BACK | TOP | HOME 番外編 (4) それを聞いたときの彼女のにまーっと笑った顔は、今でも忘れられない。まるで、獲物を隅に追いつめた猛獣のようだった。 「身内じゃ、聞きこみしにくいですね。代わりに私が話をうかがってきます」 「あ、待て。そんな必要は」 小野寺家の近隣であるこのあたりは、別の捜査員が真っ先に聞き込みをしている。二度目の今日は、目ぼしいところだけでいいのに、そんなことをあの女は聞いちゃいない。 「ごめんくださーい」 玄関先で叫んでから、窓が開いている縁側のほうに回る。 「あー。ぺゃっこ、待ってでけろ」 奥から返事があり、もうすぐ八十歳になる俺の祖母が手を拭きながら出てきた。 「ばっちゃん」 「ありゃ、俊。なすたのよ」 「この辺りを、同僚と聞き込みに回ってる」 祖母は、ぺこりと頭を下げる愛海を見て、小さな目を見開き、皺だらけの顔を笑みくずした。 「はあ、よくおでってくなはりあんしたんなっす。どうぞ、おあがりやんしてくなんしぇ」 「ど、どうもで、ふぃなんしぇ」 年寄りの訛りのきつい言葉を、まったくわかっていないはずなのに、不思議となごやかな会話が成立する。聞き込みに回りながら、彼女の才能に俺はひそかに驚いていた。 「ばっちゃん。俺だち、すぐ帰るがら」 「そんたに急がねで、いがべな」 「勤務中だって」 そのとき、ふすまの奥の居間から、有無を言わせぬ調子の声をかけてきたのは、祖父だった。 「俊平。いいから、あがってゆけ」 「おあげんせ」 「はい、いただきます」 祖母が運んできた冷たい麦茶を、愛海は押し頂くようにして受け取り、うまそうに喉を鳴らして飲んだ。 祖父は、隣の書斎からやってきて、俺と彼女をさぐるような目で交互に見ている。 「康彦たちから絵ハガキが来ておったぞ」 「今度は、どこに行ってる?」 「シリヤと書いてあるな」 「シリヤ?」 愛海が、隣で目を丸くしている。 俺の親父は、大学の歴史学教授で、発掘だの調査だのと、年がら年中、外国を飛び回っている。母はその助手だ。 俺は子どもの頃から、祖父母に育てられたようなものだった。そして、その祖父も、同じ大学の名誉教授。 「すごーい。学者さん一家だ。みんな頭いいんですね」 「その血統は、俺で切れましたけど」 「えー。26で警部補になれたんだから、十分頭いいくせに」 俺と彼女の会話を聞いて、祖母が「じゃじゃじゃ」と驚いたように言った。 「俊、めんごい恋人さこしゃれて、いがったなあ」 「だから、この人は同僚だって言ってるだろ!」 愛海はただ、ころころと笑っている。なんだか調子が狂う。本当に、家族に恋人を紹介しに来たような気分になってくる。 「それはそうと」 楽しそうな祖母とは対照的に、祖父は眉をひそめて言った。「美春ちゃんは見つかったのか」 俺は首を振った。「目撃情報はまだない」 愛海は、「あ」と大きな声を上げた。「そう言えば、警部補と美春さんはご近所の幼なじみになるんですよね」 答えが返せなかった。 捜査資料を読んだときに気づいていた。小野寺美春と俺は近所の出身で、互いに見知っていたはずだと。だが、俺にはその記憶がない。 そのことだけではない。あの事故以来、俺はほとんどの記憶が、すっぽりと抜け落ちたままだ。今持っている記憶は、目覚めてからの数ヶ月のあいだに、人の話とアルバムの写真とで作り上げたものに過ぎない――誰にも、それと悟らせないほど巧妙に。 だとしたら今の俺は、水月俊平ではないのだろうか。からっぽの部屋に、名を偽って堂々と間借りしている存在なのだろうか。 「美春さんは俺と十歳近く離れてるし、ほとんど接点はなかったから」 うまく言いつくろうと、愛海は「ああ、そうですよね」と納得した。 「あの、じゃあ、おふたりにうかがってよろしいでしょうか」 と、彼女は祖父に向き直った。 「小野寺美春さんは、小さいころは、どんなお子さんだったでしょう。引っ込み思案なタイプでしたか?」 祖父は、祖母と顔を見合わせ、それから「うーむ」と考え込んだ。 「いや、どちらかと言えば勝気で、きっぱりと物を言う性格だったと思います」 「でも、東京の勤務先では、めったに自分からはしゃべらない、おとなしい人で通っていたみたいなんですよ」 愛海は首をかしげた。「どうして、性格が正反対に変わったのかなあ」 祖父は着ている作務衣の袖に手を入れ、腕組みをした。普段むっつりとしゃべらない人が、これほど積極的に話に乗ってくるのは、珍しい。 「おそらく、そうなったのは、父親が失踪してからです」 「父親が失踪?」 俺にとっても、初耳の話だ。 「もう、二十年以上前のことになりますか。美春ちゃんが中学生のとき、父親の小野寺和久が行方不明になり、七年後に失踪宣告を受けたのです」 不倫して家を出て行ったのだと当時は噂になったが、真相はわからずじまいだったという。人格者とは程遠い男で、細君はいつも夫の浮気や暴力に悩まされていたらしい。 家がそういう事情で荒れていたとすれば、元気だった娘が暗い性格になっても不思議はない。 