伯爵家の秘密


第10章「王都騒乱」


(1)

 朝から、小雪が舞い始めていた。
「馬車が戻ってきたーっ」
 木に登って南を見張っていた園丁見習いのティムは、するすると幹をすべり降り、霜の降りた枯れ草の上を一目散に駆けだした。
「若旦那さまが、若奥さまをお連れになって戻られました!」
 留守を預かっていた使用人たちが、館の外に飛び出してきた。
 ほとんどの使用人が祝宴の準備に駆り出されて王都に行っていたため、居残り組は、外働きの園丁や馬丁、下働きの者を合わせても、いつもの三分の一に満たない。それでも彼らはせいいっぱい屋敷じゅうを磨き上げ、晩秋の庭を花で飾り、主たちの帰りを待ちわびていたのだ。
「お顔や手を洗うお湯を用意せねば」
「暖炉の薪を、うんと燃やして」
 とメイドや下男たちがあわてている中を、
「おやおや、これは」
 手をかざして遠くを見ていた執事のロジェが、ふふと肩をゆらした。
「みんな。あわてなくとも大丈夫ですよ。この分では馬車が領館に着くのは、まだまだ先ですから」
「え。どうしてですか?」
 馬丁見習いのダグが、不思議そうな声を上げた。
「ほら、見てごらんなさい」
 指差した先に見えた光景に、ダグは「ひゃあ」と叫んだ。馬車が黒山の人だかりに完全に埋まってしまっている。
 村人たちは、めでたく式を挙げたばかりの若い領主夫婦を一目見ようと、花束を手に総出でお祝いにかけつけたのだ。
「ダグ、ラヴァレの谷には十二の村があります」
 ロジェは、すかさず少年に算数の問題を出した。「一つの村につき十分間停まるとして、馬車がお屋敷に着くのは何時間後でしょう」
 ダグは神妙な顔で、両手の指をひとつふたつと折った。
「えーっと、一時間?」
 馬丁の親方に「ばっきゃろ」と頭を殴られた。


 騎士たちの馬に護衛されて馬車が到着したとき、使用人たちは玄関にずらりと整列していた。
「みんな、帰ったぞ!」
 座席から屋根まで花束で覆い尽くされた馬車から、エドゥアール、ミルドレッド、エルンストの順番で降りてくると、奥からマリオンとオルガの母娘が、アルマ婆さんの手を引っ張って出てきた。アルマは病み上がりで足が弱っているものの、だいぶ血色も戻ってきている。三人はまるで仲のよい家族のように見えた。
「伯爵さま。奥方さま。結婚おめでとうぞんじます」
 オルガは一同を代表し、はきはきした声で挨拶した。
「ありがとう。留守番を頼んで悪かったな」
 エドゥアールが、彼女の頭をふんわりと撫でると、「いいえ」と少女は首を振った。
「お留守番も楽しゅうございましたわ。わたし、伯爵さまのご先祖さまの幽霊にお会いしました」
「ご先祖の幽霊?」
「はい。白い髪と立派なあごひげで、とても背が高く、手の鎖をぶるぶる震わせながら、しゃがれ声で昔のお話をしてくださいました」
「うわあ。会いたかったな」
「さあ、積もるお話は、ゆっくりとこちらでなさいませ」
 執事は、一同をお茶の準備の整っている暖炉の前へと促した。
「ロジェ」
 エドゥアールは、白髪の執事の背中に小声で話しかけた。「その幽霊の扮装、あとでこっそり俺にも見せろよ」
 「はて、なんのことでございましょう」とロジェは、とぼけて答える。
 結婚式と祝宴の思い出話は、夕方まで尽きることがなかった。
 そのあいだにも、使用人たちを乗せた馬車や荷馬車が続々と到着し、領館はいつもの活気を取り戻した。
「村々から、お祝いのご馳走が山ほど届いていますよ」
 谷の様子を見回ってきたジョルジュとトマの主従が、興奮した様子で報告した。「五十人が一週間は食べていけるくらいです」
「よし、それじゃ、今夜は館じゅうの全員を集めて祝宴の続きをしようぜ」
 若き伯爵は、たからかに宣言する。
「全員でございますか?」
「ああ、下働きから門番に至るまで、全員だ」
 その場にいた使用人たちは、歓声を上げた。オリヴィエだけは「やれやれ」と顔をしかめたが、すっかりその気になった主を、もう誰にも止められないとわかっている。
「奥方さま」
 ラヴァレ家のメイドのひとりに呼び止められて、ミルドレッドは、それが自分のことだと気づくのに多少の時間を要した。
「わたしは、奥方さまのお世話をさせていただきます、ソニアと申します」
「まあ、ソニア。あなたが?」
 深々とお辞儀をする少女に、ミルドレッドは目を見張った。彼女のことはよく覚えている。エドゥアールが親しげに話しているのを見て、ふたりの仲を疑い思わずかっとなってしまったのは、もう懐かしい思い出だった。
