BACK | TOP | HOME 番外編 (3) 「またか……」 真上の部屋では、もはや馴染みになったと言うべき火災報知機のようなアラームが鳴り響いている。これで四日目。近所から苦情の電話がかかって来るのも、もう間もなくだろう。 相変わらず、小潟愛海は起きる気配がない。 さんざん言ったおかげで玄関の鍵はきちんと閉めるようになった。つまり、密室で鳴り響く目覚まし時計を停止するには、もう本人が起きるまで待つしか手段はないということだ。 さすがに、公僕たるべき警察の独身寮が、この騒音を垂れ流すのはまずい。 きのう、なかば皮肉もこめて、彼女に最後通牒を突きつけた。 「寮長として、俺は合鍵も預かっています。もし明日の朝、十分以内に目覚ましが鳴り止まないようなら、この合鍵を行使しますよ」 彼女は、すましていれば春の女神のような可憐な顔で、にぱっと笑い、ぺこりと頭を下げた。 「はい、お願いします」 ……お願いします? お願いしますだとお? 完全に、俺の理解の範疇を超えている。もうお手上げだ。 確かに、俺たちふたりは連日、かなりきつい聞き込みに回っていた。 盛岡南署が所轄する市周辺の町々は近年ベッドタウンとして人口が急増しているところだ。新興住宅地のマンションは互いのことをよく知らず、聞き込みには苦労する。 それに加えて、丘陵地に点在する家々を一軒一軒回るのは、骨の折れる仕事だ。 ただでさえ慣れない土地での、慣れない生活。疲れがたまって、朝起きにくいのは、よくわかる。よくわかるが。 それにしたって、この音を耳元で聞いたら、棺桶の中の死人だって起き上がると思うぞ。 「もう、怒った!」 俺は、合鍵を握りしめると、銃撃戦に突入していくような心地で部屋を飛び出した。 彼女の部屋の前で、思わず周囲を見回して人目がないのを確かめる俺の姿は、挙動不審人物そのものだ。 落ち着け。決してやましいことは考えていない。寮長として当然の業務を果たしに行くだけだ。 合鍵を回し、中に入る。一昨日、東京から引越し荷物が届いた。部屋のあちこちに手付かずのダンボールが山積みになっている。この調子じゃ、一ヶ月経っても、このままの光景だろうな。 奥のふすまを開け放つと、心の準備をしていたおかげで、衝撃は最小限にとどめられた。 ふとんの上を見ないようにして、目覚まし時計のスイッチを切る。 「小潟刑事。約束の十分経ったので入ってきました。そろそろ起きてくれませ――」 振り返った瞬間、語尾が裏返った。この女はどうして毎朝、胸をはだけて寝ているんだ。襲ってくれということなのか? 心臓を静めるため、何度も深呼吸する。 だいたい寮長だからって、ここまで面倒を見る必要があるのか。遅刻しようが無断欠勤しようが、放っておけばいいじゃないか。そのうちクビになって東京に戻ってくれる。 ……などと、いくら自分に言い聞かせても無駄だった。俺の中には、「どうしても彼女を起こさねばならない」という確乎たる使命感が存在しているらしいのだ。 「いいかげんに、起きてくれ!」 声を荒げたと同時に、腹の底からマグマのようなものがせり上がり、右手が勝手に動いた。 「ぎゃやわああっ」 この世のものとは思えぬ彼女の悲鳴に、俺は呆然と尻餅をついた。 自分で自分が信じられない。いつのまにか、俺の手は彼女の乳首をひねりあげていたのだった。 「いただきます」 「……どうぞ」 「あ、水月さんは食べないんですか」 「……食欲がありません」 「しっかり食べておかないと、聞き込みの途中でバテますよ」 俺はコーヒーのマグカップを固く握りしめたまま、彼女から視線をそむけ続けた。 さすがに会わせる顔がない。仮にも警察官が同僚女性の乳首をひねり上げるとは、強制わいせつもいいとこだ。告訴でもされたら、署始まって以来の不祥事になることは間違いない。 「あの――」 ため息とともに謝罪の言葉を切り出した。「さっきのことは、その、何と言ったらいいか。すみません」 「ああ、あれ? 全然気にしてませんよ」 あっけらかんと彼女は答える。「淳平もいつも、ああやって私を起こしてくれてましたから」 「え?」 俺は涙目になったまま、顔を上げた。 「私を起こすには、あれが一番効くんだそうです」 じゃあ、俺は――水主淳平のやった通りの行動をなぞっていたということなのか。 「幽霊なのに、あなたに触れられたんですか」 「はい。淳平には『霊指』って力があったんです。その力で私の髪を梳いたり、美容パックをしてくれたり」 「び、美容パック?」 「ベッドまで運んでくれたり……それから、キスも」 と言いながら、顔を染めてうなだれた。それを見たとき、俺の中に突如として怒りが湧き上がった。理性を覆っていた鎧の最後のネジが、ぴんと音を立てて一本どこかへ飛んでいった。 「へえ、幽霊とキスなんかしてたんだ」 椅子から立ち上がると、彼女の肩を乱暴に抱き寄せる。 「……こんな感じ?」 愛海がまんまるに目を見開くのが、視界の端に見えた。 すべらかな頬を手のひらで包みながら、俺は唇を重ねた。 ふっくらと柔らかな唇だった。すぼめた薄桃色の二枚の花びらは、幾度も口づけているうちに、つややかに濡れ、いっそう色濃く染まった。 