インビジブル・ラブ


雑踏3


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Chapter 5-5



 愛海は、社長室に通された。
「南原署に来て、お話していただけませんか。せめて、もうひとりの刑事が同席することは」
 リカコの答えは、どちらもノーだった。
 しかたなく、愛海はひとりで対決する決意を固めた。もちろん、俺がそばにいる。リカコの言うことが本当か嘘か判断できる、ただひとりの人間。これほど心強い相棒は、ほかにいないぞ。
 コーヒーを運んできた事務員が出て行くと、ふたりだけの事情聴取が始まった。
「水主淳平とお会いになったのは、いつですか」
「七年前。さっき昔のスケジュール帳で確認したら、9月28日だった。向こうから会いたいと言ってきて、都内のホテルのラウンジバーで落ち合った」
「それ一度だけ?」
「ええ、そのあとは一切連絡もないわ」
 だろうな。俺はそのあと同勇会に狙われて、命からがら東京を逃げ出したんだから。
「水主さんと会って、どんな印象を受けましたか」
「最低の男、金の亡者だわ」
 吐き出すような、即答だった。
「最初は、麻季を愛しているから別れられないと泣かんばかりだったのに、金の話になると、手のひらを返すように、汚い本性をむき出しにした」
(汚い本性を出したのは、そっちだろう)
 七年前の苦い記憶が、否応なしによみがえる。

 俺は、有名な清涼飲料会社の社長の息子だと偽って、麻季に近づいた。
 麻季の心と体を完全に掌握した後、意気揚々と社長のリカコへの面会を申し込んだ。相手は当然、俺のことを調べ上げたうえで、面会に臨んできた。
 ホテルの最上階のショットバー。
 俺とリカコの前に置かれたシングルモルトの琥珀色のゆらめきまで、はっきりと思い出せる。
「どんなにきれいな御託を並べたところで」
 リカコは、うっすらと笑みを絶やさぬまま、俺に牙をむいてきた。
「あなたが、あくどい目的で麻季に近づいたことは変わらないわよ」
「金が目的でないことは、何度も申し上げたはずです」
 俺もあくまで紳士の仮面をかぶったまま、応じた。
「僕は麻季を僕だけのものにするために、女優を辞めてほしい。もしそれがダメだとおっしゃるのなら、相応の慰謝料を払っていただきたいと申し上げているだけです」
「よくもそんな自分勝手なセリフが、しゃあしゃあと言えるわね。感心するわ」
「貴女の手の中では、麻季はしょせん高い金をかけた商品だ。みすみす失う気はない。欲にまみれながら、きれいごとを並べているのは、どっちだと思います?」
 そのときのリカコとの会話は、なんとスリリングだったろう。すべてが終わった今だから言えるが、俺の詐欺師としての人生の中で、あれほど充実した時間はなかったかもしれない。

