BACK | TOP | HOME 番外編 (6) 俺は、長い間屈んでいたせいで、しびれて感覚のない足を引きずるようにして、幽霊に近づいた。幽霊は庭の茂みにうずくまったまま、動かない。 「あんたは……」 『美春、ゆるして。ゆるして。母さんがバカだった』 「美春のお母さん?」 そのとき、「誰だ」という悲鳴に近い男の声が響いた。しまった。橋口に感づかれた。 俺はとっさに走り出し、ヤツに飛びつこうとした。 橋口は恐怖のあまり、手に持っていたシャベルをやみくもに振り回した。特大の凶器は俺の頭をかすめ、それを避けようと体勢を屈めた。だが、その拍子にシャベルの柄が頭にまともに当たるとは、運が悪かったとか言いようがない。 橋口がシャベルを捨てて走り去るのが、目の端に見える。俺は何とか起き上がろうと試みた。 腐った落ち葉の匂いに包まれながら、土の冷たさと柔らかさをとおして、誰かの思いが伝わってくる。 悲痛な叫び。 『ああ、美春。父さんと母さんが、あんたの人生をめちゃめちゃにしてしまった。ごめんね、ごめんね』 俺はそれきり、意識を手放した。 「ばかもん、なぜ、応援が来るまで待てない。ひとりで突出しおって」 病院を経由して盛岡南署に戻った俺は、西島課長のデスクの前に立たされたまま、こってり絞られた。 一応、頭に包帯は巻いているが、そうひどい怪我ではない。課長の怒鳴り声のほうが、よっぽどダメージがでかかった。 「結局、橋口が何を掘り出そうとしたのか、わからずじまいじゃないか」 「それなら、わかっています」 俺は、淡々とした声で答えた。「小野寺美春の父親の死体です」 さほど広くもない刑事課の部屋にいた全員が、私語をやめて俺たちを見ていた。そのうちの三割は俺の隣の愛海を見ていたと思う。彼女は、これ以上開いたら顎がはずれるというほど、ぽかんと大口を開けていた。 「美春の父親の小野寺和久は、二十年前に家族から失踪届が出ています。けれど、実際は殺されて、あの家の敷地内に埋められている」 「こ――殺したのは?」 「美春の母親です」 「どうして、それがわかった」 「母親の幽霊が教えてくれました」 俺と西島課長はしばらく、ひたと互いをにらみ合った。大きなため息とともに、課長が椅子に崩れこんだ。 「もう一度、病院に戻って、CT検査を受けなおして来い」 「頭は正常です」 バンと音を立てて、両手を課長のデスクについた。「お願いします。庭の茂みの下を掘る許可をください」 「証拠がない」 「証拠なら、あるでしょう。ホームセンターで橋口が買ったシャベル。ヤツが美春の家で、何かを掘り出そうとしていたことは明白だ」 「そんな夢まぼろしのような根拠のない話に、今は人員を割くわけにはいかん。逃げた橋口を捜すほうが先決だ!」 そう言われては、反論もできない。俺の落ち度で、容疑者を取り逃がしたことは事実だった。 「わかりました。橋口を捜してきます」 椅子にかけてあった上着をひっつかみ、大股で部屋を飛び出す。愛海も、あわてて後についてきた。 「待って……淳平」 俺を呼ぶ名前が違っていることに、俺も彼女も全然気づいていなかった。 愛海が助手席に乗り込むや否や、車を発進させた。急な加速のためにぺたりと座席の背に張りつきながら、彼女は器用にシートベルトを身体に回した。「ねえ、わかるように説明して」 「美春の父親は二十年前に母親によって殺されて、埋められたんだ」 「幽霊が、そう言ったの?」 「ひたすら美春にあやまっていた。『つらい思いをさせた』と。おそらく、そのとき中学生だった美春は、父親の死の真相を感づいていたと思う。だが、誰にも言えなかった。娘として、母親を訴えることなど絶対にできなかったはずだ」 「……そうだね」 「だが、その母親も四年前に死んでしまった。小野寺家の家と土地は、ひとり娘の美春が相続した」 「地面の下の死体とともに?」 「ところが、相続税を払うために、家を売らなければならなくなった。幸い、あのあたりは再開発が盛んなところで、マンションの建設計画もちらほらある。だが、死体を始末しなければ、家を人手に渡すわけにはいかない」 「美春さん、つらかっただろうね」 「困り果てていたんだろうな。たまたま、遺産が確実に入ることがわかって美春に近づいた橋口に、そのことを打ち明けた」 「ちょっと待って。じゃあ美春さんのほうから、死体を掘り出してほしいって持ちかけたってこと?」 「そうなるな」 「『私の財産がほしいなら、私の言うとおりにして』」 愛海は少し高飛車な口調で、美春の声色をまねた。思い込みの激しいこいつは、昔から女優みたいに他人の気持ちになりきることが得意だ。 「橋口は喜んでその話に乗った。