インビジブル・ラブ


校舎


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Chapter 6-1



 このごろ自分が幽霊だということを、ふと忘れるときがある。
 以前は意識を保つことさえ難しかったのに、今はいくらでも現世にとどまっていられるし、霊指の力で、たいていのものなら苦もなく動かせる。
 やろうと思えば、人間には俺の姿も見えるし会話もできる。ただし大騒ぎになるといけないので、相手は愛海とフー公に限っているが。
 そうなるとつい、自分が生きていると錯覚しそうになるのだ。
 体もなく、生きる者のぬくもりすらない俺が、いつまでも愛海のそばで生活して、彼女を愛していけると思い込みたくなってしまう。
 ばかばかしくて、笑っちまう話だ。
 そうではないと自分に言い聞かせてはいる。本当に別れるときが来たら、笑って「あばよ」と言い、潔くおさらばするんだと決めている。
 さすがに、物陰からそっと愛海を見つめるストーカー幽霊には、なりたくないからな。
 だが、実際はきっと、じたばたしてしまうんだろう。たとえ天国に連れてってくれると言われたって、こんなにいい女を置いて行けるものか。
 真夜中、よく眠っている愛海の寝顔をながめながら、俺は部屋の天井あたりに浮かんで意識をとばしつつ、朝の来るのを待っていた。
 すると突然、俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「誰だよ」
「まったく、恩知らずなやつめ、わしの声を忘れたか」
 その口調は、まぎれもなく太公望だった。うーむ。これだけ出てこなければ、作者だって忘れるぞ。

 現世とあの世との間の「はざまの世界」。
 相変わらず、ぼんやりと明るいだけの何にもない殺風景な場所だ。実は広大な世界で、山や海もあるらしいのだが、探検する気はさらさら起きない。
 管理人のおっさんがひとり、いつ見ても暇そうに釣り糸を垂れている。
 「太公望」とは、俺が便宜上つけた仮の名だ。だが本人はなかなか、この名を気に入っているらしい。
「世話になった恩人には、盆暮れの付けとどけを欠かさぬのが、昔の日本人の礼儀だったがの」
 不機嫌そうに、俺をにらむ。
「悪かったな。今度来るときは、まずい桃でも持ってきてやるよ」
「いらぬわい」
「で、何か用か」
「せっかちな男だ。とりあえずは、相手の健康くらい気づかうものだ」
「お互いに、病気をするような体はしてないだろう?」
 憎まれ口を叩き合いながら、俺はおっさんの隣にどんと腰かけた。地上では体のない俺も、ここでは仮の体を持つことができる。
「実は、おまえさんに届けものをしてほしい」
「誰に?」
「草薙だ。覚えておろう」
「ああ、あの夜叉追いか」
 「夜叉追い」とは、おそろしく強い力を持つという霊能力集団だ。
 そのうちのひとり、草薙には、以前ここで会ったことがある。若草色の狩衣を着た、匂い立つような美貌の平安貴族だった。しかし、現世で会ったときはなぜか、とぼけた顔の白狐になっていた。
「俺がわざわざ届けなくても、自分でここに来れるんじゃないのか」
「今、奴は、赤ん坊の子守で忙しくてな。ここに来る暇がないのだ」
「子守?」
 ……誰の子どもか訊ねたかったが、あまり奴らの人間関係に深入りはしないほうが良さそうだ。
 太公望は、俺に小さな巻物をひとつ手渡した。
 そう。よく忍者が口に加えているようなヤツだ。霊界の巻物だから、さだめしすごい秘伝が書かれているに違いない。
「それから、淳平よ」
 おっさんは、俺の顔をじっと見つめた。
「おまえさんに、ひとつ言っておくことがある。地上にいる間、絶対に悪人には近寄るな。人間だけではない。悪霊や夜叉と呼ばれる存在にも、決して近づいてはならぬ」
「どういうことだ?」
「霊魂とは、毛皮のない動物の胎児のように、むきだしの存在。他の影響を受けやすいのだ。特におまえさんは」
 俺の鼻先に、人差し指をにゅっと突き出す。
「生前はひどい悪行をおこなっていた人間だ。容易に悪に染まってしまう。今おまえさんが昔の所業を悔い改めて善人になっておるのは、そばにいる純真無垢な人間の影響によるところが多い」
 純真無垢……まさに、愛海のためにあるような言葉だ。
「だが、悪人とともに過ごせば、たちまち悪と化す。おまえさんは大きな霊力を持っている分、振り子のように、ひどく不安定な存在なのだ」
 悪と長く接し続けると、俺自身が悪霊になってしまう恐れがある。太公望はそう言って、俺をさんざん脅かした。
「しかし」
 と、俺は口をとがらせた。「愛海の捜査を手伝うとなると、犯人と接触しないわけにはいかないぞ」
「だからこそ、釘を刺しておるのだ」
 太公望は、釣り糸をくいと引っぱり上げた。魚が釣れたのかと見たが、何もない。だが、満足そうに獲物を魚篭(びく)に入れる仕草をしている。
 もしかすると、俺には見えない何かが釣れたんだろうか?
「犯罪者に単独で近づくのは厳禁。必ず小潟愛海といっしょに行動すること」
 おごそかに言い終わると、たちまち俺の視界から消えてしまった。
 まったく、せっかちな野郎はどちらだ。

