インビジブル・ラブ


雑踏


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Chapter 8-5



 亜希子が住んでいるのは、伯母から相続した二階建ての豪邸だった。
 都内の一等地。巨額の相続税がかかったはずだが、不動産以外の有価証券なども相続していたため、家屋敷は売らずに済んだのだ。
 そういう資産内容を、俺は亜希子に近づく前に調査していた。それは同時に、亜希子の死んだ伯父、宇佐美昌造について調べることにもつながったからだ。
 宇佐美は建設会社を経営していた。社員百二十人は、かなりの中堅どころだ。
 17年前と言えば、バブルがはじけた直後。きれいごとだけで、中小の建設会社がやっていけたとは思わない。だが、それを割り引いても、宇佐美には悪いうわさが付きまとった。
 俗に言う、『叩けば埃が出る』というヤツだ。
 昔は土建屋と言えば、暴力団とのパイプがどこかにあったものだ。今はカタギの会社も多いが、宇佐美の場合はそうではなかった。
 顔写真を見ても、かなりの面構えだ。
 そんな男を、貧相な体つきのうちの親父が襲いかかり、殴り殺したなんてありえない。ちょっと考えてみれば、素人にもわかることなんだ。

 愛海が門のインタホンを鳴らすと、庭をほうきで掃いていた初老の女性が、「はいはい」と出てきた。
「南原署の小潟と申します。佐田亜希子さんにお話をうかがいたいのですが」
 しばらくすると、亜希子が出てきた。
「どうぞ、お入りください」
 外観も内部も純和風の造りだったが、通されたのは広い洋間だった。ソファがあり、ピアノがあり、フランス人形や油絵の額が飾られ、いわゆる一昔前の金持ちの洋間そのものという感じだった。
 そして、その中に住んでいる亜希子も、なんだか昔風の奥様然とした女になっていた。
 俺が会った三年前の亜希子は、ストレートの髪を束ねてジーンズを着こなす下町の女だったのに、変われば変わるものだ。
「広いおうちですねー」
 愛海は、すすめられたソファに座りながら、きょろきょろあたりを見回した。
「ここに、おひとりでお住まいですか」
「ええ、お掃除だけ、通いでお願いしてるんです。とても私ひとりじゃ無理」
「そうですよね」
 さっきの初老の家政婦が入ってきて、お茶を置いて出て行った。
「ところで」
 亜希子は、うさんくさげな目を向けた。「結局のところ、どういう御用?」
「先ほどお電話したとおり、水主淳平があなたに宛てたメールの下書きが見つかりました」
「今ごろになって?」
 パスワードでロックされたパソコンの中から探し当てたという、いつもの説明をした。
「騙したことを、本当にすまなく思ってると書き連ねてありました」
「でも私、詐欺は未遂でしたから。用意した200万円も無事でしたし」
 亜希子は、疲れきったような声で言った。
(本当に亜希子なのか?)
 別人を見ているような思いだ。
「ときどき、遺産なんか継がなければよかったと思いますわ」
 亜希子は、うつろな表情で続けた。
「ここへ越してきてから、銀行や不動産会社、押し売りまがいのセールスマンに毎日どれだけ押しかけられていることか。お金がなくて働いていた頃のほうが、よほど楽でした」
 そうか。亜希子は人間不信に陥っているのか。
 生まれつき金を持っている奴は、対処の仕方に慣れている。だが、亜希子のように、ある日突然に大金をつかんだ人間は、そういう免疫がない。
 猫なで声で親しげにすりよってくる誰もが、彼女の金が目当てで近づいていることを、この三年間でイヤというほど知ったのだろう。もちろん、俺だって同類だが。
 亜希子の目は、他人を寄せ付けない、よどんだ色をしていた。
「じゃあ、お金なんていらないと捨ててしまえればいいのでしょうけど、それもできない。つくづく自分がちっぽけな人間だと思います」
「お察しします」
 愛海は神妙に頭を下げた。「水主淳平みたいな悪人まで呼び寄せてしまったんですものね」
「水主……あの人の本名は、水主っていうんでしたね」
 亜希子は「失礼」と立って、棚からグラスとウィスキーの瓶を取ってくると、慣れた手つきで注ぎ始めた。
 ……こんな昼間から飲んでいるのか。
「まだあのときは、私も遺産を相続したばかりで有頂天でしたわ。東京で暮らせることが楽しくて楽しくて、毎日出歩いて。あの人に声をかけられたのも、デパートでのショッピングの帰りだったの」

