GOT TO FLY
(2)に戻る (終) カリフォルニアの空がとっぷりと暮れる頃、修悟の車はカラカラとおもちゃのような音を立てながら道脇に止まった。 「家までたどり着けたんが、奇跡みたいや」 蝶番がなかばイカれた運転席のドアのすきまから外に出ると、修悟は帰郷した戦友の頭をなでるように、ボンネットをぼこぼこ叩く。 「もう二度とエンジン、かからへんやろなあ」 「ふええ」 その返事からすると、晃のほうもまだ放心状態にいるのだろう。 走って走って走りまくり、ふたりはようやく追手を完全に撒いた、と確信できるまで逃げ延びた。そしてようやくドライブスルーのハンバーガースタンドで夕飯にありつくと、這う這うの体(てい)で修悟のアパートまで帰ってきたのだった。 2階の自室の明かりをつけると、修悟はドジャーズのスタジアムジャンパーのポケットに入っていたものをぼんぼんと、ベッドの上に投げ捨て始めた。 晃はびくっとする。 この儀式をするときの修悟は心底、自分に対して腹を立てているのだ。 家の鍵。もうたぶん廃車になる車のキー。小銭入れ。ガム。そして隠し録音用のICレコーダー。勢い余って床に落ちる。 彼女はあわててベッドに近づき、散らばったものを拾い集めた。 「壊れたら、どないすんの」 「いまさらアリモトが、被疑者と廊下で会っているちゅう証拠が手に入っても、役に立つとは思えんけどな。証言してもらうどころかあいつが真犯人かもしれへん」 「アリモトが菊池さんを殺した……?」 「俺はそう思う。一目見たときから、殺気を抑えてた。俺たちを家に呼んだのも、知りすぎていたら殺そうと思てたからにちがいない」 ことばが尻上がりに激しさを帯びた。 「なんで、こないな事件やて、俺に最初に話してくれへんかったんや!」 「そやかて、まさかあいつが犯人やなんて……」 おずおずと目をあげると、彼女に詰め寄る修悟のぎらぎらした目が突き刺してきた。 「このっ。……どあほっ! インサイダー取引の証拠を集めた菊池が会おうとしてたのがアリモトやったとは、なぜ考えなかったんや! 隣り合った部屋をとったのは偶然やないと、一度も疑わへんかったんか」 「あ……」 「不正な操作で得た巨額の金をいったんどこかの国の銀行口座に入れて、それからさらに、海外の絶対確実な投資に回す。マネーロンダリング(資金洗浄)の常套手段や。菊池はその資金の流れをほぼ解明して、カリフォルニアの不動産業者に至るルートをつきとめ、そこから名前が浮かんできたアリモトの協力を仰いで、証拠を得ようとした。 アリモトがインサイダー取引の首謀者とグルやとまでは、疑ってなかったんやろう。そこでヤツ本人か、一味の誰かに刺し殺された……」 「そう……やったんか」 「リトルトーキョーのオフィスを見たとき、すぐ気づくべきやった。 アリモトがもし本当にローリングヒルズに自宅を持つくらいの大金持ちやったら、あんなみすぼらしい貸しビルに事務所を構えるはずあらへん。……あの家は、ロンダリングされた不正資金の一部が形を変えたもんやったんやて」 「……」 「もう少しで……、おまえまで蜂の巣にさせるとこやった」 自責のためにかすれ始めた修悟の声に呼応するように、晃の目からも涙があふれる。 「ごめん。まさか私……」 「ごめんですんだら、警察いらんねんで、晃」 修悟の中で、そのときまでずっと耐えていたものが音を立てて崩れた。 「おまえは兄貴が……兄貴がどんな姿で死んだか、忘れたんか!」 必死で首を振る晃の両の手首をつかみ、そのままベッドに押し倒した。 「修悟、いやや」 「兄貴が殺されたんは、当然の報いや。いらんことに首をつっこみすぎて、組の奴らにトカレフで蜂の巣にされて! 眼鏡も粉々に砕かれ、その奥の眼球までぐちゃぐちゃにされたんやで!」 「やめてえっ」 「おまえも同じ姿になりたいんか。おまえはなんぼ、俺に気ぃ狂わすような思いさせたら気が済むねん!」 「いやぁ……っ!」 「俺はおまえのことしか見えてへんのや。なんぼ、アメリカに来たかて、何年離れてたかて、晃、おまえのことが忘れられへんのや!」 「修悟!」 その絶叫で我に返る。 気がつくと、体の下に組み敷いていた晃は、顔をそむけてすすり泣いていた。 「修悟、堪忍……」 彼は義姉の体から身を起こして、虚脱したようにベッドのかたわらに倒れこんだ。 