伯爵家の秘密


最終章「新たな時代」


(6)



 金色の髪の高貴な若者たちは、檀上の両端から、互いをにらみ合った。
 会議場は、固唾を飲んでふたりを見つめている。彼らのうちどちらかが、次代の王となる運命なのだ。
「ラヴァレ伯爵に訊ねたい」
 先に舌戦の口火を切ったのは、臙脂色の礼装をまとうリンド侯爵だった。
「貴公が王になることについては、多くの者が不安を抱いている。この国の何を変えるつもりだ。王政および貴族制度を廃止するのか」
 鶯色の礼装を着たラヴァレ伯爵が答える。「王政を廃止するつもりはない。だが貴族の特権の一部は、廃止か縮小しなければならないと考えている。爵領の再編もありうる」
「つまりは、共和制に移行するということか」
「それは考えていない。確かに共和主義の目指すものは、ひとつの理想ではあるが、そこに至るまでには多くの難問がある。リオニア共和国を見ても、決してバラ色の理想社会にはなっていない」
「それでは、貴族の権限を縮小すれば、すなわち王権が拡大するということに他ならない。すなわち絶対王政だ」
 セルジュは、だんだんと声を荒げた。今論じ合っていることは、かつてエドゥアールと執務室のソファで向き合いながら、何度も夜を徹して議論したことばかりだった。敵対する立場などではなく、無二の盟友として。
「貴公は、王がすべての権力を掌握するために、貴族の力を弱めようというのか」
「違う。民衆の代表が議会の代表となって、王権を制限すればいいんだ」
「つまりは、この貴族会議を、国民会議の名のもとに解体するのだな。今まで代々領地を治めていた貴族に代わって、選挙で選ばれた民衆の代表が立つ。政治も経済も何も知らぬズブの素人が国政や行政に参加すれば、間違いなく、徒党を組んで騒ぎ立てる烏合の衆が生まれるだけだ」
「民衆全体に知識が普及し、政治に参加するという意識が生まれるまでは、確かに時間はかかると思う。そのために何よりも必要なのは、教育という国家百年の大計だ」
 セルジュは、議壇をがんと拳で叩いた。激したふりをして注目を集め、一気に流れをこちらに引き寄せようという目論見だ。
「その結果、何が起こるか教えてやろう。職業政治家が誕生し、彼らに媚びる輩どもが現われ、ワイロが横行するだけだ。しかも結局は、その地位を自分の子どもに譲ろうとする。誇りと品格を持っていないだけ、貴族より十倍も悪い」
 対してエドゥアールは、凪いだ海のように冷静な態度を崩さない。まるで、いつもの彼らの関係が逆転しているようだ。
「貴族の持つ誇りと品格など、民衆の犠牲の上に胡坐をかいた特権意識だ。貧しい民衆は日々の暮らしに窮し、立ち止まって考えるゆとりすら持てずにいる。ひとりひとりの民が誇りと品格を持ち、ともに国の将来を考えることこそが、真の成熟した国家の意義だろう」
「リオニア共和国に起こった変化を見ても、そんなことが言えるのか。かつてあの国が王国だったとき、世界最高の芸術と文化を誇っていた。壮麗な建築物と絵画は、王室や貴族が保護したことによって発展した。今のリオニア文化の衰退ぶりは、目を覆わんばかりだ」
「芸術が一部の貴族のものではなく、民衆のものになっただけだ。ごく普通の町の民が音楽を楽しみ、絵画を家に飾っている。どちらが真の豊かさかを、とくと考えてみるがいい」
 議員たちは、あんぐりと口を開け、息を呑むのも忘れて、議論に聴き入っている。
 たとえすべては理解できなくても、火の燃えさかるような熱弁に、居合わせたすべての者たちが腹の底が熱くなるのを感じている。
「おお。これはまるで」
「政党に分かれて政策を論ずるという、共和主義者の議会ではないか」
「こんなすごい議論は、はじめてだ」
 気がつけば観衆の関心から、王位継承問題など吹き飛んでいる。
 ふたりの貴公子は目を輝かせ、祖国の未来を論じ合って、とどまることを知らない。
 その顔に浮かんでいるのは、憎しみでも宿敵への嫌悪でもない。あふれる喜びだった。
 エドゥアールとセルジュは、王位を争うために相手をおとしめて、滅ぼそうとしているのではなかった。その反対だ。互いを信頼し、尊敬し、さらなる高みを目指すために闘っている。