『失礼。使い捨てのティッシュか何かをお持ちではありませんか?』

 「舗道を歩いていると、突然そう声をかけてきたのが、あの人でした。見れば、片手の人差し指を怪我して、血が垂れるのを押さえているんです」
 あの日亜希子は、駅前で広告用に配られているポケットティッシュをもらったばかりだった。俺はそれを見て、わざと自分の指を傷つけたのだ。
「私は、とっさにバッグのティッシュを差しだしました。それから、絆創膏を渡すと、『いつも持ち歩いているんですか』と感動したような声で言うんです」
 亜希子は、そこでくつくつ笑うと、酒をひとくち含んだ。
「演技だなんて、知らないじゃないですか。私はすっかりいい気分にさせられて、ワイシャツの袖口に血がついていることに気づいて、なかば無理やり近くの喫茶店に入って、お冷やの水とおしぼりを使って、シミを落としてあげました」
 そのあいだ、俺は称賛の目つきで、間近から彼女の顔を見つめ続けた。
『すごく手際がいい』
『お店に来たお客さんが、しょうゆをこぼしたときなんかも、よくこうしてあげてたんです』
 頬を染めて、亜希子は答えた。焼き鳥屋時代の話に花が咲き、気づけばあたりは薄暗くなり、俺は彼女を当然のように食事に誘った。もちろんホテルの高級レストランなんかじゃなく、気軽に入れる居酒屋だ。
 ふたりで酒を酌み交わしながら、生い立ちの話を聞き、しみじみとした調子で『苦労したんだな』と俺がつぶやくと、亜希子は目頭にタオルのハンカチを当てて泣き出した。
 二度目に誘った日の夜は、もう体の交わりに到達していた。
 愛海は、いつものように「超ムカつくー」という目で、思い切り俺を睨んでいる。
 確かに弁解の余地はない。それは自分でも承知している。
 だけど今回は、いつもとは決定的に違うことがある。
「俺は、亜希子には金の無心はしなかったんだ。一円たりとも」
「本当なの?」
「だって、亜希子には、宇佐美昌造の死の真相を探るために近づいたんだぞ。金のためじゃなかった」
 幽霊の俺と会話を交わしている愛海に、「どうなさったの?」と亜希子は怪訝な顔をした。
「え、あの、本当なんですか。水主淳平はあなたに、金は一円も要求してないって」
「ええ、一応は本当です」
 亜希子は、あっさりと認めた。
「でも、二百万円を渡そうとしたって」
「私のところに、会社の上司っていう男が訪ねてきたんです。あの人が二百万の損失を出して、それが焦げ付きそうだって」
 ――そんなことは、初耳だ。
「それで、私はすぐに二百万の都合をつけて、会いたいって連絡しました。損失が確定するっていう前日に」
 亜希子は唇を泣きそうにゆがめて、うつむいた。
「喜んでくれると思った。私はこの時のために伯父の遺産を相続したんだって、そう思えたわ。けれど、私が指定した駅前に彼はとうとう現われず、翌日、死体となって発見されたと新聞で読みました。あの人が結婚詐欺師だと知って、しばらくショックで、食べ物も喉を通らなかった」
 そして、吐き捨てるように続けた。
「あとで思ったの。あの証券会社の社員も詐欺師仲間だったんだなって」
 俺は知らない。心当たりなどない。いったいそいつは誰なんだ。
「その男は、どんな外見でしたか」
 愛海が、焦燥を抑えながら訊ねた。
「どんなって……。五十歳くらいの、背はちょっと小柄で、髪の薄い人だったかしら。目つきは妙に鋭かった」
「この人ですか」
 愛海は、南原署の慰労会で撮ったという赤塚のスナップ写真を見せた。
「こんな顔じゃない。もっと額が広かった」
「わかりました。実は」
 自分を落ち着かせるために、愛海はお茶をすすり、そして大きな息をついた。
「水主さんは実は、結婚詐欺のために、あなたに近づいたんじゃない。あなたの伯父さんを殺したと逮捕された容疑者は、水主さんのお父さんだったんです」
「ええっ」
「お父さんは取り調べで殺人を自供したすえ、留置場で自殺してしまいました。彼はお父さんの無実を信じて汚名を晴らすため、宇佐美昌造さんを殺した真犯人を探そうと、あなたに近づいたんです」
「そんな……」
 亜希子は、ぶるぶると震える両手で口を覆った。
「もしかすると、水主淳平を殺したのは、その真犯人かもしれない。あなたに会社の上司と偽って近づいたのも、その一味かもしれないんです」
「あの人は、そんなつもりで」
 亜希子は酒のグラスを倒し、テーブルに両肘をついて、ぼろぼろと涙をこぼした。
「お金のためじゃなかった。お父さんのためだったのね。真犯人を探そうと、必死だったのね」
 なんだか、ずいぶんきれいごとに聞こえる。どこかの他人の話のようだ。
 俺は、死んだ親父や法の正義のために殉死した英雄なんかじゃない。ただ、世をすね、ひねくれて悪事を重ね、ようやく死ぬ間際に真実にたどりついた大馬鹿者だ。
 そのつかみかけた真実でさえ、死んだショックで完全に忘れちまってる。
「待ってくれ。愛海」
 俺はたまりかねて、愛海に話しかけた。
「ちゃんと伝えてくれ。俺は、やっぱり亜希子をだましたんだ。二百万円を用立てるというメールをもらって、何を勘違いしてるんだろうと思って、否定しなかった。あのとき、もし俺が、『そんな金いらない』ってひとこと言っていれば」
 俺は濡れ手に粟とばかりに、待ち合わせ場所にのこのこ出かけていった。そして裏路地で殺されちまったんだ。自業自得だ。
 だが、愛海は無言で首を振った。
 そして、テーブルの下で携帯を開き、俺宛ての文字を打ち込んだ。
『黙っていようよ。だって亜希子さんは、それで救われる』
 え? どういうことだ。
 亜希子は、涙でぬれた顔を上げた。
「刑事さん、私に何かさせてください。伯父を殺した犯人と、水主さんを殺した犯人を探す手伝いをさせて」
 さっきまでの、生きる気力を失った、どんよりとした目つきではない。美しい、濁りのない眼差し。
「ふたりの無念を晴らしたいの」
「わかりました。ぜひ協力をお願いします」
 愛海は、ぎゅっと亜希子の手を握った。「では、宇佐美さんの会社のこと。交遊関係のこと。いろいろ聞かせていただくことになりますけど、いいですか?」
「もちろん!」
 愛海は、俺のほうを見て片目をつぶってみせた。
 俺には、さっぱりわからない。
 だが、亜希子の力強い微笑みを見ていると、これでよかったのかもしれないという気がしてくる。
 親の無実を晴らす正義のヒーロー、水主淳平か。俺は幽霊になっても、とことんまで詐欺師の性分にできてるんだな。

