伯爵家の秘密


第9章「第二の秘密」


(5)

 大聖堂は、王都ナヴィルの中で唯一、王宮を凌駕する建物だ。その歴史は、征服民族の侵入より古い。
 東の海峡を渡って大陸に侵入してきた金髪の征服民族は、原住民族である黒髪の部族が信じていた創造神を、そのまま己が神とした。
 と言うと、あまり厳密ではない。もともと黒髪の部族が信じていた神も、古代に東より来た預言者たちによって伝えられたものだからだ。神の名も発音が違うだけで根は同一だった。
 荒々しい遊牧の地から来た金髪の民は、農業国の風土になじんでいた素朴な教えを手厚く保護し、自らも改宗することで、原住民の反発を抑え、支配を確立しようとしたのだ。
 大聖堂の建物自体は、百年あまり前に新しく建て替えられたものだ。『白鳥が羽根を拡げたようだ』と形容される左右対称の美しいフォルム。白い石材は、カルスタンの灰色花崗岩。薄碧色の柱は、有数の大理石産地と言われるアルバキアから運ばれたもの。そして設計は、建築美術では長い歴史を誇るリオニアから呼ばれた高名な建築士の手になるものだ。
 大陸のすべての国が、緩やかなまとまりを持っていた時代の『平和の象徴』。
 憧憬をこめて、ナヴィル大聖堂はそう呼ばれている。


 二階の聖歌隊席から、少年たちの澄みきった高い歌声が流れる。声はフラスコ画の描かれた天蓋に反響し、七百人の座る身廊に柔らかく降りそそぐ。
 ステンドグラスから射し込む淡い光の中で、細密な彫刻の施された柱や、枝葉のように天蓋をおおうアーチを見上げている会衆は、まるで森の中にいるような錯覚に陥るのだった。
 少年たちの歌声が止み、修道士たちの低い荘厳な賛美に合わせて入口の扉が開き、モンターニュ子爵令嬢ミルドレッドが、白い婚礼衣装をまとって現れた。
 透き通るほど薄くつややかな絹を幾重にも重ねたドレスは、ラヴァレの谷ではじめて取れた絹糸で織られた布だ。三人の少女が後に付き従って、長い裳裾をしずしずと持ち上げている。
 淡い茶色の髪には花の冠を模した清楚なティアラ。手にはラヴァレの紋章である谷ユリの花束。
 何百もの燭台の灯の下に立つミルドレッドの肌は、彼女自身の内部から白くやわらかな光を放つようだ。会衆は、その神々しいまでの美しさに心奪われ、口々に感嘆のうめきを漏らした。
 あまりにも多くの人の注視を受け、当惑して立ち止まっていた十七歳の花嫁は、その中から求める人の笑顔を見出して、あどけない笑みを取り戻した。
 毅然と顔を上げると、父であるモンターニュ子爵と腕を組み、赤いじゅうたんの上を進み始める。
 通路の中ほどに、鶯色の伯爵の礼装に身を包んだ花婿が待っていた。
 新しくモンターニュ子爵の称号をも得たラヴァレ伯爵エドゥアール・ド・ラヴァレは、花嫁の父親に深々と一礼した。ふたりの間にひとことの会話が交わされると、父子爵の目から、ひとすじの涙が頬を伝った。
 花嫁は父の腕から離れると、生涯をともにする伴侶の腕に、しっかりと手をからませた。
 ふたりは互いの顔を見つめて微笑み合うと、祭壇へと歩み始めた。
 聖職者が立ち上がり、ふたりに聖めの水をふりかけた。
 花婿と花嫁は、手をつないで祭壇の前にひざまずき、婚姻の書の数十行に及ぶ誓いのことばを、ともに唱和する。
 聖職者がふたりを立たせ、その両手を婚姻の書の上に重ねて置き、婚姻が成立したことが宣言された。
 七百人の会衆の中から、古くから伝わる祝歌の大合唱が始まった。
 天蓋の円窓が開き、たくさんの花びらが聖堂の内部にはらはらと舞い落ちる。その中をくぐりぬけた新しい夫婦は、玄関の扉を出たところで、待ち構えていた付き人たちに捕まえられた。
 クライン地方独特の風習だ。
 新郎と新婦は、亜麻布で織った長い飾り紐で、頭と頭、片方の手首と手首、腰と腰をつながれる。心の思い、日々の生活、そして性的な意味もこめて永遠に離れないという証しだった。昔は、村の少女たちが草のつるを長く編んだものを使ったと言われる。
 離れられないことをこれ幸いと、エドゥアールはミルドレッドを抱きしめ、何度も何度も口づけを仕掛けるので、人々は大いに口笛と拍手で囃したてた。


