最終章「新たな時代」
(1)
ポルタンスに、また霧の季節がめぐってきた。
川面に白いもやが這い、舳先にカンテラを灯した帆船や小舟の影が、ゆらゆらと港を出入りする光景は、まるで明け方の寝床で垣間見る幻のようだ。
ゾーイは診療所の扉を開けて中に入ると、しっとりと濡れたショールを帽子掛けに掛けた。
診療所の二階に住むようになってからも、早朝だけイサドラの店に手伝いに行っている。寝静まった娼館の中で細々とした片付けをすましておくと、娼婦たちが気持ちよく一日を迎えられるのだ。
かまどに火を熾していると、寝巻き姿のテオドールがフレッドを抱いて、二階から降りてきた。まだふたりとも寝ぼけまなこだ。
「おかえりなさい、ゾーイ」
「ただいま。すぐにお湯を沸かしますわ。何を飲みますか」
「そうですね。熱い紅茶がいいな」
ゾーイは、ケトルを火にかけた。小鍋を取って、さっき朝市で買ってきたばかりの牛乳を瓶から少しだけ注いだ。油紙からベーコンの塊を出して分厚く切った。卵といっしょに焼いて、今日の朝食に添えるつもりだ。
ゾーイがテオドールと結婚したのは、年が明けてすぐのことだった。
『フレッドに将来きちんとした教育を受けさせる気なら、もっと勉強の時間を増やさねばなりませんよ』
診察の合間のわずかな時間では間に合わないと言う。『だから、うちの二階に越してきませんか』
思わず「はい」と言ってしまった。それが求婚のことばだと気づいたのは、一呼吸おいてからだ。
勘当されたとは言え、相手は仮にも男爵の家柄。腕のいい医師で、しかも年下。自分のような卑しい身分の子連れ女など釣り合うわけがないと、ゾーイはずっと彼の気持ちを見て見ぬふりをしてきた。
(でも、もしかすると本当に彼は、私よりもフレッドと暮らしたかったのかもしれないわ)
そう勘ぐりたくなるほど、テオドールは義理の息子を可愛がってくれた。
夫の大きなマグカップに紅茶をなみなみと注ぎ、フレッド坊やの小さなカップには温めた牛乳を入れてやると、ふたりは並んで、そっくりな仕草で、ふうふう息を吹きかけた。
「そうそう、テオ先生。ミストレスからお手紙をことづかってきましたわ」
結婚して二ヶ月、まだ夫に対する他人行儀な呼び方は直りそうにない。
分厚い近眼鏡をかけなおして、イサドラの文を読み始めた医師は、次第にむずかしい顔になった。
「何が書いてあるのですか」
簡単な読み書きしかできない妻は、表情で内容を推しはかるしかない。
「王宮へ来るようにとのお召しが僕にあったそうです」
「王宮?」
ゾーイはひきつった声を漏らした。
「おうきゅうって?」
フレッドが口のまわりに白い泡だらけにして、訊く。
「きみと同じ名前の王さまがいるところです」
「ボクも行きたい!」
「もう少し大きくなって、わたしの助手になれたら連れて行ってあげますよ。ゾーイ、馬を貸してくれるように、あとでウィレム親方のところまで頼んできてもらえませんか。明日一番に立ちます」
「わかりました。でも……危険ではないのですか?」
ゾーイは息子の前ということも忘れて、つい懸念を口にする。「だって、国王陛下がお戻りになった後も、王宮は今、好戦派と反戦派がまっぷたつに分かれて争っていると聞きました」
「たとえそうであれ、病人に呼ばれる限り、医者はどこにでも行くものです」
テオドールは、できるだけ楽観的に聞こえるように、のんびりした声で答えた。
「それに、どうしても行かねばならない理由が、もうひとつあります」
と、袋の中に入っていたもう一通の書状を取り出した。「ミストレスから頼まれました。これを王宮に届けねばなりません」
ゾーイは、「あっ」と叫んでから口を押さえ、小声でささやいた。
「ラヴァレ伯爵のお手紙がまた届いたのですね」
「エディにいちゃん!」
「しいい。静かに。そう、エディから国王陛下に宛てた手紙です」
一家は額を寄せ合い、湧き出てくる笑みを交わした。
外国にいるエドゥアールからポルタンスに秘密の手紙が届けられるのは、もう三度目である。