「それなのに」
 愛海の言葉で、俺は物思いから引き戻された。
「なぜ、水主淳平は金をあきらめて、麻季さんのもとを去ってしまったのでしょうか」
「さあ、知らない。私が断固として、金の支払いを拒否したからじゃないの?」
「七年前、都内のあるホテルから、滞在していた客が荷物を残して失踪したという被害届が出ていました」
 愛海は、その被害届の写し書きを、リカコの前に置いた。
「残念ながら、荷物はとっくに処分されてしまいましたが、ホテルマンの人相書きから、その客は水主淳平に間違いないと思われます」
「それがなにか」
「彼が失踪した日付というのが、9月29日。つまり、あなたが彼と会った翌日です。なぜ、水主淳平は、それほど急いで去らなければならなかったのでしょうか。金をあきらめるにしては、早すぎると思うのですが」
「わからないわ。おおかた、追われて逃げたんじゃないの。あちこちで女をダマしていたみたいだし」
「複数の男が部屋の扉をノックしていたのが、フロアの客室係によって目撃されています。心当たりは?」
「どうかなあ。そういうことは、刑事さんのほうが詳しいでしょう」
「同勇会という組織のことを、ご存じでしょうか」
「経済同友会のこと? ひとりふたりなら知り合いがいるけど」
 リカコの受け答えは完璧だった。とぼけるでもなく、気色ばむでもなく、とにかく何も知らない人間が、気乗りのしない質問に答えているという演技を崩すことは、一度もなかった。
 俺はじりじりして、何度も怒鳴りつけたくなった。聞こえないから無駄だとはわかっているのに。
 なんとか、この女を一瞬でも動揺させられないものか。
 そのとき俺は、とんでもないことを思い出した。
「愛海」
 俺は急いで言った。
「別れ際に、俺とリカコはキスをした。そのことを突いてみてくれ」
「ひえっ?」
 動揺しちまったのは、愛海のほうだった。
「ど、どういうこと、聞いてないよ」
 俺のほうを見て、目をぱちくりさせている。
「後で説明するから、とにかく俺の言うとおりに質問しろ」
「いったい、どうなさったの?」
 宙を見つめてブツブツ言っている愛海に、リカコは怪訝な顔をした。
「ええと、あの……」
 愛海は口ごもりながら、リカコに向き直った。
「あなたはバーから出たとき、水主さんに抱きしめられ、キスをしたそうですね」
 リカコの顔が、みるみる蒼ざめた。
「何てこと言うのよ。いったい誰に聞いたのっ。まさか本人――」
 リカコが、これほど激した姿を見たのは初めてだ。
「ええと、これもホテルの従業員の証言です」
 愛海は、うまく言いつくろった。
「それでは――本当なんですね?」
「本当よ」
 吐き捨てるように、答える。
「私から一円も取れないことがわかって、自暴自棄になったんでしょうね。下衆な男。ホテルの廊下で、いきなりキスをされたわ。もちろん、すぐに平手打ちを食らわせてやったけど」
「それは災難でしたね。嫌っている男のキスだなんて。さぞ、傷つかれたでしょう」
「キスくらいで? あはは」
 リカコはヒステリックに笑った。「キスのひとつやふたつ。女優だったら、いくらでも演技で経験してるわ。悪魔とキスしたって平気よ」
「……そんなものですか」
 愛海は神妙な表情になり、口をつぐんだ。
 おい、ここで追求の手を途切れさせて、どうするんだ。今がチャンスなんだ。もっと畳み掛けるように質問しろよ。
 そのわずかな隙に、リカコは自分を取り戻した。後は愛海が何を尋ねても、仮面をつけた役者のように、感情をまったく見せずに応対した。
 悔しいが、この尋問は、俺たちの完全な負けだ。
 席を立つとき、勝ち誇ったようにリカコは言った。
「これで納得なさったでしょう。もうミュージカルの稽古などに貴重なお時間を割く必要は、ないと思うわ。妖精役はこちらで代役を立てさせていただくわね」
「……はい」
 これで愛海たち南原署の刑事たちは、リカコへ繋がる、たった一本の細い糸をなくしてしまったのだ。

 愛海はすっかり意気消沈して、自分のマンションの部屋に戻った。
「もうちょっとだったのに。惜しかったな」
 どう慰めてよいかわからず、俺がつぶやくと、大きな目をぎんっと吊り上げて、俺をにらむ。
「話して。どうして、リカコさんにキスなんかしたのよ」
 そうか。愛海は、そこに引っかかっていたんだっけ。
「なぜだったのかな」
 俺はあのときのことを、反芻していた。
「リカコとの一回目の交渉が決裂したときも、俺はあきらめるつもりなんかなかった。なんとしてでも、こいつから金を取ってやる。だがあいつは、去り際に俺の背中にこう言ったんだ。『こんなくだらない男の、どこがよくて麻季は、のぼせあがってるのかしら』って」
 思い出すだけで、今でも激しい怒りに駆られる。俺の青い霊体が暗闇で、ぼうっと燃え上がるのが自分でもわかった。
 そのことばを聞いたとき、俺は金のことも忘れて、リカコを衝動的に抱きすくめた。
 ――俺を、二度と『くだらない男』などと言わせるものか。
「今から考えればバカなプライドだった。そのせいで、俺はリカコの恨みを買ってしまったんだろう」
「……私、このことを聞いたとき、つくづく思ったよ。淳平ってやっぱり、悪人なんだって」
 愛海の目が黒曜石のように冷たく光ったかと思うと、涙がぽろりとあふれた。
「だって、意地やプライドのために、平気でキスができるんだもん。それが、どんなにリカコさんを傷つけたか、全然わかってないもん」
「……どういうことだ?」
「リカコさんは、あなたを愛してるんだよ!」
 リカコが俺を愛してるだって?
「嘘だろう」
「嘘じゃないよ。今日、リカコさんを見てピンと来たの。だって私、あんな目をした人を何人も見てきたもん。本当は淳平を憎みたいのに憎めないでいる目だった。リカコさんは一度会っただけで、淳平のことを好きになったんだよ」
「だが、リカコは暴力団まで使って、俺を殺そうと追いかけてきたんだぞ」
「本当は殺そうとしたんじゃなくて、捕まえたかったんじゃないかな。憎まれてもいいから、淳平にもう一度会いたくて」
「冗談じゃねえ。じゃあ、なぜ俺を、あれほど罵倒した?」
「私、リカコさんの気持、よくわかる」
 愛海は、うるんだ瞳で俺を熱っぽく見つめた。
「麻季さんには愛をささやいても、自分には冷たい目しか向けてくれないのが、すごく悔しかったんだと思う。淳平は初めからリカコさんのことを、ただの金づるとしか考えてなかったもん」
「だって、しょうがないだろ。俺は結婚詐欺師なんだから――」
 俺はがっくりと、その場に座り込んだ。
「リカコが俺に惚れてただなんて……。それもわからずに、ずっと憎み続けていた」
 結局、俺は生きてるあいだは、女の気持なんか、何もわかっちゃいなかったんだな。
 愛海はすすり泣いていた。
「私って、なんでこんな悪い男を好きになっちゃったんだろう」
「……ごめんな」
 麻季やリカコや、騙してきた女たちにすまないと思う気持でいっぱいになりながら、俺は愛海をそっと抱きしめた。