ふたりの上を空白の時が流れる。 「私……」 ようやく上半身を起こすと晃は、涙の跡の残る声でささやいた。 「私は治己のたどった道を、少しでもいいから追いかけたい。そうやって治己の妻としての証を残さなければ、私は生きていく値打ちがないの」 いつのまにか、標準語に戻っていた。虚勢をかなぐりすてた素顔の彼女である証拠。 「その思いで頭がいっぱいで、あなたの気持ちを何も考えていなかった。アメリカまでのこのこ来て。あなたにまた助けられて……。バカだよね、私。ごめんなさい」 修悟はぎゅっと目をつぶった。 やっぱり昔と何も変わっていないのだ。俺の気持ちも。彼女の気持ちも。 わかっていたはずだったのに。 「晃、悪かった」 死ぬほどの努力をしてすべての思いを心の片隅に押しやると、修悟はにっこり笑った。おどけて晃の頭をなでようとした。 そのとき、空気が破裂するような前兆が部屋に満ちた。 万華鏡のように、ベッドのそばの窓ガラスが四散する。 「わっ」 「きゃあああっ」 彼はとっさに晃の頭を抱えて身を低くし、降ってくる破片をよけるためにシーツをすっぽりかぶった。 かんしゃく玉のような甲高い音は銃声だったと、静まり返ってからようやくわかる。かちゃりと最後のガラスのひとかけらが床に落ちた。 複数の人間が、どやどやと外の階段を上がってくる音がする。 「靴を履け。上着。パスポート」 低く短く、修悟が命じる。 そして姿勢を低くしたまま、自分もジャンパーを羽織る。 「バスルームの窓から飛び降りる」 晃を誘導してバスルームの中に走りこみ、鍵をかけた。窓を押し上げる。やっと肩幅が通るかどうかという狭さだ。 「飛び降りるってここ2階やで!」 「すぐ真下に、一階の窓のひさしがある、そこに一旦足をかけて、そこから飛び降りろ」 修悟は晃を抱きかかえて、足から窓の外に押し出した。そして、自分も窓枠をつかむと、一気に足からすべりでた。 アパート裏の庭に飛び降りると、晃が待っていた。 「だいじょうぶか」 「だいじょうぶ」 「そしたら、その塀乗り越えて、一気に走るで!」 追手がどこまでせまっているか、振り仰ぐ余裕はなかった。 銃弾が彼らの横をかすめているような気もしたが、それはただの夜風だったのかもしれない。 「絶対、つけられてへんはずやったのに……。なんで、ここが奴らにわかったん」 「晃が置いてきた名刺。俺の車のナンバー。そんなものからこれだけ短期間に俺のアパートまで突き止めるなんて、警察に内通者でもおるんかもしれへんな」 ふたりはあえぎながら、深夜の歩道をひたすら走った。 この時間、イエローキャブなどめったに通らない。かと言って、コンビニやレストランに飛び込んで電話を借りるわけにもいかない。万が一、奴らが回りの人が巻き添えにするほどの鬼畜だったら大惨事になる。 内通者がいようがいまいが、とにかく2マイル離れた最寄の警察署を目指す。目指しながら、そのゴールがあまりにも遠いことに修悟は絶望しかけた。 「晃を絶対に、おまえは守れない」 また脳の内側にへばりつくような、あのささやき。 違う。俺は今度こそ兄貴の代わりに、晃を守らんとあかんのや。俺の命に代えてでも。 歩道を走るふたりの姿を車のヘッドライトが大写しにした。 その瞬間、 「こっちや!」 修悟は晃の手を握り、向きを変えて大通り沿いから海岸へと走り出していた。 建築中のリゾートマンションか何かなのだろう。鉄骨の作る漆黒の直線が、都会の色あせた薄墨色の夜空を突き刺している。 「ドラマの主人公が、ビルの上へ上へと追われて逃げていく場面、あほやなあと思って見とったけんど」 鉄製の階段で疲労のためにふらつく晃の体を下から押し上げるようにせかしながら、修悟がつぶやいた。 「危険を感じると人間、高いところに逃げたくなるもんやな。初めてわかったわ」 コンクリートがむき出しのフロアスペース。積まれていた建築資材の片隅に義姉を押し込んで座らせたあと、足場用の建材の中から手ごろなアルミパイプを見つけて両手に握りしめる。 「さあ、来いっ。元・府立西野高校野球部、豪腕スラッガーの腕前を見せたる!」 車から降りたふたりの男が銃を手に彼らを追いかけて、昇ってくる。 ひとりが2階の踊り場に達したとたん、壁の影に隠れていた修悟が飛び出して、武器を思い切り振った。 