「はい。不心得者ですが、せいいっぱい務めますので、よろしくお願いします。ジルさんも、よろしくお願いします」
「わ、わたしこそ、このお館のことは何も知らないので、教えてくださいね」
 挨拶を交わすふたりのメイドたちに、ミルドレッドは目を細めて微笑んだ。
「よろしくね。ソニア」
「はい。お部屋に、湯浴みと着替えの用意ができております。どうぞ、こちらへ」
 エドゥアールの居室の隣が、ミルドレッドの部屋だった。以前入ったときから比べても、ずっと明るく居心地よくなっている。
 暖炉や家具の真鍮の金具は丁寧に磨き上げられ、壁紙やカーテン、新調されたベッドのリネンも、新緑を思わせる緑と薄紅色とで統一されていた。
 そして中央のテーブルに飾られたみごとな大輪の深紅のバラが、新しい女主人を迎える。
「ここが、これから……」
 後は胸がつまって、言葉が続かなかった。
 とうとう愛するエドゥアールのもとに嫁いできたのだ。
 美しいラヴァレ谷での新しい生活。彼女を待っているのは夢のような毎日ばかりではない。伯爵家の妻としての重い責任を背負うことになる。さらに、夫がひた隠している重い秘密も。
 一年前の自分だったら、重圧に足がすくんで前に進めなくなってしまったかもしれない。現実から目をそむけてしまったかもしれない。
 けれど、今は違う。エドゥアールの笑顔さえ見られるのなら、何も迷わない。どこにだって行ける。彼を苦しめるものがあれば、ともに戦うことだって。
「お嬢さま。なんだか」
 ソニアとともに立ち働いていたジルが、ふと見ると大粒の涙を目にためている。
「こうして拝見していると、まるであの御方が絵から抜け出して立っておられるようですわ」
「え?」
 侍女が指し示したのは、エレーヌ姫の肖像画だった。その絵の前景には、今ここにあるのと同じ花瓶に生けられた深紅のバラが描かれている。
「若旦那さまが、絵と同じ色のバラを奥方さまのお部屋に飾るようにとお命じになったんです」
 ソニアが、小さいが力をこめた声で言った。
「ああ」
 ミルドレッドは深い感動のあまり、我知らず絵の前にひざまずいた。
「エレーヌ姫さま」
 ――いいえ、お母さま。
 あなたが伯爵家とこのラヴァレの谷に注いでこられた愛情を、わたくしに引き継がせてください。
 あなたが命を懸けてこの世に送られた大切なエドゥアールさまを、わたくしも命を懸けて愛してまいりますから。


 ミートパイ、詰め物ではちきれそうなガチョウの丸焼き、ベーコンやハム。干しぶどう入りプディング、林檎のタルト、そしてその年に樽から出したばかりの新ワイン。
 領館の食堂は、大きなテーブルからこぼれ落ちんばかりのご馳走で埋め尽くされた。
 日ごろは、屋敷内に立ち入ることも許されない下働きの少年少女たちも、園丁や馬丁や門番たちも、口をあんぐりと開けたまま、部屋と料理の豪華さにきょろきょろと落ち着かない。
 晩餐の席に、館の使用人全員が集うのは、伯爵家の歴史始まって以来のことだ。
 婚姻のお披露目ということもあり、当主の席には、エドゥアールとミルドレッドが並んで座った。古参の者は、二十年前の先代伯爵エルンストとエレーヌ姫の姿を思い出して、目をうるませている。
 エドゥアールは立ち上がり、まず父と視線を合わせ、そして隣のミルドレッドと微笑を交わした。
「一年半前、俺はポルタンスの裏町からこのラヴァレの谷に来た」
 下町訛りの混じる、飾り気のないことば。
「最初の夜はたったひとりでこのテーブルで食事を取った。伯爵の跡継ぎと言われても何をしてよいかわからず、孤独でみじめだった。けれど、今はこんなに大勢の家族ができた」
 そして満足げに微笑みながら、一同を見渡した。「みんな、今までありがとう。俺はおまえたちが大好きだ」
 最長老のオリヴィエから、最年少のティムまで、喉がつまって声も出ない。
 ある日突然、伯爵家にやってきた庶子さま。
 貴族らしくないふるまいに、最初は度肝を抜かれた。娼婦の息子だという噂を聞いたときは、この方に仕えることを恥ずかしいとさえ思った。
 それでも、この主は、いつも変わらず気さくに使用人に声をかけてくれた。友だちのように肩を抱いてくれた。
 王のような威厳を秘めながら、誰よりも謙遜にものごとを学ぼうとしていた。