 翌日、高見リカコの事情聴取が失敗に終わったことを報告すると、捜査一係長の加賀美は、『やっぱりな』という顔をした。
「ああいう口八丁のやり手の女社長と渡り合うのは、おまえには百年早いよ」
「……」
「じゃあ、ミュージカルも降ろされたわけか」
「はい……すみません」
 まったく、一度や二度の失敗で、そこまで悪しざまに言うか。おまえらだって、何のアドバイスもせずに愛海ひとりに捜査を押しつけてたんだから、職務怠慢もいいとこだろう。
 愛海を小バカにしたような雰囲気が、また刑事課内に漂い始めた。
「あいつらは俺の事件を解決しようなんて気は、まったくないな」
「でも」
 署のトイレでメイクを直すふりをして、そっと涙を拭いていた愛海は、けなげにもニッコリ笑った。
「リカコさんが、淳平を殺したんじゃないって確信が持てたよ。それだけでも収穫じゃない?」
「それはそうだが」
「淳平を殺した犯人は、私が何年かかっても捕まえてみせる。それより今は――」
 愛海はふたたび顔を曇らせた。
「同勇会に脅されているリカコさんを、どうやったら守れるかだよ」
「高見プロは、所轄が違うしな。非番のときにこっそり見張ってやるのも、限度がある」
「小中学生といっしょでもいいから、ミュージカルに出たいって言えばよかったかな」
 愛海は今も、妖精役で舞台に立ちたいみたいだ。家でも暇さえあれば、ステップを踏んでいる。せっかく覚えた振り付けを忘れたくないのだろう。見ていると、かわいそうになってくる。
「淳平、ちょっとひとりにして」
「……泣くのか」
「バカ。トイレに入るの」

 しかし、それきり何か良い考えが浮かぶでもなく、愛海は刑事課に戻り、デスクワークや他の捜査を手伝ううちに、それなりに多忙な毎日に飲み込まれていった。
 俺も何度か電波を伝ってリカコの身辺を見張ったが、何も起こる気配はない。同勇会に潜入し、さぐったりもしたが、それらしい証拠を見つけることはできなかった。
 高見リカコのことは、小骨のように喉にささりながらも、いつのまにか過去の話になりつつあった。
 そんなある日、組織犯罪対策課の課長が、愛海を訪ねてきた。
「どうしたんですか。大崎課長」
 大崎は、スパスパと煙草をふかしていた。要するに、四度目の禁煙は終わったということだろう。
「今、S署のマル暴から連絡があってな」
 S署とは、高見プロダクションの所轄署だ。
「昨夜遅く、高見プロの玄関目がけて、発砲した者がおるらしい」
「ええっ」
「以前俺が、高見プロと同勇会の関係について問い合わせたことがあるので、うちにも連絡をくれたわけだ。銃声や何かが割れる物音を聞いたという近所の通報で、署員が駆けつけたところ、プロダクション側は、そんな事実はないとの一点張りだ。玄関の窓ガラスは、古いソファを運び出すときに、あやまって割ったんだと。そんな夜中に事務所の模様替えなんかするとは思えんが。ま、今のところは、そんな状況だ」
「けが人は」
「誰もおらん」
「そうですか」
 愛海は、不安と安堵が入り雑じった複雑な表情を浮かべた。
 そのわずか数秒後、愛海の携帯が鳴った。
「え……麻季さん?」
 相手は、高見プロの専属女優、工藤麻季だった。
『お願い。社長を助けて』
 リカコがショックを受けている。今すぐプロダクションに来てほしいという。

