インビジブル・ラブ


雑踏3


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Chapter 5-6



 リカコは一気に、同勇会との今までのいきさつについて、話し始めた。
 去年の秋、事務所に所属している男性タレントのひとりが、スナックで暴力事件を起こした。酔っ払った客のひとりにからまれ、カッとなってその客を殴り倒し、大怪我をさせたというのだ。
「あなたも知っているタレントよ。仲代ミツル」
「え、ええっ。あの?」
 知っているどころじゃない。例のミュージカルに出演する、領主の息子役だ。
 工藤麻季には及ばないが、テレビドラマでも準主役級をこなす、知名度の高いタレントだった。
「もしこれが知れたら、スキャンダルになる」
 リカコは唇を噛みしめた。「もみ消しを、同勇会に頼んだの。昔から、こういうもめごとがあるたびに使ってきた連中だった」
 だが、今回は勝手が違った。同勇会はリカコに、法外な謝礼と口止め料を要求してきたのだ。
「もちろん、そんな要求、はねつけたわ。だけど逆に、このことを雑誌に持ち込むと脅してきたの。何度断っても、そのたびに要求はエスカレートするばかり――まるで、アリ地獄のようだった」
 同勇会は、このところのヤミ金融や振り込め詐欺などに対する摘発で、有力な資金源を次々とつぶされ、金ぐりに困っているというのが、マル暴の大崎課長の話だった。
 そんなおり、相談を持ちかけてきたリカコに目をつけ、一気に莫大な金を巻き上げようとしたのだろう。
「それで、最後通告の意味で発砲してきた……そんなところですね」
 愛海のことばに、リカコはうなずいた。
 そのとき、真っ青な顔をした工藤麻季が飛び込んできた。
「社長。大変よ」
「どうしたの?」
 自分を取り戻した女社長は、ソファから立ち上がった。
「今、こんな脅迫文が事務所のファックスに届いたの!」
 麻季が見せた紙には、大きなワープロ文字でこう書いてあった。
『これ以上、拒否するようなら、別の手段を使う。
7月の区民ミュージカル、無事ですむと思うなよ』
「なんですって」
 リカコの悲鳴が響いた。
 大勢の客が訪れ、一般人も舞台に立つ区民ミュージカル。
 1400人を、奴らは人質に取ろうというのか。

 またたくまに日は過ぎ、区民ミュージカルの当日となった。
 区民ホールには開演前から続々と、出演者の家族知人や、工藤麻季ら有名タレントのファンがつめかけてくる。
 そして、その客の中に眼光鋭い男たちが混じり、さりげなくあたりを見回していた。
 区民ホールの大ホールは客席千四百。三階席まである。その各々のフロア、各通路ごとに私服警官を配置するのだ。
 南原署だけでは、まかないきれない。近隣の警察署の警官を総動員しての、警備だ。
 入口に金属探知機を置くことは、主催者が許可しなかった。大勢の親子連れが来る。恐がらせることだけは、絶対に避けてほしいと言われている。
 マル暴の大崎課長などは、まっさきに顔を隠してほしい輩だ。席に座っているだけで、隣の子どもが泣き出した。
 愛海は、ミュージカルの内容や出演者の顔ぶれを一番よく知っていることもあり、舞台裏の警備を担当することになった。
「だいじょうぶです。私たちを信じてください」
 油断なく周囲に目を配りながら、安心させるように、時折リカコや麻季に小声で呼びかける。警察の警備のことを知っているのは、関係者だけ。一般の参加者には何も知らせていないので、その面でも配慮しなければならない。
 いよいよ、上演一時間前というときになって、騒ぎが持ち上がった。
 妖精役と領主夫人役のふたりの女優が、とつぜん役を降りると言い出したのだ。
「どうして。昨日のゲネプロ(総稽古)では、いつもどおりだったのに」
 さすがのリカコも、呆然としている。
「それに、代役を立てていたはずでしょう」
「けれど、そちらも……」
 スタッフが口ごもった。要するに、高見プロの女優たちは、麻季以外は全員、今日の舞台をボイコットしちまったというわけだ。
 無理もない。暴力団に狙われていると聞いて、平気で舞台に立てる女は、そうはいないだろう。
「私が、妖精役になります!」
 りんとした声が楽屋に響いた。
 もちろん、愛海だった。
「私、振り付けは全部覚えてます。練習不足ですが、共演の方がうまく合わせてくだされば、なんとか」
 麻季と愛海は、じっと見つめ合った。
「だいじょうぶ、まかしといて。ね、ミツル」
「あ、ああ」
 領主の息子役の仲代ミツルも、うなずいた。元はと言えば、酒の席での自分の短慮が、今の事態をを引き起こしているのだ。感じている責任は人一倍だろう。
「わかったわ。じゃあ、領主夫人には私がなる」
 リカコがきっぱりと言った。
「社長が?」
「台詞は全部、はいってるわ。衣装をちょうだい。さあもう時間がないわよ」
「女優、高見リカコの演技がもう一度見られるなんて。今日の観客はなんてラッキーなんだ!」
 プロデューサーの小島が、感極まって叫んだ。

