伯爵家の秘密


最終章「新たな時代」


(5)

「ああ、一番会いたくない奴に会わなきゃならないのか」
 ぶつぶつ不平を鳴らしながら謁見の間に入ったエドゥアールは、奥の間から玉座に登ったばかりのフレデリク王に向かって、このあいだと同様、片膝を引いた。
 立礼は、国王と臣下の間では決して許されることはないが、王族同士では交わされる。
「こんにちは、伯父上。ご機嫌うるわしゅう」
「うるわしいわけがなかろう」
 予想どおりの、つっけんどんな答えが返ってきた。「いったい、何を考えておる」
「別に。長い航海中に、油断したら金髪に戻っちまって。もう今さら染めるのが面倒くさくなった」
 玉座の足元に腰をおろし、赤いじゅうたんの上で長々と両脚を投げ出す。「それに、その金ピカの絹張り椅子に、一度は座ってみるのもいいかなという気になって」
「座り心地の悪いこと、このうえないぞ」
「でも、そこで語られる言葉は誰も取り消せない。たとえば、『戦争はしない』と言ってみるのはどうかな」
 国王は、水色の目を疑わしげに細めた。「もう一度聞く。何を企んでいる」
「何も」
「いたずらに、事態をもつれさせているように見えるが」
「人聞きの悪い。攻勢に転じたんだよ。19年間、ただひたすら秘密を守ってきた。そうしないと殺されるとおびえながら。けど、髪を染めるのをやめて、母の名を偽るのをやめて、ようやく恐怖から解放された」
 エドゥアールは寝そべったまま、心地よさげに顎を持ち上げた。ひとつに結んだ金色の毛先がさらさらと揺れる。「ああ、自由になった気分だ。今なら何でもできそうな気がする」
 フレデリクは玉座から立ち上がり、階段を降りてきた。そして彼の隣に腰を下ろし、ゆったりと胡坐をかいた。
「そう言えば、そなたのエドゥアールという名だが」
「え?」
「エレ―ヌが小さいころ、かわいがっていたハツカネズミにつけていた名だ」
「ぶっ」
 伯爵は大声で笑い始めた。「だから俺、ちょこまかした性格なのか」
「せまい籠の中に入れていては可哀そうだと、扉をちょっと開けたとたんに逃げ出して行方不明だ。あの子は三日間泣き暮らした」
「うわ、縁起でもない」
「余がどんなに慰めても無駄だった。だが三日たつと、誰に教わったのか、紙を綴り合わせて絵本の手作りを始めたのだ。それからしばらく、ネズミを主人公にした話を延々と聞かされた。王宮を出たネズミのエドゥアールが、山々や海を越えて、遠い異国まで大冒険をする話だ」
 遠くに視線をたゆたわせる。「きっとエレーヌは、そんな自由な世界にあこがれておったのだろうな」
「……ふうん」
「やがて、あの子自身も王宮から逃げ出し、冒険の匂いのする男に嫁いだ。そこでエドゥアールを主人公に、ふたたび新たな物語を紡ぎ始めたのだ」
 国王は視線を戻し、自分と同じ水色の瞳をした甥を、慈しみの目でじっと見つめた。
「生まれてきてくれて感謝する」


「どうなされました」
 馬車に揺られている間、ユベールは妙に口数の少ない主に気づいた。
「どうにも、不思議な気分なんだ」
 エドゥアールは夢見るような口調で答えた。「俺たちって自分の人生を生きているつもりでも、しっかり父親や母親の思いを受け継いで生きているんだな」
「そうでしょうね」
「俺もセルジュも……ユベール、おまえもその仲間だな」
「確かに」
「人間の創生から数えれば、どれほどたくさんの思いを俺たちは受け継いできたのかと考えていたら、なんだか気が遠くなりそうだ。ひどく重荷なようでいて、反面、とても幸せなことのような気がする」
「そういう小難しいことをお考えになるときの若さまは、危険です。たいてい数分もしないうちに、前後不覚に寝ておられますから」
「揺り椅子で寝入った俺を、アンリがよくベッドまで抱いて運んでくれたのを覚えてる。あれは気持ちよかったな」
「そんなでかい図体を運ぶなんて、わたしはご免こうむりますね」