 愛海と亜希子は、いっしょに宇佐美昌造の周辺を調べ始めた。
 その前に、さんざん苦労していた別件の自転車探しは、なんと、たった一日で終わらせた。
 いくら探しても見つからないはずだ。供述とは全く違って、駅前の駐輪場どころか、近くの川の中に沈んでいたんだからな。
 殺人を犯したショックで、犯人はよほど錯乱していたのだろう。
 しかし、それを見つけた愛海の執念はすごかった。川に胸までつかって、沈んでいた自転車を探し当てたんだから。まあ、もちろん、俺が上空を飛んで、人工衛星並の精度で探査したからこその手柄だったが。
 おまけに、ひどい風邪をひいたことにして有休を取り、愛海は亜希子のもとに、せっせと通った。
 資料課の赤塚が犯人一味である以上、愛海の行動は極秘に行わなければならない。佐田亜希子に接触していることが、どこで赤塚に漏れるかわからない。調査書を隠すほどだから、何か知られてはまずい事実があるのだ。
 あれほど善人だった黒田を俺のためにむざむざ殺させてしまった、その同じ過ちは絶対にくりかえさない。
「昌造伯父さんって、暴力団と関係があったのね」
 会社の元社員を訪ねて昔話を聞いたり、伯母の日記を調べたりするうちに、亜希子は悲しい事実を知ることになった。
 宇佐美は暴力団をバックにつけ、地上げまがいのこともしていたらしい。
 両親を失った亜希子を引き取る話も出たが、亜希子の将来を考えて、宇佐美夫妻はあきらめたようだ。カタギではない家庭に入れば、亜希子自身の将来にも傷がつくと考えたのだろう。
「伯父さん、確かに恐いところもあったけど、姪の私にはやさしい人だったの」
「それが、一番大事なことだと思うよ。人は家族の前だけでは、決して嘘をつかないもの」
 すすり泣く亜希子を、愛海は慰めた。

