例は枚挙にいとまがない。高見プロも何度か黒い噂は聞いたが、なにせ所轄外だからな」 「でも、同勇会の支部はうちの管轄にもあるんですよね。そういうところから、情報が引き出せないでしょうか」 「お嬢ちゃん。簡単に言ってくれるけど」 大崎はにたぁりと笑った。「恐い連中に下手に近づくと、いろんな意味で傷ものにされちまうよ」 愛海が突出しないように釘を刺したつもりらしいが、おまえの顔のほうが本物のヤクザより、よっぽど恐い。 「ま、単独行動は厳禁だ。ちゃんと報告して、上司の判断を仰げよ」 「わかりました。いろいろ、ありがとうございました」 「お、ちょっと待ってくれ。こいつとこいつと、どっちが勝ちそうだ」 課長は、立ち去ろうとする愛海に、競輪新聞をぐいと突き出した。 「こっちかな」 「よし、こいつに一点買いだ。こないだはあんたの言ったとおりにしたら、勝ちまくったからな」 ……この野郎、愛海の悪運の強さを知ってるな。 組織犯罪課の部屋を出ると、愛海は俺に言った。 「やっぱり、高見社長は同勇会に脅されてるって考えるべきかな」 「ああ」 「もし高見社長が淳平の殺しに関係あるとしたら、同勇会が、ゆすってくる可能性は十分あるよね」 「何とかして、直接リカコ本人に接触したいな」 「でも私、毛嫌いされてるし、ハードル高いよ」 愛海は自信なさげに、大きな溜め息をついた。 そのあとは、刑事課に戻った。 大崎課長に言われるまでもなく、きちんと捜査経過を報告するつもりだ。刑事はどんなときでも、組織で動くことが建前なのだ。 日曜にもかかわらず、刑事課には何人もの刑事たちが出勤していたが、生憎、直属の上司の加賀美係長も、相棒の木下警部補もいなかった。 「どうしようかな」 愛海がきょろきょろしていると、 「小潟くん、どうしたね」 「わっ」 真後ろから突然、声がした。 刑事課トップの佐内刑事課長だ。 こいつがまた、いるのかいないのか存在感がない。会話にも加わらない。部下まかせで、あれこれ指示も出さない。 いつのまにか、人の後ろにぬーっと立っているという、まるで背後霊みたいなヤツだ――と幽霊の俺が言うのも、変な話だが。 でも、刑事課長などという要職にいるくらいだから、意外と、したたかな切れ者なのかもしれない。 愛海は、工藤麻季から直接聞いた情報を逐一報告した。 「それと、同勇会の件ですが、まだ当たりをつけている段階なので、もっと高見社長の身辺を探ってみます。もう少し何か出てきたら、報告します」 「わかった。ま、危なくない程度にがんばってくれ。疲れてたら報告書は、いーつーでーも、いいからな」 「……今すぐ書きます」 この課長と話していると、デカ部屋がまるで、昼休みで静まり返った平和な田舎の市役所みたいに見えてくるから不思議だ。 「でも」 愛海は報告書を書く手を、ふと止めた。 「もし高見社長と同勇会の関係が公になったら、きっとマスコミが大騒ぎするね。所属タレントの麻季さんにとっても大変なことになる。これでいいのかな」 「そんなこと、今は気にしないでいい」 俺は答えた。 「もし、ぐずぐずして手遅れになったら、どうする。暴力団を舐めちゃだめだ。奴らは殺しでも何でも、やるときは、ためらわずにやるぞ」 「……うん、そうだね」 七年前、奴らの手から間一髪で逃れたときの恐怖を、俺は思い出していた。 同勇会と高見リカコとのつながりは、長い年月にわたり、相当に根深いものがある。 もし奴らとの間に修復できない溝を作ってしまったとしたら、リカコが陥っている落とし穴は、もしかすると死をもってしか逃れられない底無し沼かもしれない。 イヤな予感がした。 ところが翌日、愛海のもとに、予想もしなかった連絡が入ってきた。 『都合により、小潟さんには、区民ミュージカルの妖精役を降りていただきます』 というのだ。 「どうしてなんですかっ」 高見プロダクションの受付で、愛海はまくしたてた。 「プロデューサーのお決めになったことですから、当方ではなんとも」 受付の女性は冷たく答える。 「区民ミュージカルの事務局へ行ったら、こちらの高見社長の強いご意向があったからだと、あらいざらい吐きましたよ」 「吐く」とは、モロに刑事用語だが、それくらい愛海は事務局で粘りに粘って、裏情報を手に入れたのだ。 