4[@p p 伯爵家の秘密/最終章「新たな時代」(7)
伯爵家の秘密


最終章「新たな時代」


(7)



「お待ちください。リンド侯爵」
 王の居間を辞して廊下に出たセルジュを、エルンストが呼び止めた。走って後を追って息が切れたためか、次のことばを口にするのに時間がかかる。
「お父上のご病状は、いかがなのですか」
「あれからずっと眠り続けています」
 背を向けたまま、押し殺すような声でセルジュは答えた。「侍医は、このまま目覚めぬ可能性もあると」
「見舞わせていただけませぬか。ほんのわずかでよいのです」
「お断りいたします」
 氷の蒼を目に宿して、セルジュは振り向いた。「これ以上、父のみじめな姿をさらしたくはありません。ましてあなたには」
 伯爵は唇をきゅっと結ぶと、黙って一礼し、ユベールの随行を受けて廊下を去って行った。
「なあ」
 父の後ろ姿を見送りながら、エドゥアールが言った。「うちの親父とプレンヌ公との間には、過去にどんな因縁があったんだ? 息子の俺にも、全然話してくれないんだけど」
「知る必要のないことだからだろう」
 素っ気なく振り払おうとする相手に、おかまいなしにエドゥアールはぴったりと隣を歩く。
「なぜ、ついてくる」
「俺が親父の代わりに、お父上を見舞おうと思って」
「おまえのうるさい声など聞いたら、せっかく動いている心臓が停まる」
「逆に、怒りのあまり目を覚ましてくれるかもしれないぜ?」
 エドゥアールは、屈託のない笑みを投げかける。「それに俺たち、家族だろ」
「家族だと」
「一応、従叔父・甥という関係みたいだし」
 セルジュは口をつぐみ、ただ短いため息をもらした。
 公爵の執務室には、寝椅子に真白な敷布がかけられ、プレンヌ公はその上で寝かされていた。決して動かしてはいけないというのが侍医の診断だ。
 セルジュの視線を受けて、侍医と看護婦は出て行った。
 仰臥する老公の唇は今だに青黒く変色し、金色の豊かだった髪は、いつのまにか雪のような銀へと変わっていた。
「ちっと見ないうちに、親父さん……ずいぶん弱ってたんだな」
 ぽつりとつぶやいたエドゥアールに、セルジュは乾いた笑みを浮かべた。
「わたしは四十のときの子だったからな。もうとっくに六十を過ぎている」
「普通なら、隠居しててもおかしくない歳だ」
「わたしに王位を継がせることだけが、父の生きる目的だった。わたしは、その思いの強さから逃れられなかった」
「ああ」
「わたしは――本当は、おまえの従叔父ではない」
「……うん」
「父の本当の生まれを……父が王位継承権など持たないことを知っていたのは、この世で四人。国王陛下、ティボー公、そしてエレ―ヌ姫とラヴァレ伯爵夫妻だ」
 セルジュは、悄然と父の顔を見つめ続けた。「だから、父は四人を心の底から憎んだ。そして王位を欲した。決して自分の手に入らぬものを、人はどれだけ狂気のように求める愚かな生き物なのか……真実を知ってようやく、わたしは父の気持ちが理解できたような気がする」
「俺もプレンヌ公を、ずっと憎んでいたよ」
 エドゥアールは寝台のかたわらに立ち、敵だった人の顔を生まれて初めて間近で見た。その顔の皺の一本一本を。半開きの口から覗く歯や舌を、目に刻みつけた。
「憎んで当然だと思っていた。俺は、王位なんか欲しいと思ったことは一度もない。欲しかったのは、ともに食事をしたり、笑って語り合うことのできる家族だけだった。誰にもおびえることなく、父を父と、母を母と呼ぶことができる自由。なのに公爵は、その一番大切なものを俺から奪っていった」
「だが、いつ見ても、おまえはたくさんの人間に囲まれていたではないか」
 セルジュは、冷たく言い返した。「わたしに言わせれば、家族を持たなかったのは、おまえではなくわたしのほうだ」
「得られないのは、望まないからだ」
「なに?」
「おまえにだって、いるじゃないか。たくさんの家族が」
「どこに」
 セルジュは、鼻でせせら笑った。
「落ちぶれた人間に情けをかける者はいない。哀れなものだ。父が養っていた妾夫人たちや庶子たちも、こうなっては知らぬふりをするだろう」
