伯爵家の秘密


第5章「静寂の冬」


(3)

 フレデリク国王は、約束どおり月に一度、判を押したように召喚状を送りつけてきた。
 ひと月ごとにエドゥアールは、凍りついた山道を馬車で二日かけて王都ナヴィルに赴くことになる。お伴の者は、騎士ユベールと御者という最低限の人数。
 王都の居館には一泊しかせずに、また二日の道のりをかけて伯領に戻る。過酷な日程の強行軍だが、それ以上は意地でも、自分の領地を留守にするつもりはなかった。
『生意気で礼儀知らずな小わっぱを、さんざん虐めぬいて礼儀というものを叩き込んでやる』
 冷酷な笑みを浮かべながら王はそう宣言したと伝えられるが、実際のところ王宮に参上しても、特別なことは何もなかった。
 クライン語の辞書を、最初の頁から延々と朗読するよう命じられたこともある。かと思えば、ある日は予定時間中ずっと、王は長椅子で高いびきをかいていた。
 気まぐれでわがまま。まるで駄々っ子だ。
 政治にはまったく無関心で、重要な国務も、大臣であるプレンヌ公にまかせっきり。
 ゆえに、民衆は酒の戯れに、彼のことを『無能な王』だとあざ笑う。『子を残すという雄ロバにできることさえ、できねえんだからな』と。
 だが、それはフレデリクが被る仮面であることを、エドゥアールはよく承知している。
 ユベールの言ったとおり、王は誰に対しても本心を見せることはない。心を許していないのだ――亡き妹姫であったエレーヌ以外は。
「そなたは、クラインの国法をどう思う?」
 時には、ただの暇つぶしの茶飲み話としか思えない話に付き合わされた。そういうときも、王はエドゥアールに下町ことばで話すことを要求した。
 王が何を意図しているのか、さっぱりわからない。あるいは、何を見極めようとしているのか。
「国法よりも、国法補則のほうが条項が多い法律は、世界広しといえど、聞いたこともない」
「なるほど」
「フレデリク大王の御世には、こんな補則はひとつもなかった。この国はわずか数十年で、貴族の権益を民衆よりも大切にする国に変貌しちまったんだな」
「当然だ。王宮の城壁の中にいる余に聞こえるのは、貴族の声高な要求ばかりだ。民衆の声は聞こえない」
「王宮を出て、街に立って耳をすましてみればいいだろう?」
「そなたのようにか?」
 ソファにゆったりと座り、真正面から見つめるフレデリクの目は一瞬だけ、紛うことなき王のまなざしをしていた。顔を伏せるのが一瞬遅れた。水色の視線がからみ合って、すぐに離れる。
 侍従長が頃合いを見て、ふたりのカップにお茶を注いだ。
「ありがとう、ギョーム」
 彼は軽く目を見張り、「どういたしまして」と頭を下げた。
 「なぜ知っている」と、王が尋ねた。
「え?」
「侍従長の名だ。余はこの者を名で呼んだことはない」
「あ、そうか。えーと」
 エドゥアールは首をひねって記憶をたどった。「誰かに聞いたんだったかな」
「なぜ」
「だって、互いに名前で呼んだほうが、気持ちがいいだろう?」
 フレデリク三世はそれを聞いて、くつくつと笑った。「余は、儀式のとき以外、名前を呼ばれたことなどないぞ」
 名を呼ばれたことがない。
 その独白を聞いたとき、エドゥアールはずしんと腹に重りを落とされたような思いに襲われた。
「フレデリク」
 ゆっくりと心をこめて発音する。
 王はたちまち笑顔を消し、頬を固くこわばらせた。記憶にある限り、彼をそんなふうに呼んだのはたったひとりだからだ。
 ――フレデリクお兄さま。
 目の前の卑しい生まれの若者は、なつかしい微笑みをたたえて、彼を見つめている。
「ポルタンスに、同じ名前の子どもがいた。みんなにフレッドと呼ばれて、母親の陰にいつも隠れてて――とても可愛かったな」


