インビジブル・ラブ


雑踏


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Chapter 8-4



 三年半前のあの日、俺は千葉県の黒田の店で酒を飲んで、帰り際に近所の焼き鳥屋に誘われた。
「店員がとっても可愛い娘さんなの。もうすぐ辞めちゃうって小耳にはさんだから、お別れを言っておこうと思って」
 辞める理由が、俺の関心を引いた。
 親戚の遺産を継いだので、東京に引っ越すのだという。それを聞いたとたん、俺の詐欺師としての勘がひらめいた。
 俺は即座に、焼き鳥屋に行くのを断った。カモになるかもしれない女との最初の出会いの場面を、誰かに目撃されるわけにいかない。
 黒田から三十万を巻きあげたその足で、俺はこの土地を離れた。そして、その焼き鳥屋の店員の身辺を徹底的に調べ上げ、数千万の相続遺産を狙って、何食わぬ顔をして彼女に近づいた。
 それが、俺が死ぬ前に最後に騙した女、佐田亜希子だったのだ。
 つまり、俺は偶然にも、黒田の話から次のターゲットを見つけたことになる。
 なぜ、そんなことを忘れていたのだろう。確かに俺は、死ぬ前の数日のことは完全に忘れているが、これは死ぬ9ヶ月も前の話だ。
 それとも、俺は何かまだ――とてつもなく大切なことを忘れているのか。
「水主さん」
 黒田がびっくりしたように叫んだ。「顔色が真っ青よ」
「バカやろ。幽霊はみんな蒼いと相場が決まっているもんだ」
 憎まれ口を叩きながら、俺自身も自分の霊体が小刻みに震えているのに気づいていた。
 何かを思い出しそうなんだ。俺を殺した犯人につながる重大な記憶を。だが、一方では心のどこかで俺は思い出すことを拒否している。
「佐田亜希子さんが」
「そう。黒田の店の近所の焼き鳥屋に勤めてたんだ」
 俺はその夜、愛海に今日わかったことを順序だてて話した。
「だから、俺は黒田のうわさ話から、亜希子に狙いをつけたんだと思う」
「うん、確かに、亜希子さんが千葉県の飲食店で働いていたことは、調書に書いてあるね」
 愛海は、昔の手帳を引っ張り出してきて確認している。「でも、それが黒田さんの店の近くだってことは、誰も気づかなかったなあ」
 それから、愛海はけげんそうに顔を上げた。「それで、不思議なことって?」
「俺は、そのあたりの記憶をまったく失っているんだ。いくら考えても思い出せねえ」
「え?」
「でも、そのあと数か月間の記憶は、ちゃんと残ってるんだ」
 愛海はますます、訳がわからないという表情になった。
「それって、どういうこと」
「俺は殺されたときの状況につながる記憶だけを、自分で無意識に封印しちまったらしい」
「つまり、それを思い出せれば、殺した犯人がわかるかもしれないの?」
 と言いながら、愛海はテーブルの台布巾を鷲づかみにして、ぎゅうぎゅうと絞った。
 もし俺が生身だったら、興奮した愛海に、こうやって首根っこを絞られていたのかもしれない。幽霊でよかったと、しみじみ思った。
「その可能性はある」
 突然、愛海はキッと空中をにらんだ。
「ユカリさん。佐田亜希子さんについて、いったい淳平とどんな話をしたの。一言一句、正確に思いだして!」
「そ、そんなこと言ったって、もう三年以上前のことなのよ。一言一句なんて無理よ」
「……と言ってる」
「無理じゃない、死ぬ気でやるのよ!」
「もう死んでるってば……」
 黒田はこのとき、しみじみと愛海の恐ろしさを味わっただろう。
 だが、いったん口を開くと、よどみなく話し始める。長年の水商売で鍛えた話術は今も健在だった。
「アキちゃんという子は、本当に苦労したのよ。小さい頃に母親が離婚して、その母親も中学のとき病気で亡くなってね」
 大きな顔の中に埋もれた小さな目を悲しそうにうるませた黒田は、体は男だが、持って生まれた母性をにじませていた。
「はじめの頃は、母親のお姉さん、つまり東京の伯母さんが、まめに通って面倒を見てくれてたんだけど、その伯母さんのご主人も不慮の事故で他界して、会社の経営とかで、それどころじゃなくなって。アキちゃんは高校を卒業してからも、いじめとかセクハラとかに会って勤めを転々としてたの。でも最後に拾ってくれた焼き鳥屋の店主夫婦がいい人でね」