 現世に戻ってきたときは、まだ暗かった。夜明けまであと二時間ある。
 愛海の寝顔をのぞきこむ。何も知らずに、よく眠っているようだ。
 俺は太公望の言っていたことを、あらためて思い返した。どうしようもない悪党だった俺が、死んでからでも改心できたのは、愛海のおかげだと。
 自分でもそう思う。人は、その周囲にいる人間の感化を絶えず受けるものだ。
 高校までの俺は、善良な両親のもとで、ごく普通の人生を送っていた。自分が犯罪者になるなどとは、想像もしていなかった。
 実際、子どもの頃の俺は、かなりクソ真面目な性格だった。誰も見ていない赤信号でも、きちんと停まるように親にしつけられ、それを守っていたくらいだ。
 だが、父親の逮捕がすべてを変えた。家族と死別し、俺の回りには悪意のある奴しかいなくなった。いや、そうではない。俺の憎悪がきっと、悪意のある人間を呼び寄せていたのだ。
 犯罪を犯すことで、俺たち家族を冷たく見放した世間に復讐すること。それが俺のたったひとつの生き甲斐になった。
 もしあのとき、たったひとりでいいから、そばに俺を愛してくれる人がいたなら。俺の人生はこれほど、どん底には落ちなかったかもしれない。
 愛海と、生きているときに出会いたかった。死んで、何もかも取り返しがつかなくなってから、こんなに愛しい存在とめぐり合うなんて。
「俺も、最高に運の悪い男だな」
 笑いを含んだひとりごとに、フー公が耳をピンとそばだて、また眠そうにうずくまる。
 静まり返った青白い夜の中で、俺は愛海に、そっと触れるか触れないかのキスをした。

 翌朝。いつもの、
「きゃあ、遅刻するぅー」
「だから、なんで目覚まし三個かけて起きられないんだよ」
「ぶみゃーっ(餌くれ)」
 というお決まりの騒ぎを経て、愛海はどうにか出勤にこぎつけた。
 太公望から預かった巻物を草薙に届けることは忘れてはいなかったが、とりあえず今はこちらが優先だ。なにせ相手は千年以上生きているという気の長いジジイだから、数日くらい遅れても文句は言わないだろう。
 ちなみに巻物は、俺の上着のポケットに入っている。地上では霊体しかない俺にどうしてポケットが存在するのかと疑う向きもあるかもしれないが、存在するのだから仕方がない。そのへんの仕組みは、詳しいヤツにでも聞いてくれ。
 この直後、また新しい事件に巻き込まれて、それどころじゃなくなることを、このときの俺はまだ知らなかった。

 南原署で、愛海は午前中いっぱい、デスクワークをこなしていた。
 この時期、つまり4月ごろは、高見リカコと同勇会の事件は何も進展がなく、俺たちは手の出しようがなかった。
 電波を使ってひとりで偵察に行きたくとも、太公望から『愛海といっしょに行動しろ』と釘をさされてしまっている。
 俺は退屈なのを我慢しながら、刑事課の部屋の中をふわふわと漂っていた。
 ドアを開けて、ひとりの女性警察官が入ってきた。愛海の同期、少年課の石崎由香利だ。
「わー。相変わらず汚い字だね」
 愛海が格闘している書類をのぞきこみ、実に適確なコメントをよこす。
「何か用なの、こっちは忙しいんだから」
「実はちょっと、頼みたいことがあるんだ。あんたの美貌を見込んで」
「あら、何かしら」
 美貌と呼ばれ、愛海はすぐにその気になって、髪をふわりと梳いた。
「垢抜けたスタイル、さすがミュージカルに一度は選ばれただけのことはあるわあ」
「ほほほ、そんな本当のことを」
「そこで頼みがあるの。一日だけでいいから、ちょっと協力してほしいんだ」
「ふうん、何?」
 少年課では今、薬物乱用防止キャンペーンを展開している。四月ということもあり、署員が所轄内の高校に出向いて、新入生対象の一日教室を開くことになったのだという。
「そこで愛海にアシスタントとしてついて来てほしいわけよ。こんな美人がアシなら、若い男の子たちだって目の色変えて、話に食いつくと思うんだ」
「まあ、それはあんまり自信ないけど」
「またまたご謙遜を。加賀美係長には話を通しておくからさ。来週の水曜、よろしくね」
 由香利は、バチンと愛海とハイタッチを決めて、行ってしまった。
 俺が天井からずっと見ていると、刑事課の扉を出たあと、「イエイ」と小さくガッツポーズをした。
「あーやれやれ、助かった。これで行かなくてすむ」
 愛海はいい気になってるが、これはかなり厄介な仕事を押し付けられたという気がするぞ。
 そんなこととも知らずに愛海は、ご機嫌だった。「高校か。なつかしいな」などと鼻歌まじりで浮かれている。
 ふと、デスクの上に由香利が置いていった計画書が目に留まった。
 来週の水曜日。K高校体育館とある。
 冗談じゃねえ。これは俺が行ってた高校じゃないか。