 赤塚のほうは、俺がときどき見張ったが、何の動きもない。
 当然だろう。そうやたらに、共犯同士が接触するはずはないからな。
 俺を探していた三人組と、黒田を殺した一味。いったい赤塚のほかに誰がいたのだろう。
 暴力団? 警察官である赤塚が暴力団に協力した? ありえることだ。そもそも宇佐美昌造も、暴力団から何か恨みを買うようなことをして消された可能性が強い。
 そして、俺を刺した犯人。俺が亜希子に接触して、17年前の事件の真実があばかれるのを恐れた人物。
 考え込みながら空中に浮いている俺の真下では、愛海と亜希子がさかんにしゃべっている。
「水主淳平が、どうやって伯父さんの事件を調べてたか、心当たりはある?」
「そうね。今思い出せば、伯父さんのことはいろいろ聞かれた。それにあの人、ときどきこの家に泊まったの」
「泊まったあ?」
 ギロリと、愛海が目を光らせて俺を睨んだ。
「もしかすると、私が寝てる間に、あちこち調べてたのかもしれない。伯父が遺した会社関係の書類とか、伯母の日記とか」
「夜中に起きだしている気配があった?」
「無理よ。だって、あの人夜がものすごく激しくて、私はいつも朝まで気を失うように寝てたんだもの」
「ほおお。ものすごく激しかったんだ」
 ――愛海の視線が痛い。

「もう、アッタマ来た」
「んなこと言われたって、俺だって覚えてねえんだから」
 帰り道、怒られて尻尾を垂れたワン公みたいに、俺はしおれて後からついて飛んだ。
「私なんか、は……はげしくしてもらったことなんか、一度もないんだもん」
 消え入りそうな声で、愛海がつぶやいている。
「ごめん」
 俺は、愛海の肩をそっと抱いた。
「そのかわり、こんなに激しく愛してやってるんだぞ」
「えへ」
 愛海はすぐに機嫌を直して、歩きながら俺にしなだれかかる。
「あ、四時半」
 腕時計に目をやり、彼女は突然叫んだ。
「ただいま、淳平が殺されたと推定される時刻です。ポーン」
「やな時報だな」
「そう言えば、ここからすぐ近くだね」
 三年前に俺が殺された路地裏は、今歩いているところから数ブロックのところにあった。
「久しぶりに行ってみるか」
「季節も同じ冬だしね」
 歳末用にライトアップされた通りを抜け、俺たちは路地裏に入った。相変わらず、人けのない寂しい場所だ。
 遠くから、繁華街のジングルベルのにぎやかな音楽が、木枯らしに乗って聞こえてくる。
 愛海は、やはりいつものように事件現場の血だらけの光景を思い出して、ぶるりと震えた。
「亜希子さんは、なんでこんな場所を選んだんだろう」
「ん?」
 俺は考え込んだ。「そう言えば、亜希子は、待ち合わせに駅前を指定したと言ってなかったか?」
「でも、淳平の携帯に残っていた亜希子さんからのメールには、ちゃんと『S町の路地裏』って書いてあったはずだよ」
「なんで、待ち合わせの場所が違うんだ?」
 俺の中に、急にもやもやしたものが渦巻き始めた。
(誰かが亜希子を装って、俺にニセのメールを送った? 俺は初めから……殺されるために、犯人にここにおびき出されたのか)
 殺されるために。
 コロサレル、タメニ。

 突然、俺の霊体は、天からまっすぐに落ちてきた雷のような衝撃を受けた。
 ああ、あのときもそうだった。
 俺は、上から角材か何かが落ちてきたと錯覚したんだった。

『待て』
 男の声がする。『こいつ今、動いたぞ。生きてる』
『バカ言うな。完全に事切れてるよ』
 もうひとりの男が笑う。
『早く行こう。緊急呼び出しのとき、ふたりとも、できるだけ遠くにバラけておかなきゃな』
 ばたばたと走り出す靴音。
 待ってくれ。俺を――ひとりにしないで……くれ。
 俺は閉じていたはずのまぶたを持ち上げた。完全に力を失っていた手に力をこめ、あごを少しだけ持ち上げた。
 急速に闇におおわれていく俺の視界に、走っていく二人の男の後ろ姿が映った。
 路地を出ていくとき、後ろの奴が一瞬だけ立ち止まり、振り返るような仕草をした。わずかに見えた横顔が、網膜に写真のように焼きつく。
 見知らぬ顔だった。少なくとも、俺が死ぬまでは会ったことのない。
 でも、今ならわかる。あの横顔は――。
「あ……うわあっ」
「淳平! どうしたの、淳平」
 愛海の必死の叫びを聞きながら、俺の霊体は空気中にスペクトルのように光を放ち、夕暮れの空気の中に溶けていく。
 あの横顔は。
 いつもネチネチと愛海にイヤミを言う奴だが、ときどき不器用なやさしさを見せる。
 南原署の定年間近の刑事。
 愛海がいつもコンビを組んでいる、木下警部補だったのだ。



   第八章 終



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