 王宮お膝元の公侯爵の邸宅と下位貴族の邸宅とのあいだには、広い公共の庭園がいくつかある。古くは征服民族と原住民族を隔てていた壁の名残だ。
 結婚の祝宴のためにラヴァレ伯爵家が借り受けたのは、そのうちのひとつ。王都でもっとも広い【ロワン外苑】だった。
 クライン貴族千五百人全員が招待状を受け取り、その中で宴席に連なったのは四百人ほどだった。
 公爵・侯爵は全員欠席。伯爵ら下位貴族たちも、プレンヌ公の報復を恐れる者たちは欠席の返事を送りつけてきた。
 宴にやってきたのは、エドゥアールたちと国の将来について語らった若い貴族たち。そして、好奇心と恐いもの見たさに駆られた輩たちだった。
「余った席はどういたしましょう」
 席の準備をしていた使用人たちは、祝宴をとりしきる家令のもとにやってきた。オリヴィエは平然と答えた。
「若旦那さまの仰せだ。広場に立って、王都の民衆を片っぱしから招くようにと」
「へ、平民たちをですか?」
「さよう」
 しかし、わざわざ広場まで行かなくとも、民衆は評判を聞きつけ、続々と庭園の周囲に集まってきた。たった一夜で大祝宴の会場が出現したという噂は、王都じゅうの人々の度肝を抜いたのだ。
 千五百人分の長テーブルとベンチは、煉瓦を組み、板を渡しただけの即席のものだった。あちこちに日よけのパラソルが立ち、大量のブドウ酒の樽はテーブルをも兼ねる。
 にわか仕立ての簡易かまどから、湯気を立てながら次々と運び込まれてくるローストビーフや蒸かし芋の大皿。料理を担当したのは、シモンを筆頭とする伯爵家のコックたち。そして助っ人に加わったのは、ポルタンスの娼館のコック、ガストンと、彼が声をかけたコック仲間たちだった。
「さあ、さぼってないで、きりきり働くんだよ」
 メイド長アデライドとともに、伯爵家のメイドたちを軍隊の将校さながらにきびきびと指揮するのは、ミストレス・イサドラ。もちろん、ネネットたち娼婦も、おそろいのエプロンをつけて参戦している。
 テントに設けられた救護班に陣取っているのは、テオドール・グラン医師と婚約者のゾーイ。彼女の息子フレッドもいっしょだ。
 さて、その祝宴会場で、招かれた貴族たちは大いに困惑していた。
 『どこに座ればよいのか』との問いに、返ってくる答えは『どこでもお好きな場所に』なのだ。
 貴族の祝宴に、席順はきわめて大事だ。間違って上位の貴族より上座に座ったために投獄された例は、枚挙にいとまがない。
 だからこそ、平民たちがへっぴり腰で『し、失礼します』と隣に座ったときは、のけぞるほど驚いた。
「ありえない!」
 ひとりの老齢の伯爵が憤然と立ち上がった。「貴族と平民が相席すると申すのか!」
「そのとおりです」
 凛と、深みのある声が響いた。
 振り向くと、この宴の主であるエドゥアール・ド・ラヴァレが立っていた。その隣には、娶ったばかりの妻ミルドレッド。父伯エルンスト・ド・ラヴァレ伯爵も、モンターニュ子爵夫妻もいる。
「この祝宴では、貴族も平民も関係なく好きな席に座れます。それが主催者の意向です」
 彼は穏やかに微笑みながら、説明した。「ここでは、娼婦も放浪民族も、貴族と等しい権利がある。なぜなら、俺は彼らとともに育ったから」
 驚いたのは、そう説明するエドゥアール自身の服装だった。
 ふくらんだ袖のシャツに黒の腰帯と引き締まった膝丈のキュロット。
 ミルドレッドは白いフリルのブラウスに深紅のロングスカート。頭には長い飾り房のついたターバンを巻いている。
 まるで放浪民族の衣装だ。いや、放浪民族の衣装そのものだった。
「信じられん。こんな屈辱ははじめてだ」
「では、いつでもお引き取り下さい。止めはしません」
 エドゥアールは静かに、しかし決然と答えた。
 憤る相手を責めることはできない。百年以上ものあいだ、身分による差別を当り前とする社会を、彼ら貴族は作ってきたのだ。
 王都を隔てる壁が壊されて公園になったのは、わずか三十年前だったように、一朝一夕で簡単に壊せるほど双方の壁は薄くない。
 数人の貴族が席を蹴って出て行った。平民たちは、その様子を呆気に取られて見つめている。
 誰も経験したことがない光景だった。貴族と平民は生まれつき住む場所が違う。着るものが違う。話すことばが違う。それが当たり前だった。なぜなら、貴族は平民とは別の人間だと信じて、彼らは育ってきたのだから。
 全員が着席し、座が静まりかえったとき、花婿と花嫁が並んで前に立った。
「本日は、ラヴァレ伯爵家とモンターニュ子爵家の婚姻の祝宴にお越しくださり、ありがとうございました」
 さすがのエドゥアールも、結婚後はじめての挨拶とあって、照れくささに声がうわずっている。
「全然、聞こえないよ」
 イサドラが楽しげな声で叫んだ。
「そうさ、全然エディらしくねえぞ」
「借りてきたネコかと思った」
 ポルタンスの裏町でいっしょに暮した人々から、気軽なヤジが飛ぶ。王都の人々は、自分たちと同じ下町訛りの連中が、伯爵さまを呼び捨てにしているのを、呆然と見ていた。
「若さまーっ」
 聖マルディラ孤児院の子どもたちが声をそろえて叫ぶ。
 エドゥアールは、それを聞いてニヤリと笑い、せっかく整っていた髪を両手でくしゃっと崩した。
「わかった。もう、堅苦しい挨拶は抜きだ。みんな、飲んで食って、思い切り騒いでくれ!」
「おーっ!」
 征服民族がこの地に王都を築いてから初めて、貴族と平民が同席し、ブドウ酒の満たされた杯を天に向かって突き出し、『乾杯』と叫ぶ。
「ああ、せっかくここまで大人しくしておられたのに」
 オリヴィエは目を覆って、やれやれと嘆息した。
「うむ、あれが限度だったな」
 エルンスト父伯は、騎士ユベールと楽しげに顔を見交わした。