 王の庭園を辞してアーチ門から廊下に抜けるとき、テレーズ王妃の一行が通りかかった。
 エドゥアールが片膝をついて頭を垂れると同時に、王妃も彼に気づいた。
「ラヴァレ伯爵」
「お久しぶりでございます」
「本当に何カ月ぶりでしょう。今日は、陛下のお召しですか」
「はい」
「そう、御苦労でした。陛下はお変わりなくお過ごしですか」
 意外な問いに答えに詰まったエドゥアールを見て、テレーズは困ったように微笑んだ。
「わたくしは、このひと月ほどお会いしておりません。あなたのほうがずっと陛下のことをご存じでいらしてよ」
「……恐れ入ります」
 エドゥアールは、驚きに息がとまるような思いだった。いくら名目だけの夫婦とは言え、ひと月も互いに会うことがないとは。
 王妃は扇子で彼の肩にそっと触れ、顔を上げるように促した。
「少し痩せたようだけど、息災ですか」
「はい。お心遣いありがとう存じます」
「そう。ミルドレッドも、お変わりなく?」
 紫にも見える深い青の瞳は、いたわりに満ち、そして、どこか寂しげだ。
「いつか、おふたりをお茶にお誘いしたいわ。来てくださるわね」
 エドゥアールは自分がひどく動揺するのを覚える。
 これほど巷の噂になっているのに、彼らの破談が王妃の耳に入っていないはずがない。なのに、なぜ知らぬふりをなさるのだろう。
 王妃は、彼らの復縁を望んでいるということなのか。
「身に余る光栄に、ことばもございません」
 気持ちを抑え、決まりきった謝辞を返して、ふたたび深々と頭を下げる。
 テレーズ王妃が去ったあと、待ち構えていたように廊下の向こうからやってきたのは、よりによって一番会いたくない人物だった。
 プレンヌ公エルヴェ・ダルフォンス。
 濃赤の正装に身を包んだ細身の公爵は、エドゥアールの姿を認めると、さも驚いたように装った。
「これはこれは。お若いラヴァレ伯爵」
 芝居じみた大声を上げながら、近づいてくる。舐めるような視線を浴びるだけで、怖気がした。毛穴のひとつひとつに、針を突きたてられるような心地だ。
「いつぞやは、長い時間待たせて失礼したな」
「とんでもございません。それなりに楽しいときを過ごさせていただきました」
「お父上は、ご本復も間近だとか」
「はい。おかげさまで、命を永らえております」
「それは、実にめでたいことだ」
 にこやかな笑顔の皮を一枚めくれば、あからさまな侮蔑が隠れている。
「ところで、月に一度、陛下のお召しを受けておられるとか。若いのに立派なものだ」
(やはり、ばれていたか)
 エドゥアールへの王の謁見は、非公式ということになっている。伴の者も許されない。玄関では儀礼兵の儀式もなく、毎回、侍従長が直々に迎えに来る。
 あくまでも内密に。
 伯爵家を毛嫌いするプレンヌ公の気持ちを逆なですることのないように、王の側も気をつかっているらしい。
 そのために、エドゥアールもできるだけ目立った動きは避けていた。王都の郊外でわざわざ馬車を家紋のないものに乗り換え、ラヴァレ家の居館に入るときも裏口を使っている。
 それでもやはり、公爵の耳には逐一、事実が伝えられているのだ。そして内心は穏やかならぬものを抱えていたに違いない。
(娼婦の血を引くドブネズミのくせに)
 そんな輩が国王の覚えめでたいとなれば、「なぜ」という怒りも湧いてこよう。胡椒の一粒のごとき小さな嫉妬が、古き憎悪を幾倍にも増幅するものだ。
「しかもだ」
 公爵はさらに、なめらかな皮肉を続ける。「陛下の御前で、下町の物売りたちが話すようなことばで話しているとか。さぞや、抱腹絶倒の見ものであろうな」
(そこまで、知られているのか)
 王とその側近しか立ち入れぬ庭のあずまやでの会話が筒抜けになっている。侍従の誰かが彼と内通しているのでなければ、こんなことはありえない。
 噂どおり、この王都の中では、プレンヌ公に何も隠しごとができないのだ。王の寝屋のささやきでさえ、夜風に乗って運ばれるかもしれない。
 そして、何を試みても、先回りして邪魔をされる。
 王が心を閉じ、無気力で、誰も信じようとしないのは当たり前だ。
 エドゥアールの腹にふつふつと怒りがたぎった。こんなふうに人が人をがんじがらめに縛ってよいはずがない。
「どうだ。わたしにも、一度そのような言葉で話してはくれぬか。さぞや愉快であろう」
「おことわりいたします」
 エドゥアールは頭を上げ、毅然と答えた。
「なぜだ。国王陛下の御前ではできることも、わたしにはできぬと申すのか」
「眠る獅子の前で、欠伸するウサギはおりましょう。だが、肉を食らおうと虎視眈眈とうかがっているハイエナの前で、よそ見する者はおりませんので」
 ハイエナと喩えられて唖然とする公爵をその場に残して、若き伯爵は、儀礼どおりの辞儀もせずに歩きだした。
 敵を焚きつけるような愚かな振る舞いをしているのはわかっている。だが、憤りに自分が制御できない。
 この王宮の何もかもが、間違っている。
 帰りの馬車の中から、モンターニュ子爵の館が垣間見えた。胸をえぐる苦い思い出に、思わず目をそらせた。
 目を閉じても思い浮かぶのは、もはや、あの少女の美しい笑顔でも、可憐な舞姿でもない。ありったけの怒りをこめて、涙をためて彼を睨みつける薄茶色の瞳。
 一秒でも早く王都を逃げ出したかった。ここにいればいるほど、エドゥアールはおのれが醜い人間になっていくようだと思った。