「そいつのキスは、こんなふうでしたか」 「こんなに……リアルじゃなかった……けど」 切れ切れに熱い息を漏らしながら、彼女はうわずった声で答えた。 「俺は、水主淳平じゃない!」 身体を引き離すと、憎しみに似た感情をこめて、彼女を見おろした。 「それなのに、そんなに無防備に俺のキスを受け入れるのか。あんたは、何を考えてるんだ」 大きく見開いたままの瞳は、みるみる涙の膜で覆われた。 「あなたは、淳平だと……思ってます。いえ、思いたいだけかもしれないけど。でも、一緒にいればいるほど、そう感じる。淳平といるみたいだって」 「違うと言ってるだろう!」 俺は洗面所に飛び込んで、鏡の中の自分をにらみつけ、無意味に髪の毛をかきむしった。 俺のやってることは、むちゃくちゃだ。わいせつな行為と取られてもしかたないことを、自分から仕掛けておいて、そのくせ彼女を一方的に責めるなんて。 そこまで彼女の心を捕えている水主淳平に、俺は嫉妬心を抱いている。彼の身代わりとしてしか求められていないことが、ひどく苛立たしい。 そして、ほんとうに奇妙なことなのだが、『俺とキスをする』彼女に腹を立てている自分も、どこかにいるのだ。頭がおかしくなったとしか言いようがない。 混乱した思いで身支度を整え、彼女といっしょに玄関を出ると、高橋を初めとする二、三人の寮生たちが、一列に並んでにこにこと待ち構えていた。 「おはようございます。小潟刑事」 「あ、お、おはようございます」 「安全運転で、今日も仲良く、いってらっしゃい」 ……なんという暇な奴らなんだ。人の気も知らないで。 気がつくと近所の住民まで、空き地に見物に集まっている。 その日の午前いっぱい、俺たちは余分な口はひとことも利かずに、ひたすら聞き込みに回った。 ただの結婚詐欺の指名手配なら、ここまで動くことはない。問題は、だまされた女性が、今も容疑者に無理やり連れ回されている可能性があることだった。 この事件は先月、東京でひとりの女性の捜索願が受理されたことから端を発する。 医療器メーカーに勤める三十二才の女性、小野寺美春(おのでらみはる)が、突然なんの連絡もなく数日間、会社を無断欠勤した。不審に思った上司が、彼女のマンションを訪ね、管理人立会いのもとに部屋に入ると、中は散らかっていて、あわただしく旅に出かけたらしい形跡が残されていた。 目立たず、おとなしい性格の彼女が、こんな突飛な行動に出たことに納得がいかない同僚たちは、上司に『つい最近、小野寺さんには結婚を考えている恋人がいたらしい』ことを報告する。『その恋人が多額の借金を背負っている』と悩んでいたことも。 上司は警察に彼女の捜索願を出し、部屋に残された遺留品から、ひとりの男の存在が浮かび上がった。 男の名は、橋口嵩司(はしぐちこうじ)、三十六才。他県で結婚詐欺を働いて指名手配されていることが明らかになった。 「写真や遺留品をあちこちにバラまいてるなんて、詐欺師の面汚しだな」 思わずつぶやいた俺に、愛海は「ほんと、バカですよねー」とさりげなく相槌を打ってくる。 小野寺美春は、橋口に脅されるか、そそのかされるかして、行動をともにしているのではないか。警視庁は、ふたりに似た男女が東北新幹線の盛岡行きの切符を買ったことまで突き止め、盛岡の各署に捜査共助を依頼してきた。 そして、盛岡は小野寺美春の生まれ故郷でもあった。 午前中いっぱい郊外を回った俺たちは、畑のあぜ道に車を停めて、コンビニで買ったおにぎりやパンを黙々と食べた。 午後からは、さらに山間部に足を伸ばす。 盛岡は盆地なので、夏はそれなりに暑いが、木々をわたってくる風は驚くほど涼しく、スーツを着ていても苦にならない。夜も熱帯夜になることはほとんどなく、うだるような夜の続く東京とは、えらい違いだ。――もちろん、東京に住んだことのない俺が、知るはずのないことだが。 「美春さんの実家は、この近くなんですよね」 地図と目の前の景色を照合しつつ、愛海がふうふう息を継ぎながら、坂道を上がってきた。 「ああ、別の連中が交替で張ってます」 橋口が盛岡に来た理由は、小野寺美春の財産が目当てではないか、というのが東京から来た捜査員の話だった。 彼女は父親を早くに亡くし、母親もつい先ごろ他界し、小野寺家の遺産はひとり娘の彼女のものになった。 結婚詐欺師は一体どこから情報を仕入れるのかわからないが、とにかく遺産目当てに小野寺美春に近づいたわけだ。彼女は自分がだまされていることに、まだ気づいていない可能性もある。いずれにせよ、遺産を彼に渡す前に保護しなければ、その身に危険がおよぶかもしれないのだ。 銀行、役所、郵便局など目ぼしいところには手配書を回し、彼女の実家の付近には、住民を装った捜査員が四六時中張り込んでいる。 「あ、ここには行かないんですか」 うっそうと庭木の茂る一軒の農家の前で、愛海は立ち止まった。 「そこは、必要ありません」 俺はむっつりと答える。 「どうして?」 と言いかけた彼女は、「水月」とある表札を見て「あ」と叫んだ。 「それは、俺の家ですから」 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2006-2012 BUTAPENN. |