そもそもの発端は五か月前、ひとりの水夫がポルタンスの酒場で気炎を上げながら、こんな自慢話をしたことだった。
『俺に逆らって、無事ですんだヤツはいねえ。天が俺に味方してるのさ。イサドラの娼館にいた生意気なガキも、船奴隷に売られちまって、俺にたてついたことを、うんと後悔してた』
その話は、彼が二杯目の酒を注文するまでにはイサドラの耳に届き、たちまち、すりこぎを持ったミストレスがすごい剣幕で酒場に現れた――と、今ではポルタンスの語り草になっている。
『みんな、外国航路の水夫という水夫に頼んどくれ。ラガスの西港を先月出港した【アンディス・ソレール】号と、乗っていたラヴァレ伯爵の噂を何でもいいから知らせろってね』
女将のかけた大号令はたちまちのうちに裏通りを駆け巡り、ポルタンスを出港する船によって、あまねく東や西の海に広がっていった。
待ち望んでいた消息は、年明けの頃もたらされた。この武器運搬船が、【海の帝王】の率いる海賊船に襲われたこと。そのとき、ひとりの伯爵が海賊船に乗り移っていったこと。
さらに幸運なことに、ポルタンスの娼館の主がエドゥアールの行方をさがしているという噂は、逆に港に停泊していた海賊船の水夫たちの耳に達したのである。
エドゥアールからの最初の手紙が、まもなくイサドラのもとに届けられ、それからも、海賊船の寄港ごとに、ポルタンス行きの船に託された。
受け取った手紙をイサドラは、敵に悟られぬように巧みに、それぞれの宛先に届ける。暗い闇に閉ざされたクライン王国の中で、ポルタンスの港は唯一、世界に開かれた希望の窓となった。
「よかった。伯爵さまはお元気でおいでなのですね」
「エディにいちゃんは、いつ帰ってくるんだろう。ねえ、お父さん」
「きっともうすぐですよ」
テオドールは、息子の頭をなでて、微笑んだ。
「待ちましょう。あの方が帰ってくれば、この国はきっと良くなる」
冬のあいだずっと、谷の上空を覆っていた灰色の雲が北に退いて、気がつけば青空が覗いている。
この谷の主の瞳を思い出させる色。何か良いことが起こるときは、あの瞳がいつも楽しそうに輝いていた。
谷の人々は冬のあいだ、事あるごとに行方不明の若伯爵のことを話した。雪の下で冬蒔き小麦の芽がすくすくと育っているのを見つけたとき。蚕の繭を紡いで機を織るとき。雪まじりの寒風に扉や窓がカタカタと鳴ってノックのように聞こえるとき。新しい蝋燭を灯すとき。
口が悪く、親しみやすく、突拍子もない行動で人々を驚かせ、そしていつも民のことを第一に考えていた領主さま。尽きぬ思い出を語り合い、最後に頭を垂れて無事を祈る。
不思議なことに、領館にいたときよりも谷を去ってからのほうが、人々は彼をより身近に感じているのかもしれない。
領館の使用人たちも、主の不在にかこつけて怠けている者はひとりもいなかった。
彼らはいつも以上に熱心に働いた。空き部屋の隅々まで掃除がゆきとどき、ランプのすすは、いつも丁寧にぬぐわれている。どの馬も毛並みが光るまでブラシをかけられ、鞍を置くばかりになっている。
たとえ真夜中にエドゥアールが帰ってきても、湯で顔を洗い清潔な服に着替えられるように。焼き立てのビスケットと熱いお茶で人心地がつけるように。
メイドもコックも、準備を怠らないのがあたりまえの日課となった。
その朝も、園丁見習いの小さなティムは、夜が明けると寝床を抜け出して、若旦那さまの部屋のバルコニーの下にしばらく立った。手すりに積もった雪に朝日が当たって、ぱさりと地面に落ちるのを見ると、いてもたってもいられなくなった。
「ようし!」
外働きの使用人たちも、いつでも自由にお屋敷に入ってよいとの許しを、若奥さまからいただいている。けれど、ひとりきりでは、やはり勇気が出ないのだ。
この前は、馬丁見習いのダグについてきてもらった。彼はティムに一番年が近くて、なにかと頼みごとをしやすい。ダグの姿を求めて、きょろきょろとあたりを見回していると、御者のランドが早足で歩いてくるのが見えた。
「ランドさん、おはよう。お屋敷に何の用?」