「まったく陛下は何を考えておられる」
 王宮の執務室で、数人の公爵と侯爵たちが額を寄せ合っている。
 プレンヌ公は私邸に引きこもったままだし、王宮を一歩出れば、都の通りという通りは陽気なお祭り騒ぎだった。
 今日は王都の民衆のほとんどが、『聖アンヌの祝日』とラヴァレ伯爵の結婚式を祝して、酒場や露店に繰り出しているものと見える。
 国王は、近衛隊のかなりの人数を割いて、王都の警備のために派遣するよう命じた。侍従や女官たちにも暇をやったらしく、王宮全体がしんと静まり返っている。
「陛下はラヴァレ伯爵をエコ贔屓なさっているようにしか見えん」
「それは、リンド侯爵さまとて同じだ。王位を継ぐお方がそういうお考えでは、このままでは本当に将来、この国は共和主義に飲みこまれてしまうやもしれぬ」
「今のうちに、何とかせねば」
「だいたい、プレンヌ公どのとあろう御方が、この件に関しては及び腰だ。ラヴァレ伯父子は、公にとっても天敵のはず。やはり御子息の身が可愛いのか」
 不毛な堂々めぐりの会話に、一同は誰ともなくため息を吐いた。
「気勢が上がらぬわ。しかたない。わしも屋敷に帰るとするか」
「わたしも疲れた。今日は酒を飲んで寝る」
 糸のような宵月が東の空に昇るころ、人けのなくなった宮殿の中を、ようやくひとつの影が動いた。
 迷いのない足取りで奥へと進むと、大扉が音もなく開いて迎える。
 黙礼して顔を上げると、彼は蒼い瞳でひたと玉座を見据えた。
「ご準備は」
「最前からできている」
 玉座から立ち上がったのは、フレデリク三世。乗馬服とブーツに身を固め、フードつきのマントで頭を覆っている。
「では、まいりましょう」
 同じく旅装のセルジュは、王を先導しつつ、侍従長ギョームの開けた扉をくぐって庭に出た。王の庭の裏に、二頭の駿馬を待機させている。
 今日の騒ぎに乗じて、国王がひそかに王都から脱け出す計画だ。
 目指すはラトゥール河下流の港町ポルタンス。早駆けの馬で、日付の変わらないうちに到着できるだろう。
 予定どおりならば、今ごろは、リオニア首相リナルディと密使のラウロ・マルディーニの乗った船が、ポルタンスの沖合の海に近づいている頃だった。
「小わっぱの式と祝宴は、無事に進んでおるのか」
 フレデリクは気遣いを押し隠しながら、藍に染む晩秋の空を見上げた。
「そう聞いております」
 今になってようやくセルジュは、伯父と甥の関係にあるふたりが似ているところをいくつでも見いだせる。たとえば、こうして顎を上げている横顔の、口元から喉にかけての線。そして、力強く輝く水色の瞳。
 王は最初に会ったときから、エドゥアールが妹エレーヌ姫の子であることを見抜いていたのだろう。
(わたしは、いったい今まで何を見ていたのだ)
 度を越した父公の憎悪に反発し、あえてエドゥアールを自分の腹心として引き立ててやったはずだった。
 彼の聡明さと人心を惹きつける力を利用するだけ利用して、そのうち捨てるつもりだった。
 気がつけば、いつもふたりで行動していた。この庭で幾度も王との会合を重ねた。王政改革について夜が更けるまで激論を交わした。
 だが、この庭に入る資格を持たなかったのは、セルジュのほうだった。裏切られ、憐れまれていたのは、彼のほうだったのだ。
 臓腑の底に、黒く粘ついたものがこびりついている。それが『嫉妬』と名付けられた感情であることさえ、一度も経験したことのない彼には認めることができなかった。


