GOT TO FLY
(1)に戻る (2) 「こら、起きろ」 スリーピングバッグにもぐって床に寝ていた修悟を、シーム入りのストッキングの爪先がつんつん突付く。 スーツ姿で化粧もばっちり決めた晃が、彼を見下ろして高飛車に笑った。 「幸せそうな寝顔して、女の子とヤってる夢でも見とったんか。ほら、さっさと行くで」 修悟は起き上がって、しばし髪をかきむしった。 てめえこそ俺のベッドで、相変わらず無防備な姿さらけだしやがって。夜中にシャワールームに飛び込む羽目になったんは誰のせいや。 彼のアパートのあるサウスベイからリトルトーキョーまでは、インターステート110別名ハーバーフリーウェイをたどる。 片道7車線、カラフルな車が競い合う、コンクリート製の現代の戦車競技場。 「そこの車、すごーい。屋根もボンネットもない。エンジンむき出しの、スケルトンみたい」 時速70マイルで流れる車窓の外の景色を見て、晃が子どものような歓声をあげた。 「こっちは、車検がないからな。ま、この車も200ドルで買うたから、人のことは言えんけど。いつ分解してもおかしくないな」 「あんたと、こないなところで心中なんてごめんやで」 「こっちこそ」 と言いながら修悟はふだんよりずっと、晃の命を乗せるハンドルを重く感じている。 東行きのUS101に乗り換え、ダウンタウンで降りると終点。 日本風のやぐらや二宮金次郎の石像、手書きの日本語看板。高層ビルのビジネス街のすぐかたわらで不思議な和風情緒をかもしだすリトルトーキョーは、週末以外は静かな街だ。 ショッピングモールの駐車場にいったん車を止め、日系人専用の電話帳を繰る。 そこで得た住所を頼りに、東1番通りのことさら古ぼけたビルを捜し当てた。巨体の黒人ガードマンが入り口でじろりと睨む。 暗い廊下のつきあたりに、「スコット・アリモト不動産」というプレートを掲げたドアがあった。 内部は質素だがそれなりに機能的な事務所で、三人ほどが働いていた。ひとりのやはり日系らしい女性が応対に出てくる。 晃がうなずいてみせると、修悟が口火を切った。晃の名刺を差し出しながら、 『こちらは、日本の大阪から来た神園晃弁護士ですが、アリモトさんはいらっしゃいませんか』 少しのやりとりのあと、彼は晃に振り向いた。 「通訳しようか?」 「ええって。これくらいの会話はわかる。要するに、アリモト氏はここの事務所にはめったに出てけえへんって言うんやろ」 「簡単に事情を説明したけど、連絡先は教えるなと言われているらしい」 「ちっ。用心しとるみたいやな」 「もう少しねばってみる」 修悟は、カウンター越しに身を乗り出すようにして、その女事務員になにやら熱心に話し始めた。 顔と顔がふれあうほど近づくと、彼女の表情がうっとりとゆるみ、上気したようになった。 ほどなく奥の電話から戻ってきた彼女は一枚のメモを修悟に手渡した。 「ボスに連絡を取ってくれた。今、自宅におるから、会うてもええて……。 なんや、ローリングヒルズやったら、俺のアパートのすぐ近くやないか。往復30マイル無駄なガソリン使うたな」 「修悟、あんた……」 廊下に出ると、晃は押し殺していた笑いを解き放った。 「女の口説きがえろう、うまくなったやんか。4年間近う、アメリカで修行した成果があったな」 「誰が口説きやねん。真心と誠意をもって話しただけや」 「女性限定の真心と誠意な」 通りに出て、彼女は背の高い義弟をまぶしげに見上げた。 「あんた、ちょっと見いひんうちに、ええ男になったな」 「気づくの、8年遅いわ」 彼はあきれたように肩をすくめ、ダウンタウンのスモッグに褪せた青空を仰いだ。 「さ、スシ屋でカリフォルニアロール食って、そいつにちゃっちゃっと会いに行くで」 ロサンゼルスの南・サウスベイ地区。 自動車メーカーを中心とした日本企業がオフィスを構えるガーデナやトーレンスのさらに南に位置する丘陵地帯に、ローリングヒルズはある。 パシフィックコーストハイウェイを右に折れ、延々と坂を登ると、大木の下にゲートらしき木の小屋が見えてきた。 「ローリングヒルズは都市がまるごとひとつのセキュリティシステムの中に組み込まれとんねん。よそ者は、内部の住人の許可がないと入られへん。訪問者は全部ゲートでチェックされることになっとるんや」 「ふうん、金持ち限定の住宅地やねんな。あ、あれ、馬の標識なんかある」 「ここいらはプールやテニスコートなんて当たり前、昔からの家は全部、厩舎つきなんや」 「へえっ。