 霊体なのに、くしゅんと鼻を鳴らす音がした。「あたし、一杯飲みながら、アキちゃんの辛い身の上話を聞かされて、泣いたものよ。でも神さまは、ちゃんと人生の帳尻を合わせてくださる。伯母さんが亡くなったとき、アキちゃんに遺産をすべて譲るって遺言を残したの。くわしくは知らないけど、子どもがいなかったのね。殺されたご主人が手広く商売をしてた人で、その遺産が不動産や何やかや合わせたら、けっこうな額になってね」
「ちょっと待った」
 俺は、黒田の話をさえぎった。「殺された? さっきは不慮の事故と言っただろう」
「あら、そうだったかしら。居酒屋でちょっとしたケンカに巻き込まれて、刺されたらしいのよ」
 そのときの俺の気持ちを、うまく言い表す言葉がない。
 あえて言うならば、ぽっかりと地面に穴が開き、時間が逆流を始めたような、そんな心地。
「どうしたの、水主さん」
 同じ霊体の黒田は、俺の異変に真っ先に気づいた。「爆発寸前の火山みたい。いったい何をそんなに怒ってるの?」
「その殺された伯父の名前はわかるか」
「み、名字だけは知ってる。確か『宇佐美』」
 やっぱりそうだ。間違いない。
「宇佐美昌造は、俺の親父が殺した相手だ」
「ええっ」
「本当に殺したわけじゃねえ。ぬれぎぬだ。居酒屋でちょっと肩が触れ合って、口論になったことは事実だ。その数時間後に、宇佐美は死体で発見され、親父が容疑者として逮捕されたんだ」
「そんなこと……」
 愛海は、がたがたと震え始めた。
「そんな初歩的な見落としをしてただなんて。淳平のお父さんと、佐田亜希子さんの伯父さんとそんなつながりがあることを、捜査の段階で見逃すなんて、そんなこと、あるはずない」
「わざと見逃したんじゃねえか」
 俺は、氷のように冷え切った声を出した。
 俺は今でも、親父の無実を疑ったことはない。南原署の連中は親父を誤認逮捕したあげく、留置場での自殺をゆるしてしまった。殺人の罪は親父がひっかぶったまま。真犯人は今でものうのうと、この世にのさばっているのだ。
「そうか」
 俺はついに、真実に突き当たった。
「俺は、佐田亜希子に金のために近づいたんじゃない。宇佐美昌造を殺した真犯人の手がかりをさぐろうとしたんだ」
「待って。それじゃあ」
 ショックを受けている愛海の代わりに、黒田が叫んだ。
「水主さんを殺したのは、もしかして、その真犯人なのかもしれないわ!」
「わたし、行ってくる!」
 やにわに、愛海が立ち上がった。「佐田亜希子さんの捜査資料を、もう一回調べる」
 もう、語尾はドアを開けるガチャリという音にかき消されていた。
 愛海も不思議でたまらないのだろう。なぜ、こんな重要な事実が今まで見落とされていたのか。
 事件の捜査本部が置かれたとき、当日俺と待ち合わせをしていた亜希子は、真っ先に事情聴取を受けたはずだ。身辺調査も徹底的にされたはず。
 それならば、亜希子の伯父が宇佐美昌造であり、俺と深い因縁があることは、すぐに調べがつくじゃないか。偶然と片付けるには、あまりにも話ができすぎている。
「愛海、亜希子に会ったことはあるのか」
「ううん」
 悄然と、愛海は首を振った。
「私が専従捜査員になる前に、取り調べは終わってたの。彼女には完璧なアリバイがある、傷口の角度から言っても、彼女が殺人犯であることは、ありえないって言われた。だから、そうなのかなと」
「たとえどうであれ、もう少し周辺を調べようと思わなかったのか」
「ごめんなさい……、そこまで考えてなかった。私が、本当にバカだった」
「水主さん、あんまり愛海ちゃんをいじめないでよ。可哀そうよ」
 南原署に向かうタクシーの中で、俺たち三人はそんな会話を交わした。もう携帯に打ち込むなんて、まどろっこしいことはしてられねえ。タクシーの運転手は、殺人犯だ傷口だなどと呟いている愛海が、さぞ不気味に見えただろう。
「運転手さん、いくら?」
「いっ、いいえ! お代はけっこうです。どうぞお仕事がんばってください」
 涙目になった運ちゃんは、ドアに手をかけて、いつでも逃げ出せるようにしてやがる。
 俺は真っ黒にそびえたつ建物を睨みあげた。
 愛海がバカだった?
