インビジブル・ラブ


岩手山と北上川岩手山と北上川 / lllnorikolll-300ER



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番外編 (5)



 橋口嵩司の行方は杳として知れなかったが、ようやく盛岡南署にも落ち着いた日々が戻り始めた。
 小潟愛海が着任してから、定時に帰れるのは今夜が初めてだ。
「あ、あの」
 車の助手席から身を乗り出して、彼女は信号の向こうに見えてきた煌々と明るいコンビニを指差した。
「あそこに、ちょっと寄ってもらえますか」
 俺は、無言の信号待ちの後、ハンドルを右に切った。「ダメです」
「え?」
「どうせまた、コンビニ弁当で夕食をすますつもりでしょう。365日それで、身体が持つと思ってるんですか」
「あ、あの」
「今夜は俺がおごります。とりあえずの慰労会ということで」
 男子寮のすぐ近くにある小料理屋は、古くからのなじみの店。歴代の独身警官たちの栄養補給所であり、憩いの場所だ。五十歳そこそこの女将は、この店の二代目になる。
「まあ、俊ちゃん。久しぶり」
 そして、続いてのれんをくぐった愛海を見て、「いらっしゃいませ」と目じりの皺を深くする。
 まだ時間が早いせいか、ほかに客はいない。
「お酒は?」
「車なんで」
 と言うと、大きなグラスになみなみとウーロン茶を注いで、カウンターに置いた。この美人が、あの西島課長の奥方だというのは、盛岡の七不思議のひとつだ。
「何になさる?」
 愛海はぶんぶんと首を振って俺を見るので、代わりに答えた。
「じゃあ、赤なまこ。このところ肌荒れがひどいらしいから、うんとコラーゲンが摂れるように」
 彼女は「えっ」と叫んで目を丸くした。『何でわかるの』と顔に書いてある。
「俊ちゃんはどうする」
「ホヤはありますか」
「あるわよ。入ったばかり」
「じゃあ、それで」
 カウンターには、赤なまこの酢の物と、ホヤのオレンジ色の刺身がキュウリを添えて出された。
「おいしい!」
「俺、これが獲りたくて、三陸の海にもぐるようになったんです」
 ホヤを酢醤油につけて口に運びながら、俺たちはポツポツと会話を交わした。
「見た目はすごくグロテスクだけど、この世にこんな美味いもんはないと思う」
「私も、魚とかワカメとか、海のものが大好き。名前のせいもあるんだけど、海のない埼玉に育って、余計にあこがれるのかなあ」
「俺もそうだな。盛岡は海がないから」
「もう潜らないんですか」
「たぶん無理でしょう」
 あんな事故を起こして、たくさんの人に迷惑をかけてしまった以上、もう海には潜れない。
 ダイビング事故のことだけは、うっすらと記憶があった。身体が覚えていることだからか。それとも、これも後から作り上げた記憶なのか。
「やっぱり、お似合いね。あなたたちは」
 女将は、天ぷらを俺たちの前に並べながら、妙に愉しげだった。
「亭主が言ってたとおり。今度東京から来る人は、俊ちゃんの運命の人だって」
 もう少しで、飲んでいたウーロン茶が気管に入るところだった。
「課長が?」
「人事交流の書類が来て、女子寮の空き部屋がないと話してたら、俊ちゃんが、なんじょしても男子寮に入ってもらうと言い張ったって」
「うそだ……」
 覚えてない。俺はそんなこと言ってないぞ。
「亭主は喜んでたよ。退院後しばらく魂が抜けてたみたいだった俊ちゃんが、そのときを境に急に元気になったって」
 女将は、冗談とはほど遠い真剣な顔になった。
「愛海さん、俊ちゃんをよろしくお願いね」
「あ……はは。私はよくても、水月さんはどうかな」
 笑ってごまかしながら、愛海は困ったように俺に視線を向ける。
 俺たちは、食事を終えて小料理屋を出ると、黙りこくったまま車で寮に戻った。
 空き地にバックで車を入れて、エンジンを切る。とたんに虫の音が、雑草の茂みから染み出すように聞こえてきた。
 助手席の彼女も、降りようとはしない。
「小潟刑……愛海……さん」
 脳内では、さんざん『愛海』と呼び捨てにしているくせに、口にするのは死ぬほど苦労した。
「俺はやっぱり水主淳平には、なれないです。だから、もし彼の面影を求められてるんだったら、正直言ってすごく困る」
「……はい」
「けど、もし、あなたがそれでいいって言うのなら、俺が今のまま、水月俊平のままでいいって言うんなら」
 ぐっとハンドルの上で拳をにぎりしめる。「最初からやり直してみませんか」
 彼女は何も答えずに、細い首をきゅっとすくめて、うなだれた。そのうなじが夜に溶け出しそうなほど白い。
 やがて、彼女は顔を上げてフロントグラスの外に目をやった。
「水月さんさえよければ――私は、やり直したいです」
「でも、もっと探せば、本当の水主淳平の生まれ変わりに会えるかもしれない」
「だいじょうぶ」
 愛海は前を見つめたまま、ささやくように言った。「間違いありませんから」
 俺はコンソール越しに身を乗り出し、彼女の肩を引き寄せ、うなじに唇を押し当てた。
「ひゃん」
 小さい悲鳴を上げて背を反らした拍子に体勢を崩し、すっぽりと俺の腕の中に収まる。
「愛海」
 うなじが彼女の弱点であることは、とっくにわかっていた。
 先がつんと上を向いた鼻も、大きな瞳も、ふっくらと柔らかいピンクの唇も。目をつぶっていても指でなぞれるほどだ。わずか二十日前に初めて会ったばかりなのに、俺はずっと昔から彼女を知っていた。
 ふたつの違う図形がぴったり合わさるような奇妙な既視感に、身体がますます熱く高揚する。俺は彼女の名前をもう一度ささやくと、重なろうとした。
「ぶみゃーっ」
 突然、間近で哀れっぽい鳴き声が聞こえて、あわてて身体を離す。見るとフロントガラスに愛海の飼い猫がべったりとへばりついて、俺たちに何ごとか訴えている。
「フー公」
「あーそうか、晩ご飯がまだだったね」
 愛海はけたけたと笑いながら車から降りて、ネコ缶を取りに部屋に走っていった。残された俺はため息をついて、デブ猫をつまみあげた。
「おまえはいっつも、いいところで邪魔する野郎だな」
 三毛猫は「フヒッ」と愛想笑いのような音を立てると、俺にすり寄って来た。このごわごわの毛皮の感触も、なぜかなつかしい。
 ダンボールで作った猫小屋にエサと水を用意しながら、愛海は「あ、そうだ」と言った。「そう言えば、トイレ用の砂を買ってこなきゃ」
 トイレ用の砂箱や防水シートなどの条件を満たさなければ、猫を寮の部屋で飼うことはできないと言い渡してあったのだ。
「今から買いに行くか」
「今から?」
「駅北のホームセンターなら、9時まで開いてる」
「うん――行く」
 俺たちは笑みを交わし合った。仕事で一日じゅう行動をともにしているくせに、まだ一緒にいられるのがうれしくてたまらない。
 きっと朝まで、俺は愛海から離れられないだろう。