 初めはまったく貴族と平民の会話が成り立たないかに見えた宴席は、いつしか誰彼の区別なく混じり合っていた。
「そりゃ男爵の旦那。異民族の商人から言い値でモノを買っちゃいけねえよ。三分の一まで値切らにゃ」
「な、なに。それでは、あの絨毯はたった二百ソルドだったというのか」
「内緒だけど、うちの奥さまがお使いの高級お白粉は、中身が混ぜ物ばっかりなんですよ。滑石と酸化鉄の粉を乳鉢で擦ったほうが、よっぽど肌がきれいになりますって」
「まあっ。本当なの。作り方を教えて!」
 無知無学だと蔑んでいた庶民たちが、実は豊かな生活の知恵を身につけていることを、貴族たちははじめて知った。
 席に座りきれない民衆たちにも、ラヴァレの谷の小麦で作ったパンや菓子、ブドウ酒がふるまわれ、王都の大路まで長蛇の列が続いた。
 宴の興が乗りきったころ、エドゥアールはテーブルのひとつに飛び乗り、ミルドレッドをふわりと抱き上げた。客はあわててコップや皿を取りのけた。
「いいぞ、なんか踊っておくれ!」
 それまで静かな曲を奏でていた楽団は、速い二拍子のポルカをにぎやかに弾き鳴らす。足踏みで軽やかな拍子を取っていた花婿は花嫁の腰に手を回して、くるりと回転した。紅いドレスは、まるで大輪のバラのようにひろがり、観衆から大喝さいが沸き起こる。
 今度は花嫁が両腕を高く挙げ、ステップを踏む番だった。時折りクイと腰をひねるような仕草に、男どもは卒倒寸前だ。
「うらやましいだろ!」
「うらやましいぞ!」
「さらおうなんて思うなよ!」
「そんな命知らずは、ここにはいねえ!」
 放浪民族に伝わる『結婚の踊り』で、花婿と介添えの男たちのあいだで交わされる決まり文句だ。
 総立ちで手拍子を打ち鳴らし、きゃあきゃあという大歓声を上げ、男も女も、貴族も平民も区別なしに肩を組み、何度も同じ歌を歌った。