 そうじゃない。新人の愛海に何がわかる。バカなのは、捜査本部全員だ。
 相方の木下警部補も、直属の上司の加賀美係長も、いったい何を考えていた。なぜそんな簡単な調べをミスりやがった。
 夜の十時ともなると、人影はまばらだ。おまけに、このところ特に大きな事件は起きていない。
 南原署の廊下は、しんとしずまりかえっていた。二階奥の資料倉庫に向かう。
 切れかけた蛍光灯の点滅する明かりの下で、愛海は扉をノックした。
 薄暗い部屋の机に、ひとりの男が座っていた。
「赤塚さん」
 60がらみの痩せた貧相な男だ。捜査資料の副管理責任者というご大層な肩書き。
 来年の三月で定年だと言ってたな。ということは、木下警部補と同期だ。
「水主淳平の事件の資料を見せてほしいんです。佐田亜希子さんの調書の部分を」
「小潟くん。きみ、水主事件の専従捜査員をはずれたんだろう」
 ねばっこい声で、答える。「なぜ、そんなものを見る必要があるんだね?」
「え、ええ。木下警部補といろいろ雑談してて、もう一度洗い直したかったなという話になって」
「嘘をつくな。そんなはずないだろう」
 愛海は、びくりと肩をすくめる。
「とにかく、許可なく部外者に資料閲覧は禁止だ。見たいなら、加賀美係長のハンコをもらってこい」
「は――はい」
「まあいいさ。俺と黒田で、こっそり調べといてやるよ」
 俺が励ますと、愛海は黙ってうなずき、資料室を出て行こうとした。
 扉が開いた瞬間、廊下の蛍光灯がチカチカとまたたいた。
「ああっ!」
 黒田が、悲痛な叫び声をあげた。
「どうした、黒田」
「いや、いやあっ」
 愛海はまったく気づかずに、廊下をずんずん歩いていく。黒田の声は、愛海には聞こえないのだ。
 俺は霊指の力で黒田を引っ張り、南原署の窓を突き抜けて、夜空へと飛び出した。
「落ち着け。いったいどうしたんだ?」
 両手で顔を覆って、ぶるぶる震えている黒田の霊体を抱えて、俺は驚愕した。
 こいつ、消えかかっている。
 取るべき行動は、ひとつしかなかった。
 俺は、奴の巨体を抱えたまま、太公望のいる『はざまの世界』へとワープした。

「太公望。いないのか」
 光のもやが渦巻く世界で必死で呼び続けると、池に釣り糸を垂れている太公望の姿が、すぐ目の前に、こつ然と現われた。
 いつものことだが、この世界は、空間というものの定義がなっちゃいない。
「黒田の霊体が急に消え始めたんだ、見てやってくれ」
「やれやれ」
 太公望は、とんとんと腰を叩きながら立ち上がった。
「だから、言うただろうに。淳平。こいつは、本物の死人なのじゃ。霊力がないまま現世には長くおれんと」
「そうじゃねえ。南原署の中でいきなり叫び始めて、こうなったんだ。それまでは平気だった」
「お?」
 太公望は、黒田の顔をのぞきこむと、笑顔を消した。
「おぬし、死んだときの記憶を取り戻したのじゃな」
「なんだと?」
 黒田は歯を食いしばり、まるで寺院の風神雷神みたいな恐ろしい形相をしていた。
「黒田。どうした。なにがあったんだ」
「ほ、ほくろ……」
「え?」
「さっき、警察の、そ、倉庫にいた警察官……小鼻のほくろでわかったのよ!」
 小鼻のほくろ。
 思い出した。黒田のところに、ピンボケ写真を持って俺のことを尋ねにきた暴力団風の男三人。そのひとりが小鼻にほくろがあったと、こいつが言っていたのを。
「あいつが、三年前に来たやつと同一人物なんだな」
「……それだけじゃないわ」
 うめくように、黒田は答えた。「あたしが殺されたときも、あいつがいたわ」
「なんだと?」
 警察官が? れっきとした南原署の現役の警察官が、黒田を殺した?