「そうかな。そういう奴らばかりじゃないと思うけど」
 エドゥアールは落ち着きはらった仕草で、うしろを振り向いた。入口で何かを訴える女の声がしている。ややあって扉からふたりの女性が現れた。
 家令オリヴィエの娘マリオンと、その娘オルガだ。
「侯爵さま」
 公爵家の継嗣の前に立つと、末席の妾夫人は深々と膝を折った。「いきなり押しかけて参りましたこと、どうぞお許しくださいませ。お父上のお情けを受けてフォーレ領にて暮らしておりましたマリオンと申します。この子はオルガでございます」
 セルジュにとってオルガは義理の妹になるが、会うことはおろか、名前を聞くのすら初めてだった。
「公爵さまがお倒れになったことを知らされ、伯爵さまの居館から急いで駆けつけました。こんなふうに近づくこともはばかられる、卑しい身とは存じておりますが、せめて侍女と思し召しになって、お世話をさせてくださいませ」
 見知らぬ母娘は、きらきらと真珠のような涙をこぼして訴えた。「もしそれが許されぬなら、せめて一目でもお会いしとうございます。公爵さまよりいただいた大恩に、ひとことでもお礼を申し上げたいのです」
 セルジュが、くいと顎を持ち上げると、妾夫人とその娘は、彼のわきをすり抜けるようにして病床に走り寄った。
「旦那さま……あなた」
「お父さま」
 枕もとに泣き崩れるマリオンとオルガを見て、セルジュは自嘲の笑みをこぼした。
「もしや、嫡男のわたしよりも、あの人たちのほうが、ずっと父を愛しているのかもしれぬな」
「うそつき」
「なんだと?」
 エドゥアールは、水色の透き通った瞳で彼をまっすぐに見つめた。
「取り戻せよ、なにもかも。今からでも遅くはない」
 友の肩にぽんと強い手の感触を残すと、若き伯爵は、こんこんと眠る病人のかたわらに進み出て、立ち止まった。
「プレンヌ公爵」
 静かに呼びかける。フォーレ子爵夫人母娘はそれに気づいて、すっと身を退いた。
「終わりにしましょう。王位をめぐる争いも、憎悪の応酬も。わたしがあなたを憎むことは、もうありません。終生の友セルジュを与えてくださったのですから」
 手を伸ばし、病人の体を覆う布団にそっと手を置いた。「過去にあったことはすべて忘れます。だから、あなたもラヴァレ伯爵家への憎しみを忘れてください。神とクライン王国の名のもとに、わたしたちはひとつの家族となりましょう」
 エドゥアールはひざまずき、プレンヌ公の足元の掛け布に口づけした。
 セルジュは体をひるがえして、うしろの壁に両手をついた。そのうなだれた頭が小刻みに震えているのを見る者はいなかった。


 リオニア共和国の全権大使ラウロ・マルディーニが、海賊たちに伴われてクライン王都に入城したのは、それから一月後のことだった。
「お久しぶりですね。若伯爵。あなたなら、きっとやってくれると思っていましたよ」
 まずエドゥアールに過剰なほどの抱擁を与えたリオニア人は、次いでセルジュに丁重に挨拶した。「リンド侯爵。お父上のご病気を、心からお見舞い申し上げます」
「ありがとうございます。その節は、お世話になりました」
 セルジュが、他人にこれほど丁寧に頭を下げるのは珍しい。ラウロには、エドゥアールの救出を頼んだ恩義を感じているのだろう。
「それで、カルスタン使節の到着は?」
「明朝の予定です。調印式は三日後の午後四時に決まりました。カルスタン王国側は、国王代理としてアレクセイ王太子が出席なさいます。クライン・アルバキア同盟からは、代表してフレデリク三世が出席します」
「リナルディ首相も、それに間に合うようにこちらに向かっております」
 カルスタン・リオニアの国境紛争に関する調印式が、ここクライン王宮で行われる運びとなった。ほとんど不可能だと誰もが思っていた停戦が、ようやく実現するのである。
『カルスタン王国とリオニア共和国両国は、シャルボン地方の国境問題を解決する手段としての武力を、当面のあいだ行使しないことを誓約する』
 この『当面のあいだ』という部分に、いかに具体的な文言をあてはめることができるかが、これからの三日間の交渉で決まる。