さすがにアメリカは、金持ちのスケールが違うな」 「今は、香港や日本からの住民も増えてるらしいけどな」 鬱蒼と茂る街路樹の道をさらに登ると、見晴らしのよい丘の角地に、目指す瀟洒な邸宅が見えてきた。 「うええ。ネクタイくらいしめてくればよかったかな」 棺桶を横に抱えたままでも通れそうなほど広い玄関で、呼び鈴を鳴らしながら修悟がつぶやいた。 出迎えたのはスコット・アリモト本人だった。 簡単な自己紹介をして、ホールの続きのだだっ広い客間に通される。あまりの広さに、白を基調としたインテリアはかえって寒々と感じられた。 アリモト氏は、白髪交じりの口ひげをたくわえ、やや小太り。50歳にはまだなっていないだろう。ポロシャツに半ズボンというラフな服装で愛想よく受け答えするが、警戒した、ねっとりとした視線は隠せない。 「私が今日うかがったのは、東京で起こったある殺人事件の調査のためです」 日本語をまったく解さないアリモト氏に、晃のことばを修悟が英語に訳しながら、話が進む。 「アリモトさん。今年の2月、あなたは東京にいらっしゃいましたね」 『はい、確かにその頃、仕事の用事で東京に出張していました』 「2月10日の来日から14日の帰国まで、九段のパレスシティホテルに滞在なさっていた」 『はい、そういう名前のホテルでした』 「2月12日の深夜、正確にいえば13日の午前1時ごろ、あなたの宿泊なさっていた部屋の隣の部屋で、大阪在住の菊池という男性が刺殺されました」 『思い出した。そういえばそんな騒ぎがありました。ホテルの私の部屋にも次の日、刑事が聞き込みに来ましたよ』 「その刑事には何とお答えになったか覚えていらっしゃいますか?」 『もちろん、何も知りませんとお答えしました。12時に寝酒を飲んで、そのままぐっすりと朝まで寝入っていましたからね』 「一週間後、殺された菊池さんと同じ会計事務所につとめる同僚が菊池さん殺害容疑で逮捕されました。ホテルのフロント係が12時過ぎにその女性が菊池さんの部屋番号をたずねたと証言しています。私は彼女の弁護を引き受けたのです」 修悟は脚を組み替えて、晃のほうをちらりと見ると、一気によどみなく通訳した。 『ほう』 「警察はその女性が、菊池さんとの関係のもつれから殺害に及んだと断定しました。しかし彼女は、ホテルの菊池さんの部屋まで書類を届けただけで、その日は別のホテルにチェックインしたと言っています。 そして彼女の話によると、12時20分ごろ菊池さんの部屋から出て行くときに、隣の部屋のあなたと廊下ですれちがった。エレベーターに乗る彼女と、それを見送る生きている菊池さんとをあなたは見ていらっしゃるはずだと言うのです」 『そんなはずはありません。先ほど申したように私は12時には寝ていたのだし、夕食を取る以外はずっと部屋の中におりましたよ』 「ほんとうに誰とも廊下で会っていませんか? よく思い出してください」 『ほんとうです』 「実は殺された菊池さんという人は公認会計士です。クライアントである某企業内部のインサイダー取引の証拠資料を集めておられた。 その女性はその日、菊池さんからの電話で頼まれて大阪からその書類を彼のもとに届けた。とても急いでいる様子で、誰かにこれから会うようなことを言っていたらしいのです。 しかし、彼女が届けたはずの証拠資料は彼の死後、どこを捜してもなかった」 『そのようなこと、私におっしゃられてもわかりませんな』 鼻白んだ表情で、日系人はぶっきらぼうに答えた。 「もちろん、そのとおりです。ただあなたが思い出して証言してくださることで、被疑者の無実が証明されるのです」 晃は身を乗り出して、熱を帯びた瞳で訴えかけた。 「さらに、菊池さんを殺した真犯人、ことによると企業による大きな陰謀さえも、暴くことができるかもしれないのです」 『ご協力したいのはやまやまだが、私はそんな女性に廊下で会ったこともなければ、何の物音も聞いていない。残念ですが、これ以上お話をしても無駄ですな。お引取りください』 「そうですか……」 とりつくしまもない相手の態度に、晃は唇を噛んだ。 なんとしてもここで食い下がらなければ、依頼人の無罪は立証されない。 「信じて、神園さん、私は彼を殺していない。不倫の関係だったけど、心から愛していたんです」 そう訴えた彼女を信じてここまでやってきたことが、すべて無駄になるのだ。 『なぜ、廊下で会ったのが女性だとわかるのですか?』 突然義弟が、通訳ではない自分のことばで話し始めたので、晃はぎょっとした。 修悟が憂鬱そうにこめかみのあたりに手をやっているときは、いつも必ず極度に緊張している証拠であることを、長年いっしょに暮らした晃は知っている。 