 高見プロダクションの玄関に着くと、ガラス屋が来て扉のガラスを取り替えていた。
 かなり分厚い。ここに銃弾が当たって、幸いにも止まったのだろう。その痕跡を消すために、わざとガラスを割り、銃弾は隠してしまったに違いない。
 S署の捜査員は姿が見えない。愛海が中に入ろうとすると、受付の事務員がすんなり通してくれた。
 中の一室で、麻季が待っていた。
「小潟刑事」
「麻季さん、大変なことでしたね。高見社長は?」
「社長室にいる。直接会って、話してみてくださる? 私ではダメなの」
 麻季は愛海を案内すると、廊下の突き当たりの扉をノックした。
「社長。失礼します」
 窓に面したデスクには誰もおらず、その脇の作りつけの本棚にもたれるように、リカコが立っていた。窓の近くには、とても近寄れない心境なのかもしれない。
 蒼ざめた顔。美しい目元は、いつになく疲労による隈が目立つ。
「なぜ、この人を連れてきたの。麻季」
 引きつるように唇を開いた。「うちとは、もう関係のない人でしょう」
「社長。意地を張るのは、いいかげんにやめましょう」
 麻季は、穏やかに言った。「社長の精神は、限界だと思います」
「勝手に決めつけないで。あなたなんかに私の何がわかるの」
 ふたりは、暗い部屋の中でにらみ合った。
「あの」
 愛海は、小さいが、しっかりとした声で切り出した。
「高見さん。今回の発砲は、同勇会のしわざなんですね」
「発砲なんてありません。S署の方に何度も言ったはずよ」
「犯人はもはや脅しだけではなく、あなたの命まで狙ったかもしれないんですよ」
「何の話だか、わからないわ!」
 どう説得しても、リカコは発砲事件を認めることを、かたくなに拒んだ。
 愛海はとうとう、ふっと短い吐息をもらした。
「麻季さん。私と高見社長、ふたりだけにしてもらえませんか」
 麻季は黙ってうなずくと、扉の向こうに消えた。
「何のつもり?」
 夕闇の中で、リカコは猛禽類のような険しい目をしていた。
「高見さんに、ひとつだけお伝えしたいことがあります――水主淳平の遺言です」
「遺言?」
 ほとんど唇を動かさずに、リカコは言った。「あいつは、殺されたんじゃないの? 自殺ってこと?」
「いいえ、正確には、彼が生前に書いたと思われる走り書きが見つかったんです」
 愛海は、答えた。
「そこに、高見さんの名前がありました」
 リカコは無言だった。
「『あのとき、ふたりで飲んだ酒ほど美味い酒はなかった。あいつは最高の女だ』と。追手をさしむけられるほど、あなたに憎まれていることが残念だとも、書いてありました」
 もちろん、嘘だった。
 俺は、このあいだまで本気でリカコを憎んでいたのだから。そしてリカコも俺のことを憎んでいると思っていた。
 だが、そうではないと知ったとき、俺は別の目でリカコを見るようになった。
 リカコはいい女だった。突っ張って、可愛げなど微塵もないけれど、伏魔殿(ふくまでん)のような芸能界で必死に生き抜こうとしている、けなげな女だった。
 愛海を通して言ったことは、今の俺の偽らざる気持だ。それを話すことが、リカコに対して、たったひとつできる俺の償いのような気がした。
 リカコは、血のように赤い夕焼けで染まった窓を見やった。その横顔に、ひとすじ涙が伝っている。
「死んだあとまで、女をダマそうとするのね。……根っからの詐欺師だわ」
 笑いを含みながら、リカコはつぶやいた。その声からは、今までの怒りが消え去っている。
「高見さん。水主さんは、同勇会に追われていたと書き遺しています。今回、事務所に向かって発砲したのも、同勇会ではありませんか? もしそうなら」
 愛海は、心をこめて訴えた。
「水主淳平のタマシイがあなたを守ろうとしているように、私には思えるんです。お願いですから、真実を話してくださいませんか」
 リカコは、よろよろと机に両手をついた。
 何度か、苦いものを飲み込むように喉を震わせていたが、ついに言った。
「わかりました。お話しします」





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