『ああ 美しい花婿と花嫁
 あんたたちに、幾久しく幸せがあるように
 すべての人に その幸せを分けておくれ
 争いが 地上からひとつもなくなるように』

 太陽がラロッシュ河の向こうに沈み、無数の提灯に火が灯される。用意されたブドウ酒の樽がひとつ、またひとつと空っぽになって地面をゴロゴロと転がされていく頃、花輪で飾られた一頭の馬が引き立てられた。
 エドゥアールがまず鞍に跨り、ミルドレッドがその腕の中に抱きかかえられるようにして乗った。
 王都の門をくぐって町の外に出るまで、騎乗のまま大路を進む。『門出の儀式』だった。
「しっかりやんなよ、エディ」
 イサドラの店の娼婦たちは、甲高い声ではやしたてた。
「おめでとう、エディ兄ちゃん」
 テオドールに肩車されたフレッド坊やは、小さな体をせいいっぱい伸ばして両手を振っている。
「若さま。若奥さま」
 孤児たちも、声をそろえて祝福してくれる。
「ミルドレッド。わたしたちの娘や」
 モンターニュ子爵夫妻は、人目もはばからずに、おんおんと泣いている。
 ミルドレッドは、エドゥアールの腕をぎゅっと掴み、顔を伏せてその袖にはらはらと涙をこぼした。数々のことが思い出されて、嗚咽が唇から洩れるのを止められない。
 エドゥアールと最初に会った王宮舞踏会の夜。
 彼の頬を思い切り叩いてしまったとき。
 谷を渡る虹の下で、求婚の口づけを受けたこと。
 彼の秘密を明かされたときの衝撃。
 エドゥアールとともに過ごしてきた毎日は何もかもが新しく、戸惑いながらも、めくるめく喜びに満ちていた。今こうして彼の体温を感じながら、思う――これからもずっと彼とともに生きていけるのなら、もう何もいらないと。
「さあ、顔を上げて」
 エドゥアールが耳元でそっとささやく。「祝福してくれる人たちに、笑顔を。あと少しの辛抱だ。これが終わったら、俺たちのラヴァレの谷に帰れる」
「はい」
 ミルドレッドは愛する人の胸に預けていた背中を伸ばし、花のような笑みを取り戻した。
「帰りましょう。わたくしたちの谷へ」


 フレデリク三世がポルタンスを訪れるのは、生まれてはじめてだった。町に入ったとたん近付いてきた、セルジュが雇った案内役だという男に先導され、煉瓦造りの倉庫の影を縫うように進み、一軒の小さな建物に入った。
 明かりはない。遠くで港湾夫たちが焚いているかがり火が、煤けた窓から、かろうじて狭い室内を照らし出している。
「リオニアの船は、まだ入港しておらぬのか」
 すぐに港に案内されると思っていた国王は、室内を見回し、いぶかしげに問いかけた。
「まだです」
 いったんは素っ気なく答えたリンド侯爵は、思い直したように付け加えた。「近づくことは、ありますまい」
 振り向いたフレデリクの目に映ったのは、役者のように完璧に整った笑顔を浮かべるセルジュだった。
「桟橋に、今砲台を並べているところです。用意が整いしだい、砲撃を開始します」
「なんだと?」
 国王は窓に走り寄った。防波壁の向こうに、港であわただしく動いているクライン兵たちの姿が見えた。黒々とした威容の移動式砲台がゆっくりと運ばれていく。
「どういうことだ」
 と呻くフレデリクの背中に、セルジュは冷やかな声を浴びせた。
「リオニアは、もう二度と我が国と和平を結ぼうとは思わないでしょう」
 いつのまにか部屋に忍び入った数人の黒ずくめの男たちが、王を両方から取り囲んだ。
「セルジュ!」
 貴公子は暗がりの中で腕を組み、憐れむような蒼のまなざしで王を見つめていた。
「陛下。ただいまより御身を拘束し、わたしの支配下に置かせていただきます」


   第9章 終



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