 ホームセンターの中は、客と店員を含めてそこそこの人数がいたが、それでも土日や昼間に比べれば、やはり静かだった。
 愛海はまっすぐにペット用品売り場に行き、トイレ用砂を二袋、それに缶詰を何個かカートに入れた。新発売のキャットフードだそうで、フォンドボー味とカレー味と書いてある。果たしてこんなもの、ネコが食べるんだろうか。
 待っているあいだ、通路から通路へとぶらぶら覗きながら歩いていると、目の前をひとりの男が横切った。
 思わず大声を上げそうになるのを、すんでで堪えた。
 対象者が立ち止まったのを確認すると、愛海のところへ戻り、彼女の腕をつかんだ。
「橋口が店内にいる」
「ええっ」
 小野寺美春を連れ回して、略取容疑で指名手配を受けている結婚詐欺師。とっくに県外へ逃げ出したかと思ったが、まだ盛岡市内にひそんでいたとは。
 俺と愛海はショッピングしているふりをして、商品の陰からそっと橋口をうかがった。
 ヤツがカートに入れているのは、大型のシャベル、ブルーシートといった類のものだ。
 いったい何をしようとしてるんだ?
 レジに向かう橋口の後を、俺たちも何食わぬ顔をしてついていく。私服に着替えておいてよかった。スーツ姿の男女では尾行に目立ちすぎる。
 彼が会計を終えると、俺たちは商品を乗せたカートを店内に放り出して、駐車場に出た。
 橋口は、ハッチバックの車に買ったものを積んでから、運転席に乗り込んだ。連れはいない。
 俺たちもゆっくりと車を発進させた。
 橋口のミニバンは市街地の中心を抜けると、北上川に沿って旧釜石街道を南下し、やがて山道を登り始めた。
「あ、これって」
 助手席の愛海が見覚えのある風景を見つけて、小さくつぶやいた。今たどっているのは数日前通った道だ。俺の家と、小野寺美春の家がある高台へと通じている。
 予想どおり、橋口嵩司は小野寺家の前で車を停めた。
 いったい、どういうことだ? やつは何故ここに来る必要がある?
 小野寺美春は、ここにはいない。事情聴取のあいだはビジネスホテルに泊まり、今はそれも終わって、東京に帰ってしまった。
 橋口は車から降り、購入したばかりのシャベルを腕に抱えて、庭に入り込んでいく。美春が無事に保護されたので、付近の張り込みは三日前に解除されていた。
(もしかすると) 俺の脳裏にひとつの仮説がひらめいた。
 もしや美春はまだ橋口の言いなりなのではないか。家の張り込みをやめさせるために、わざと警察に出頭した。一方、橋口は県外に逃げ出したふりをして、ひそかに舞い戻ってきた。
 ――この家の中にある何かを、シャベルを使って掘り出すために。
「署に応援を頼んでくれ」
 俺は小声で、愛海に車で待機するように命じた。
「淳――水月さんは?」
「裏に回って、橋口を見張る」
 愛海は「うん」とうなずいた。「気をつけて」
 長いあいだ人が住んでいない家は、雨戸がぴたりと閉じられ、庭も垣根も雑草でぼうぼうだった。俺は垣根の破れから中にもぐりこむと、橋口の気配をさぐった。
 頭上の月が煌々と庭を照らし出す。腕のあたりに、ぞわりと不快な感覚が走った。
 向こうの茂みに何かが動いている。橋口ではなかった。人間ではなく、動物でもない何か。
 蒼く、月の光に透けてしまう何か。
『美春……』
 うめくように、つぶやいている声まで聞こえる。
 俺の全身が総毛だった。そこにいるのは、女だった。
 女の――幽霊だったのだ。






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