 ラヴァレの谷に戻ったのは、それから二日後の夕方だった。
 汚れのない真白な雪に包まれた静かなふるさと。たった五日ほど留守にしただけなのに、もうこれほどに懐かしいと感じるとは。
 荒縄の玉のように凝り固まっていた緊張が、すっと解けていく。
「若さま」
 ユベールの声に、馬車の中でまどろんでいたエドゥアールは、はっと目を覚ました。谷を横切るわずかな間に眠ってしまったらしい。
 寝起きのせいか、少しふらついている。近侍の騎士が差し出した手を取って、駕籠を降りようとした。
「え?」
 地面がない。違う、足が地面をとらえられないのだ。エドゥアールの膝はそのまま、ぐにゃりと力を失った。
「若さま」
「若旦那さま!」
 手綱を受け取ろうとしていた馬丁見習のダグが、悲鳴に近い大声を上げた。
 駆けつける大勢の足音。そこまでは覚えている。
 とっさにユベールの腕に抱きとめられた体は、そのまま感覚を失い、エドゥアールは暗闇へと一気に落ちていった。


「それで先生は、なんと……のです?」
「過労から来る……」
「湯気を盛んに立て……冷やすことを忘れずにと」
 うとうとする合間に、とぎれとぎれの会話が、遠くから聞こえてくる。
「ときおり、ご寝台の敷布がまったく……たぶん全然寝て……」
 すすり泣く声も。
 だめだよ、ジョゼ。泣かないでくれ。
「わたしが悪いのです。もう少し……さしあげていれば」
 ユベール、俺は、そんな言葉が聞きたいんじゃない。
 誰も、自分を責めてほしくないのに。どうしてみんな俺と関わると、不幸になってしまうんだ。
 鎧戸を落とした部屋の中では、朝か夜かわからない。ときどき、執事のロジェが汗をかいた寝間着を取り換え、頭を支えて水を飲ませてくれる。
 それ以外は、ずっと夢を見ていた。夢の中でエドゥアールは幼い子どもになって、森にいたり、ポルタンスの港を歩いていたりする。
 足取りは軽やかで、羽根のように自由だった。それなのに、どちらへ進んでも、どの曲がり角を曲がっても行きどまりなのだ。
 こんなにも、誰かのもとに行く道を探しているのに。
 泣きたいほどの焦燥の中で、突然はっと目を覚ました。
 意識がはっきりしてくるにつれ、所在を確かめるために、もぞもぞと足や手の先を動かした。全身の感覚が遠く、まるで役に立たず放り投げられたボロきれだ。
「若旦那さま」
 オリヴィエの声が、閉め切った室内に反響した。
「ご気分はいかがですか」
 近づいてくるローソクのまぶしさが、目に痛い。
「腹減った……」
「そうでございましょう。かれこれ三日近くも眠りっぱなしでおいでですからな。今、メイドに命じて、ひき割り麦の粥を用意させております」
 いつも苦虫を噛みつぶしたような家令の顔が、にゅっと覗く。
「ご無理のしすぎでございます。ろくにお休みにもならずに、徹夜で本は読まれる、領内は見回る。誰もあなたさまに、そんなことを望んではおりません。何もせずにいてくださったほうが、わたくしどもの仕事はずっと楽なのですから」
 口の悪さは相変わらずだが、声には安堵の色がにじみ出ている。
「大旦那さまも、それはそれは心配なさっておいででした。お風邪がうつっては大変なので、お見舞いは断固としてお引き留めしましたが」
「すまなかったな」
「なんの」
 オリヴィエは、暖炉にかけていたケトルからカップに湯を注いで戻ってきた。
「さあ、村の医者が置いて行った薬です。とんでもなく苦いゆえ、お覚悟を」