「え、ついてきてくれないの?」
「このところ忙しくて寝不足だ。フー公と留守番してるから、おまえだけで行ってこい」
「幽霊が寝不足になるわけないでしょ」
 ちぇっ。一般の夫が使う言い訳は、俺の場合ちっとも通用しない。
「あ、そうだ。狐に巻物を届ける用事があった」
 これじゃ、ますます嘘っぽい。
「本当は、行くのがいやなんでしょ」
 愛海は、間近でじっと俺の顔を覗き込んだ。もう少しで俺の体が透けて通り抜けるほどに。
「だって、K高校って淳平の母校だし」
「なんで知ってるんだ?」
「私を誰だと思ってるの。水主淳平殺害事件の専従捜査員だよ」
 すごいな。俺の人生のルートは全部、愛海に把握されてる。
「これって、淳平の高校時代を知る絶好のチャンスだよ」
「無理だろ」
 俺が都立K高校を中退したのは、十七年前だ。
 ほとんどの教師は異動したり退職したりしている。当時の俺のことを知っているヤツなどいないはずだ。
「でも名簿とか、昔の記録が見つかるかもしれないじゃん」
 愛海は、しつこく食い下がる。
「容疑者はみんなシロだし、捜査はすっかり行き詰まってる。捜査方針を根本から見直す時に来てるの」
 拳を固めて、力説する。「だから、淳平の昔の人間関係とか、どんな小さな手がかりでもいいから調べておきたいの」
「それはわかるが――」
「じゃあ、いっしょに来て協力して」
 気乗りがしない。K高校には、俺の人生が一夜にして日なたから暗闇に転落した頃の記憶が詰まっている。

 だが、愛海の頼みを断れるわけもなく、俺はしぶしぶ都立K高校に同行した。
 校門の桜はすっかり散って、玄関まで続くなだらかな坂の両脇では、生垣のツツジが早くもつぼみを開きかけている。
 校舎を振り仰いだ一瞬、あれから十七年経ったことも、自分が死んだことも忘れそうになった。
「ばかばかしい」
 と呟き、俺は空に舞い上がった。
 上空から学校全体を眺めると、やはり歳月の流れを感じた。テニスコートの奥にあった俺たちが「旧館」と呼んでいた古い校舎はなくなり、壁のクリーム色が新しい別の校舎が建っていた。
 もう、ここには俺の存在を示すものは何ひとつないはずだ。なにしろ中途退学、卒業アルバムにさえ顔写真は載っていない。
 たとえ当時の教師が見つかったとしても、殺人犯の息子のことなど思い出したくもないだろう。
「淳平ってば、どこ?」
 愛海が呼んでいる。来賓用の玄関から入ろうとして、ぞくっとした。
 生臭い風が吹きつけてくるような、おぞましさを感じたのだ。