 馬車が伯爵家の居館への道への曲がり角にさしかかったとき、突然停まった。
「どうした」
「得体のしれない大きなものが道の真ん中をふさいでおります」
 御者のランドが、緊張した声で答えた。
 ユベールは険しい目で主人を見、剣を左手につかみながら、駕籠の扉を開けて道に降り立つ。
 エドゥアールは御者台への小窓を開けて、ささやいた。「ランド。その場に伏せていろ」
 異変はその瞬間に起こった。街路樹の影が分裂したかのように、黒い影が数体飛びかかってきて、空気を裂く勢いで剣を振り下ろした。
 ユベールはとっさに、馬車の扉を盾代わりにして、攻撃を受け止めた。それと同時に剣を抜き放ち、扉を押し開けると同時に相手に真一文字に突き刺した。
 敵は後ろからも襲ってきた。
 ユベールは剣を引き戻し、しなやかに体を反転させて、背後の攻撃を受け止めた。
「若さま!」
 叫ぶと同時に、馬車の反対側の窓が割れる音が響く。もうひとりの刺客が、中にいるエドゥアールを狙ったのだ。
 だが、悲鳴を上げたのは、その刺客のほうだった。
 扉の枠から足を蹴上げて、くるりと一回転して馬車の屋根に飛び乗ったエドゥアールは、いつのまにか手に持っていた鞭で、刺客の体をもう一度、したたかに打った。
 すでに一度めの鞭で目をやられていた敵は、顔を押さえながら仲間に叫んだ。「引け!」
 ユベールを襲った敵ふたりも、たちまち姿を消した。その跡には、点々と血がしたたり落ちている。
「追うな」
 落ち着きはらった声で命じると、屋根の上に立っていた伯爵は、持っていた鞭を御者に差し出した。「ありがとう。返す」
 おそるおそる顔を上げたランドは、ハアと大きな息をついた。
「なんというか……お見事です。おふたりとも鬼神のごとき強さで」
「伯爵を廃業したら、ふたりで組んで闘技場に出るのも悪くないな」
 少し眠たげな声で答えると、エドゥアールは馬車の中に戻って、椅子の背に体を預けて目を閉じた。


 ミルドレッドが目を開けると、寝台の隣では夫が起き上がるところだった。
「もう……朝ですの?」
 エドゥアールはにっこりとほほ笑むと、片ひじをついて手を伸ばし、彼女の柔らかな髪を撫でた。「いいから、寝ておいで。昨夜はほとんど徹夜だったろう?」
「でも、今日は大事な貴族会議の日ですもの。朝食をともにして、きちんとお見送りしたいのです」
「そんなウサギみたいな真赤な目で見つめられると、背筋がぞくぞくして、また寝台から起き上がれなくなっちまう」
 エドゥアールは彼女を腕の中に引きよせると、すべすべした頬に何度もキスを落とした。「貴族会議なんか、ほっぽりだそうかな」
「だめです。この国の未来が決まる会議なのでしょう。あなたがいなければ始まりません」
「ラヴァレ伯爵家の未来を決めるほうを優先したい」
「もう『子どもは四人、最初は女』とお決めになったのでしょう。あなたの壮大なご計画は、出入りの商人までが存じていますわ」
 冗談を言って笑い合いながら、十八歳の伯爵夫人は、十九歳の伯爵の胸にしっかりと抱きついた。
「でも昨日やっと、心底からわかりました。……本当に子どもは希望です。わたくしたちは子どもの姿を通して、何十年後の世界を夢見る力が与えられるのですわ」
「生まれ出た赤ん坊が俺たちの年になったとき、この国の民が分け隔てなく笑い合える世の中になっているといいな。俺たちはそのことを考えて、せいいいっぱい生きなければならないんだ」
「お願いしますね。きっと、そういう国にしてくださいませ」
「ああ」
 エドゥアールは力強く答えた。「今日の貴族会議で、新しい時代の幕が開く」


 プレンヌ公エルヴェ・ダルフォンスは、煙草の葉をいらだたしく噛みながら、部屋の中を落ち着かなく行き来していた。
 ルネの話によれば、昨夜の襲撃はまたも失敗したという。