 さらに、王太子と首相という、両国の最高首脳が集う場所において、万が一にも事故があってはならない。警護の面でも決して気を抜けないのだ。
 クライン王宮は三日間、眠ることのない不夜城となりそうだった。
「まあ、すべては明日からだ」
 伊達男の兄は、巨漢の弟に振り向いた。「レナート・エマヌエーレ、聞いたか。羽根を伸ばせるのは今夜だけだ。せいぜい、べっぴんの女を抱いてこい」
 海の帝王率いる【ラフィユ・ノワール】号の海賊たちも、明日から河畔を中心に、王都周辺の警備を担当することになっていた。
「ねえ、船長」
 横にいた航海士が、船長の黒い上衣の袖を引っ張って、ささやいた。「レナート・なんとかってイカした名前は、誰のことですかい」
「……俺の本名だ。レナート・エマヌエーレ・マルディーニ」
「へええっ。三つも名前があるなんて、船長はさぞかし、いいとこの坊ちゃんだったんですねえ」
「うるせえ。だから俺は、誰にも名前を知られたくなかったんだ!」
 海賊たちがにぎやかに王宮を去ると、リオニア大使は休憩のために、いったん貴賓室に案内された。これから夜にかけて、フレデリク王の謁見の儀に晩餐会と、行事が目白押しに控えている。
 エドゥアールとセルジュは、この時間を利用してラヴァレ伯の執務室に行き、王に見せる誓約書の草案を煮詰めることにした。
 プレンヌ公爵が病に倒れたため、ふたたび招集された貴族会議において、新しい五人の国務大臣が選出、任命された。
 首席国務大臣、リンド侯爵セルジュ・ダルフォンス。
 元陸軍元帥、ユルバン・ド・ティボー公爵。セバスチャン・ド・ファロ男爵、エリク・ド・メシエ子爵。
 そしてエドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵。
 実質は、セルジュとエドゥアールのふたりが、国務の主導権を握って他の三人を率いることになる。五つの爵位を代表する五人の国務大臣という国政の理想の形を、ついに彼らは実現したのだ。
 そしてそれに伴い、百五十年、公侯爵にしか与えられていなかった王宮の執務室が、エドゥアールたち下位貴族出身の大臣にも与えられたのだった。
「国境の線引きの基準をどこに据えるかだ」
 まだ大きなソファと執務机が備えられただけの真新しい執務室で、侯爵と伯爵は、ゆうべからずっと議論し続けていた懸案に取りかかった。
「法学者によれば、紛争によってゆがめられた国境線は、平和時の領土条約で定められた原点まで立ち戻るべきだという意見が大半だ」
「ということは、八十年前のパストゥール条約か。ダメだな。そんな大昔のこと、誰も覚えちゃいねえよ。かろうじて生きてるようなヨボヨボ爺さんたちでも、子どもの頃はこうだったって懐かしめるのは、せいぜい五十年前だ。俺は三十年前に作成された地図の国境線を基準にすればいいと思う」
「民間人が作ったそんな地図、何の根拠もない」
「民間だからこそ、信用できるんじゃないか」
 彼らが考えている解決案とは、紛争地域を共同管理区域としてカルスタン・リオニア両国から分離させることだった。
 しかも、統治するのは、実際にそこに住む両国の住民。それに加えて、クライン、アルバキア、北方三国の代表から成る平和監視団。両国政府は一切、介入しない。
 住民たちが協力して、紛争で破壊された村や畑を再建しながら、境界線を確定していく。
 国境紛争の解決に必要なのは何よりも、互いへの憎しみを癒すための長い時間。そして共同作業によって互いへの友情を培うことだった。
「ことによると、五年や十年でも足りないかもしれねえな」
「ああ」
「何か新しいものを作り出すには、たくさんのものを捨てなきゃならない。結局は、人生と同じか」
 ふたりの若者は顔を見合せて、微笑む。
 プレンヌ公エルヴェ・ダルフォンスは、治療の甲斐あって意識を取り戻すことはできたものの、言語と手足の機能に障害が残った。
 王国法により、公爵の持つ爵位はすべて嫡男のセルジュに譲られることになった。だが、セルジュはプレンヌ公領をすべて王宮に返上し、自身は生涯リンド侯爵と呼ばれることを選んだ。
 父が犯した罪に対する、彼なりの決着のつけ方だった。