ティムは駆け寄って、猫なで声で言った。三つボタンの制服を着こんだ長身の御者は、邪魔だと言わんばかりに見下ろした。
「おまえには関係ない」
「奥の広間に行きたいんだけど、ついてきてくれる?」
「俺は大切な用事があって忙しいんだ。広間くらい、ひとりで行けるだろ」
「だって」
泥だらけの長靴の底を入口のわらの敷物で念入りに拭いてから、あわてて後を追いかけたが、もう御者の姿はどこにもなかった。
少年は脱いだ帽子を手に持ったまま、玄関の間で途方に暮れた。彼にとって、やはりお屋敷は今でも聖所なのだ。奉公にあがったときから叩き込まれた身分の壁は、今でも彼をはばんでいる。
「どうした?」
男の声に振り返ると、ティムは仰天して腰を抜かしそうになった。
若旦那さまの近侍をしている、金髪の騎士だ。
去年の秋、若旦那さまが軍隊に連れ去られた、あの悪夢のような日に、騎士も重傷を負った。その怪我のひどさと言ったら、あと一歩で天国の門をくぐるところだったのだと、園丁の親方は言う。
だからなのか。窓からさしこむ光にきらきらと金髪が輝く様子は、まるで天国から降りてきた大天使さまのように見える。いつも無表情で、めったに使用人とは話をしなかった騎士が、この頃は誰彼なしにやさしく微笑みかけるようになったのも、きっと天国に行って帰ってきたおかげに違いない。
「あ、あの、ぼく、若旦那さまのお手紙が見たいんです」
「わかった。いっしょに行こう」
ユベールはティムの手を握ると、奥の大広間に案内してくれた。
「わあ」
大きな樫の扉が押し開けられると、少年はいつもと同じ感嘆の声を漏らした。
壁に飾られた大きな黒い海賊旗には、どくろと王冠の紋章が染め抜かれている。ランプテーブルに置かれているのは、いにしえの海賊たちが隠した古代のソリドゥス金貨や、美しい青珊瑚だ。
神聖な祭壇を思わせる、何度見ても見飽きない光景だった。
そして、それらの宝物といっしょにエドゥアールが送ってきた手紙が置かれている。ティムは手紙に指を伸ばし、字を押さえながら、たどたどしく読み始めた。
「『しんあい……なる、ラヴァレりょうの……みんな。ふねは、い、い……』」
園丁の少年が、このところ字を真面目に勉強し始めたのは、この手紙が読みたい一心からだ。
「『船は、異教徒の大陸に上陸した』」
読みあぐねているティムの肩に、騎士はそっと両手を置いた。
「『ターバンの形をした金箔塗りの屋根が、まぶしいほど陽の光を反射している。町に漂う香辛料の匂い。人々の服装。何もかもがクラインと違っている。世界は本当に広いと思った』」
ユベールはそこで読むのをやめ、遠い異国に思いを馳せた。ポルタンスの港町にいたときのように、楽しそうに路地をめぐっている主の姿がありありと目に浮かぶ。
自分が、その隣にいないことが何よりも悔しかった。
ティムは、じっと海賊旗を仰ぎながら目を輝かせた。
「若旦那さまは、きっと立派な海賊になって帰っていらっしゃるよね」
その口ぶりが、ユベールはおかしくてたまらない。海のない土地で生まれ育った少年は、伯爵より海賊のほうが偉いと信じているのだ。
「王さまになって帰ってこられたら、どうする?」
騎士のたわむれの問いに、ティムはきょとんとした表情を返した。
「王さま……この国の?」
「そうだ」
「いやだよ」
即座に、ティムは首を振った。「だって、そしたら若旦那さまは、ぼくたちだけの若旦那さまじゃなくなるもの!」
そのとき、広間の扉が開いた。入ってきたのは、奥方付きのメイド、ソニアだ。
ソニアはユベールを見ると、はっと身を引き、腰を折って丁寧にお辞儀した。
ユベールも黙って会釈を返す。
「若奥さまが、まもなくこちらに降りておいでです」
「わっ、若奥さまが!」
ティムは、文字どおり飛び上がった。「ぼ、ぼく、すぐに失礼します」
あたふたと、園丁の少年が扉から逃げ出そうとしたまさしくそのとき、長い毛糸編みのショールをまとったミルドレッドが入ってきた。
「おはよう、ティム」
顔を真赤にしてうろたえている少年に、美しい女主人は微笑みかけた。「元気そうね」
「お、おはようございます!」