「……というわけで、私は舞台に立ちますので、舞台裏警備はまかせます」
「お、おい。ちょっと待て」
 相棒の木下警部補があたふたしている間に、愛海はさっさとトランシーバーのスイッチを切り、妖精役の衣装に着替え始めた。
 白いチュチュ。銀色のカツラをかぶり、ラメ入りのシャドーと真っ赤な頬紅を入れる。
「どうしよう。足がガクガクしてきたよ」
 鏡を見つめながら、愛海は震え声で言う。「こんな大舞台に立つなんて、ピアノの発表会以来」
「だいじょうぶだよ。おまえなら」
 俺は、彼女の肩にそっと触れた。「あれだけ練習してきただろう? 俺がそばにいる。側転も補助してやる」
「うん……」
「すごくキレイだぞ。自信を持て。女優、小潟愛海の最初で最後の舞台だ。――楽しくやろうぜ」
 俺は、ピンクに塗った愛海の唇にキスした。こういうとき化粧がはがれないのも、幽霊のお得な点だ。

 午後二時。いよいよ舞台が幕を開けた。
 背景の街並みは、絵本から抜け出たようなメルヘン調だ。
 金色のカツラをかぶり、お針子の粗末な服をまとったフィオリーナが買い物かごを下げて歩きながら、春の歌を歌う。彼女を慕う町の子どもたちが、それに合わせて合唱する。
 舞台は順調に進んでいた。
 俺はだんだんと、同勇会は現われないのではないかという気がしてきた。
 奴らもバカじゃない。これだけの警察の警備を縫ってまで、犯行予告を実行するような危険はおかさないだろう。
 つづいて舞台は半回転して、小間物屋の店の中に変わった。
 帰りが遅いと、女主人にフィオリーナは叱られている。店に入ってきた男爵夫人は、明日までにポシェットを五枚と、無理な注文を押しつけて去っていく。
 女主人に、徹夜してでも縫い上げろと、命令されるフィオリーナ。
「もうすぐ、私の出番だよ」
 袖から舞台を見つめながら、愛海は不安げにつぶやいた。
 いよいよ、麻季と愛海が共演する場面だ。
 夜の小間物屋に場面転換するため、少しのあいだ舞台は暗転する。
 そのとき、愛海が「あっ」と小声で叫んだ。
「淳平、あれ!」
 愛海が指差したのは、二階席の最前列の隅。何かキラッと光るものが見えたのだ。
「見に行ってくる」
「お願い!」
 俺は舞台の袖から、一息に二階席に跳んだ。
 そこに座っていたのは、若い男女のカップルだった。
 女のほうが、がさがさとパンフレットを大きく広げている。そして、その陰に隠れるように、男が手に握っていたのは、なんと、小型の拳銃だった。
 間違いない。同勇会だ。まさか女連れで来るとは、警備している側も思わなかっただろう。
 まだ若い。幹部に認めてもらおうとイキがっている舎弟と、その女、という雰囲気だ。
 握っている拳銃は、小型。これでは、舞台までは弾は届かない。それでも、その銃声で、出演者も観客も大パニックになることは予想された。
 ライトが点き、工藤麻季が舞台に登場した。
 俺は男に飛びついた。
 拳銃を持っている手首をひねりあげる。男は、目に見えない力に突然襲いかかられた驚きで、大暴れし始めた。
 俺もありったけの霊指の力で、男の手から拳銃をもぎとろうと戦った。
 連れの女がおろおろしている。だが周辺の客は、舞台の上の麻季の演技に目が釘付けになり、男の方を見もしない。
 俺は男を席から引きずり出すと、その前の手すりに、男の肘を叩きつけた。
 男は苦鳴の声をあげ、手すり越しに拳銃を手放した。
「しまった!」
 俺はあわてて、一階へと落ちていく拳銃に飛びついた。
 なんとか間に合った。空中で逆さまになりながら見おろすと、ちょうど真下の席に大崎課長が座っている。
 好都合とばかり、大崎課長の膝の上にポトリと拳銃を落としてやった。
 課長はガバと跳ね起き、二階席を見上げた。あわてて席から立ち去ろうとしている男女を目ざとく見つけたようだ。
「あとは頼むぜ」
 俺は愛海のところに戻ろうと、舞台を振り返った。
 ――もう遅かった。
 愛海は舞台の上で、ちょうど側転をバッチリやり遂げたところだった。
 俺の補助がなくても、できるようになったじゃねえか。本人は無我夢中で、それどころじゃないに違いないが。
 舞台の袖で、俺は引っ込んできた愛海を出迎えた。
「淳平、どうだった?」
「ああ、今ごろ、ホールの外で大崎課長の大捕り物が演じられてるはずだ」
「よかった。淳平のお手柄だね」
「それより、愛海もうまかったじゃないか」
「うん、おかげさまで」
 どうやら、側転に俺の補助があったと思っているらしい。俺は客席でヤクザと乱闘してたんだぞ。いくら幽霊だって、体が二つに分かれるものか。
 だが、真実を言えば意識してしまうだろうから、黙っておくことにする。まだもう一回、出番があるからな。
 麻季の歌と演技もすばらしかったが、高見リカコは別格だった。
 第二幕は、領主の城の場面から始まる。
 気の弱い亭主を叱りつけながら、息子の政略結婚を推し進める超ワンマンな領主夫人を、リカコは見事にコミカルに演じきった。
 一度も練習したことがないだろうに、歌もセリフも完璧だ。
「高見リカコだ」
 会場からは、感嘆の溜め息と、一場面終わるごとに割れんばかりの拍手が湧き起こった。
 結婚をいやがり、城を逃げ出した領主の息子に恋の魔法をかけるという、愛海の二つ目の出番も、もちろん無事に終わった。
「すごいなあ、おまえら」
 俺は空中の特等席に浮かびながら、リカコと麻季と愛海に惜しみない拍手を送った。もちろん、誰にも聞こえてなかっただろうけど。
 俺はこんなすばらしい女たちと出会えたことを、しみじみと幸せだと思った。
 ミュージカルのほうは、紆余曲折の果てに、領主の息子とフィオリーナが結ばれる。
 最終幕の、城での結婚式。
 全員での大合唱の場面で、妖精の衣装をつけた愛海は、こっそり俺に向かってVサインを送った。

