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ピエタ





-完結編-




カップに注いだ紅茶をテーブルの上に置いたら、ソファーで本を読んでいた威が 少し驚いた顔をしたあとに、思いっきりニヤケた。
「なに?」
あまりの不気味さに眉をしかめつつ訊くと、
「いや、新婚さんだなぁっと思って」
答えながら隣を左手でぽんぽんと叩いた。
そこに座れということだろうか。大人しく従ったら次の瞬間には視界が90度回転していた。
目の前にはくすんだ青いジーンズ地。
「・・・あのぅ・・・ダーリン?」
「なんですか、ハニー」
「これは一体なんなのでしょう」
「俗に言う膝枕ですが?」
「だからなんで膝枕なんかやってるの?」
じたばたと暴れたがまあまあといなされて、結局出来たのは天井を見ることだけだった。
腹いせに覗き込んでくる顔から少し落ちた前髪をいじってやる。
「こらこら。ハゲるからやめなさい」
「ハゲたら捨ててやる」
「うそ」
「ホント」
「優希ちゃんひどい。俺はこんなに愛してるのに・・・」
そういうこっ恥ずかしい台詞をさらっと吐くな!!
「で、なにがあったの?」
「なにがって・・・別に、なにも」
「本当に?」
「・・・・・・」
だってこれは威にいっても仕方ないことだし・・・。
「・・・この頃描いた絵が気にくわない」
ぼそりというと、威は軽く眉を寄せた。
「スランプ?」
「んー、というのともまたちょっと違う・・・かなぁ。なんか、描けるんだけど 描いたものが気にくわないの。なんて言うんだろ、私じゃない誰かが描いたものみたいで。 昔はこんな描きかたはしなかったな、みたいな」
「そう? 俺は結構この頃の優希の絵見てると、優しくなったなって思うけど」
「優しくなった?」
「うん。昔の優希の絵って、凄い荒々しかったんだよね。最初見たときなんかこれを描いてるのが女の 人だって思わなかったし。なんかこう、見てると心臓をぐっとつかまれたような気がして、 痛くて寂しいものがあったけど、それは初めて優希に会った時に、ああ、この人が描いてる からかって納得できるものがあったんだけど。でもこの頃は優しいよ。見てて穏やかになる」
「・・・・・・」
「俺は今のほうが好きだなぁ。なんかゆとりがあって」
昔の優希は本当に切羽詰ってたからね、と威は言いながら子供にするように膝の上の頭を撫でた。
「あ、そうだ。いつか言ってた個展ってどうなったの? そろそろじゃない?」
「あ、うん。こないだ藤崎から電話があって、今月末からやるって」
「そっか。それなら俺ももう夏休み入るし、一緒に東京行こうか。ほら。新婚旅行も行ってないから その代りってわけじゃないけど、一週間くらい向こうでのんびりしよう」
そのきらきらとした威の目にこれはいやだといっても聞きそうにもないと悟り、 結局私たちは横浜に一週間滞在することになった。
それでも今更自分の絵なんか見ても、という気持ちはあったのだが、 どうしても行きたいという威の懇願に負けて一日だけという条件で (放っておくと何日でも通いつめそうな勢いだったのである)、寄ってみることにした。
そして。



「へぇ、あんたこの人の絵が好きなんだ」
藤崎に来訪を告げたあと、広くもない画廊を威の後をついて歩きながらふと 聞こえた低い話し声に、ついつい耳を立ててしまった。
威は気づかずに絵を隅々まで見ている。
「うん、そう。この人の絵ね、なんか見てると泣きたくなってくるの。 こう、心臓鷲づかみにされたみたいに痛いんだよね。切ないのかなぁ」
「確かにねぇ、迫力ある。何だろう、これを描いてる人が自分の中さらけ出してこうなりましたって感じ」
「うん、そうなの。・・・でもね、この新しいのはなんか違うんだよ」
「ん? どれ?」
「これ。去年の夏以降に発表されたやつ。なんだろう。すごく優しくなったんだけど、 それまでの描かなきゃいけないっていう気迫みないなのがなくなった気がする」
体ががたがたと震え出すのを止められなかった。
その場に立ち尽くしてしまった私を威が気がついて覗き込もうとするが、それを振り切って隣接する 藤崎の私室に駆け込んだ。
藤崎は一瞬訝しげに私を見たが、やがてすべてを悟ったようだった。



優希はそれでいいの、本当にいいの? と、威は繰り返し繰り返し訊ねた。
私はそれに答えることはせずに、ただ画材道具一式を棄てた。
もう二度と、二度と筆を持つことはないと。
威はそれを見て、なにも言わずにただそこにいた。



―――母親への負い目が、あなたの絵を描く原動力となっていました。

―――でも、母親のためではなく自分のために活きはじめたあなたにはもう、あの頃の飢餓はない。

―――もう、あなたには絵は必要ないのです。

―――それとも、いまの生活を棄て、もう一度筆を握りますか?



藤崎は、芸術とは人の苦しみの形なのだと言った。
その苦しみは孤独でも絶望でもなんでもいい。
だが、苦しみを癒された人間にはもう、人の心に食い込むようなあの激しさを産み出すことはできない。
”威”という人間の存在が、私から”苦しみ”を拭い去ったのだとしたら、 これから先私が絵を描くことはない。



そして、私にもいまなら藤崎があの絵を”初春”と名づけた理由がわかる。
あれは母が見ることがかなわなかった春の風景を描いたものだった。










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