「ユベール」
非の打ちどころのない立礼をする騎士に、ミルドレッドは眉をひそめながら近づいた。
「体は、もう大丈夫なのですか」
「はい。お心づかい感謝いたします」
「まだ、あまり無理をしないほうがいいわ。少し目を離した隙にあちこちを飛び回っていると、ソニアが愚痴っていましたよ」
「それしきのことで」
微苦笑をもらしたユベールは、ちらと命の恩人であるメイドを見て、目をそらした。
「いてくれてよかったわ。たった今、ランドが領主さまの手紙を届けてくれたの」
そのとき、大伯爵が執事のロジェを傍らに従えて、入ってきた。
「エドゥアールから手紙が来たそうだな」
「お義父さま」
一同は、深々と膝を屈める。
冬のあいだ一進一退だったエルンストの病状は、暖かくなるにつれて好転し、今では杖を頼りに自分の足で歩けるようになった。エドゥアールが生きているとの報が、どんな薬にもまさる妙薬だったのだ。
いや、父伯だけではない。この領館に住む者にとって、彼は生きる喜びそのものだった。
ぱたぱたと忙しない足音が響き、家令オリヴィエ、そのあとにマリオンとオルガ母娘、メイド長のアデライドに付き添われたアルマ婆さんが続いた。
「みんな、そろったようだな」
知らず知らずのうちに、一同は壁にかかっている旗を見つめた。まるで、そこからエドゥアールその人が彼らを見つめているかのように。
「お読みします」
ミルドレッドは、ほっそりした指で紙をひろげた。
流麗な文字で書かれた書状は、それまでの二通とは違い、簡潔に要件だけが書かれてあった。
元気であること。彼が果たそうとしてきた目的は、ほぼ達成されたこと。
そして締めくくりのことばは――。
「『ラヴァレの谷に春が訪れる日に、帰ります。迎えをたのみます』」
「お帰りになる!」
オリヴィエが、素っ頓狂な叫びをあげた。
「いつですって?」
「『谷に春が訪れる日』と書いてありますわ」
「それでは、あまりにも漠然として、迎えをやろうにもやれません」
色めきたつ一同の中で、執事のロジェは落ち着きはらった声で言った。
「若旦那さまは、いつを春だと感じておられるのでしょうか?」
皆は、いっせいに口をつぐんだ。
メイド長が、こほんと咳ばらいをした。
「屋敷じゅうの鎧戸を開ける日ではないでしょうか」
使用人が総出で屋敷全体の埃をはらい、カーテンを洗う日。確かに春の訪れを最も感じさせる日だ。
人々は思わず、光が射しこむ窓を見やった。今年はミルドレッドの指揮のもと、すでに一週間前に鎧戸を開け放ったのだった。
足をもじもじ動かしていた最年少のティムが、たまりかねて言った。
「に、庭の、ゆ、ゆ、雪が溶ける日だと、思い、ます」
去年の春、園丁たちが庭の木々から雪よけのロープをはずした日、『ああ、春だなあ』としみじみエドゥアールが呟いたのを、ティムははっきり覚えていた。
そして今年、雪よけのロープをはずしたのは一昨日だった。
「わたくしは昨日、ジョルジュとトマといっしょに、谷を見回りました」
万感の想いをこめた静かな声だった。一同は、胸に手を当てて凛と立つ女主人に目をそそいだ。
「畑の雪が消え、黒々とした土からは、冬蒔き小麦が芽を出していました。湖の氷も溶け、川は十分に水かさが増えました。村人たちは閉じていた水路に水を引き、水車を回し始めましたわ」
一同は、次のことばを待って身じろぎもしない。ただひとり、誰にも知られぬうちにユベールの姿だけがかき消えていた。
「若奥さま……それでは」
ミルドレッドは、目に涙をたたえながら、にっこり笑った。
「ええ、領主さまはすぐにお戻りになります。だってこの谷に春は訪れたのですから」
王の謁見の間には、冷え冷えとした冬の空気が漂っていた。
玉座とその周囲には四人の人間がいたが、その中で沈黙と無縁なのは、ただひとり。首席国務大臣のエルヴェ・ダルフォンス公爵のみだった。
王国法のさだめにより、大臣の空位が三十日以上に及ぶことはできず、国王フレデリク三世はふたたび貴族会議を招集した。