 本当は声をそろえて叫びたかった。『若旦那さまを心からお慕いしているのは、わたしたちのほうです』と。
「みんな、知ってのとおり、俺は娼館で育った」
 エドゥアールは真顔になって、さらに続ける。
「だから、人間には身分による優劣などないということを固く信じている。俺はこのラヴァレの谷を、貴族も平民もない理想郷にしたい」
「理想郷?」
 誰かがオウム返しに口の中でつぶやいた。
「農夫は農夫として、商人は商人として。使用人は使用人として、領主は領主として。役割の違いはあっても、人が人として生きるうえで何の差別もない社会。このクライン王国がそんな国になるには、きっと何十年もかかるだろう。だからこそ、俺はその試みを、この豊かな谷から始めたい。親父といっしょに」
 隣で彼を一心に見つめている妻の肩に手を置く。「そして妻といっしょに」
 ミルドレッドは目に涙をいっぱいためて、うなずく。
「ここにいるひとりひとりも、俺に力を貸してほしい。頼む」
「はい!」
 彼らは、手を握りしめ、身を奮わせて腹の底から叫んだ。
 にぎやかに祝宴が始まった。いつもは厨房にこもりきりのシモンたちコックも同じ席について食べているのは、めったにない光景だ。
 生まれて初めて酒を飲んだダグは、床に仰向けにひっくり返り、馬丁の親方に爪先で蹴飛ばされている。
 ジョルジュの従者トマとメイドのジルが良い仲なのを、あっという間に目ざとい者に見破られ、さらには、メイドのジョゼと御者のランドができているという話まで暴露されて、若者たちの間から「俺も彼女がほしいなあ」という愚痴ともつかぬ叫びが沸き起こった。
 執事ロジェとメイド長アデライドは、その様子を隅から楽しげに眺めていた。
「村へ行って、適齢期の若者たちを探して来なければなりませんわね」
「果たしてうまくいくやら。我々はその方面が不得手だからこそ、今もって独身なのですよ」
 宴はいつ果てるともなく、延々と夜を徹して続きそうな勢いだった。その席から、ひそかに退出していこうとする人影に、エドゥアールは目ざとく気づいた。
「ユベール」
 金髪の騎士が、薄暗い廊下で振り返った。
「どこへ行く」
「ちょっと王都へ」
「ちょっとって。おまえな」
 エドゥアールは目を吊り上げ、近侍の袖をぎゅっと掴んだ。「今朝着いたばかりだろう。明日にしろ。今は休め」
「ですが、陛下がそろそろ調印式からお戻りになる頃です。このことがプレンヌ公に知れて、もし騒ぎにでもなれば」
「あいつなら大丈夫だ。セルジュもついてる」
 主人は口をつぐみ、水色の目を伏せて懸念を口にした。「それより、おまえの体が心配だ。この一年、俺のせいで休みなく国じゅうを飛び回らせた」
「わたしが、そんなことで潰れるとでも?」
 茶化した口調で答える一方で、エドゥアールが心に宿している恐怖の源が、ユベールには痛いほどわかっている。
 自分を守るために彼の父アンリが目の前で殺された衝撃が、この心やさしき主人を今もさいなんでいる。その負い目が、いつか伯爵家の進むべき道を悪い方向に捻じ曲げて行ってしまいそうで、恐ろしいのだ。
「仰せのままに。では、今夜はゆっくりと休ませていただきます」
 ユベールは主の気づかいを素直に受けることに決め、大げさな身振りで礼をした。
「ベッドに誰も連れ込むなよ」
「保証のかぎりではありませんね」
 エドゥアールは長年の友の背中を苦笑しながら見送った。ずっと後まで、彼はこの時の選択を後悔することになる。
 祝宴の場に戻ると、愛する伴侶はあくびを懸命にかみ殺しながら微笑んでいるように見えた。父エルンストや老アルマ、マリオン母子は、夜が更ける前にとっくに退席している。
「疲れた?」
「いいえ、平気ですわ」
「いや、すごく眠そうだ」
 言うが早いか、彼はミルドレッドをひょいと横抱きにした。
「わあっ。若旦那さま」
 すっかり腹もくちくなって、だらけた姿勢で座っていた使用人たちは、一瞬で騒然となった。
「すぐにお休みの支度を」
「急いで、寝酒をもってまいります」
「今少しお待ちくださいませ。お部屋の暖炉の火がまだ」
「だいじょうぶ、それくらい自分でできるって」
 エドゥアールはいたずらっぽく目配せした。「それより、朝まで邪魔するなよ。絶対に朝まで、だ」
 その意味がわかって赤面するメイドたちを残し、若き伯爵は妻を抱いたまま、食堂を出て大階段を登り始めた。
「お、お待ちください。降ろして」