 おとなしく死ねばよいものを、何という執念深い猿だ。あの近侍の騎士がぴったりそばに控えているのが悪い。名門カスティエ家の血を引き、かなりの実力の持ち主だと聞く。
 なにしろ、あのルネを一撃のもとに仕留めてしまったというのだから――。
 そこまで考えて、老公はぼんやりとした表情になり、頭をかすかに振った。
「ルネはおるか」
 だが、扉を開けて入ってきたのは、フラヴィウスとかいう太った武器商人だった。
「あの伯爵にしてやられた」
 開口一番、憤怒のことばをわめき散らす。「東の海から大陸にかけてのギルドの支部が、ほぼ同時に襲われたという連絡が入った。倉庫の武器も、船の荷も次々と奪われたと。【海の帝王】が仲間を使って、片っ端から襲わせているらしい。今までギルドと海賊は、暗黙の不可侵協定を結んでいたはずなのに、いきなり牙を剥いてきた。あの悪魔のようにずる賢い若造がリオニアと結託して、うしろで糸を引いたに違いない」
 てかてかと光る赤ら顔でまくしたてても、ただ滑稽なだけだ。エルヴェは口元を軽蔑にゆがめながら答えた。
「それが、どうした」
「どうしたですと! 武器商人が、売るべき武器も火薬も根こそぎ奪われたのですぞ。カルスタンへの武器供給路が断たれては、国境紛争どころではない。カルスタンの使者たちも、今朝がた、あたふたと本国に戻っていきましたわい」
「今はそれどころではない。王位継承を決める会議が始まるのだぞ」
「クラインの王位など、もはやどうでもよいことです。あなたはせいぜい内紛ゲームを楽しんでおられればよかろう」
 腹を揺すりながら出ていく商人の背中を見送ると、公爵は噛み煙草を吐き捨て、デキャンタから強い酒をグラスになみなみと注いで、一息にあおった。
「さっきから呼んでいるのに、ルネはどうした」
 部屋の隅に縮こまっていた従僕が、「は、はい」と頭を下げて、逃げるように出て行った。
「ルネ。どこにいる」
 もはや誰からの返事もなく、部屋は暗く静まり返っている。
 エルヴェは足をもつれさせ、よろめいて床に倒れた。
 立ち上がろうとして立ち上がれない。もがく彼に、一本の手が差し伸べられた。
「父上。だいじょうぶですか」
「セルジュか」
 プレンヌ公は、力ない蒼の瞳を上げた。「いまいましい。呼んでも誰も来ぬのだ」
「わたしがいつも、おそばにいるではありませんか」
 セルジュは、割れたグラスを引き離し、老いた父親を立たせると、暗赤色の正装の乱れた襟を直した。
「すぐに貴族会議が始まります。行きましょう。ラヴァレ伯爵と王位を争う大切な会議に遅れるわけにはいきません」
「わかっておる」
 セルジュは父親の腕を取り、執務室を出た。
「わたしが幼子のころ、父上は毎晩のように枕もとに来て、ささやいてくださいましたね。『この国のすべては、やがておまえのもの』と」
 天使が持つという完璧な笑みをたたえながら、貴公子は父を見た。
「そうだったか」
「父上の御力で、それを現実のものとするのです。どうぞお心を強く持たれませ」
 混乱したエルヴェの瞳に、わずかに生気の光が宿った。
「そうだな」と、高らかに笑う。
「今日こそ、ファイエンタールの血族に引導を渡してくれるわ。そしてわたし手ずから、おまえに王冠をかぶせてやる」


 貴族会議の会場である【獅子の間】の席は、すでに一時間も前からぎっしりと埋め尽くされていた。
 現王に世継ぎが生まれぬ以上、傍系アルフォンス家の父子に王位継承権が渡るのが当然のことと誰もが思っていたのに、とてつもない大きな爆弾が投げ込まれたのだ。
 エドゥアール・ファイエンタール・ド・ラヴァレ伯爵がおのれの出自を明らかにし、王もその訴えを認めた。
 王妹エレ―ヌの遺児。それを聞いたとき、誰もがのけぞった。戦慄した。
 六十年前まで、黒雲となってこの国を覆っていた血で血を洗う王位継承権争いが、今また再現される予感におののいた。