「私、オーディションで合格して、妖精役に選ばれたんです。練習もまだ二、三回ですが、一生懸命やってます。どうして今になって、この役を降りなきゃいけないんですか」 「それは、妖精役が、劇全体を決める大事な役だからよ」 刺々しい声が背中に突き刺さる。恐ろしいほど無表情の高見リカコが立っていた。 「受付でキンキンわめかれると、迷惑です。どうぞ奥の部屋に」 応接間に通された愛海は、とりつくしまもないくらいの冷気をまとっているリカコと向き合った。 「妖精は、主人公ふたりに恋の魔法をかけるという、ストーリー上とても重要な部分を担っています。小島プロデューサーと相談して、やはり演技力のあるプロの女優を起用することになりました」 リカコは淡々と説明した。 「あなたには申し訳ないですが、そういうことですので、妖精役を降りていただきたいの。もしご希望なら、町の子ども役に回ってもらってもかまいません……ただし、他は全員小中学生ですが」 皮肉げに微笑むリカコに、 「そんな説明じゃ、全然納得がいきません!」 愛海は怒りを爆発させた。 「演技力ということなら、オーディションのテストにも受かりました。他の応募者とは桁違いにむずかしいテストをくださったのは、高見社長、あなたご自身ですよ」 ふたりは、にらみ合った。 「それじゃあ、言わせてもらいますが、小潟愛海さん。あなたは応募書類に嘘を書きましたね」 「え?」 「南原署交通課勤務というのは、嘘。本当は、捜査一係の刑事さんでいらっしゃるそうね」 愛海は唇をきゅっと結んだ。 「以前にあなたが、年配の刑事さんとここにいらしたことを、うちの事務所のスタッフが覚えていました。水主とかいう男が殺された事件について話を聞かせてくれと、しつこく迫ったそうね」 「……」 「そもそも虚偽を書くような人に、重要な役をまかせることなどできません」 「待ってください」 愛海はまっすぐリカコを見据えながら、言った。 「嘘をついたことは謝ります。でも、本当のことを書いたら、あなたは採用してくださいましたか?」 「仮定の話には答えたくないわ」 「あなたも嘘をつきました。事務の方の話では、水主淳平のことなど知らないとおっしゃった。でも本当はご存じだったんでしょう」 「何を根拠に、そんなことが言えるの」 「わたしが話したからです」 凛とした声が響いた。応接間に入ってきたのは工藤麻季だった。 「社長。私が刑事さんに、すべてをお話しました。七年前、水主淳平と付き合っていたことを」 「麻季! あんた」 「嘘を嘘で固めるような毎日を送れば、どこまでが演技でどこからが真実かわからなくなってしまう。私は女優として、そういう人生は送りたくないんです」 「これまで手塩にかけてきたあんたに裏切られるとはね。うかつだったわ」 リカコは苦々しげに笑った。 「高見さん。ご存じのことを正直に話していただければ、いいんです」 愛海は、ひたむきな口調で訴えた。 「水主さんに金品を渡しておられないのであれば、簡単な事情聴取だけですみます。お話いただいたことは、他では口外しないと約束しますから」 リカコはソファの背にもたれ、目を閉じて眉根を寄せていたが、 「一本、いい?」 と、煙草に火をつけた。 頭の中で、めまぐるしく計算しているのだと俺は思った。 俺とのいきさつについて話せば、七年前、同勇会を動かして俺を追ったことにまで話が及ぶ恐れがある。下手をすれば、俺を殺した容疑者としてマークされることになる。 同勇会との間に何らかのトラブルを抱えている今のリカコは、絶対にそれだけは避けたい。 だが一方、その部分だけをうまく隠して、すべてを打ち明けたふりをすれば、警察の追求をそこで途切れさせることができる。 「わかったわ」 リカコは煙草をもみ消して、立ち上がった。「すべてをお話します」 その強い眼差しは、昔と同じく、見ている者を一瞬で魅了する。 そこにいたのは、プロダクション社長ではなく、かつての名女優・高見リカコだった。 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2006-2009 BUTAPENN. |