先が左耳のあたりにヒットし、鈍い音がする。あっけなく気絶した男は背中から階段を落ち、もうひとりの男の上に降りかかる格好となった。 下にいた男はそれをよけ、あわてて引き金を引く。修悟も素早く体をかわすと、もっていたアルミパイプを投げた。槍は狙いあやまたず男の顎にあたり、よろめいたところに、さらに階段の上から飛びかかる。 格闘のすえ、男を倒して銃をもぎとった修悟は、すぐさま晃が隠れているはずの3階へ戻った。 だが彼を迎えたのは、フロアの中央にこわばった顔で立ち尽くしている彼女。 『その銃を捨てろ』 そして、奥の暗がりから彼女を狙っている光る銃口だった。 『アリモト』 修悟は、うめくように答えた。 まさか裏から来るとは思わなかった。鉄骨をよじのぼったのか、それともあちら側にも階段があったのか。調べなかったのは致命的な不注意だった。 『銃を捨てて、そっちに歩け』 笑いさえ含む命令に、従うしかない。一度や二度シューティングレンジ(射撃練習場)に行ったことがあるだけの修悟が、こいつにかなうはずはなかった。 アリモトはガンマニアなのだろう。ウィルソンコンバットのCQB M1996A2、45口径。並みのピストルなら3挺は買える高級品だ。 歯を食いしばり、晃のそばに立つ。晃のうるんだ瞳が彼を見上げた。 こんなときなのに、宝石のように美しいと思う。 『おまえがホテルの部屋で、菊池を殺したんだな』 修悟は、切れたとたんにまっ逆さまに落下するロープに似た、時間稼ぎのことばをつむぎ出した。 『突然彼を東京に呼び出し、ホテルの自分の隣の部屋に宿泊させる。そして理屈をならべて適当な書類を要求して、わざわざ持ってこさせる。 それを運んできた、彼と恋愛関係にある女性に罪を着せるために。そこまで、日本側の仲間と調べ上げて計画していたんだろう』 しゃべりながら、頭の中で必死に勘定する。ウィルソンコンバットは8発装填。アパートが銃撃を受けたときの弾丸数は、確か5発だった。 あれがすべてアリモトの銃から発射されたとして、そしてマガジンを新しいのに換えていないとして、残弾はあとわずか3発。 確信があるわけではないが、そうだとすれば、奴がすぐに発砲せずに、間合いをつめて確実にふたりをしとめようとしている理由がわかる。 『殺そうとするヤツ相手に自分の犯罪をとくとくと並べたてて、警察に踏み込まれるまで待つような愚かな男ではないよ、わたしは』 アリモトは、昼間向き合ったときとはまったく別人のような、悪魔の微笑を浮かべている。 『じゃあせめて最後に、キリストにお祈りをする時間をくれ』 『残念ながらアリモト家は先祖代々、本願寺派の仏教徒でね』 海岸からさしこむサーチライトの光がくるりと、闇の中にいる者たちの体の上を舐めた。 彼は、晃の細い腕をぐっとにぎりしめた。 「晃、俺が走りだしたら、おまえは反対方向に駆け出せ」 「え……」 「たぶん十中八九、俺に向かって撃ってくる。そのあいだに、おまえはあの、セメント袋の陰に飛び込むんや」 「修悟」 「心配あらへん、たこ焼きいっしょに食うんやろ。……行くでっ!」 修悟は右方向に、晃は左方向に。 アリモトは、本能的に男のほうに向かって発射する。 空気をかすめる音。弾はそれた。 あと2発。 修悟はスニーカーの底が焼け焦げるかと思うくらいギュッと地面を踏みしめると、方向転換してまっすぐにアリモトに突進した。 敵は真正面から狙いをつけてくる。今度は絶対にはずれない間合いだ。 引き金が引かれる。 しかし、修悟はとっさに手を地面につくと、ベーススライディングの要領で、アリモトの脚目がけてすべりこんだ。 弾はふたたび空を切る。あと残弾は一発。 脚に強烈なキックを受けた日系人は苦悶のうめきを上げる。修悟は姿勢を崩した相手の身体に組み付いた。 「修悟!」 晃は、言われたとおりにセメント袋の山のところにたどり着いていたが、義弟が敵ともみあいながら、銃を取り上げようとしているのを見て、矢も盾もたまらず飛び出した。 何か武器になるものを。 とっさに粉末樹脂の入った20キロ用袋を、むんずとつかみ上げた。 駆け寄ろうとしたとき、最後の銃声が、鉄骨とコンクリートの空間に反響した。 「きゃあっ、修悟ぉっ」 半狂乱のあまり、晃はセメント袋をアリモトの頭目がけて振り回した。 