 不安に震撼しながらも、好奇心に背中を押されて、貴族たちは王都に集結したのだった。もはや座席、立ち見席はおろか、通路や階段にいたるまで、立錐の余地もない。それでいて、みなの視線はひとりであるかのように、熱っぽく議壇にそそがれている。
 その中には、ティボー公爵もいた。彼は家督を嫡男に譲り、すでに公爵としての議席を失ってはいたが、陸軍元帥としての功労により【名誉議員】の資格を与えられ、最前列に陣取っている。
 もちろんエドゥアールの義父、パルシヴァル・モンターニュ子爵も、祈るような面持ちで末席から見つめている。
「王国法第八条には、『国王となるにふさわしき者はすなわち、ファイエンタールの名を有する者』とある」
 議長は汗を拭きながら、本日の議題の主旨を述べ始めた。
「この『ファイエンタールの名を有する者』の中に、嫁した王姫が含まれているか否か、学者のあいだでも意見が分かれるところである。ちなみに、外国へ嫁いだ場合、姫君はファイエンタールの家名を剥奪されることが慣例とされている。さもなければ外国に王位継承権者が生まれることになるからだ。現に王国暦802年、当時の王ミシェル二世の妹君ローザ殿下は……」
 議長の説明は延々と続いたが、私語する人間は皆無だった。
「だが、国内の爵家に嫁がれた姫君の御子が、王位継承者たりうるか否かが論議されたことは、クライン王国数百年の歴史を通じて、一度もない。つまりは、前例がないのである。議員諸侯におかれては、これらのことを念頭に置いたうえで、国王陛下の御前にて、双方の言い分を傾聴いただきたい」
 最初の発言者は、プレンヌ公エルヴェ・ダルフォンスだった。
 彼が議壇に上がるあいだ、人々はわずかにざわめいた。つい数ヶ月前まで立ち居振る舞いにも意気込みがあふれていた公爵が、今や見る影もなく老い、助けなくしては登壇することができなかったのだ。
 しかし、すり鉢状の席を見渡す鷹のような鋭い異貌には、毛筋ほどの弱さもない。
「先ほど議長の申し述べたとおり、ファイエンタール王家にお生まれになった御子といえど、女性には王位継承権はありません。嫁した姫君ならば、すでに臣籍に入っているとみなされるのが自然でありましょう。ましてや、エレ―ヌ姫におかれましては――」
 たっぷりと計算された間を置く。「下位貴族ラヴァレ伯爵家に、すなわち黒髪の氏族へと降嫁されたのです。それが何を意味するか、おわかりになるか。こんなことを許せば、数代後に黒髪の王が誕生するやもしれぬのですぞ!」
 公侯爵の席から怒号が沸き起こった。百数十年ものあいだ、この国に及んでいた金髪の征服民族の支配が明日にも崩れ去るかもしれないという、突然の恐怖に駆られたのだ。下位貴族の中にさえ、長い歴史の中で築かれてきた秩序を破ることを善しとしない、従順な人間は多い。
 たった数十語の演説で、プレンヌ公爵は、彼ら保守派の怒りに火をつけることに成功した。
「さすがだな、プレンヌ公。年の功だけあって話がうまいや」
 険悪な雰囲気がどんどん高まっても、エドゥアールは動じる気配もなく、ひそかに敵に賛辞を送る。
 議場に入る資格のない士爵階級のユベールは、扉の陰に立ち、気が気ではない。いつでも飛び込めるようにしているが、満場で動きが取れないのだ。
 せめてもの慰めは、王宮のあちこちにひそんでいた武器商人ギルドの刺客たちはおろか、カルスタン勢力までが、今朝からまったく姿を見せていないことだった。
 議場の大勢がプレンヌ公爵派に傾いたのを見届けて、次はエドゥアールの弁舌の番だった。
 軽やかな足取りで議壇に登ると、伯爵は貴族たちにむかって笑いかけた。
 それは、自信にあふれた笑みだった。若々しく、活力に満ち、投げかけられた敵意も疑いも、すべて温かく包みこんで消し去るような笑みだった。
「『王の兄弟たちは臣籍に降下すべし』との法令を定めたのは、現在の王国法を整えたミシェル四世です」