「なんで?」
「だって、この数日の祝宴続きで食べすぎて、その、とても重くなっておりますわ」
「それどころか羽根枕を抱いてるみたいだね。せっかく颯爽と花嫁を抱いて寝室に入ろうと十八年間体を鍛えてきたのに、軽すぎてこれじゃ張り合いがない」
 エドゥアールがわざと腕を揺さぶるので、ミルドレッドはあわてて彼の首にしがみついた。
 彼女を抱いたまま、居室の扉を器用に開け、バルコニーへの扉も開く。
「さあ、着いた」
 すとんと彼女の体を降ろしたバルコニーの床は底冷えがするほど寒かったが、宴で火照った体には心地よかった。三日月はとっくに西の空に姿を消し、星明りだけの夜空にかすかな白さが混じっているのは、やがて訪れる新しい日の予兆だった。
「ミルドレッド」
 エドゥアールは、すっぽりと背中から彼女の体を包んだ。「俺についてきてくれて、ありがとう」
「わたくしこそ……、おそばに置いてくださってありがとうございます」
「俺たちはこれから、ずっとこの谷で暮らすんだ。笑ったり、泣いたり、怒ったりしながら」
「きっと目が回るほど忙しくて、楽しい毎日ですわ」
「そうだな」
「春はイチゴを摘んでジャムを作り、夏は小麦の収穫と魚釣り。秋は絹糸を紡いで、冬は生まれる子どものために編み物を――」
 『子ども』という言葉を自ら口にした気恥ずかしさに、ミルドレッドはきゅっと首をすくめた。
「親父さまとおふくろさまも、しょっちゅう呼ぼう。なんなら、ここでいっしょに暮らせばいい」
「うれしいですわ。残してきた両親を思い出すたびに、なんだか涙が出てしまって」
「きみが喜ぶことなら、俺はなんだってする」
 エドゥアールは、ミルドレッドの首筋に唇を押し当てた。
「幸せで、頭の中がおかしくなりそうだ」
「わたくしも……です」
 うわずった声で言い交わしながら、互いの唇をむさぼる。甘美で荒々しい征服欲が、ついに理性という防具を破壊しつくすと、彼はふたたび花嫁を横抱きにして、部屋の扉をくぐった。
「震えてる。寒い?」
「少し……怖いのです」
 ベッドに横たえると、ふわりとドレスの裾が広がり、まるで大輪のバラが一輪、シーツの上にこぼれ落ちたようだった。
 エドゥアールが隣に伏すと、彼女はかすかに微笑み、薄茶色の美しい瞳を閉じた。
 ふたたび、唇を重ねた。もどかしく狂おしい、それでいて、いつまでも耽っていたいような時間が過ぎていく。
「花びらを一枚ずつ剥がしていく気分だ」
 心を落ち着けるためにエドゥアールは自分の行動を茶化しながら、彼女の背中に手を回して、ひとつずつドレスのボタンをはずした。
 鎖骨にまず指を触れ、次第にあらわになる白い肌にすべらせていくと、手の下で愛しい人が思わず身を固くする。
「エドゥアールさま……」
「『さま』はもう要らない。ミルドレッド」
「……エドゥアール」
 ふたりの体が重なり合うという寸前、廊下をバタバタと走る足音が近づいてきた。
 そして、扉を叩く、尋常ではない音。
「若旦那さま!」
 家令のオリヴィエだった。
 エドゥアールは、すばやく身を起こした。その声に含まれる悲壮な響きに、そうせざるを得なかったのだ。
「どうした」
「谷の入り口に、騎馬軍勢が現れました!」


 数分後に、服装を整えて伯爵は玄関の外に飛び出した。
 すでに騎士ユベールと騎士ジョルジュ主従は、剣を腰に佩き、弓と矢を入れた箙(えびら)を脇に置いて、完璧な戦闘態勢を敷いている。オリヴィエ、ロジェ、そして先ほどまで祝宴で気勢を上げていた使用人の男たちも居並び、松明の炎にあかあかと照らし出された顔は、どれも緊張にはりつめていた。
「スュドの村から、『敵襲来』の狼煙が上がりました」
 ジョルジュが小声で簡潔に状況を説明する。「わたくしの方からも、先ほど各村に合図を送りました。村の門を固く閉めて教会堂に集まり、防戦態勢を取れと。これは自警団の手に負える相手ではありません」
 「それでいい」と、エドゥアールはうなずいた。「それで、相手は?」
「ゆっくりと進軍しております。数は約五十騎。使者が一騎それに先んじて、こちらに向かっております」
「そいつの掲げている軍旗は?」
「……クライン王家の紋章です」
 エドゥアールは思わずうめき声を漏らした。事態は予想を超えている。王立軍が、果たして国王の命なしに動くことがありえるだろうか? それともこれは、フレデリク国王の命だということか?