 彼らは議論を戦わせながら、自分の命を燃やしていた。向き合うふたりの若者は、まさにその瞬間、この国の行く末を決めるふたつの灯台であり、道標だった。
「まったく、そなたたちは、何という――」
 彼らを見つめる玉座のフレデリク三世の目から、ひとすじの涙がしたたり落ちた。


 【獅子の間】の絢爛たる天井のバルコニー席に、数人の男女が静かに立っていた。
 ラヴァレ大伯爵エルンスト・ド・ラヴァレ。その義理の娘である若伯爵夫人ミルドレッド。元メイヨー伯爵夫人イサドラ。そしてグラン男爵の勘当された三男、テオドール・グラン医師である。
 いずれも貴族や元貴族とは言え、議場に入る資格を持たぬ者たちだが、国王の配慮により、特別に緞帳の陰から傍聴することを許されたのだ。
 彼らは、余人にはわからぬ感慨に打ち震えながら、エドゥアールの演説に耳をそばだてていた。
「このクライン王国を支えているのは、貴族ではない。民衆たちだ。一日十ソルドの日銭を稼いでいる貧しい民が、この国の経済の原動力であることを、わたしたちは肝に銘ずるべきだ」
 テオドール医師の脳裏に、かつてエドゥアールが裏町の診療所で言ったことばがよみがえった。
『テオ。あんたも見ただろう、貧しい人たちの団結する力を。この世には、身分や財産では決して動かせないものがあるってことを』
(ラヴァレ伯爵。あなたは)
 分厚い近眼鏡を曇らせながら、彼は心の中でつぶやいた。
(僕が二千ソルドの借金を返せずに窮していたとき、裏町の人々を総動員して、苦境から助け出してくれましたね。あなたは貧しい暮らしの中で、僕たちといっしょに笑ったり泣いたりなさった。あかぎれの痛さも、つましい人々の願いも全部知っておられる。この国の民衆は、あなたから裏切られることは決してないでしょう)
「貴族と平民の間には、百数十年にわたって越えがたい壁があった。今でも、双方は持って生まれたものが違うと固く信じている人たちが、大勢いる。けれど、声を大にして言いたい。人間は髪の色、肌の色、家柄や身分によって、決してその人の持つ可能性を摘み取られてはならない」
 娼館の女将イサドラは、八年のあいだ息子同然だった若者が弁舌をふるう姿を見つめながら、幼いころからの記憶が胸にせまりくるのを抑えられなかった。
 彼女の手の中で、この若葉は健やかに育ち、今や大木となって国の中心にそびえようとしている。
(エドゥアールさま。あなたの中では、いつもふたつの価値観がぶつかり合っていたはずです。けれど、立派にそれを乗り越えられた。あなたは、民衆の自由奔放さと貴族の高貴さを見事に融け合わせて、持っておられます。わたくしは、ご成長を見守ることができたことを生涯の誇りにいたします)
「貧しいからと言って、知恵や力がないわけではない。ただ彼らは、その知恵を文字を通して社会に伝えることができないだけだ。文盲と言葉の壁が、階層を越えて互いに分かり合うことを妨げている。もし全国民に教育が行き渡れば、この国はどれだけ豊かな国になることだろう」
 ミルドレッドは、この世で誰よりも愛する人の声を聞きながら、胸を震わせていた。
(ええ、エドゥアールさま。わたくしも、貴族と平民の壁は壊せるものだと信じますわ。あなたこそは、その壁の両側で生きてきた御方。壁を破るために生まれてきた御方。何も知らなかったわたくしのごとき頑なな者でさえ、広い世界に連れ出してくださったのですもの)
「国がひとつの大きな家族であるとするならば、わたしたちは、ひとりひとりの声なき声に、もっと耳を傾けるべきだ。長兄が豊かな生活を享受するために、末弟が飢えに瀕してよいはずはない。父が病に苦しみもだえているというのに、息子が野心や享楽にうつつを抜かしてよいはずはない」
 ラヴァレ父伯は目を閉じながら、天を仰いだ。
(ああ、エレ―ヌ。あの子の声が天国まで聞こえるかい。わたしたちの選択は、やはり間違っていなかったよ。わたしたちが身分を越えて愛し合い、多くの人を巻き込んでしまった罪は、あの子の存在を通して今、赦されたのだ。わたしたちは、クラインの未来に大きな贈り物をしたのだよ)


 ついに、数時間にわたる論戦が途絶えた。ふたりは互いをしげしげと見つめ合った。
