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       GOT TO FLY



(1)

 けたたましくベルが鳴った。
 シーツの果てしない迷路を抜け出し、裸の腕がにょきっと受話器に伸びる。
『……Hello』
「なんやの、修悟! その寝ぼけた声は!!」
 電話の呼び出し音よりさらにけたたましい響きが、神経に激痛を与えながら身体を駆け巡った。
「晃(あきら)……?」
「当たりよ。まだヤクやアルコールで脳みそが破壊されとるわけやないな」
 うめきながら、丸めたシーツを抱いてベッドの上で仰向けになる。
「朝っぱらから何してさらすねん。俺はゆうべ、夜中の3時までレポートを書いとったんや」
「もう8時やから、5時間は寝とるやん」
「あほ、日本とは時差というものがあんねんで。こっちは今……あれ?」
「アメリカ西部時間で8時7分。空港の時計やから、間違いあらへん」
「空港って、まさか……」
「LAエアーポート。たった今着いたところ。迎えに来なさい、修悟。二十分以内に飛んでけえへんと、張ッ倒すで」


 ロサンゼルス空港。1階到着ロビー。ハイヒールを鳴らしながら、プロポーション抜群の美女が自動ドアをくぐって出て来た。
 屋外の車寄せでは、中古のポンコツ車から降りたばかりの修悟が、仏頂面を下げて出迎えた。
 美女はすたすたと歩いてくると、彼の前で立ち止まる。
 ふたりが見つめあったとき、恋愛映画から切り取ったワンシーンのような光景に、周りにいた世界からの旅客たちは一瞬息を呑んだ。
「あいてッ。何すんねん。迎えに来てやったのに、いきなり頭はたくことないやろが」
「20分以内に来なんだら張り倒す、言うた。32分もかかったあんたが悪い」
「俺の住んでるところからここまでは、どないしたって30分かかるんや。……やめろってば、いてっ、わかった、俺が悪かった」
「すまんですんだら、警察いらへん。さっさとあんたのアパートに案内しい」
「ホテルかなんか取ってへんのか」
「そんな金のかかるもん、もったいない」
 晃は大きなスーツケースを修悟に押し付けて、自分は車の中におさまってしまった。
 しぶしぶとトランクに荷物を押し込むと運転席に乗り込み、キーを回しながら、ちらりと助手席を見る。
 神園晃。修悟の兄・治己(はるき)の配偶者。『神園法律事務所』の2代目所長。
 スタイルの良さを強調した細身のスーツと、ワインカラーのルージュ。派手なマスカラ使いは、4年前に治己が死んでから後に覚えたものだ。
 初めて会った8年前は、ほとんどノーメイクに近かった。清楚な微笑みを浮かべ、きれいな標準語で14歳の彼に「修悟くん。これからよろしくね」と挨拶したものだ。
 女は化ける。
 ため息ひとつ、車を発進させた。
「なんやのん。そのイヤそうな「ハアーッ」は」
「二日酔いで頭が痛いんや」
「ゆうべレポート書いてたて、電話で言っとったやんか」
「酒飲みながら、レポート書いてたの」
「ほんまにそんなんで、カリフォルニアの弁護士の資格、取れるん?」
「なんとかなるやろ」
「修悟、……あんたほんまに、一生もう日本には帰ってけえへんつもり?」
 彼はそれには答えず、車線変更を口実に視線をそらした。
 フリーウェイを降りるとそのまま海沿いに。強烈な日光と海からの風を受けながら、パームやしの連なるパシフィックコーストハイウェイを南下する。
「着いたで」
 10時間の夜のフライトの疲れでうとうとし始めた晃が、はっと気づくと、車は古く黒っぽい建物の前で止まっていた。道の中央分離帯には、幹の皮が白くむけたユーカリの木が、蔓を枝からぶら下げながら鬱蒼と茂っていて、両側の街路樹と連なり青空をさえぎっていた。
「陽射しの割には、思ったより涼しいんやな」
 車から降り立つと、晃は身震いした。
「海岸のあたりは一年中こんな風が吹いとる。日が落ちると、あっというまに寒くなるで」
 かなり年代物の煉瓦造りの4階建てのアパート。無骨な黒いスチーム管がツタの陰に隠れている。外付けの階段を上がると、2階が修悟の部屋だった。
 ドアをくぐるや否や、ぽいぽいっとハイヒールを脱ぎ捨て、晃は気持ち良さそうにしなやかに脚を運びながら、朝の陽光が満ちる部屋を物色した。
「ふうん、修悟ってちょっと匂いが変わったね」
「なんや、それは」
「大人っぽい匂いになったやんか。高校生のあんたの部屋に入ったときちゅうたら、それは臭くってひどいもんやったけどな」
 きゃははと無邪気に笑う。
「さすがに英語の本がいっぱいやな。……きったない。なんやの、このくちゃくちゃのベッドは」
「おまえがいきなり叩き起こしたからやろう」
「どうでもええから、シーツもピローケースも取り替えといて。あんたがどっかの女の子と使うたシーツなんか、触りたくもない」
「あんなあ。どこに女の子と遊ぶ暇があんねん。4年間毎日大学とバイト先の往復やわい。誰かさんに、兄貴の遺産全部取られたおかげで」
「遺産は配偶者に四分の三。兄弟に四分の一。民法どおりやないの。第一いちばんの高額資産はあんたのもんにしたげたやん」
「あの家は親が死んだときから、もともと半分俺のもんや。だいたい外国にいる俺にあんなものくれたかて、何の役に立つ。毎年の固定資産税ぜんぶ俺に払わせておいてからに、自分が堂々と住んでるやろが」
「住む人がおらんと家は荒れる、言うからな。あ、植木屋さんの請求書持ってきたよって、早いとこ払ってや」
「あー、おまえとしゃべっとると、疲れる」
 修悟はぐったりと木の窓枠に頭をもたせかけた。
「で、いったい何なんや。LAまで来た用事は」
「ん?」
「休暇に来たわけやないんやろ。またしょうもない弁護を引き受けたんか」
「まあね」
 少しはにかんだように笑って、ベッドの上に子どもみたいに膝をくっつけてぺたりと座った。
 ふとした瞬間に、晃の正体が見える。
 どんなに化粧を濃くしても、弁護士のバッジを燦然と襟元に輝かせていても、少女のように無防備な素顔が修悟には見えてしまう。
「詳しくは言われへんけど、私の弁護する刑事事件の被疑者の無実を証明する証人が、このロサンゼルス近郊に住んどるらしいんや。 その証人さえ見つかれば、絶対不利と言われてる裁判はひっくり返せる。警察は自分らの初動捜査ミスを認めとうなくて、なんぼしても動いてくれへん」
「手がかりはあるのか?」
「ロスのリトルトーキョーで不動産業を営んでる日系4世。名前もわかる。見つけるの、いっしょに手伝ってくれへん?」
「いやや」
「何でやの」
「今卒業前のレポートやら試験やらいちばん忙しいときやで。それが終わったらすぐ、ロースクールのサマープログラムが始まるんや。おまえの手伝いに振り回されてたまるもんか」
「ケチッ」
「おまえみたいな、関西人が白旗揚げるほどの超ドケチ女にだけは、言われとうはないわ」
「ふん、もうええわ。あんたの助けは頼まん。そのかわりここの部屋、4、5日使わせてもらうで」
 ひとつの部屋で寝起きしろというのか。あさはかにも、心臓が止まりそうになった。
 もちろん、この女がそんなことを言うはずもなく。
「あんたは適当に、友だちのところにでもころがりこんどき」
「あほか。なんで、俺が追い出されなあかんねん!」