 ミュージカルが大成功のうちに終わった数日後、警察による同勇会各支部の一斉家宅捜査が行なわれた。
 だが、大崎課長らが悔しがったことに、目ぼしいものはほとんど出なかった。
 事件そのものも未遂に終わったため、組長の民事上の責任を問うことはできず、結局、舎弟ひとりの逮捕という、まるでトカゲのしっぽ切りのような結果に終わることになりそうだ。
 それからしばらくすると、テレビのワイドショーにリカコの顔が大写しにされた。
 仲代ミツルの乱闘事件を公に発表したのだ。
 それとともに、リカコが自らの長年にわたる同勇会との関係を告白し、高見プロの社長の座を引責辞任したことも報じられていた。
 高見プロは、リカコが立ち上げたプロダクションだけに、これで事実上の解散ということになるのだろう。
 マスコミ発表があった日の夜、リカコ本人が愛海の自宅に訪れた。
「小潟さんには、いろいろとお世話になったわね」
「いいえ、そんな」
 コーヒーを出しながら、愛海は心配気に眉をひそめた。
「これから、所属タレントさんたちは、どうなるんですか?」
 リカコは穏やかにほほえんだ。
「ミツルはしばらく謹慎するけれど、相手との示談はすんでいるし、それ以上のことにはならないわ。どこか別の事務所に移籍をお願いする。麻季もミツルも、これくらいでつぶれるような才能じゃないもの」
「それはそうですけど……じゃあ、高見さんは?」
「私は、しばらく考えてみる」
 遠いところに視線をたゆたわせながら、リカコは夢見るように言った。
「ほとぼりが冷めたら、舞台にもう一度立ちたいの」
「舞台?」
「ええ、アングラでも市民劇団でもなんでもかまわない。十年ぶりに舞台に立って、私、体が震えるくらいうれしかった。演技することが何よりも好きだって、自然にそう思えたの」
「ええ、リカコさんは女優になるために生まれてきたんだと思います」
 愛海は心からの真実をこめて、言った。「淳平も、生きていたら、きっとそう言いますよ」
「そういえば」
 リカコは、なつかしげな表情を浮かべた。
「区民ミュージカルでカーテンコールを受けていたとき、誰かにキスされたような錯覚がしたの。あのキスはまさか、あの人の幽霊だったのかな」
「……」
「あはは、冗談よ」
 リカコが帰ってから、愛海が怒り狂ったことは言うまでもない。
「淳平。あれって、淳平のしわざなんでしょう」
「な、なんの話だ」
「リカコさんだけじゃない。麻季さんも私宛のメールで、同じこと書いてたもん。私だけじゃなく、三人全員にキスしてたんだ」
「す、すまん」
「バカ――ッ!」
 愛海は俺に飛びかかろうとして、すかっとソファから転がり落ちた。
「ふたりへのキスは、謝罪の意味をこめたんだ。本当にそれだけだって」
「嘘つき、浮気者、詐欺師――ッ」
「俺が本気でキスするってのは、こういうことだぞ。愛海」
 そう言って俺は、床から起き上がった愛海の唇に、念入りなキスをしかけた。
「あふ……」
 愛海は、とろけるような表情になって、その感触を楽しみ始めた。
 と思ったら。
「こんなキスでごまかされるかっ。淳平のバカ――!」
 次の瞬間、般若の形相に変化(へんげ)して、俺にクッションを次々と投げつけた。
 フー公は、とばっちりを恐れて、あわててベッドの下に隠れてしまう。
 怒ったり笑ったり泣いたり、まったく忙しい。こいつの顔を見てると、二十四時間だって見飽きない。
 小潟愛海は、俺だけの舞台にいてくれる、最高の女優だった。


       第五章 終





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