 「失礼」と言いながら主を抱き起こし、木の根を煎じたようなドロドロの茶色の液体を少しずつ口に含ませる。苦いという言葉が脅しではないと実感したエドゥアールのしびれた舌先に、今度はぽんと黄金色の塊を乗せた。
「ごほうびの蜂蜜飴でございます」
 羽根枕をたくさん積んで病人の背中にあてがうと、寝台から外の景色がよく見えるように、家令はぱたぱたとバルコニーへの折り戸を一部分だけ開けた。
 しばらくぶりに見る谷は、またしんしんと雪が降り積もっている。今日は風もなく、すべての音がどこかに吸い取られたような、無音の世界だ。
 エドゥアールは何も考えずに、ただぼんやりと雪を見つめた。
 自分を追いつめるかのように絶えず動き回っていた今までの日々は、何だったのかと思う。そんなことをせずとも、谷は穏やかにそこにあり、人々は何百年前から連綿と続いた暮らしを今日も続けている。
 結局は、彼はその中で、周りの世話を受けるだけの子どもにしかすぎないのだ。
 じわりと鼻の奥が熱くなり、蜂蜜飴の甘さとともに喉をすべり落ちる。自分の弱さを思い知るためには、なんと手痛い教訓が必要なことだろう。
「そうそう。忘れておりました」
 お盆を手に出ていこうとしていたオリヴィエは、とぼけたように重大事を告げた。
「近々、家庭教師の先生がいらっしゃいます」
「家庭教師?」
「はい。若旦那さまのひどい言葉づかいに対する悪評は芬々(ふんぷん)たるもの。国王陛下にまで、下町ことばでお話しになるとは尋常ではありません」
 プレンヌ公が知り得たことならば、その密偵であるオリヴィエに伝わっていても何の不思議もない。
 いや、それとも彼は、王の庭園での会話が相手方に漏れていることを、さりげなくエドゥアールに知らせようとしているのか。
「前々からわたくしは、若旦那さまに宮廷作法と上流の言葉づかいを教えてくださる良き家庭教師を求めておりました。今度ばかりは、さすがの大旦那さまも賛同してくださり、さっそく適任の貴婦人をお選びになったうえで、お招きの書状を先だって送っておられたのです」
「じ、冗談じゃねえ。この年で家庭教師だって?」
 エドゥアールは熱で痛む頭を両手で押さえながら、かすれた声で叫んだ。
「恐れながら、二十歳を過ぎてから教わるほうが、もっと恥ずかしゅうございます」
「絶対にイヤだ。俺は、家庭教師なんか来ても、会わないからな」
「もう遅いかと存じます。若旦那さまが寝込んでおいでの間に迎えをやりました。そろそろ谷に着くころですな」
「逃げ出してやる!」
 切れ者の家令は、勝ち誇ったように笑った。
「ふっふっふ。そのお体で、どこまで逃げられますやら」


 そんな会話が交わされていたころ、玄関に一台の馬車が到着した。
 駕籠から降りてきたのは、美しく上品な中年女性。長い髪をひっつめ、首元までぴっちりとボタンを止めた黒のドレスと旅行用コートに、一分の隙もなく身を固めている。
 その後ろから続いて、助手らしき少女が大きな鞄を抱えて降りてきた。
「ようこそおいでくださいました。先生」
 出迎えに出た執事のロジェは、なぜか笑いをかみ殺したような顔を隠して、頭を下げた。
「さっそくですが、厨房に案内していただけますか」
 鋭い視線を館内のあちこちに走らせてから、新任の家庭教師は、固い声で告げた。
「はい、こちらでございます」
 執事に案内されて厨房に入った女性は、驚くコックたちを尻目に、まっすぐにコック長のシモンを見据えて、こう言った。
「申し訳ありませんが、特大のすりこぎを貸してくださいます?」






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