 爵位も名誉も失い、ひとりでは満足に動くこともできない老公の世話を申し出たのは、マリオンとオルガだった。
「お医者さまによれば、空気の綺麗で温暖なところでの静養が、お体の回復によいとのこと。フォーレの館で、ゆっくりと静かな暮らしをさせてさしあげたいのです」
 フォーレ子爵領は、寂しさに耐えかねた彼女たちが一度は逃げ出したところだった。そこへまた戻るという。ラヴァレでのにぎやかな暮らしに慣れていたオルガは、最初泣いていやがったが、結局は父母とともに暮らすことを決めた。
「地図といえば、もうひとつ俺、考えてきたんだけど」
 エドゥアールは、机の上に新たにクライン全土の地図を広げた。
「なんだ、これは」
「トンネルの建設計画だよ。とりあえず十か所を選んでみた。この国は特に北部地域に峠越えの道が多い。俺のラヴァレ領からだと、王都まで馬車で二日もかかる。トンネルさえできれば、たった一日で着くんだ。王都からフォーレ子爵領まで、たったの半日だぞ。この道路網が完成すれば、クラインの端から端まで人や品物が、今までの倍の速さで流通することになる。おまえだって週末ごとに、父上の見舞いに行けるぞ」
「ばかげている。だいたいこれだけのトンネルを掘るのに、いったいいくらの火薬――」
「火薬なら、大量にあるんだ」
 エドゥアールは意味ありげに声を落とした。「ていうか、海賊たちから、もうすぐ買わされる」
「……なんだと」
「やつらは武器商人ギルドの支部を急襲して、ごっそり弾薬をかすめ取った。その弾薬を、俺たちが買い取る約束なんだ」
「う……嘘だろう」
「でなきゃ、海賊がただで動くものか。国境紛争で使われるはずだった火薬を平和利用する。すごく意義のあることだろ?」
 セルジュは、わなわなと拳を震わせた。
「貴様は、わが国を破産させる気か!」
「無利息二十年払いにしてあるって。その間にクライン全国民がうんと生産力を上げればいいんだ」
 エドゥアールは楽しげに笑った。「俺たちのチビ王子に、がんばって働いてもらおうな」


「ナタン」
 当主夫妻の朝食の席で、給仕をしている居館執事に、若き伯爵は言った。
「今夜、海賊たちが晩餐に来るからな。二十人だ。三人前は食う奴らだから、用意を頼む」
「かしこまりました」
 とがった顎の執事は頭を下げた。「ところで、その『海賊』というのは、何かの比喩でございますか。『海賊のように』いかつい方々という」
「いや、本物の海賊。ついでにいうと、三人前ってのも正真正銘で比喩じゃない」
「承知しました。さっそく六十人分の食材を整えます」
「よろしくな」
「して、金目のものは隠したほうがよろしゅうございますか」
「うん、まあ、いいや。ひとつかふたつくらいは銀食器の大皿が消えるかもしれねえけど、気にしないでくれ」
「わかりました。それでは、できるだけきれいに磨かせておきます」
 エドゥアールはその答えを聞いて、妻と微笑を交わした。
「ナタン」
「なんでございましょう」
「頼りにしてるぜ」
 心をこめた労いのことばに、執事はまばたきをし、まだ慣れないという戸惑った笑みを返した。「ありがとう存じます」


 王牢の看守は、扉の向こうに立っていた金髪の若者を見て、ぽかんと口を開けた。
「伯爵さま!」
「久しぶりだな。エティエンヌ。頭の怪我は大丈夫か」
「はい。もうすっかり」
 142段の階段を上がると、ジャン=ジャックが「おうおう」と泣き出して、元囚人だった伯爵にしがみついてきた。
「ここももうすぐ閉鎖になると、王宮からお達しがありました」
 相変わらず白い肌の看守は、沸かしたての湯で丁寧に紅茶を入れた。王牢のお茶は、見違えるほど美味くなっていた。
「うん、知ってる。俺が陛下に進言したんだ。王都の牢獄全体を新しく清潔なものに建て替えて、貴族庶民の区別もなくそうって」
「そうですか。確かにここは、古き時代の怨念が消えずにわだかまっていますから」
「それで誘いに来たんだ。ふたりとも、うちに来ないか」
 伯爵は、飲み干したカップをことりと置いて、真顔で言った。「家令がやめることになって、急に人手が足りなくなった。うまい紅茶を入れられて、字の書ける奴がぜひとも必要なんだ」