 サマータイムに入った5月のカリフォルニアは、夜の8時過ぎまで明るい。
 修悟は晃を助手席に乗せて、ハリウッド北の公園の山道をうねうねと登っていた。目指すは風光明媚で有名なグリフィス天文台。
 駐車場からは、山の中腹に有名な「HOLLYWOOD」の白い看板が夕日を浴びてオレンジ色に染まっているのが望める。
 天文台の下は博物館になっていた。
 玄関ホールは階下まで吹き抜け。巨大な振り子がゆっくりと永遠の時を刻む往復運動をしているのを上から見下ろすことができる。
「フーコーの振り子ってこれのことやね」
 晃が頬杖をついて覗き込んだ。
「少しずつ位置を変えながら、24時間で一周する。それで地球の自転運動を証明するってわけか」
 ひととおり中の展示を見てから屋上に上がると、夕日に映えるロサンゼルス市街が一望にできる。
「きれいやねえ」
「ああ。LAは、さっき食事したサンタモニカと、ここの景色さえ見とけば、観光終了や。ディズニーランドは東京にもあるし、ユニヴァーサル・スタジオは来年大阪にできる言うしな。……もう満足したやろ?」
「修悟?」
「晃。おまえ、明日日本へ帰れ」
「なんでやのん!」
「弁護士には、弁護士の領分ってもんがあるんや。与えられた資料を使って弁護するのが、弁護士の務め。それ以上踏み込む必要はあらへん」
 まぶしい景色を見やりながら、修悟はうざったげに続ける。
「長生きしたいならな。俺の言おうとしてること、わかっとるやろ」
「けど、そんなやり方は、『神園法律事務所』やあらへん」
 晃は、こわばった小さな声でつぶやいた。
「それやったら、あんたのお兄さんから受け継いだものを、また私が壊してしまうことになるんや」
「晃……おまえまだそんなことを」
「迷惑、かけたね。修悟」
 晃は風にもつれた髪を押さえながら、素早くいつもの余裕のある笑みを取り戻していた。
「悪いけど、部屋に置いてる荷物取りに帰って、近くのホテルまで送ってくれへん?」
「あのな。ホテルに払う金があったら、今晩の食事代くらい払うてくれ」
 修悟はため息をつく。
「ほんまに、まいるな、この女は……」
 やっと忘れかけたと思ったときに来くさりやがって。
 結局俺は4年経っても、何も変わってないのか。
 あのフーコーの振り子のように回っているだけ。同じ気持ちをぐるぐると。
「まあ、すぐ家に帰るのは賛成。日が落ちて寒うなってきたし、明日の朝は7時過ぎには出発するからな。ここのフリーウェイは8時過ぎるとめちゃ混むんや」
「え?」
「リトルトーキョーに行くんやろ。通訳兼ボディガード時給5ドルで、手ぇ打ったるわ」
 照れてつぶやく修悟の横顔に、晃は陽射しが柔らかく射し入るような微笑をうかべる。
「高い。時給4ドルにまけへん?」




  (2)に続く




「YOU MADE MY DAY」の続編です。続編といっても、神園修悟と越木江梨がニューヨークで出会う2年前のエピソードです。


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