 エドゥアールは咳ばらいし、かすれた笑い声を上げた。
「楽しかったな、セルジュ。こんなに充実した時を過ごしたのは久しぶりだ」
 セルジュも薄い唇に笑みをたたえて、うなずいた。「ああ。わたしもだ、エドゥアール」
「なんだか、王の血筋の正統性など、どうでもよくなってきた」
「同感だ」
「血が支配者を決めるんじゃない。クラインを愛し、その行く末を誰よりも案じている者が王になればいい。こうして知恵を出し合い論議を尽くす場が与えられるならば、誰が王になってもいいんだ」
「ああ」
 セルジュは高いドームを仰ぎ、描かれている吠えたける大獅子の天井画を見つめた。
 冠の獅子はクライン王国の象徴。生まれてからこのかた、あれほど手に入れたかったものだった。
 父から受け継いだ古い時代の怨嗟は、すべて燃やしつくされ、昇華されていた。こんなにも晴れやかな気分になったのは、生まれてはじめてだ。
(同意していただけますね。父上。いえ、同意するしかありませぬ。あなたの野望はたった今、この男の前に粉々に砕け散ったのですから)
 人々はざわめきだした。いったい今の議論で何が決まったのか。次の王と定められるのは、どちらなのか。
 うながされて議壇に立った議長は、むなしく汗を拭きながら立っているばかりだ。
「えー、それでは、王位継承に関する議題について、議員諸君の採決を……」
「議長」
 リンド候セルジュ・ダルフォンスは議長に発言を求め、ついで玉座のほうに向きなおり、儀礼に則ってひざまずいた。
「陛下。お許しをいただきとうございます。アルフォンス公爵家は、今をもって王位継承権を永久に放棄いたします」
「なんだって!」
「リンド候が、王権争いから退いた!」
「新王は、ラヴァレ伯爵に決まった!」
 議場はたちまち、大混乱に陥った。貴族たちは立ち上がり、互いのことばがさっぱり聞こえない騒音の中で叫び始めた。
「どうぞ、次の王位はラヴァレ伯爵にお譲りくださいますように」
 その騒音に負けぬように、セルジュは一語一語はっきりと区切って発音した。
 後悔も敗北感もない。ただ、自分の手で、公爵家の闇の歴史に誇りを持って幕を引くことができたという喜びがあるだけだ。
 エドゥアールは友に向かってほがらかに微笑むと、みずからも玉座に向かって膝をついた。
「陛下。わたしも王位継承権を放棄いたします」
 議場の人々は数秒のあいだ、彫像のように固まってしまった。
「な、なんだと」
「それでは、いったい誰が次のクライン王になるのだ」
 さらに倍加した絶叫のうずの中で、フレデリク王でさえもが玉座から立ち上がり、バルコニーの手すりを両手でつかんで身を乗り出した。「何を考えておる。小わっぱ!」
 面喰らいながら彼を見つめていたセルジュは、噛みつくように叫んだ。
「……まさか。おまえまでが継承権を放棄するだと?」
「まあ、見てなよ」
 エドゥアールは片目をつぶってみせると、振り返って議壇から議会を見下ろした。
 片手をすっと伸ばす。それだけの動作で、騒然とした広間はたちまち静けさに覆われた。
「ここにいる誰よりも、ずっと王にふさわしい方がおられるのです」
 そのことばが合図だったのか。玉座のあるバルコニーの扉が開き、侍従長のギョームが深々と礼をして入ってきた。
 彼の後ろからは、侍女につき従われて、正装して冠をいただいた王妃がしずしずと入ってきた。
「テレーズ?」
 フレデリクは、数ヶ月ぶりに会う王妃を怪訝な顔で見つめる。
 王妃は薔薇色の頬に美しい微笑をたたえながら、ゆっくりと歩いてくると、夫の前で片膝を折った。「お久しゅうございます。陛下」
 国王がみるみる驚愕の表情を浮かべるのが、下の議会席からも見えた。王妃が両腕に抱えている布包みのようなものに目を奪われている。
 一同は、目をこらした。
 「あっ」と下位貴族たちのいる最上段の席から上がった声は、たちまち上位貴族のいる下段へと津波のように広がっていく。
 布包みと思われたものから、小さな手がにゅっと伸びたのだ。まるでおもちゃのような拳。
「赤子だ!」
 地鳴りのようなどよめきが、湧き起こる。「王妃が抱いておられるのは、御子だ!」