「若さま」
 家令のオリヴィエが、断固たる足取りで進み出てきた。
「わたくしが応対いたしましょう。おそらくこれは、マリオンとオルガの失踪をプレンヌ公が王宮に訴え出られたことが、そもそもの原因に相違ございません。陛下のお耳に達する前に、何かの手違いで捜索隊が差し向けられたのでしょう」
 彼は丸めていた背を、ぐいとのけぞるように伸ばした。「父であるわたくしが娘の離縁を決めたのです。出頭するならば、わたくしひとりで十分。伯爵家に累が及ぶようなことがあっては、決してなりません」
「何をバカなことを言ってる」
 エドゥアールは噛みつくように怒鳴った。「ラヴァレ領内に一旦入った者はすべて伯爵の保護のもとに置かれるんだ。俺の誇りにかけて、ひとりたりとも渡すわけにはいかねえ!」
 鳥がいっせいに近くの森から飛び立った。夜明けの色がすでに東の空を染めている。一同は口を閉じ、しばらく聞こえてくる物音に耳をすました。
「ひづめの音が聞こえてきました。どういたしましょう」
「門番に、使者が通れる分だけ門を開くように言え」
 玄関番の若者が、急いで道を駆け下っていく。
「ユベール。俺の剣を」
 だが、近侍の騎士は首を振った。「なりません。王立軍の前で若さまが帯剣なされば、王への反逆とみなされます」
「落ち着け。エドゥアール」
 大きくて骨ばった手が伸びてきて、彼の拳を包んだ。
「親父」
「頭に血を昇らせるな。けんか腰では話し合いにならぬ」
「無理な話だな。今日の俺は、最高に凶暴な気分だ」
「まあ、天国から引きずり落とされたのだ。わからぬでもないが」
 大伯爵と息子は目を合わせて、口元をゆるませた。
「病人のくせに、家の中に入っとけ。邪魔だ」
「そうはいかん。これでも元陸軍軍人だ。新婚で腑抜けたやつなどより数倍は役に立つ」
 憎まれ口の応酬の間に、濃紫の旗を高く掲げた飾り兜の兵が坂道を登ってきて、玄関に居並ぶ伯爵たちの前で、騎乗のまま敬礼した。
「わたくしは、クライン王立陸軍、第二騎兵隊、第八小隊のバイヨ少尉であります。ラヴァレ伯爵は、どちらにおわす?」
「ラヴァレ伯爵家の当主、エドゥアール・ド・ラヴァレだ」
 エドゥアールが一歩進み出て、大声で答えた。
「この谷は百五十年前に、初代ファイエンタール国王フェリクス一世から拝領せしラヴァレ伯爵領にして、世々にわたり不可侵の特権を得ている。国王陛下の許しなく、王立軍がわが領を土足で踏みにじる理由は何か」
 黒々とした領館を背景に立つ若き伯爵の気魄は、使者が思わず怖じ下がるほど凄まじかった。
「お――王宮はただ今、前首席国務大臣のプレンヌ公爵の指揮下にございます」
「なんだと?」
 人々はそのことばに唖然とした。いったい王宮に何が起こったというのだ?
「書面が、ここに」
 少尉は、うやうやしく巻物を取り出して、彼らに向かって広げた。
「エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵。貴殿を、国王陛下に対する拉致誘拐の首謀者たる容疑で捕縛する」







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