「わ、わたくしのような者が、ラヴァレ伯爵家に、でございますか」
「おまえたちさえよければ。どうだ、ジャン=ジャック」
 下働きの老人は、返事の代わりに『ラヴァレ伯爵ばんざい』と大きく書いた石板を高々と上げて、歯のない口でにっこり笑った。


「忘れものはないのか」
 大伯爵からも、若伯爵夫妻からも異口同音に声をかけられ、馬車の前でオリヴィエは、わざとうんざりしたような表情を作った。
「荷はこれだけでございます。いつでも、どこでも身軽に動く。よき家令の鉄則ですから」
「二十年も、ここにいたのにな」
 エルンストのさびしそうな言葉に、思わず涙をさそわれたオリヴィエは、あわてて頭を下げた。
「わたしの我がままをお聞きとどけくださり、本当に感謝いたします。あとのことは逐一、ナタンに引き継いでおきましたが、もし何か不測の事態が起きましたら、いつでもお呼びくださいませ。フォーレから飛んでまいります」
 オリヴィエは、このたびラヴァレ伯爵家の家令職を辞し、フォーレ子爵領で仕えることになったのだ。プレンヌ公は、もともと彼が若いころ仕えていた主。またマリオンとオルガは彼の娘と孫である。オリヴィエにとって、それが最もふさわしい身の処し方であった。
 新しいラヴァレ家の家令として、王宮や王都の事情に詳しい居館執事のナタンがもうすぐ異動してくる。家令見習いのアランが今までどおり彼を補佐する。領館全般をつかさどる執事職は今までどおりロジェが務め、王都の居館執事には、王牢の看守だったエティエンヌが就くことが決まっていた。
 オリヴィエ一家がいなくなることをもっとも悲しんだのは、放浪民族のアルマ婆さんだった。いつしかオルガを孫のように思い、オルガのほうもアルマを慕っていたのだ。
「どうせ、モンターニュ子爵領にはしょっちゅう行くから、いつでもフォーレに連れてってやるよ。夏のあいだは逆にオルガがこっちに来ればいい」
 そう老婆を慰めて頭を撫でているエドゥアールの背後で、エルンスト父伯は領館の玄関に立ち、空を見上げてつぶやいた。
「空高くに、もう秋の風が吹き始めたな」
「はい」
 ロジェが大伯爵を気づかい、痩せた肩にそっと肩かけをはおらせた。
「風は、新鮮な空気を送り、鳥の翼に浮力を与え、植物の種を運んでくれます。歓迎するものかと存じます」
「だが、ときに風は冷たく、容赦を知らぬ。思わぬ変化をも運んでくる。果たして十年後、二十年後。この国はどういう形に変わっているのだろうな」
「ご安心めされませ。残すべき伝統を残し、変えるべきものは惜しげもなく変える。若旦那さまは両方の術をご存じでいらっしゃいます」
「案じているのではないのだよ、ロジェ」
 エルンストは首を振った。「ただ悔しいのだ。わたしには、その行く末を見届けるだけの寿命がない」
「それは、わたくしも同じでございます。老兵にできることは、こうやって若者の背中を見送ることだけかと」
「そうだな」
 灰色の髪の伯爵と白髪の執事は、顔を見合せて微笑んだ。


「さあてと」
 門までオリヴィエの乗る馬車を見送ったエドゥアールは、両腕を上げて、大きく伸びをした。
「今日は、今から何をしよう。村の子どもたちと海賊の砦を作る約束だったな」
「まだ、王宮から持ち帰ったお仕事が残っているのではありませんの」
「いいんだ。ずっと忙しかったから、たまにはゆっくりしたい」
 伯爵は手を伸ばして、日除けの傘を差して隣に立っている愛する妻を、自分のもとに引き寄せた。
「なあ。ミルドレッド」
「はい、あなた」
「俺はこれからも、とんでもなく忙しく飛び回ると思う。ラヴァレ領主としての仕事。モンターニュ領主としての仕事。月のうち半分は、王宮での国務大臣としての仕事。外国へ行くことだってある。ややこしいことは、できるだけセルジュに押しつけるつもりだけど」
「はい」
 ミルドレッドは神妙にうなずいた。「お体のことが心配ですけれど……。ご無理はなさらずに、存分にお務めを果たしてくださいませ」
 さびしい気持ちは、決して見せないように押し隠す。
 なぜなら、今のクライン王国はエドゥアールを必要としているのだ。彼がいなければ改革は進まない。そしてエドゥアール自身も、それらの改革を自らの手でやり遂げたいと願っているのが、ひしひしとわかる。