「うそだろ……」
「うそじゃない、うそじゃないってば」
 黒田は泣きわめいた。
「いきなり包丁を突き立てられたとき、あいつ、そばで黙って見てたのよ。何が起きたのかわからなかった。痛かった。恐かった。恐かったのよう!」
「赤塚が刺したんじゃないんだな。刺したのは誰だ。思い出せ!」
「淳平。やめんか」
 太公望は、俺と黒田を引き離すように間に立った。
「これ以上は、無理じゃ。こやつの霊が壊れてしまう」
 俺は、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
 太公望は、黒田の口に薬桃をいくつも押し込み、俺にも一個くれた。けど、口に運ぶ気力もなかった。
 どういうことなんだ。それじゃ、俺の殺しにも、あの資料係の赤塚が一枚噛んでるというのか。
 いったいなぜだ。俺を殺して、奴にいったい何の得がある。生きているときは面識もなかったんだぞ。
 ……なかったはずだ。ちくしょう。肝心なところの記憶がなくなっている。
 一度にいろんなことが起き過ぎて、考えがまとまらねえ。
「淳平」
 混乱している俺に、太公望が諭すように語りかけた。
「黒田を今すぐ、天界に送るぞ」
「待ってくれ。まだ何も解決しちゃいねえ。今ようやく、黒田を殺した一味のひとりがわかったっていうのに」
「淳平。やめんか」
 太公望の声は、常になくきびしかった。「黒田自身は、犯人逮捕など望んではおらぬ。それはおまえが押しつけた願望じゃ」
「水主さん。ごめんなさい」
 桃の薬効のおかげか、それとも決断したからか、黒田は晴れ晴れとした顔をしていた。
「あたし、もう限界。あの世に行くわ」
「黒田」
「あたし、誰も憎みたくないのよ。もしあたしを刺した犯人のことがわかったら、きっと、ものすごく憎んでしまいそう」
 黒田は、きらきらとした光に包まれ始めた。「さよなら。あたし行くわ」
「ああ」
 ようやくのことで、俺は答えた。それが一番いいのは、わかっていた。
 だけど、俺はうれしかったんだ。同じ幽霊の仲間ができて、いっしょに犯人捜しを手伝うと言ってくれて。
 毎日がほんとうに楽しかった。
「あたし、なんちゃってクリスチャンなのよ。もし神さまが冗談好きなおかたなら、天国に召してもらえるかしら」
「ああ、おまえなら大丈夫さ」
「ありがとう。じゃあ先に行ってるわね」
「あっちでは、ちゃんと女のからだをもらえよ」
「うん、本物の巨乳になって、びっくりさせてやるから」
「楽しみにしてるぜ」
「愛海ちゃんによろしく伝えて。淳平さん。さようなら」
 こまかい光の屑がぱあっと空中に飛び散ったかと思うと、黒田の霊体はもう消えていた。
 ああ。きれいだ。あんなふうに行けるのなら、死ぬのも悪くない気がしてきた。
 もっとも、俺みたいな罪深い人間が、あいつと同じ天国に行けるわけはないが。

「あら、おかえり。淳平、ユカリさん」
 愛海はあっけらかんとした笑顔で言った。俺たちが今まで、資料室にいると思い込んでいたらしい。
「黒田は、もういないよ」
「え?」
「あの世にいっちまった」
 愛海は、黒田がいつも浮いていたあたりに、視線をさまよわせる。「ほんと……なの」
 俺はあわてて視線をそむけた。愛海が涙を浮かべるのを見るのは、余計につらい。
「霊体が弱り切っていたんだ。現世にいるだけで、相当な霊力を使うからな」
「そう」
「天国に行けるって喜んでたぞ。あいつは底抜けの善人だから、きっとVIP待遇だ」
「ねえ、淳平」
 やっぱり、予想どおり、愛海の目のあたりは大洪水だった。
「淳平もいつか、こんなふうに突然いなくなっちゃうの?」
「バカだな。俺はそんなヤワな作りはしてない」
 霊指の力で、ぎゅっと抱き寄せる。
「俺は、どこにも行かない。毎晩おまえの肌の手入れをして、一晩中おまえの顔を眺めて、言いよる虫どもはかたっぱしから蹴散らす。それが幽霊・水主淳平さまの天国だ」
「うん」
「おまえこそ、生身の男を好きになるんじゃねえぞ」
「だいじょうぶだよ」
 俺たちは、何度も何度も、唇を重ねた。
 そこがどこだか気づいたのは、しばらくしてからだ。