中の粉がぶちまけられ、視界が真っ白になる。 敵が床に倒れ伏すのを確かめると、彼女もへたへたとその場に崩れ落ちた。 「く……」 やがて、修悟がゆっくりと起き上がった。 床にのびているアリモトのそばに落ちていた銃を拾い上げ、マガジンが空なのを確かめると吐息をつき、後ろに放り投げた。 「いて……」 その拍子に、体のあちこちに痛みを感じる。 銃弾はそれている。痛むのは、殴り合った痕と、思い切りスライディングをかましたときの打撲だろう。 あわてて、倒れている晃のそばににじりよった。 回りの床一面に白い粉がぶちまけられている。 特にその中心にいる晃は、髪の毛も着ている服も真っ白だった。くっきりとした眉毛も、長い睫毛も、形のよいワインレッドの唇も、まるで美しく凍てついた彫刻のようだ。 「晃……」 修悟は彼女の体をぎゅっと抱きしめた。 体の中から熱くこみあげてくるものを感じる。 逃げて逃げて、結局ここに戻ってきてしもた。やっぱり俺は、こいつから一生離れられへん。 最後の理性がどこかに吹きとび、彼は晃と唇を重ねた。 誰かが私の口の中を優しくまさぐっている。 からだが浮き上がるような甘い心地よさ。ようやくなつかしい場所に帰ってきたよう。 治己。治己なの……? 晃は目を開いた。さっきの建設現場。粉で頭を白髪にした義弟の腕の中に抱かれていた。 「気ぃついたか?」 「修悟……無事?」 「ああ、ぴんぴんしとるで」 「アリモトは?」 「そこに、のびとる」 「じゃあ、そこを歩いてるのは、誰?」 「ああ、警察官や。銃声を聞きつけた近所の住民が呼んだらしい」 ことばを出す間も惜しむように、彼の舌はまた唇の奥に押し入る。 「修……悟。さっきから……何……してるの?」 「ん? おまえの全身、粉まみれやから。肺に吸い込まんように、口の中をきれいにしてやっとんのや」 「ドあほっ! やめんか!」 ようやく意識がはっきりしていつもの自分に戻った晃は、必死で彼の腕の中から抜け出した。 ふたりがキスをやめたことがわかると、遠慮していた白人の警官が近づいてきて、修悟とふたことみこと、ことばを交わした。 「今から、俺たちもいっしょに来いって」 「なんやの、私ら逮捕されるん?」 「まあ、事情聴取や。心配せんでも、さっきのアリモトとの会話はここに録音してあるし」 ジャンパーのポケットからICレコーダーを取り出して見せる。 「俺がきちんとアリモトを告発したる。日本で殺人罪で裁判受けさせるまで、とことん、な。 まかせとけ。弁護士志望学生として最初で最後の大仕事や」 「最後……て、どういう意味?」 「ああ。大学を卒業したら俺、正式に日本に帰る」 冗談でも言っているのかと、思わず彼の顔をのぞきこんだ。 「もう潮時やな。アパートはあの有様やと、敷金全部ふんだくられて追い出されるやろし、車はおしゃかになってしもたし。それに俺もそろそろ、大阪の食いもんが恋しなったしなあ」 修悟はにっこりと微笑む。 「もうおまえのことを、ほっとかれへん。なんぼ言うても、これからもきっと、こんな無茶しよるやろうし。誰かが代わりに、そういう仕事引き受けてやらんとな」 「修悟……」 「誤解すんな。おまえのためやあらへん。 ……俺はただ『神園法律事務所』を、兄貴の遺志のとおりに守っていきたいだけや」 自分に向かって言い訳がましくそうつぶやくと、まだ泣きそうな表情をして彼を見ている義姉を、助けて立ち上がらせた。 「でも、それやったら今までの4年の苦労は……? あんたこっちで弁護士になりたいんやろ。秋からロースクールに入学することが決まってるんやろ?」 「日本で暮らすなら、そんなもんには未練はない。それに」 もう一度、彼女の腰に手を回す。 「俺、女の口説き方とキスのしかたは、すっかりマスターしたから」 晃は今度も逆らえなかった。彼の熱い唇を味わい尽くすと、やっとのことで吐息まじりに毒づいた。 「あほ……。あんたなんか、まだ百年早いわ」 「せめて、99年にまけへんか?」 10万ヒット記念企画……のはずでした。こんなに遅くなってすみません。 ダイアリーの2004年の抱負でも書いたとおり、大阪と神戸を舞台にした「神園法律事務所」長編シリーズを構想しています。 修悟をめぐる江梨と晃という美女の戦い。作者初のハーレム小説になる予感(笑)です。 |