国務大臣の選挙結果は、わかりきっていた。プレンヌ公一派の無投票当選。対抗して出馬する者は誰ひとりとしていなかった。
セルジュが父公の軍門にくだり、エドゥアールが行方知れずとあっては、貴族社会の改革を目指して一つにまとまろうとしていた若き下位貴族たちも、すっかり意気阻喪してしまった。
貴族会議は以前のように、上位貴族が牛耳る居眠りの場所に戻ってしまったのだ。
ふたたび権勢を我が手に取り戻したプレンヌ公爵は、カルスタンとの軍事同盟を強力に推し進め始めた。
戦争だけはなんとかして阻みたいフレデリク国王も、完全に外堀を埋められてしまった格好だ。
「陛下。今日こそは、ご返答願いたい」
勝ちを確信している余裕なのか。エルヴェは、王の不機嫌なだんまりなど気にも留めず、何度でも同じ問いを繰り返す。
「議会でも圧倒的多数で可決されたのです。今もって署名をくださらぬ理由は何なのです」
「しつこいな。おぬしも」
王の代弁を引き受けたのは、ユルバン・ド・ティボー公爵だ。
王牢から三年ぶりに姿を現わした元陸軍元帥。軍事同盟に公然と反対しているのは、今となっては彼ひとりだった。
出兵を求めるカルスタンの圧力に屈せず、ここまで持ちこたえられたのは、王立軍の内情に通じているティボー公のおかげだった。それも、ここへ来て、打つ手が尽きている状態だ。
「国境は、いまだ深い雪に閉ざされている。同盟条約の項目に記されている国境派兵は、とてもかなわぬ。雪が完全に溶けきるまで、無用に兵を動かすことなく、さらなる訓練を重ねたいというのが陸軍士官たちの意向だ」
「ふふ。ティボー公。そなた、軍の主だった者たちを味方に引き入れようと、あれこれ立ち回っているようだな。そのような老体で、無茶はせぬほうがよいぞ」
「おぬしのような酒乱の死にぞこないにだけは言われたくはないわ」
高貴な血筋の従兄弟たちは、憎々しげに互いをにらみ合った。
その場にいたもうひとり、セルジュ・ダルフォンス侯爵は、父たちの言い合いなど素知らぬふりで立っている。この世の何にもまったく関心を失ったという冷めたまなざし。
王政の担い手であるべき者たちからして、この有様だ。国中の心がバラバラになっている。
(この国はすでに、国としての形を失っておるのかもしれぬ)
玉座で頬杖をつきながら、フレデリクはぼんやりと自問自答した。
(余が愚かだった。一度捨てたはずの主権を、この手に取り戻そうとするなど。このままでは国はますます混乱に陥り、民を不幸にしてしまう)
王の逡巡を鋭く察したのか、プレンヌ公は玉座に向きなおった。
「それほどまでにご決断がむずかしいとなれば、陛下はおそらく、長き拘束のあと心身ともに病んでおられるのでしょう。どこか空気のよい地でご静養が必要なのではありますまいか」
「静養?」
「いっそのこと、王位をお譲りになってはいかがかと存じます」
「余に退位せよと申すか」
「有体に申し上げれば、さようにございます」
公爵の目は、獲物をつかんだ獣のようにぎらぎらと光っていた。王は苦く笑った。
(それでもよいかもしれぬな。どうせファイエンタールの名など、そこまでして後世に残す価値はない)
王は椅子の肘置きを拳でぎゅっと握り、体を起こした。「余は……」
そのとき、侍従長ギョームが広間の大扉をばたんと開け放った。
「ご会談中、失礼いたします」
フレデリクが王宮に帰ったあとも、ギョームはあまり顔を出さなかった。アメリア宮に幽閉されている王妃の連絡役として動いていると聞いていたが。
(まさか、妃の身になにか?)
と、思わず玉座から立ち上がる。
「なにごとか。陛下の御前、無礼であるぞ」
「おとがめは承知のうえでございます」
プレンヌ公の勘気を昂然といなした侍従長は、国王の前にひざまずくと、興奮に顔を赤く染めて口を開いた。
「物見の兵の報告でございます」
こころなしか声に、喜色がある。
「ラロッシュの下流から、一隻の海賊船が河をさかのぼってまいります。ほどなく王都に入港する模様」
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