 やわらかく穏やかな声で、エドゥアールは語り始めた。
「その理由を、ミシェル王は【法の秩序】という書物に、こう書き記しています。『国の最小単位は家族である。余もそうであったように、国王である父と王妃である母に育てられた弟や妹たちもまた、王であるための規範と慈愛をひとしく学んだ。幾世代にわたって、王族が王位をめぐって兄弟で争い続けた不幸な歴史を断ち切るために、余はやむなく、さきの法令を定めた。だが同時に、余の弟や妹たちこそが、余の思いを理解しうる最も近しい家族であることを、疑うことはない』」
 手元に一度も目を落とさずに、エドゥアールはよどみなく、すべての文言を暗唱した。
「家族愛をこれほど尊んだミシェル四世は、実際には家族に恵まれない人生を送りました。弟や妹婿たちと反目し、王妃との仲は冷え切り、世継ぎである嫡男とは心が通じ合わなかった」
 孤独の中、ミシェル四世は嫡男の妻であるアメリア妃と密通するという、赦されることのない大罪を犯すにいたる。その封印された事実を知るのは王宮でも、ごく限られた人間だ。
「王位を継いだ大王フレデリク一世も、寂しい晩年を送り、その最期は自暴自棄の果てであったと聞きます。さらに、その子フレデリク二世は、ほとんど王宮の外に出ることなく、貴族の要求を際限なく受け入れた結果、王国法は【恩恵】と呼ばれる貴族の特権ばかりが肥大する悪法と化してしまいました。そして、フレデリク三世陛下は――」
 彼はバルコニーの玉座を見上げた。「ファイエンタール王朝をご自分の代で終わらせようと、ご決意なさっておられます。王族がたどってきた不幸な歴史は、国全体に影を落としていないでしょうか。国の最小単位が家族であるとするならば、ファイエンタール王家という家族を頂点とするクライン王国は、崩壊の一途をたどってきたとさえ言えるのです」
 フレデリク王は、玉座の腕をぐっと拳でつかんで、身を支えた。
 エドゥアールは、ありったけの熱意をこめて言葉を結んだ。「わたしは王族の一員として、王家にかけられた呪縛を解きほぐしたいと願っています」
「やはり、そうか」
 プレンヌ公は、ひきつった笑い声を上げながら、議壇の背後の席から立ち上がった。
「おまえは、やはり、この国を共和主義者に売り渡すつもりだろう。自分が王になったとたん、法律をめちゃくちゃに改編し、王政を廃止するつもりなのだ」
「わたしは、そんなことはひとことも言っていません、プレンヌ公」
「だまれ! おまえはクラインの古き伝統をすべて打ち壊すつもりだ。貴族諸侯。口車に乗ってはなりませんぞ。こいつは貴族に復讐したいのだ。なにしろ卑しい娼館で……」
 プレンヌ公は目を見開いた。みるみる、顔が土気色に変わってゆく。
 胸をかきむしりながら、公爵はその場に崩おれた。
「父上!」
 セルジュは弾かれたように檀上へと駆け寄り、うずくまる体を抱き起こした。「……父上」
 すでにどす黒い紫へと変わった唇からは、なんの言葉も返ってはこない。
「部屋にお連れもうせ。ただちに医者を呼べ」
「はっ」
 数人の従者たちが議壇に駆け上がって、老公をそろそろと運び出した。
 貴族たちは総立ちのまま、小さなざわめきが這うだけの不思議な静けさの中で、退場する公爵を見送った。ひとつの時代が終わる予感に震えながら。
「ご案じなさいますな、父上。旧体制の古き醜悪な伝統は、わたしが最後までともに背負いますから」
 口の中でつぶやいたセルジュは、金髪をゆらりと揺らしながら振り向いた。
 そして、呆然と立ち尽くすエドゥアールをちらりと横目で見てから、議壇へと進み出た。
「議長。病に倒れた父の代わりに、陛下の御前に発言することをお許し願いたい」





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