アリモト氏はそれを聞いて、みるみる顔色を変えた。 『何を言ってるんだね。今の話を聞けば……』 『確かに、この弁護士は何度も被疑者が女性だと説明しました。菊池さんと恋人の関係であることも。だが、俺はわざとその部分を通訳しなかった』 「修悟?」 晃は肌が粟立つのを感じて、思わず身をよじって彼の顔を見た。彼はただ鋭いまなざしで真直ぐに、正面の男を見据えている。 『「she」と言うべきところもわざと、「the person(その人)」や「the suspect(被疑者)」と性別をぼかした。英語のヘタな通訳だと思われたでしょうね。だから、あなたは、被疑者が女性であることを確信して言えるはずはなかった。あなたが帰国したのは14日、警察が彼女を逮捕したのはさらにそのあと、事件の一週間後のことですからね』 『……』 『あなたが日本語をまったく理解できないことは、事務所の事務員にも確認済みです。この弁護士の日本語の説明をあなたが理解していたとは思えない。あなたは何かの理由で、彼女に廊下で会ったのにそのことを隠しているのではないですか?』 アリモト氏は覚悟を決めたように顔を上げた。 『わかりました。すべてをお話します。……だがその前に、喉が渇いた。隣の部屋からスコッチを取ってきていいですか?』 『どうぞ』 両腕でようやく体を持ち上げると、彼は背中を見せて、のろのろと隣室に消えた。 「すごい、修悟! どうして彼が嘘をついとるて、わかったん?」 両手を広げて満面の笑顔で彼にとびつこうとする晃を、修悟は一瞬先に抱きとめて、ぐいと立たせた。 「逃げるで」 「ええっ。な、なんで?」 「いいから!」 手首をものすごい力で鷲づかみにされて、戸口のほうに突進する。何がなんだかわからない。 それまでずっと英語で通訳していたせいだろう。走りながら修悟の口をついて飛び出た叫びは、やはり英語だった。 「Got to fly!(急げ)」 なだらかな緑の芝生をころげるように駆け、車寄せに止めてあったポンコツ車に飛び込む。 キーをねじりこんでいると、鬼のような形相をしたスコット・アリモトが銃を振りかざしながら、戸口から出てきた。 「Shit !(くそっ)」 修悟はまだ英語から脳みそを切り替えられぬまま、ギアをバックに入れて、猛烈な勢いで道路に飛び出した。 そのとたん、街路樹に隠れたカーブの向こうの路上から、狂ったように一台の車が突進してきた。 あわてて、ギアをドライブに戻す。しかし背中に大きな衝撃が襲った。車の後部に激突されたのだ。 「仲間?」 車体のきしみと、晃の叫びが混じりあう。 修悟は、そのままアクセルを踏み込んだ。車は大きくバウンスし、そしてぐいと急激にカーブを切った。 「もっと安全運転しぃな! 危ないやろ」 「安全運転したほうが、もっと危ないわ!」 修悟も負けずに怒鳴る。 「あいつら……」 「アリモトの仲間やの?」 「ヤツが手引きせんかったら、誰も市内には入れんはずや」 「なんでや? あいつ、私たちを初めから殺そうと?」 それに答える暇はなかった。後ろからぴったりと、フロント部分がつぶれた奴らの車がついてくるのがバックミラーに映ったからだ。 『ローリングヒルズ』という名前の由来どおりのカーブと坂の連続。右に。左に。ハンドルを切りターンするたびに片輪が浮きそうになる。 死が隣り合わせのドライブ。内臓がすっと浮き上がり、手足が冷える。震える。 重すぎるのだ。修悟にとって彼女の生命は。 「おまえはまた晃を守れない」 悪魔がささやくのが聞こえたような気がする。 「あほんだらぁっ」 急傾斜の直線道路に入ったとき、死への招きをふりはらうように彼は雄たけびを上げ、床が抜けそうなほど渾身の力をこめて、アクセルを踏み込んだ。 車はもう一度大きくバウンスし、一瞬、眼下に広がる陽光に照らされたサウスベイの町々にダイビングしそうな錯覚を起こさせた。 「ふひぃ」 悲鳴なのかため息なのか、わからない声を晃があげる。 着地の衝撃。車は解体一歩手前で踏みとどまった。後部車輪のほうから、カラカラと異音がし始めた。 「……きが、食べたいな」 「なんやて?」 「たこやきが、食べたい!」 晃はそう言って、大声で笑い出した。 「もっぺん十三(じゅうそう)駅前の屋台のたこやき食べへんと、死んでも死なれへん」 「おまえな……」 「修悟も食べたいやろ。な、一緒に大阪帰って、たこ焼き死ぬほど食うたろ?」 虚勢をはって笑い続ける晃の声に、修悟の口にも、かすかに笑みが浮かんだ。 「ようし、俺は五舟は食うからな!」 (終)につづく |