 目の前に差し出された見慣れぬ存在に、王の白い顔に恐怖に似たものが貼りついた。テレーズは、泣く子をあやす母親のような口調で言った。
「陛下。これは、あなたの御子。ファイエンタール王家の男子にございます」
「余――余の子ども、と申すか」
「はい。どうぞ、とくとご覧くださいまし。あなたにそっくりな水色の眠たげな目をしているのが、何よりの証拠ですわ」
 フレデリクは王錫をぽとりと落とすと、おそるおそる手を伸べた。目の見えぬ赤ん坊は、差し出された指を反射的に拳できゅっと握った。
 その小さいが確かな感触に、クライン王は大いにたじろいだ。
 やがて満場の貴族たちが見守る中で、誰はばかることなく、王の水色の目は尽きぬ泉となった。


「王妃さまにおかれましては、ゆうべ遅くご出産あそばされました」
 グラン医師はイサドラとともに、王の居間の床にひざまずいて、一部始終を報告した。
「カーテン越しの診察と分娩となりましたので、女性の介添え役として、ここにいるプランケット夫人と、ラヴァレ伯爵夫人が労を取ってくださいました。幸いなことに、とりたてて問題も起きず、帝王切開の必要もない平穏なご出産であり、まことに重畳なこととお喜び申し上げます」
 テオドールは、ウィレム親方の子を取り上げたときに帝王切開に一度成功しているものの、二度目も成功するという保証はない。王族の出産ともなれば、さぞかし恐ろしいほどの重圧だったろう。
 ましてや、その子は第一王位継承権を生まれながらに持つ王太子。その尊い御子を、医師はみずからの手で取り上げたのだ。
「ご産後の経過も良好。王太子殿下は、今朝がた王妃さまのお手ずから初めての母乳をお飲みになり、健康そのものであられます」
「まったく」
 すっかり苦虫を噛みつぶしたような顔に戻ったフレデリク三世は、不機嫌そうに一同の顔を見渡した。その両目は今も真赤だ。
「みんなして、よってたかって余をたばかりおって」
「知らせたかったけど、あんたの回りには、ギルドの密偵やカルスタン方の人間が、わんさかいたんだもんな」
 テーブルの銀食器に供されている干しブドウで片頬をふくらませながら、エドゥアールが答えた。「万が一にも王妃さまの出産を、敵方に気付かれるわけにはいかないだろ」
「それで、愚息は一計を案じて、王位継承権を公然と要求するという奇策に打って出たのです」
 ラヴァレ大伯爵エルンストが、説明の足りない部分を丁寧に補足する。「すべては、ご出産まで敵の目をあざむき、武器商人やカルスタンの注意を、一定期間こちらに引き付けるためでした」
「しかも、海賊たちと行動をともにした五ヶ月のあいだに、海賊たちの一斉蜂起を起こして武器商人ギルドの支部を片っ端からつぶす段取りまで整えていたのじゃからな。まったく八面六臂の大活躍であった」
 ティボー公爵が、大げさなほどにエドゥアールをほめちぎる。
「ずっと外国にいたはずなのに、なぜ余も知らぬ王妃の懐妊を知っておった」
「ミルドレッドのおかげだよ」
 王妃の体を気づかって、あれこれ世話を焼いている妻に向かって、エドゥアールはいとしげに目を細める。
「王妃さまから秘密をこっそり打ち明けられて、機転をきかせて俺に密書を届けてくれたんだ。俺は帰国する直前に手紙を受け取り、大急ぎで今回の芝居を仕組んだわけ」
「初産のわたくしの身を案じて、帝王切開の経験がおありのグラン医師を呼び寄せてくれたのも、ミルドレッドの計らいでしたのよ」
 テレーズは揺りかごに眠る我が子を見つめながら、口を添えた。「陛下。わたくしが安心してこの子を無事に産むことができたのは、すべてラヴァレ伯爵夫妻のご尽力のおかげなのです。どうぞお褒めのことばをくだされますように」
 国王は照れくさげに「うう」と口の中でうなったきり、腕組みをしてしまった。一杯食わされたという怒りがまだ消えないらしい。
「男だったから、まだよい。もし生まれた子が女だったら、貴族会議の場はどうするつもりだったのだ」
「何も違いはなかったと思う」
 確信をもって、エドゥアールは答えた。「現に、王太子誕生のことを何も知らなかったセルジュだって、俺と同じ結論に達したんだ。俺たちは、あの場で同時に王位継承権を放棄するつもりだった」
 隅に立っていたセルジュは、エドゥアールから時おり送られる、からかうような視線を黙殺し続けている。