 深夜のコンビニ店内。愛海は夜食を買いに来ていたのだ。
 店員や客たちが、珍獣を見るような目つきで、遠巻きに愛海を見ている。

 愛海は迷ったあげく、新発売の『はんぺん入り中華まん』を買った。どこからが具で、どこからが外側か、わからないところがミソなのだそうだ。
 かじりながら、夜道を行く。
「だから、佐田亜希子の調書は、結局調べるひまがなかった」
「うん」
「それよりか、もっと重大な事実がわかった」
「え、なあに」
「黒田殺しの現場に、資料課の赤塚巡査部長がいたそうだ」
 愛海は驚きのあまり、口からぶっと白い破片を吐きだした。なるほど、これじゃ確かに、はんぺんか中華まんか区別がつかない。
「ま、まさかあ。冗談も……」
「黒田が、殺されたときの記憶を取り戻したんだ。三年前、俺のことを調べにやってきた三人の中にも、赤塚がいたそうだ」
「まさか。そんなはずない。絶対にありえないよ!」
 愛海は引きつった声をあげた。
「だって、赤塚さんは、警察官なんだよ!」
「サツだって、同じ人間だ。悪事の肩棒をかつぐヤツだっていても不思議じゃねえ」
「うそよ。そんな……そんな」
 愛海はうわごとのように呟きながら、ふらふらと俺によりかかった。相当なショックなのだろう。
 俺だって、そうだ。警察を一生の敵だと思っていた俺でさえ、現役の警察官が殺人の共犯だったなんて信じたくはない。
「主犯は別にいる。もしかすると赤塚は脅されて一味に加わっただけかもしれない」
「いったい、どうすればいいの」
「とにかく、今から佐田亜希子の調書を調べてみる。おまえは家に帰ってろ」
 俺は深夜の南原署に舞い戻った。赤塚の姿は、すでになかった。
 一晩かかって、無人の資料室を丹念に調べ上げ、そして驚くべきことがわかった。
 佐田亜希子の調書がない。

「調書がないなんて、そんなバカな」
「いや、よく考えれば、不思議じゃない」
 俺は、早朝になって愛海の部屋に戻り、コーヒーを入れてやりながら報告した。
 愛海は、今日は久しぶりの非番の日だ。
「赤塚は、資料管理を一手に握っている。もし奴が、俺の殺しにも関係してるなら、何か自分にとってヤバいことが書いてある調書は、こっそり抜き取ってしまったに違いない」
「あ、そうか」
 愛海はうわの空で、淹れたての熱いコーヒーを口に運ぼうとする。猫舌のくせに何を考えている。俺はあわてて冷気を送って、瞬間冷却してやった。
 長い練習のすえ、ようやく会得したワザだ。幽霊たるもの、冷気のひとつくらい起こせなきゃな。夏になったら、アイスを買うときも保冷剤いらずだ。
「淳平。今から、佐田亜希子さんに会いに行こうよ」
「……本気か」
「うん、今日は非番だし、淳平だって一度は会って、あやまりたかったんじゃないの?」
「そうだな」
 俺は、親父の事件の真相をさぐるために亜希子に近づき、彼女の体や心をもてあそんだのだ。動機はどうあれ、亜希子をだましたことには違いない。
 そればかりじゃない。行きがけの駄賃とばかりに、200万もの金までせびり取ろうとした。
 俺という男は、そこまで腐りきっていたんだな。
 そうだ。俺は亜希子に会わなきゃならない。
 俺が詐欺を働いた被害者の最後のひとり。これで俺は、愛海の助けを得ながら、全部の女(+オカマひとり)に謝罪したことになる。
 長い二年間だった。
 きれいさっぱり罪滅ぼしができたなんて、思ってねえ。あやまればあやまるほど、俺は女たちにどれほど辛い思いをさせていたか、自分の罪を思い知るばかりだった。
 愛海がそばにいたからだ。愛海が、女たちの代わりに怒ったり泣いたりしてくれたから、俺はようやく自分のしたことの意味がわかった。
 だまして金をせびり、挙句の果てにゴミのように捨てた相手が、もし愛海だったら。想像しただけで、自分の身がちぎれそうになる。
 俺は愛海のおかげで、人の心をもてあそぶ悪魔から人間に戻れたんだ。
「行こう。淳平」
 俺たちはしっかりと手をつないで、亜希子の暮らしている町へと向かった。




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