そして、ふたりで盛岡に来た」 「待って、変だよ」 愛海が異議を唱える。「そしたら美春さんは、どうして部屋を荒らしたまま無断欠勤したり、会社の同僚に結婚詐欺をにおわせるようなことをしたの?」 「いくら美春が気の強い性格だとしても、相手は犯罪者だ。多少の身の危険は感じただろう。そこで、自分が殺されたり脅迫されたりしないように、さりげなく手がかりを残した。いわば、保険をかけておいたんだ」 いざとなれば、いつでも警察の保護を求められる状態にしておくために。美春はかなり慎重に行動している。 「けれど、予想を超えて、警察が動き出すのが早かった。橋口が別件で指名手配中だということを知らなかったんだろう」 「死体を掘り出そうと実家に近づいたら、もうすでに警察が見張っていた。あわてて美春さんは橋口と別れ、自分だけ出頭したんだね」 盛岡駅前のビジネスホテル街で車を停めた。 数日前まで美春が滞在していたホテルも、このあたりだ。 東京にいったん戻った美春だが、今はまた盛岡に帰って来ているという確信が俺にはあった。そして、死体の始末を失敗した橋口は、今夜必ず接触をはかる。 「美春が泊まりそうなところを、片っ端から当たっていく」 愛海は、うんとうなずいた。「警察の目を警戒してるだろうから、ホテルじゃないかもしれないよ」 ネットカフェ、カラオケボックス、まんが喫茶――ホテル代わりに使えそうな場所は、そんなところか。 聞き込みを始めて四時間、五軒目のカラオケボックスで、それらしいカップルが入ったことを突き止めた。 俺たちは署に連絡し、応援を頼んだ。密室の中に、結婚詐欺師とその被害者がふたりでいる。ことは慎重に運ばねばならない。 「あの、すみません」 明け方、愛海は従業員のふりをしてトレイに飲み物を載せ、ボックスのドアをノックした。 「何ですか?」 美春が扉を薄く開けて答えた。 「あの、お飲み物をお持ちしました」 「頼んでないわよ」 「えと、これは、うちの店からの全員サービスです。岩手産りんご風味のクリーム麦茶です」 「何それ」 つい興味を引かれてしまったらしい美春は、大きくドアを開けた。その瞬間、愛海の横で待機していた俺はすばやく隙間をすり抜けて、部屋に飛び込んだ。 橋口は野獣のようなうめき声を上げて、ソファから立ち上がった。 テーブルの上にあるリモコンやグラスを片っ端から投げようとしたが、、間一髪こちらが先に腕をつかんで押さえ込む。 「橋口嵩司。住居侵入および公務執行妨害の容疑で逮捕する」 床に身体を押しつけ、後ろ手にして手錠をはめると、橋口は声をあげて泣き始めた。 「俺は何もしていない。あんなことしたくなかったんだ。この女に脅されたんだ」 と情けないことを叫ぶものだから、思わず蹴っ飛ばしそうになった。まったく結婚詐欺師の名折れだ。 警官たちが橋口を連行するあいだに、愛海は、呆けたような表情の美春をソファに座らせた。 「だいじょうぶですか」 声をかけると、彼女はほつれた髪の間から俺を見て、「俊ちゃん」とつぶやき、目をぎゅっとつぶった。 「お父さんは、20年前にお母さんに殺されていたんですね」 「ごめんなさい」 「あやまらなくてもいい。あなたが悪いわけじゃない」 大きな秘密を知りながら誰にも言えずに、美春は人生の大半をずっと悩み続けてきたのだろう。家族が犯罪を犯したと知ったときの苦悩を、俺は誰よりもよく知っている。 そんなときに、橋口が現れた。闇の世界にいる人間は、同じ匂いのする人間をすぐに見分けることができる。 美春は橋口に、「死体を始末してくれたら、財産を山分けにしてあげる」と持ちかけた。「協力しなければ、あなたを警察に訴える」とも。ひとつ間違えば、自分の身が危うくなることも恐れずに。 愛情なんて陳腐な絆ではなく、同じ罪に身を染めた者同士の断ち切れない絆を、美春は一番確かなものだと感じたのだろう。 「美春さん、もしかして」 愛海も、俺と同じことを考えているらしい。「あなたはそこまでして、橋口をつなぎとめたかったんですね」 美春は「ふ」と息を漏らした。「まさか。相手は結婚詐欺師なのよ」 「結婚詐欺師だろうと、筋金入りの女たらしだろうと、どんな極悪人だろうと、一度好きになっちゃったら、もう止められないのが恋ですから」 身をよじって泣く美春の背中をさすりながら、愛海は俺の顔をちらりと見た。 ああ、ちくしょう。否定できねえ。 自分がその極悪人の女たらしの結婚詐欺師、水主淳平であることを、さすがの俺も、もう否定できなくなっていた。 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2006-2012 BUTAPENN. |