だが、少しひっかかる。 「なぜ、そんな質問をするんですか」 俺は小潟刑事に訊ねた。 「だって、なんだか変だなと思ったんです」 彼女は、はきはきと答えた。「物静かな人のはずなのに、結婚を考えてる人がいるとか、その人の借金で悩んでいるとか会社の同僚に話すなんて。普通は、結婚詐欺師はまず『絶対に人に話すな』と口止めするものなのに、それにしては、ずいぶん口が軽いですよね。無断欠勤したことと言い、美春さんは、元々はかなり激情的な人なんじゃないでしょうか」 俺は、ぽかんと口を開けた。 これが、あの毎朝、ひどい醜態をさらしている同じ女だとは思えない。 「結婚詐欺にひっかかる女性の心理については、うんと研究しましたから」 愛海は誇らしげに胸を張って、そう言った。 「ふ……はは」 めったに相好を崩さない祖父が、上機嫌で笑い出した。 「賢いお嬢さんだ。俊平、これは完璧に尻に敷かれそうだな」 「だーかーら!」 反論はあきらめる。祖父がわざと俺をからかっているのが、丸わかりだ。 祖母は、そのあいだ、せっせと台所で果物や野菜をかごに詰めていた。 「沙知が、三陸の干物をいっぺえ送ってくれたであ。寮のみなさんに持てでけろな」 沙知は俺の姉で、五年前に嫁ぎ、今は釜石で暮らしている。 「まだこれから、あちこち回るから、今は無理だ」 「あとで、俺が車で届けてやるはんで」 と祖父が言った。「寮の様子も見たいしな」 「そう言えば、水月警部補のお祖父さまは、『水月ハイツ』のオーナーでもいらっしゃるんですよね」 祖父母の家を辞したあと、歩きながら愛海は思い出したように言った。 「ええ、もう二十年ほど前に盛岡南署の独身寮として借り上げられたんです」 当時の寮生の中に、巡査になったばかりの西島課長がいて、よく俺は遊びに行って可愛がられた。 大きくなったら警官になる――それは、子どもの俺にとっては、ごく自然な選択だった。もっとも、そういうこともすべて、今の俺は忘れてしまっているのだが。 「すっごくバカな感想なんですけど」 愛海は、すんと鼻をすすって、初夏の青空を見上げた。 「この一週間、見ていてわかりました。警部補には、家族がいらして、友人がいらして、ちゃんと27年の人生で積み上げたものがあるんだなって」 俺たちは、坂道の途中で足を止めて、互いの顔を見た。 「いきなり変な女がしゃしゃり出てきて『あなたは水主淳平の生まれ変わりです。私はあなたの恋人です』っていくら言ったって、困るだけなんだなって」 愛海は、ぺこりと頭を下げた。「迷惑をおかけしました。ごめんなさい」 「いえ、あやまるのは、こっちのほうです」 俺も顔を伏せ、低い一本調子の声で答えた。 「たとえ、俺があなたの言うように水主淳平だとしても、それは認められない。認めちゃいけない。そうでないと、俺の家族は自分の息子や孫を、見ず知らずの他人に乗っ取られて、なくすことになるんです。……俺はそんなふうに、あの人たちを悲しませたくない」 「それでいいんだと思います。淳平は、不幸な事件に巻き込まれて、家族を全部失って、ひとりぼっちになってしまった人だから、あなたが家族に囲まれて幸せなのを見て、なんだかうれしい」 愛海は、震える唇に、無理やり笑みを浮かべている。 俺はどう答えていいかわからず、彼女に背を向けて車の鍵を開けた。 ドアを開くと、無線が点滅しているのに気づいた。 「はい、水月です」 応答した俺に、南署の指令担当が意外なことばを告げた。 「愛海……小潟刑事!」 俺は運転席にすべりこむと、彼女に怒鳴った。「早く乗れ。小野寺美春が見つかったそうだ!」 俺たちが南署に戻ると、廊下を歩いてくる美春に偶然出くわした。 「あ、俊平くん?」 「……お久しぶりです」 やはり、彼女は俺のことを覚えていたようだった。こちらは何も思い出せないのが情けない。そのまま、彼女は別室に連れて行かれ、そこで東京から来た捜査員によって事情聴取を受けた。その様子は、あとでくわしく伝えられた。 「彼とは大げんかして、別れたんです」 と、彼女は言ったそうだ。「何がなんだかわからないままに家から連れ出され、盛岡に着いてからもホテルを転々として、金のことばかり言うんです。さすがに怖くなって、警察に行くとおどかしたら、あわてて逃げてしまいました」 「行き先については、何か言っていましたか」 「いいえ」 すぐに駅や空港、他県に向かう主な幹線道路に広域配備が敷かれた。少なくとも人質の生命が無事だったわけで、あわただしい中にも、署内にほっとした雰囲気が漂った。 だが、どうもすっきりしない。 仮にも橋口は、結婚詐欺のプロだ。カモを無理やり連れ回したり、あからさまに金を要求したりするだろうか。明らかに変だ。 (まだ、何か隠された事実がある) 俺の記憶のどこかにある結婚詐欺師としての経験――そうとしか呼べないものが、警鐘を鳴らしていた。 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2006-2012 BUTAPENN. |