「勝手にそんなことをしおって、もし将来にわたって余の世継ぎになる男子が生まれねば、何とするつもりだった」
「簡単なことだよ。国民全部の選挙で、次の王を決めればいい」
 その場にいた人々は、「ああ」とため息を漏らした。
 国民による国王の選挙。口で言うほど簡単なことではない。いや、むしろ誰からも一笑に付されるようなことなのだろう。
 けれど、エドゥアールが論じていた国の未来が開ければ、そんな夢物語さえも、いともたやすく実現するのかもしれない。
 王位をめぐって憎み合い、殺し合ってきた歴史は、遠い記憶の彼方の悪夢でしかなくなるのかもしれない。
 エドゥアールは笑みを消して、真顔になった。
「なあ、セルジュ。俺たちがずっと夢見てきた理想の国家を作るときがやっと来たんだ。いっしょに働いてくれないか」
「断る」
 セルジュは、即座に固い声で答えた。
「長年にわたって王家の呪いとなっていた父が倒れ、その野望がついえたのだ。もう二度と息子のわたしが王政に関わることはない。アルフォンス家はわたしの代で終わりにする。歴史の表舞台から永久に姿を消す」
「本気か」
「冗談で言えることではない」
 彼は一礼して、すばやく王の居間を去ろうとした。
「セルジュ」
 エドゥアールは両手を広げて、彼の前に立ちふさがった。
「行かないでくれ」
「どけ。わたしはおまえに尻尾を振る気などない」
 セルジュは冷ややかに否んだ。「わたしは一生、共和主義者にはならぬ。愚かな国民の参加する政府など、断じて信じてはおらぬ」
「それでもいい。おまえはわかっているはずだ。王になることよりも、もっと素晴らしい事業があるってことを」
「わからん。何だ」
「王を作ることだよ」
 揺りかごで何も知らぬげにすやすや眠る赤ん坊を、エドゥアールはいとしげに見やった。
「俺とおまえで、あの坊やを最高の王に育て上げるんだ。人の痛みを知っている王に。そして俺たちは力を合わせて、国から飢えと貧しさを無くし、戦火を絶やし、外国と和し、誰も泣くことのない豊かな国を作り、あの坊やにすべてを託す」
「とんでもない大ぼらだな」
 セルジュはこらえきれなくなって、思わず喉を鳴らして笑った。「おまえの言うことをいちいち真に受けていては、命が百年あっても足りない」
「じゃあ、せいぜい長生きしようぜ。それでダメなら、志を受け継いでくれる人々を育てればいい」
「そのとおりだ」
 ティボー公爵は、杖を頼りに、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「当面の危機は回避したが、大陸すべてを巻きこもうとする紛争はまだ何も解決しておらぬ。軍人は血気にはやり、非力なわたしの力では抑えきれない。そこにいるカスティエ士爵が、士爵出身の将校たちをなんとか宥めてくれねば、クーデタさえ起こりかねなかった」
 扉のそばに控えている騎士は微動だにせず、黙って頭を下げている。
「きみたちが力を合わせれば、どんなに不可能に見えることも成し得るだろう。今日の演説を聴き、確かにそう感じた。息子たちよ。ふたりして陛下を助け、クラインに新たな時代を築いてほしい」
 老公は、若者たちに片手を伸べた。最初にエドゥアール。次にセルジュへと。
「のう、フレデリク」
 フレデリク王は、椅子から立ち上がった。
「余は今まで、何も望むまいとしてきた」
 途方に暮れたように、つぶやく。
「おのれがこれほど欲深い人間だとは知らなかった。今は何もかもが、惜しくてたまらぬ。戦乱ゆえに、貧しさゆえに、この国の赤子ひとりの命が失われると想像しただけで、余には耐えがたい痛みと感じられる。この子の顔が、町や村の見知らぬ赤子の顔に重なって見えるのだ」
 驚いたことに、クライン国王は、ふたりの若者の前に両膝を折った。
「この国と、この子たちの未来のために――余を助けてくれ」
 王太子は目を覚まして、同意するように大きな泣き声をあげはじめた。
 部屋じゅうの人々の瞳が、揺りかごの上にやさしく注がれた。




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