 一国の王にも匹敵する大切な御方。自分ごとき平凡な女のそばに縛りつけてはいけないのだ。
「お留守はわたくしにお任せになって、どうぞ心おきなく働かれませ」
「ええっ、それは困る」
「え?」
「そうじゃなくて、どこへ行くときも、いっしょについてきてほしいんだよ」
 エドゥアールはミルドレッドの体を胸に抱き取り、妻の薄茶色の髪に指先を入れて、愛しげに一筋ずつ梳いた。
「言っただろう。きみは俺の元気の素だから、そばにいてくれないと困るんだ。どこへでもついてきてほしい。国内にも外国にも……外国はすごいぞ。海の広さも、東の大河も、異教徒の大陸の不思議な建物も、見せたいものがいっぱいあるんだ」
「……本当に。本当に、よろしいんですの?」
「留守番なんか、親父にやらせておけばいい。もう俺は一秒だって、きみを手離す気はないから」
「エドゥアールさま」
 白い傘の下で、気持の高ぶりにまかせて唇や頬を触れ合うふたりのそばで、くすりと笑いを押し殺す声がした。
「そんなところにいたのか。ユベール」
 邪魔だとばかりに睨みつけても、騎士は素知らぬ顔で立っている。
「おそばに仕えるのが、近侍のつとめでございますれば」
「俺たち今から、ふたりきりで湖に出かけるんだけど」
「お伴いたします。いつまた刺客が襲ってこないとも限りませんゆえ」
「ちょっと待てよ。おまえ、なんだか顔色が悪い。働きづめで疲れてるんだ。……おーい、ソニア」
「は、はい」
 ミルドレッドの侍女のひとり、ソニアはあわてて庭の遊歩道を駆け降りてきた。
「ユベールが、どうも病気らしい」
「まあ!」
「今日は絶対に部屋から出すんじゃないぞ」
「あの、では、お医者さまを」
「きみがつきっきりで看病してくれれば、すぐに治る。恋の病っていうやつだから」
「……若さま」
 主の悪巧みに気づいたユベールは、眉間に怒りのしわを寄せたが、時すでに遅かった。
「ジョルジュ、トマ。ユベールを押さえつけて、何がなんでも部屋に連れていけ」
「はっ」
「仰せのままに!」
 わらわらと現われた騎士の主従に彼が気を取られている隙に、エドゥアールはミルドレッドの手首をぐいとつかんで、坂道を駆け下りた。
 レースの日傘が、はらりと空に舞い上がった。
 豊かな夏の森に彩られたラヴァレの谷が、眼下にぐんぐん迫る。ふたりは腹の底からわき上がる笑いを交わしながら、したたるような翠緑の中に飛び込んだ。


 すやすやと寝入った赤子は、女官たちの手によって、玉座のかたわらの天蓋のついた揺りかごに寝かされた。
 今夜、王宮の大広間で催されるのは、大陸に平和が訪れたことを記念する祝賀舞踏会。そして新しく生まれた王子のお披露目の宴でもあった。
 奥の間で赤子に乳を含ませたばかりの母君は、たおやかで満ち足りた微笑みのまま席につき、隣の玉座に座る夫と目を交わした。
 フレデリク国王とテレーズ王妃が舞踏会に同席するのは、実に婚姻の儀以来はじめてのことだ。それまで決まって王妃の席を隠していたレースのカーテンも、今は取り払ってある。
 法令も書き換えられた。王妃に男性との同席を禁ずる理不尽な法律は撤廃され、それまで王妃を閉じ込めていたアメリア離宮も廃され、王妃は王子とともに国王の御住まいに移った。
 王宮内の改革は、新しい大臣たちの手によって、矢継ぎ早に進められていた。あたかも、固く閉ざされていた氷の王宮が、春の風を入れるために大きく扉を開けたようだ。
 ラヴァレ伯爵夫妻は大広間に入ると、玉座の前に進み出て、国王夫妻に膝をかがめた。鶯色の礼装のエドゥアールとエメラルドグリーンのドレスをまとったミルドレッドの優美な所作は、人々の感嘆のため息を誘った。
 儀礼が終わると、たちまちエドゥアールは人の輪の中に吸い込まれてしまった。今や、彼とセルジュは、この国の両輪と目される存在だ。どこに行っても、誰よりも熱い視線の的となり、話しかける者が絶えることはない。
 人々がふたりに注目するのは、正しいことなのだ。彼らこそは、これから数十年にわたって、このクラインを、いや大陸全土を導く存在となるはずなのだから。