 南原署からは、愛海のほかに二人の警察官が来ていた。少年課の菱坂課長と、キャンペーン担当の男性警官だ。普段は私服の愛海も、今日はびしっと制服で決めている。
 なにしろ相手はやんちゃ盛りの高校生たち。せめて制服で威圧感を与えておかないと、舐めてかかられる。
 まず校長室に通され、お茶でもてなされた後、いよいよ全校生徒が待っているという体育館へ向かう。
「あ、ちょっと」
 課長は、事務員を呼び止めた。「どこか着替える場所はありますかな」
「はい。隣の小応接室が空いておりますが」
「それじゃ、小潟刑事、よろしく頼みますよ」
 菱坂課長は、「はい」とデカい紙袋を愛海に手渡した。
「これ何ですか」
「おや、石崎くんから聞いてませんか。アシスタント用のぬいぐるみですよ」
「ぬ、ぬいぐるみーっ?」
 袋の中から出てきたのは、少年課マスコットのウサ美ちゃんの頭と手足。幼児が不審者から身を守るための、防犯教育とかで使われるヤツだ。
 石崎由香利があれほどイヤがっていた理由が、やっとわかったぜ。
 まったく幼稚園ならいざ知らず、高校でぬいぐるみを使うか。国家公務員のお偉方の考えることはイマイチ理解できない。
 愛海が舞台に現われたとき、高校生たちが一気に脱力した。
 菱坂課長の要領を得ない挨拶のあと、薬物乱用防止教室が始まった。
「みなさんはこのところ、タレントやスポーツ選手が薬物所持で逮捕されたり、有名大生が密売容疑で退学になったというニュースをよく聞きませんか」
 という導入のあと、講師が熱弁をふるった。
 シンナーや大麻、MDMAといった薬物の副作用の恐ろしさを、これでもかと強調する。その内容に合わせて、ホワイトボードに図入りの教材を次々と貼り付けていくのが、愛海の仕事だ。
 さすがに、教材は良くできている。これを聞いて、俺もあらためてヤクにだけは手を出さないと誓ったぞ。あいにく幽霊なので、手を出したくとも出せないが。
 ただ、高校生たちは欠伸をしたり、こっそりメールをやりとりしたり、せっかくの為になる話を聞いているヤツはほとんどいない。
 ぬいぐるみ相手に真面目に聞く学生がいたら、お目にかかりたいくらいだ。
 一時間近い教室が終わり、舞台から引っ込んだ愛海は汗だくで、へとへとになって座り込んだ。
「由香利のやつ、ちゃんと説明してくれないんだから」
 愛海はぶつぶつ言いながら、ぬいぐるみを脱いだ。
「ああん、メイクも汗でめちゃくちゃ。『美貌を見込んで』なんてうまいこと言って。ちっとも顔なんか見えなかったじゃない」
 ふとパウダーをはたく手を止めて、俺を見た。
「もしかして、私ってダマされた?」
 うーん。ひとりで、そこまで気づいたのはえらいぞ。
 校長室に戻ると、菱坂課長たちはのんびりお茶を飲んでいた。
「お、着替え終わりましたね。じゃあ、そろそろ署に戻りましょうか」
「あのう、そのことですが」
「ああ、そうでした。小潟くんは別件の殺人事件について調べていくんでしたね」
「はい、事務長さんに前もって電話で話を通してあります」
「じゃあ、僕たちはお先に失礼しますね」
 玄関から課長たちを見送ると、愛海は「よしっ」とガッツポーズをした。
「苦労した甲斐があった。高校時代の淳平について、思う存分調べてやる」
「そんなに張り切るな。ほどほどでいいぞ」
 なんとも居心地が悪い。
 スーツと人生経験で完全武装する前の、あんな青臭い時代の自分の姿をさらけ出されるなんて。ましてそれを、一番好きな女に見られるなんて。
 男にとっては最大の恥辱だ。
 事務室に入ると、事務長らしき男がぺこぺこ挨拶した。
 今までは面会を申し込んでも、なかなか色よい返事をくれなかったK高も、今回は重い腰を上げたと見える。
「お申し込みの資料は、そちらのほうに」
 愛海は間仕切りの向こうのソファに案内された。
 テーブルの上に用意されていたのは、黒い書類綴じにはさまれた、黄ばんだ書類の山だった。
 17年前の資料というのは、意外に残っているもんなんだな。
「こちらが、水主淳平が在籍していた年度の学籍簿と成績評価記録です」
 ソファに腰を落ち着けると、愛海は手袋をはめ、積んである書類を丁寧に開いていった。
 そばから覗き込むこともできたが、到底そんな気にはなれない。俺は奇妙にみじめな気持で、部屋の隅に浮いていた。
「案外、優秀だったんだ」
 彼女は驚いた声を出した。「一年の一学期も、二学期も……ふうん、クラスで五番には入ってる」
 と言いながら、俺のほうをチラリと見る。
「所属クラブはサッカー。委員会活動は体育委員。無遅刻無欠席。まじめで、明るい性格。ねえ、すごいじゃない。意外だったなあ」
「うるせえ」
 明らかに面白がっていやがる。
「あ、あの。警察の方と無線でもなさってるのですか」
 事務長は、いつでも逃げ出せるように、衝立のうしろから薄気味悪げに見ている。
「いえ、ただのひとりごとですから。気になさらないでください」
「はあ」
 次の学籍簿を開いたとき、愛海の表情が急に曇った。





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