「よくお眠りになっていらっしゃいますのね」
 ミルドレッドは、侍従長の許しを得て揺りかごに近づき、王子をそっと覗き込んで、その愛らしさに身震いした。「なんとかわいらしいのでしょう!」
「あなたも早く、子をお産みなさいな」
 テレーズは、年若き友に熱心に勧める。「そうすれば、この子にも遊び仲間ができますわ。幼子に何よりも必要なのは、ケンカ相手です。世の中は自分の思い通りにならぬものであることを、思い知らせてくれますもの」
「はい。でも当分はまだだと存じます。エドゥアールさまとともに、しばらくはあちこちを旅することになりそうですの」
「まあ、伯は、あなたを片時も離したくないのですね」
「はい……そうおっしゃっておいででした」
 ミルドレッドは桜色に頬を染め、王妃は扇の陰で、笑いの発作を噛み殺した。
「安心しましたわ。その分では、すぐにでもご懐妊の吉報が聞けそう。ねえ、陛下」
「どうでもよい。他人ののろけ話など」
「まあ。若者たちの行く末を、誰よりも心配なさっておいでのくせに」
 フレデリク三世が手を上げると、二階の回廊からファンファーレが高らかに鳴り響いた。広間のざわめきは、たちまちしぼんでゆく。
「カルスタンとリオニアの不戦条約の締結が滞りなく済んだ。この舞踏会は、みなの働きをねぎらい、クラインと近隣諸国の繁栄と平和を願うものだ」
 拍手の中、玉座から立ち上がった国王の張りのある明るい声は、隅々にまで響いた。「それとともに王太子の誕生を祝ってやってくれ。長寿に恵まれた古の王にちなみ、健やかなれかしとの願いをこめて、王子はシャルルと名づけた」
「シャルル王子さま、ばんざい」
 壮麗な大広間が、よりいっそうの拍手と歓声に包まれる。
「身分の別は忘れよ。今宵は存分に楽しんでほしい」
 室内楽団が演奏を始め、大広間いっぱいにに、あでやかなドレスの花が開いた。
 それを機に、ようやく人だかりから抜け出したセルジュとエドゥアールは、隅に立ってシャンパンで喉をうるおしながら、華やかな舞踏会場をながめた。
「あ、あの赤いドレスの侯爵令嬢はどうだ。その隣もいいけど、少し年食ってるかな」
「さっきから何を言っている」
「おまえのダンスの相手だよ。俺が選んでやらなきゃ、ひとりじゃ決められないだろ」
「ばかばかしい。おまえの世話にならずとも、間に合っている」
「へえ、そうなんだ。人がせっかく心配してやってるのに」
 エドゥアールは、「あ」と大声を出し、妻とともにいた姻戚たちのもとに近寄った。「親父さま、おふくろさま、ヴェロニク叔母さん!」
「エドゥアールさま」
「伯爵さま。おひさしゅう」
 あわてて膝を屈めるモンターニュ子爵夫妻とその妹に、彼はかわるがわる抱きついた。
「紹介するよ。こいつ、セルジュな。嫁さん募集中だから、叔母さん、いい縁談をひとつふたつ見つくろってくれないかな」
「貴様、まだそんなことを」
「それじゃミルドレッド、行こうぜ」
 エドゥアールは妻の手をつかんで、すたすたと歩き出した。
「何を踊ろう」
「演奏されている曲はワルツですわ」
「じゃ、今日はワルツでいいや」
 舞踏会での最初の出会いを思い出して、ミルドレッドはくすりと笑った。
「……やはり、初めからお踊りになれたのですね」
 民の父と母である国王夫妻は、いつくしみをこめた眼差しで、人々を見つめる。こごっていた人々の心には血が脈々と流れ始め、光を受けているかのように、誰の顔も輝いている。
「子ネズミのエドゥアールよ」
 クライン国王は幸せな夢を見ている表情で、口の中で小さくつぶやいた。「おまえの冒険の道は、いったいどこまで続いているのだろうな」
 金髪の伯爵は、一礼して妻の手を取り、背中に手を添えた。
 優雅な音楽のリズムに乗せて、見つめ合い、微笑み合いながら、滑らかに広間の中央に向かってすべり出す。
 それはまるで、大海原に向かって旗をひるがえして船出する、一隻の帆船のようだった。





           完


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